トロッコ問題 単語

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トロッコモンダイ

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トロッコ問題とは、トロッコとその路線の状況の問題をもとにした倫理学の思考実験である。英語ではTrolley problem(トロリー問題)。

元はイギリス哲学者フィリッパ・フットが提起した問題に端を発し、ジュディスジャーヴィス・トムソンが「トロッコ問題」として類化し、現在トロッコ学(trolleyology)」として世界哲学者が考察検証を行っている。しかしながらトムソンは後に自身の立場を変更し、「トロッコ問題」は擬似問題であったとしている(「ジュディスジャーヴィス・トムソンの論文」の項を参照)。

フィリッパ・フットの論文

トロッコ問題の元とされているのは、『オックスフォードレビュー』で発表された「中絶問題と二重結果論」(The Problem Abortion and Doctrine of the Double Effect,Phillipa Foot,1967)というタイトルの論文に収められた、中絶の是非を巡る議論のうちの例題の1つ。

この論文には、いくつかの倫理ジレンマを巡る例題が示されており、他には「洞窟から抜けられなくなった太った男」、「健康人間からの臓器移植」といったものがある。

この論文では、「二重結果論」という倫理学における重要な原則、許容される悪はいかなるものかについての議論を、意図することと予見することとの区別を中心に展開される。フットは、「『二重結果論』は自発的行動の結果として人間が予見するものと、厳密には意図するものとの区別に基づいて」おり、以下の4つの条件から成っているとしている。

  1. 行為の性質の条件。行為は道徳的に善いものか関連でなければならない。虚偽か意図的に実の人を殺すことは許されない。
  2. 手段と的の条件。善い結果をもたらすからといって悪い手段を用いてはならない。
  3. 正しい意図の条件。意図はただ善い結果を達成することであって、悪い結果は意図しない副作用によるものだけであるべきである。悪い結果が善い結果を得るための手段であるならば、その行為は不道徳である。悪い結果が予想されるとしても、混乱してはならない。
  4. 例条件:善い結果は、悪い結果と重要性において少なくとも同等でなくてはならない。

この論文の中でフットは、妊婦子宮に腫瘍があり、彼女の命を救うには子宮摘出手術しかないし、子宮摘出手術の的は胎児を殺すことではないといった論を立てて、中絶批判するために二重結果論を用いることは不当だと論じている。

論文に収められたオリジナルの問い

探検の一行は、洞窟から出ようとしていたところ、不本意ながら太った男が彼らを先導することを許した。すると太った男は立ち往生し、彼の後ろにいる他の人達を閉じ込めた。明らかに正しいのは座って、太った男が痩せるまで待つことだ。しかし、哲学者は、洪水洞窟の中で位を上げるようにした。幸いなことに、閉じ込められた一行は、太った男を爆破して洞窟の口から出す事ができるダイナマイトの棒を持っていた。彼らはダイナマイトを使うか、溺れるかである。あるバージョンでは、太った男が頭を洞窟の中に入れたまま溺れ、もう一方では彼は救助されます。
(中略)
ここでは、それが軽い息抜きのため、それが二重結果論の1つのバージョンがどれほど馬鹿げているかを示すのに資するので紹介しました。なぜなら、閉じ込められた探検たちは、太った男の死は彼を爆破する行為の単なる予見された結果としてとられるかもしれないとすることになっていたとしましょう(「私たちは彼を殺したくなかった...彼を小さな破片に吹き飛ばすためだけだった」、あるいはさらに「…彼を洞窟から吹き飛ばすためだけだった」)。私は二重結果論を使う人は、そのような提案を正しく拒絶するだろうと思うが、論彼らは線が轢かれるべきところを説明するのに困難を伴うでしょう。

彼は暴走路面電車の運転手だ。1つの狭い線路から別のへ進むことしかできない。5人の男性は一方の線路で作業し、もう一方の線路には1人の男性が作業している。運転手が入ったもが殺されるに違いない。

群衆がある犯罪を行った犯人を見つけるように裁判官に要し、そうしなければ地域の特定の地区に血なまぐさい報復を行うと脅している。本当の犯人はわかっていないが、流血を避けるには、裁判官実の人を犯人にでっち上げて、処刑するしかない。

私たちは特定を必要とする患者の命を救うために不足している分を大量に与えようとしている。しかしながら、そこにそれぞれが5分の1の投与量で救うことができる他の5人の患者が到着する。私たちは残念そうに「1人の患者のためにの全供給を惜しまない」と言う。救急車が到着して複数の衝突した犠牲者を連れてきた時に、1人の危険な病気にかかっている人のために、病棟の全ての資を惜しまないと言うのと同じように。そうすることが一の選択肢であるならば、多くの死よりも1人の男を死なせなければならないと感じる。ではなぜ、私たちはがん研究のために人々を殺したり、それらを必要とする人々に移植するために臓器を手に入れることが正当化されると感じないのか?私たちは同様に、特定の個人を殺してその死体から血清を作る場合にのみに限り、何人かの危険な病気の人々が救われると考えることができる(これらの例は、腎臓を他人に移植するために致命的な損傷がある患者を延命させることについての現在の論争を考えると過度に想的ではない)。乏しいの場合から医療的に必要な人体の場合まで議論できないはなぜか?もう一度、二重結果論による説明が出来る。実の男の死を的にするケースとそうでないケースだ。

それぞれ異なる臓器が重大な病に侵され、臓器移植が必要な5人の患者がいる。この人たちのために、1人の人物から臓器を取り出して5人に移植すれば、1人は死ぬが、代わりに5人全員の命を救うことができる。

解決方法

フットは、上のようなジレンマを解くために「積極的な権利/義務と消極的な権利/義務」を説明している。

積極的権利は積極的な義務に対応し、その義務がある者が何らかの積極的な行為をしなければならないような権利だ。消極的権利は否定的な義務に対応し、権利を与えられた人の不利益になる行為を控えるべきであるような権利だ。前者は積極的に恩恵を受ける権利で、後者は単にを受けない権利である。

この説明によれば、トロッコの運転の場合は、1人を殺すのも5人を殺すのも意図していないので、相対的に1人を殺さざるを得ないが、病棟の場合は、健康な人に危を加えないという義務のために積極的に一人として殺さないことが望ましくなる。

またフットは論文で言及した問題群を、「私たちの大半の者が実の人を犯人にでっち上げることができるという考えにぞっとするのに、運転手の方は人数の少ない線路の方へ進路を変えるべきだ、と私たちがなく言いそうなのはなぜか。」[1]と説明する。

こうした対を説明できる理論として、フットは「二重結果論」を補に挙げている。これは「結果としてよいことが生じるために、意図的に悪い行為をすることは、いつでも悪いことだが、しかし結果として悪いことが起こることを知りながら、よいことをするのは許容できる」[2]というものである。この場合、意図を持って殺すことは悪いが、死を予見出来ただけでは悪くないとなる。

しかしフットは例題の中の“洞窟に閉じ込められた探検隊”について、「意図と予見は分けられるものではない」[3]として批判的に言及し、法学者であるJ.W.SalmondのJurisprudenceを援用し、「私たちの道徳体系には、援助という形で人々に義務を負うものと、非介入という形で人々に義務を負うものとの間に、一定の区別が働いている」と説明し、「援助する義務/ポジティブな義務」と「介入しない(危を加えない)義務/ネガティブな義務」があるし[4]暴走路面電車の場合は、同じネガティブな義務同士の対立なので功利義的原則で解決し、裁判官の例はポジティブな義務とネガティブな義務が対立しているので、ネガティブな義務を優先するカントの義務論的解決を図るとしている[5]

また元の論文のタイトルにある通り、いわゆるトロッコ問題に代表される問いを立てたのは、「人工妊娠中絶」に対する考え方である。特にカトリック理論では、たとえ体に危険がある場合でさえも、中絶は意図的な殺人であるから禁止される。そして、こうした立場を正当化するのが「二重結果論」である。したがって、フットとしてはカトリックの「二重結果論」とは異なる概念を提唱することによって、体に危険がある場合の「人工妊娠中絶」を擁護しようとする[6]

フットによる人工妊娠中絶問題の類化としては以下の3つがあり、それぞれの場合で結論が異なる[7]

  1. 母親子どもの両方を救うことはできないが、子どもを殺せば母親を救うことができる場合。このとき、いずれにしろ子ども死亡することになる。この状況は洞窟の探検隊で、太った男が出口で詰まり、があふれ出る事例と同じである。カトリックの「二重結果論」では、子どもを殺すことを意図するので、中絶不可能であるが、その結果として子ども母親死亡する。それに対して、フットの考えでは、同じ義務同士の対立だから、母親を救うために中絶は認めるべきである。
  2. 母親を救うためには子ども中絶しなくてはならず、逆に子どもを救うためには母親を殺してその身体から取り出さなくてはならない場合。「二重結果論」では、いずれも殺すことを意図するので、どちらを選択することも出来ず、結果として子ども母親死亡することになる。それに対して、フットの考えでは、同じネガティブな義務同士であるから、功利義的原則となる。ところが、ここではいずれも1人であるから、どちらを選んでも変わらない。
  3. 母親を救うためには子ども中絶しなくてはならないが、他方で何も処置しなければ母親は亡くなるのに対して、子ども母親が亡くなった後で安全に生まれてくる。フットはこれを「最悪のジレンマ」と呼ぶ。「二重結果論」では、子どもを殺すことは容認できないので、何も処置せず母親死亡の後に子どもを取り出すことを選択することになる。フットの立場では、ネガティブな義務な義務を優先すべきとなるので、中絶を禁止することになるが、フットは明確な結論を避けている。

ジュディス・ジャーヴィス・トムソンの論文

暴走電車の事例を着想したのはフットであるが、「トローリー問題」と名付けたのは、アメリカ哲学者、ジュディスジャーヴィス・トムソンによる。トムソンは、フットにはなかった様々な事例、「スイッチを切り替える人物」や「歩道橋の上にいる太った人物」などを考案した。

トムソン1976年1985年に、「トローリー問題」に関する論文を発表し、1986年に出版されたRights,Restitution,&Riskという著作の中の2つの章として収録されている。以下に「暴走電車」に関わるものを挙げる[8]

  1. エドワード路面電車の運転手だが、今電車ブレーキがきかなくなって、電車暴走している。その路線の前方には5人の人がいるが、彼らは線路から逃げることができない。その線路には右に曲がる支線があるので、エドワード電車を右に曲げることができる。ところが、不幸にも右の線路には1人の人がいた。エドワードは、電車を右に曲げて、1人を殺すことになる。そうでなければ、彼は電車を右に曲げることを控え、5人を殺すことになる。
  2. フランク路面電車の乗客だが、電車の運転手が「ブレーキがきかない!」と叫んでショック死してしまった。線路の前方には5人の人がいるが、線路から逃げ出せない。その線路には、右に曲がる支線があり、フランクはその電車を右に曲げることができる、ところが、不幸にも、右の線路には1人の人がいる。フランク電車を右に曲げると、1人を殺すことになる。そうでなければ、彼は電車を右に曲げることを控え、5人を死なすことになる。
  3. ジョージ路面電車を見下ろす歩道橋に立っている。彼は、歩道橋に近づいている路面電車が、コントロールできなくなっているのが分かる。その線路の先には、5人の人がいるが、逃げられそうもない。ジョージは、暴走電車を止める一つの方法が、1人のとても太った人を線路に突き落とすことだと知っている。そのとき、ちょうど太った男が、歩道橋から電車を眺めている。ジョージはその男を、路面電車の線路に突き落とし、その太った男を殺すことが出来る。そうでなければ、彼は突き落とすことを控え、5人を死なせることになる。
  4. ヘンリー路面電車の傍を散歩していた。そのとき、電車を見てすべてが分かった。電車の運転手がブレーキを踏み込んだけれど、きかないのでショック死していたのである。どうしたらいいだろうか。ちょうどそこにスイッチがあって、ヘンリーがそれを引けば、電車の方向を変えることができる。ところが、ヘンリーがそれをすれば、もう一方の線路にいる1人を殺すことになる。

トムソンは、これらのバリエーションを「殺すこと(killing)」と「死なせること(letting die)」という概念によって説明している。そして2の乗客フランクの場合について、Rights,Restitution,& Risk(1986)の中で、「フットの原則によれば、フランクが直面している対立は、1人を殺さないというネガティブな義務と、5人を救うというポジティブな義務の対立である」「私の考えでは(運転手)エドワードトローリーの進路を変えてもよいと思う人はでも、同じように(乗客)フランクもまた、トローリーの進路を変えてよいと思うだろう」と、フットの原則では、エドワードは進路を変えてもよいが、フランクは進路を変えてはならないのに対して、トムソンの考えでは、エドワードフランクも、進路を変えてよく、いずれも「1人を殺す」ことを選ぶことが許容できるとしている[9]。これは、2のケースの場合、トローリーの進路を変えることは、進路を変えることが的なので、「それ自体で」1人の「(生きる)権利」を侵するわけではゆえである。それに対して、3のジョージが太った男を突き落とすのは、最初の意図からしトローリーと衝突させるためであり、運悪く衝突しなかったら、突き落とした意味がなくなってしまうので、トムソンの説明でも許容されない[10]

ただし、トムソン1985年発表の論文では、歩道橋の場合は「1人を殺す」ことができないとしても、スイッチの場合には進路を変えて「1人を殺す」ことが容認されるとしていたのに対して、2008年に発表した論文(“Turning thr Trolley,”Philosophy & Public Affairs 36,no.4,2008.)ではその立場を変えて、フットの原則同様にスイッチの場合も歩道橋の場合も1人を殺してはならないとしている[11]

2008年の論文でトムソンは、「スイッチ傍観者」の事例を変形して、「ループした線路」の事例を提起している。それは以下のような事例である。

直進する前方の線路には、5人の痩せた人がいる。トローリーが直進すれば、彼らは全員死ぬが、トローリーは止まって、右側にいる1人にまで達することはない。他方、右に線路を変えると、トローリーは1人の太った男を轢くが、止まってしまって5人にまで達することはない。

そしてトムソンは、「線路に関して余計な設定が加わろうと加わるまいと、これらの事例でひとが何をしてもよいかについて、大きな道徳的違いが生じるとはまったく想定することができないのであり、進路を変えてもよいと考えることは、(不快な気分になるとはいえ)まったく正しいように思われる。」としていて、更にトローリー問題自身の解消に言及している[12]

それは、従来のスイッチの事例にあった(1)何もしない、5人を死なせる。(2)スイッチを右に引いて、1人を殺す。に(3)スイッチを左に引いて、自分自身を殺す。という選択肢を付け加えたもので説明される。トムソンによれば、この状況において、(3)を選択しないことは許容される。というのも、道徳はそうした自己犠牲を決して要しないからである。そして、もし私が(3)を選択しないとすれば、私は(2)を選択できない。なぜなら、私が自分自身では払いたくないコストを、他の1人に払わせることができないからだる。もし以上が正しいとすれば、(1)は許容可であるとされる[13]

そこで、次のように考えてはどうだろうか。傍観者が(2)の選択肢を選択することに、1人の作業員は同意しないし、じっさい同意するように道徳的に要されてもいない、ということを傍観者は知っている、と。傍観者が持っている許容可な代案は、(1)の選択肢であり、-すなわち5人を死なせることである。

その他の代表的な研究者による言及例

トロッコ問題の例

以下に例示する例は、フットやトムソンが提示したオリジナルの原則や考え方とは異なり、「進路を変えて1人を殺す方が、そのまま直進して5人を死なせることよりも悪い」か、「そのまま直進して5人を死なせることは、進路を変えて1人を殺すことよりも悪い」かという考え方に基づいて議論が展開されている。またこれらの問題のバリエーションはいわゆる「トロッコ学(trolleyology)」という流行の中で当然の前提となっている[15]

あなたはこの問題、どのように答えますか?

トロッコ問題

あなたは線路の分岐点にいます。
の前の線路を制御不能になったトロッコが走っています。
トロッコの行き先には5人の作業員が線路上で作業をしています。
このまま何もしなければ5人の作業員がトロッコに轢かれて死んでしまいます。

しかしあなたが分岐点で線路を切り替えれば、
1人の作業員が作業をしている線路へと切り替わり、
1人の作業員がトロッコに轢かれて死ぬ代わりに5人は助かります。
そしてあなたは線路を切り替える以外の手段を取る事はできません。

あなたは線路を切り替えますか?

言い回しなど若干の変化はあるものの、大体このような質問内容である。

要するに何もしなければ多くの人が犠牲になるが、行動を起こせば1人が犠牲になる代わりに多くの人を救える状況である。このようなジレンマを抱えた状況下で人間はどんな思考をするのかという一種の実験であるともとれる。

ちなみに本来の原則として法的責任は一切考えないものとする。つまり義的に考えて「線路を切り替えることを許せるのか?」という所がこの問題の焦点である。より多くの命を救うと考えるなら線路を切り替えるべきだし、一方で5人を助けるために1人を犠牲にすることを良しとしないと考えるなら何もしないと答えるはずである。
なおネタとして線路を切り替える・切り替えない以外の答えが導き出される場合もある。(どちらも助ける、どちらも轢き殺すなど)

創作作品でもこのような「多数を救うために少数の犠牲はやむを得ない」というスタンスキャラクターが登場することがあり、大抵は「少数を見殺しにはできない」を持つ主人公と対立したり敵対したりする。

派生1

上記の問題の生としてこのような問題もある。

もし上記の問題で「線路を切り替える」と答えられた人は以下の問題も読んでもらいたい。

あなたとAさんは線路の上にあるにいます。
下の線路を制御不能になったトロッコが走っています。
トロッコの行き先には5人の作業員が線路上で作業をしています。
このまま何もしなければ5人の作業員がトロッコに轢かれてしまいます。

しかしあなたと一緒にいるAさんは非常に体重が重く、
Aさんから突き落とせばトロッコを止めることができます。
しかしそうすればAさんの命が助からないのは確実です。

あなたはAさんを突き落としますか?

なぜ体重が重要なのかというと、この問いを作ったジュディスジャーヴィス・トムソンによれば、「体格にかかわらずどんな人でも列車を止められるとすれば、そしてあなたが太った男の隣に立っているとすれば、適切な行動は太った男を突き飛ばすことではなく、手すりを飛び越えてみずからを犠牲にすること」だからだという[16]

線路の切り替えが人間に変わっただけの問題だが、こうなると「Aさんを突き落とす事は出来ない」と答える人も多いのではないだろうか。

5人の命が助かるという結果だけを見れば線路を切り替えることもAさんを突き落とすのも同じことなのに、こちらは突き落とす選択ができないと考えられるはずである。最初の問題において1人が死ぬのはあくまで線路を切り替えた結果トロッコに轢かれたのであって直接手を出す訳ではないので「線路を切り替える」と答える人も多いと思われるが、こちらは「自らの手でAさんの命を奪う」という行動が示されていることで、直接手を下すことに拒否反応を示す人が出ると思われる。

派生2

分岐線の代わりに、太った1人の男と5人の男がそれぞれ線路の端と端に縛り付けられた回転盤(転車台)がある。それを回せば5人は助かるが、1人の男は死ぬ[17]

派生3

分岐線が延長され、本線に戻るようになっているループ線がある。本線から来た列車が五人の痩せた男に向かって走っている。列車が五人に衝突すれば、全員死ぬが、五人分の重さで列車は止まる。代わりに、列車ループ線に向けると、太った男の一人の体重だけで列車は止まる。この場合、単なる分岐線と異なり、ループ線の男が逃げると本線の五人が犠牲になるので、ループ線の男の犠牲が必要とされている[18]

派生4

本線には五人の痩せた男、分岐線には一人の太った男の後ろに、六人が線路に縛り付けられている。元のシナリオでは、分岐線の男は死ぬ必要はなかったが、分岐線の六人を助けるためには太った男が死ぬ必要がある[19]

派生5

路面電車本線縛り付けられている5人に向かって暴走している。更に、別の方向から五人に向かって操縦不能になったトラクターが突進してくる。路面電車の進路を変えても、トラクターに轢かれて死ぬおそれがある。そこに、太った男が1人分岐線に来る。進路を分岐線に切り替えると太った男は、路面電車に軽くぶつかり、怪をしないままトラクターの進路に押し出され、男はトラクターと衝突して死ぬことで、五人は助かる[20]

派生6

ある日あなたが覚めると、隣に有名なバイオリニストが横たわっており、二人とも機械につながれている。バイオリニストは命にかかわる腎臓病を患っている。彼を救うのに適した血液型をもつ人があなたしかいないとわかると、音楽協会は二人を奇妙な装置につなぎ、あなたの腎臓を彼にも仕えるようにした。医療スタッフがこう説明する。残念ながらバイオリニストを装置からはずせば死んでしまう。だが、心配は用。このやっかいな事態は九ヶしか続かない。それまでには彼も正常に戻り、二人は別々に暮らせるようになるというのだ[21]

関連する学説

  • 功利義:提唱者は、ジェレミー・ベンサム。「最大多数の最大幸福」という格言に表される結果義の立場。ベンサムは、「自然権」という人間固有の権利を否定した。功利義には、ある行為ごとに損益計算を行うべきであるという「行為功利義」と、ジョン・スチュアートミルが提唱したように、ある一連の規則に則って功利をすべきであるという「規則功利義」がある。
  • 義務論:論者は、イマニュエルカント。「々は他人を決してある的のための単なる手段としてではなく、常に同時に的として扱うべき」という定言命法に代表される。
  • 二重結果論:英語Double Effect。二重効果論とも。トマス・アクィナスが提唱したとされている。哲学者のデイヴィッド・エドモンズは4つの構成要素を挙げている。1.行為はその有な結果から独立していると考えられ、行為自体は間違っていない。2.行為体は悪い事態を予見してはいても、手段としてであれ的としてであれ、善行をなす意図はあるが悪事をはたらく意図はない。3.悪い結果を招かずに善行をなしとげる方法はない。4.悪い結果は、められている善行と較して不釣りいなほど甚大ではない[22]

注意

本来トロッコ問題は題となる問題に加えて「なぜそのように考えたのか」という数十個の質問などを経て思考や判断を分析することがメインであり、この問題だけで「あなたはこういう人間です」と決められるものではない。
もし現実に似たような状況が起きても「こうするべきであった」などと批判するのは筋違いである。

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参考文献

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *岡本裕一朗(2019).『世界を知るための哲学思考実験朝日新聞出版. p.29
  2. *同上 p31
  3. *同上 p33
  4. *同上 p35
  5. *同上 p36-37
  6. *同上 p39-40
  7. *同上 p40-41
  8. *同上 p44-46
  9. *同上 p53-56
  10. *同上 p56
  11. *同上 p60-64
  12. *同上 p65-68
  13. *同上 p69-71
  14. *同上 p48-50
  15. *同上 p68
  16. *Edmonds,2014 澤訳,2015,p.61)
  17. *Edmonds,2014,p.66)
  18. *Edmonds,2014,p.67-68)
  19. *Edmonds,2014,p.86)
  20. *Edmonds,2014,p.143-144
  21. *Edmonds,2014,p.66)
  22. *Edmonds,2014,p.52)
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掲示板

  • 564 ななしのよっしん

    2024/03/13(水) 13:07:39 ID: lDA8bU1p1s

    「どちらを犠牲にするか」みたいな話じゃなくて「犠牲が少ない方に進路を切り替えるのが正当化されるか」を問う問題なんだけど、誤解してる人が多い
    (そして線路上にいろんな物置いて遊ぶ玩具に成り下がってる)

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  • 565 ななしのよっしん

    2024/04/01(月) 10:09:31 ID: 47IIu1lNR0

    仏教について言及してる人いるけど、これってキリスト教が定める道徳に照らし合わせて、どの行為がキリスト教道徳的に正しいかを考察するかが話の発端だから、他の教義持ってきてもあまり意味はないと思うよ。

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  • 566 ななしのよっしん

    2024/04/09(火) 22:24:30 ID: +k6GnPT9Uc

    問題の本質を理解したうえで化しているならまだいいけど、まったくそこを考えずに騒いでいるなら、別の意味でヤバイ

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