テューダーミンストレル(Tudor Minstrel)とは、1944年アイルランド産まれ、イギリス調教の牡馬の競走馬である。
ブリガディアジェラードと並ぶイギリス屈指のマイラーの名馬であり、天才ジョッキーのジンクスを決定的にしてしまった馬。
父Owen Tudor(オーエンテューダー)、母Sansonnet(サンソネット)、母父Sansovino(サンソヴァーノ)という血統。
父オーエンテューダーはその祖父ゲインズバラ、父ハイペリオンから親子3世代続けてダービーを制した馬。第二次世界大戦の真っ最中だった為、英国空軍が上空を飛び交うニューマーケット競馬場で行われたダービーを最低人気ながら勝利した逸話を持つ。種牡馬としてはスタミナ色の強いハイペリオン産駒らしくなく、スピード色の強い産駒を多く送り出した。
母サンソネットは名牝ムムタズマハルの姉レディジュラーの仔で、母父サンソヴァーノも名種牡馬スウィンフォード(モンズーンの先祖)の産駒でダービーを勝つなど活躍。かなりの良血と言えよう。
馬名は「テューダー王家の吟遊詩人」という意味。父のオーエンテューダー(16世紀イギリスの王朝「テューダー朝」の祖)から連想したと思われる。
父オーエンテューダーと同じくフレッド・ダーリン調教師の下でデビュー。
ちなみに、このダーリン調教師はダービーを7度制し、現在ではフレッド・ダーリンステークス(別名ドバイデューティーフリーステークス。今のドバイターフの前の名前と同じでややこしい)としてイギリス1000ギニーの前哨戦として行われているなど歴史に残る名調教師である。
閑話休題。2歳の春シーズンでデビューすると、もうモノが違いすぎて連戦連勝。且つ短距離戦にも関わらず最低4馬身差以上着けるなど手が付けられなかった。
4戦4勝の8月の時点で、ダーリン師の体調を考慮したこと、短距離ばかりで長距離への折り合いを無くすことを恐れて休養に入る。それでもこの年の2歳フリーハンデで首位に立つ。
翌年の緒戦も当然のように完勝。続くイギリス2000ギニーでは最後の1ハロンで手綱を抑える程の余裕っぷりだったにも関わらず2着に8馬身差を付けて圧勝。鞍上は「抑えなければ20馬身差は付いた」と言い切った。これは今でもイギリス2000ギニーの最大着差でもあり、あのフランケルでも6馬身差である。
さて、ここまで圧勝続きのテューダーミンストレルであったが、次の目標は当然ダービーである。これだけのスピードの違いで圧勝してるのにも関わらず2つの心配事があった。
1つはこれまで1マイルまでしか走ったことがなく、余りのスピードに12ハロンが持つのか不安視されたことである。
しかしながら父オーエンテューダーは自身はスピードの強さを産駒に伝えたがその父はスタミナ色の強いハイペリオン。さらに母父サンソヴァーノも母母レディジュラーの父サンインローはスタミナの塊とも言える血統。正直血統だけなら2400mは当然持つはずなのである。まぁそれは良いとしよう。
問題は2つ目である。主戦騎手のゴードン・リチャーズ騎手は未だにダービーを勝ったことが無かったのである。
このリチャーズ騎手を解説すると、通算勝利数は今尚イギリス歴代最多の4870勝、1932年に当時世界最多のシーズン勝利記録となる259勝を挙げ、リーディングジョッキーになること26回、イギリスのジョッキーで今でも唯一となるナイトの称号を1952年に得るなどのイギリスを代表するスーパースターである。
日本で言う武豊と同じく莫大な勝ち星・スーパースター・ダービーを勝てないという共通点があるものの、武豊ですら12年目にスペシャルウィークで勝っている。それに対してリチャーズはテューダーミンストレルのダービーの時点で27年現役を続けて未だ勝ち星は無いのである。その倍勝ててないのだからある種呪われていると言っても可笑しくないほどなのだ。
それでも……それでもこのテューダーミンストレルでダービーを勝てない呪いを打破すると信じて、エプソム競馬場には大観衆が集まり、イギリス国王ジョージ6世とエリザベス王妃も観戦するダービーのスタートが切られた。
……が、テューダーミンストレルはスタート直後から掛かり始め、リチャーズ騎手の制止も効かずレース前半で先頭に立ってしまい、そのまま直線に向かうものの直線入り口でフランスの*パールダイヴァーに差されるとそのまま失速、勝った*パールダイヴァーから10馬身離れた4着に敗れてしまう。
テューダーミンストレルが敗れた上に33年ぶりに本場のダービーをフランスの馬に勝たれるというダブルショックの前にエプソム競馬場は沈黙。イギリスのマスコミは「屈辱」「国家的悲劇」と書き立てるなど大いに荒れる結果となってしまった。
その後はマイルのセントジェームズパレスSに出走し5馬身差圧勝。
次走は10ハロンのエクリプスSに出走したが、キーストンの母父となり後に凱旋門賞を勝つミゴリの前に敗れる。ダービーの負けは距離不適ということがこの敗戦を持って確定付けられることとなった。
結果的に引退となったレースでもフランスの強豪馬相手に1馬身半差、3着には8馬身半差を付けた。当時のイギリスは古馬の短距離路線が整備されておらず、10ハロンでも長い本馬にまともなレースが無かった事で引退となった。
通算10戦8勝。マイルならばブリガディアジェラードと同等に語られるほどの強さを持つが、テューダーミンストレルはマイル以下でしか勝ったことが無い。
それでもタイムフォーム社のレーティングではブリガディアジェラードと並ぶ歴代3位タイ144ポンドの評価を与えられている。これより上は147ポンドのフランケル、145ポンドのシーバードだけである。
リボー(142)やミルリーフ(141)、*ダンシングブレーヴ(140)よりも上に評価されているということが本馬の強さを物語っていると言えよう。余談だが日本馬の最高はエルコンドルパサーの136ポンドである。
現役引退後、種牡馬として快速馬を何頭も出したものの、短距離路線が整備されていない当時では苦戦。そうこうしているうちにアメリカに輸出したトミーリーがケンタッキーダービーを勝ったことがきっかけとなってアメリカに移り、1971年に27歳で他界した。
直系子孫は今でも残っており、二冠馬メイズイを菊花賞で破ったグレートヨルカの母・クヰーンスジェストが欧州に残したウィルサマーズに遡るカドゥージェネルー→バハミアンバウンティというラインがかろうじてテューダーミンストレルの血を受け継いでいる。
そしてテューダーミンストレルでもダービーを勝てなかったゴードン・リチャーズ騎手はナイトの称号を得た翌週に行われたダービーで、即位したばかりの現エリザベス女王や50万人とも70万人とも言える大観衆の前で、ダーリン元調教師が生産したピンザという馬で優勝した。
多くの人々に祝福されたリチャーズ騎手であったが、このダービーの数日後にダーリン氏は癌で亡くなり、リチャーズ騎手も翌年に骨盤の怪我が元で引退することとなった。
古今東西、ダービーを巡る逸話は数多くあるが、テューダーミンストレルとその取巻きを含む物語は最高のドラマで締め括られたのではないだろうか。
Owen Tudor 1938 黒鹿毛 |
Hyperion 1930 栗毛 |
Gainsborough | Bayardo |
Rosedrop | |||
Selene | Chaucer | ||
Serenissima | |||
Mary Tudor 1931 鹿毛 |
Pharos | Phalaris | |
Scapa Flow | |||
Anna Bolena | Teddy | ||
Queen Elizabeth | |||
Sansonnet 1933 鹿毛 FNo.9-c |
Sansovino 1921 鹿毛 |
Swynford | John o' Gaunt |
Canterbury Pilgrim | |||
Gondolette | Loved One | ||
Dongola | |||
Lady Juror 1919 鹿毛 |
Son-in-Law | Dark Ronald | |
Mother-in-Law | |||
Lady Josephine | Sundridge | ||
Americus Girl | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Gondolette 3×5(15.63%)、Chaucer 4×5(9.38%)、Canterbury Pilgrim 5×4(9.38%)、Bay Ronald 5×5(6.25%)、Pilgrimage 5×5(6.25%)
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最終更新:2024/04/25(木) 12:00
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