テンメイ 単語

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テンメイ

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テンメイ(1974年4月13日1993年10月7日)は、日本の元競走馬初の年度代表馬いたトウメイの代表産駒にして、2017年現在でも一組しかいない天皇賞子制覇偉業を成し遂げた

な勝ち
1978年:天皇賞(秋)(八大競走)
1979年:京都大賞典

馬齢はテンメイの活躍当時に合わせ旧表記(現表記+1歳)としています。

出自

ルイスデール、トウメイシプリアニという血統。イタリアGI3勝で、有馬記念優勝かつ先述の通り年度代表馬も他の直サラ系二冠馬ヒカルイマイなどがいる。トウメイ有馬記念前後にインフルエンザ絡みでゴタゴタがあった為に翌年3月になってようやく北海道入りしたものの、トウメイの為に馬主である近藤夫が用意した幕別牧場の場所が悪く移動制限がかかると繁殖生活に多大なが出る事もあり、育成時代にお世話となった苫小牧市藤沢牧場で一時避難的な暮らしを送る事となった。こうして、テンメイは藤沢牧場時代のトウメイの2番として誕生した。ちなみに、この藤沢牧場というのは現在でも有力を多数送り出す藤沢和雄調教師実家であるが、まさか天皇賞天皇賞管理調教師の両方を輩出するとは関係者一同この時点では思わなかったであろう。

4歳:クラシックシーズン

トウメイと同じく近藤夫の所有馬となったテンメイは、これもを管理した坂田正行師の厩舎に入り、騎手でもあった清水英次騎手上に11月新馬戦(京都1200m)でデビューしたが4着。次走2着ののち3戦ダート未勝利戦でようやく勝利し、それからはダート戦場にした。ところがそこから掲示板こそ外さなかったものの条件戦を9連敗し、クラシックには参戦出来ずに終わる。

皐月賞ハードバージダービーラッキールーラが勝つのを7月条件戦でようやく2勝を上げると、これで弾みがついたのか次戦こそ7着に負けたがその次の条件戦村本善之騎手上にレコード勝ち。さらに7ヶぶりの芝レースでもう1勝してなんとか菊花賞に滑り込み、田島良保騎手上で本番を迎えた。

その菊花賞は1番人気に単定のダービーラッキールーラ、2番人気は単定こそ受けていないが近走で好走しているマーブルペンタス、3番人気に2連勝で挑戦してきたものの様々な要素が不安視された単定のプレストウコウと続き、テンメイは9番人気に過ぎなかった。

レースは最内のオサイチセダイ逃げ、テンメイは後方から競馬をする展開。2周、向こう正面でラッキールーラメグモガミ一気に仕掛けると、それに続くように3コーナーでテンメイは勢いよく前に出て、4コーナーで先頭に立った。そこからテンメイは関西ファンの歓を受けながらよくったが、大外から一気にやってきた豪腕郷原洋行騎手騎乗の銀髪プレストウコウレコードタイムで半身差し切ったところがゴール。初の重賞制覇はお預けとなってしまった。

この後上が清水英次騎手に戻って2戦し2着、3着に入り、菊花賞が決してフロックではないことを明してテンメイはこのシーズンを終えた。

5歳:天皇賞母子制覇

テンメイはここまでに19戦、4歳シーズンでは15戦もしていたが、この年は打って変わってのんびりしたローテーションで、3月サンケイ大阪杯から始動し8着。続けてマイラーズカップを2着としたが、この2戦だけでシーズンを終えた。

そして10月オープン戦から始動し9着、2着として、テンメイはが勝った舞台天皇賞(秋)に出走した。

その天皇賞(秋)、テンメイは5番人気に支持された。馬主騎手調教師は全ての時と同じ。そのうえ何の因果か「12番かつ大外」という点すらもと一致しており、あとはここに「1着」を加えるだけというところ。入りも事に終わり、勢いよくスタートが切られたのだが、ここでアクシデントが発生した。
ゲートの中でパワーシンボリがゲートに噛みつき、このせいでゲートが開かなかったためカンパイ(スタートやり直し)が発生したのである。

スタートが切られたレースは、再スタートを待つ間に奮したプレストウコウが折り合いを欠き、向こう正面では2番手に10身差をつけて逃げる展開となった。そして最終コーナー一気に差を詰めてきたテンメイ、溜めた脚でりきろうとするプレストウコウと、菊花賞の時の前後を入れ替えたような展開となり、最後の直線は壮絶な叩き合いとなったが、最後の最後、ゴール前でプレストウコウを交わしきり、奇しくもが2着スピーデーワンダーにつけた差と同じ半身の差でテンメイが優勝。この勝利でテンメイは初重賞制覇を成し遂げ、初の天皇賞子制覇という記録も達成した。

その後

かしこの後、京都大賞典レコード勝ちした以外は1980年4月オープン戦で当年に天皇賞(秋)を勝つことになるニチドウタローから8身離された2着に入ったのが最高と、彼の競走生活は低迷。1979年引退する予定だったが、ステイヤー臭い血統を嫌われてJRAによる購入が実現しなかったという不運も重なった。

そんなさなか、テンメイを個人で種牡馬入りさせるという人物が現れた。これを受け最終的に1980年宝塚記念12着を最後に、テンメイは競走馬引退し、種牡馬入りに向けて青森に飛んだ……はずだった。

ところがその矢先、ファンにとっては信じがたい一報が飛び込んできた。なんと「テンメイが岩手競馬で走っている」というのである。最初から走らせるつもりだったのか、それとも良い肌馬が集まらなかったのか。相は分からないが、「種牡馬入りすると言って買われた天皇賞地方でまだ走っている」ということは事実であった。
この事態にファンは憤慨し、「トウメイの血を守る会」が結成される騒ぎになり、ファンたちは諦めずにコツコツとカンパで諸費用を集めた。最終的に件のオーナー100万円でテンメイを譲渡することで合意し、さらに100万円で故郷・藤沢牧場房や放牧地を造って種牡馬入りすることとなった。なお、後年同会会員が語ったところによれば、このオーナー岩手時代の管理調教師はテンメイに情を持って接していたという。

このようなことがありながらもテンメイは芝ステイヤーという当時の岩手競馬との相性が悪い距離馬場適性を押して走り続けたが、当地ではファン投票で出走が選ばれる桐花賞投票1位に3年連続でくほどのスター的存在であったテンメイも流石に衰えが隠せなくなり、1982年8月シアンモア記念8着を最後に中央36戦6勝、地方26戦7勝という成績で現役を引退。今度こそ種牡馬入りするため故郷に帰ることとなった。

藤沢牧場種牡馬入りしたテンメイは、活躍こそ出せないものの、牧場に来た水沢競馬場での乗オファーも「一生ウチで面倒を見る」と言って断られたりと大切にされて細々と種牡馬生活を送っていたが、1993年10月7日、放牧中に左前肢を骨折してより先に亡くなった。20歳(旧表記)だった。
子孫に活躍を遺すことこそ出来なかったものの、彼の成し遂げた「初の天皇賞子制覇」という記録きは、今でも色褪せない大記録として残っている。

血統表

*ルイスデール
Ruysdael
1964 鹿毛
Right Royal
1958 鹿毛
Owen Tudor Hyperion
Mary Tudor
Bastia Victrix
Barberybush
Rossellina
1957 鹿毛
Tenerani Bellini
Tofanella
Romanella El Greco
Barbara Burrini
トウメイ
1966 鹿毛
FNo.1-b
*シプリア
1958 黒鹿毛
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Carezza Rockefella
Canzonetta
トシマンナ
1958 栗毛
メイヂヒカリ クモハタ
ラハ
トシフジ トキノチカラ
第六マンナ
競走馬の4代血統表

クロスHyperion 4×5(9.38%)Pharos 5×5(6.25%)、トウルヌソル 5×5(6.25%)

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