ドッガーバンク(封鎖突破船)とは、1926年4月20日に竣工した英貨物船スペイーバンクを、第二次世界大戦中の1941年1月31日にドイツ海軍が鹵獲したものである。敷設した機雷で商船2隻を撃沈、駆逐艦補給艦ヘクラを含む3隻を撃破した。封鎖突破船として日本にも訪れている。1943年3月3日、北大西洋にて味方であるはずのU-43に誤射されて沈没。
ハーランド社製6気筒ディーゼルエンジンを搭載しており、当時としては高速の12ノットを発揮出来た。しかし、その代償にエンジンの整備費や維持費が大幅に増大し、故障も頻発するというエンジニア泣かせのじゃじゃ馬と化し、速力上昇のメリットと維持費増大のデメリットが釣り合っていなかった。ひとたびエンジンが故障すると速力を9ノットに落とさなければならず、エンジニアは揺れる船上で危険な修理作業を強いられたとか。インバーバンク級は他には無い、非常に特徴的な一対のサンプソンポストを持っているので外見での識別が容易。この識別の容易さはドッガーバンクとなった後に効果的な迷彩として機能する事になる。
諸元は排水量5154トン、全長128.1m、全幅16.4m、出力2400馬力、最大速力12ノット(22km/h)、載荷重量8876トン。
ドッガーバンクは封鎖突破船の中で唯一船舶撃沈記録を持つ。また、仮装巡洋艦の乗組員にのみ与えられるバッジ「ヒルフスクロイツァー」を乗組員が付けていたとの情報もあり、仮装巡洋艦の側面も持っていたと思われる。
ドッガーバンクの前身であるスペイーバンク(Speybank)は、1926年4月20日にグラスゴーのハーランド・アンド・ウルフ造船所で竣工。インバーバンク級で最後に竣工した船となる。スペイーバンクは姉妹船とともに、バンクライン社に就役。1930年までに無線電信装備を積載した。
第一次世界大戦後、ロンドンを拠点とするアンドリュー・ウィアーのバンクライン社は北アイルランド開発委員会からの助成金を受け、インバーバンク級貨物船18隻をハーランド・アンド・ウルフに発注。これら18隻の船名には樹木の名前やスコットランドの地名など幅広い物から名前を取られたが、いずれも接尾辞の「バンク」が付けられた。ちなみにハーランド・アンド・ウルフは過去にあのタイタニックを建造した実績ある造船会社。
第二次世界大戦中の1941年1月31日夜、スペイーバンクは積み荷のマンガン鉱石、ゴム、お茶、チーク材をインドのコーチンからニューヨークに輸送するため、インド洋を西進していた。当時インド洋は戦線から遠く離れていた上、英東洋艦隊の箱庭だった事から護衛無しで航海していたのだが、ここでスペイーバンクの運命を狂わす相手と出会ってしまうのだった。少し前の夕刻、マダガスカル島北方セーシェル近海で通商破壊中だったドイツ海軍の仮装巡洋艦アトランティスは、水平線の向こう側に見えるマストを発見して追跡を開始。スペイーバンクの針路を阻むように先回りし、大砲を向けながら「停船せよ。電信を止めなければ発砲する」と脅しをかけてきた。船長のアンドリュー・モロー大尉は速力と火力の面でアトランティスに全く敵わないと判断。要求を受け入れて停船させた。乗組員17名はアトランティスに連行、スペイーバンクはこのまま撃沈されるかに見えた。だが貴重なマンガン鉱石を積んでいた事、出港から日が経っていないためドイツ占領下フランスまで航行出来る十分な燃料と食糧を持っていた事から、アトランティスのベルンハルト・ロッゲ船長は船体の拿捕を決断し、スペイーバンクを支配下に置いた。アンドリュー・モロー船長と見習い船員たちはまとめて捕虜となり戦争が終わるまで解放されなかった。イギリス製の商船である事を活かし、しばらくはアトランティスの偵察船として運用される。
スペイーバンク拿捕から2日後の2月2日、アトランティスはノルウェー貨物船ケティ・ブロヴィヒを拿捕して2隻の拿捕船を連れ回す。2月10日にはイギリス軍の占領が迫るイタリア領ソマリランドから脱出してきた独商船タンネンフェルスと合流して4隻に数を増やす。だが4隻とも何かしらの物資不足や問題を抱えていたため、ロッゲ船長はそれぞれに役割を与え、必要なものは他の船から供出する方式を取った。2月14日、新たにインド洋へ進出してきた重巡アドミラル・シェーアと会同。ケティ・ブロヴィヒがシェーアにディーゼル燃料を補給した他、それぞれ必要な補給物資を互いに交換し合い、ロッゲ船長とテオドール・クランケ艦長が敵船舶の航行状況について情報交換を行った。シェーアはここへ来るまでに大量の生卵を積んだ英冷蔵船デュケーサを拿捕しており、新鮮な卵をアトランティス、スペイーバンク、ケティ・ブロヴィヒに分け与えてくれたおかげで食糧事情が劇的に改善されている。ここでタンネンフェルスはボルドーへ、ケティ・ブロヴィヒはオーストラリア方面へ、シェーアはモザンビーク海峡へ向かうため離脱。スペイーバンクは引き続きアトランティスの偵察船を務める。
アドミラル・シェーアが暴れた事でインド洋における敵の警戒が強くなってきた。3月21日、ロッゲ船長はスペイーバンクをフランスに回航させる事とし、タンネンフェルスから移乗していたパウル・シュナイデヴィント中尉率いる回航部隊を送り込み、姉妹船スプリングバンクに偽装してインド洋を出発。指揮官のシュナイデヴィント中尉は若いながらもアジアの海域に熟知した有能な士官であった。大西洋の危険な海域を通って5月10日にボルドーへ到着。ちなみにスペイーバンクを拿捕したアトランティスは11月22日に撃沈された。
ボルドー入港後、シュナイデヴィント中尉はスペイーバンクを機雷敷設艦へ改造する事を上層部に具申。彼の提案は高官の興味を誘ったようで特設機雷敷設艦兼潜水母艦への改装が決定した。ボルドーのフォルジュ・エ・シャンティエ・ド・ラ・ジロンド造船所で10.5cm L/45大砲2門と20mm対空機関砲2門を新たに装備、12月17日にラ・パリス港で280個の機雷(敷設用のEMC155個、EMF55個、Uボート補給用のTMB70個)と補給用魚雷50本を積載。洋上での長期間の活動を可能とするため1030トンのディーゼル燃料が供給された。ただ、機雷投下用のレールまでは装備されなかった。ドイツ海軍はスペイーバンクに「シッフ53(Schiff 53)」の仮名を与えて海軍籍に編入。乗組員108名を束ねる船長はシュナイデヴィント中尉が務める。本来であれば適任者と交代するのが通例なのだが、彼の熱意が認められて引き続き船長の座に据えられた。また、ハンザ汽船会社に経営を移管した際に「ドッガーバンク(Doggerbank)」に改名。敵の誤認を誘うためドイツ風にしつつも船名を紛らわしいものにした。そしてドッガーバンクには連合軍の海上封鎖を突破して極東の同盟国日本に向かう任務――封鎖突破船の役割が与えられた。18隻いるインバーバンク級はイギリス海軍の目を欺くには最適だったのだ。
日本へ向かう前にドッガーバンクは姉妹船レバーンバンクに見せかけるための偽装工事を実施。イギリスの商船と同じく船体を黒または灰色に、上部構造物を黄色に塗装し、古くさい船に見えるようサビや腐食の塗装も施した。両舷側には敵哨戒機からの誤認率を上げる目的でレバーンバンクの船名を書き込んでいる。1942年1月中旬までにドッガーバンクは全ての出撃準備を整えた。
DOGGERBANK
1942年1月21日、僚艦のU-432とともにボルドーを出撃して片道約3万kmの長大な旅路の一歩を踏み出した。日本へ向かう前に姉妹船レバーンバンクに変装して大西洋を南下する。2月23日、南大西洋にて活動中の複数のUボートや仮装巡洋艦に対して補給を行う。3月2日に公海上でシッフ53の名称で正式に海軍籍へ登録。ドッガーバンクは連合軍の目を誤魔化すための偽名となる。偽装が効いているのか敵機や敵艦は全く姿を現さなかった。
ドッガーバンクはコペンハーゲン作戦に参加。これは、オーストラリア・ニュージーランド方面からの敵輸送船団が寄港する南アフリカ南部の港湾都市ケープタウンの機雷封鎖を狙ったもので、ドッガーバンクと同じく貨物船を装った機雷敷設艦75隻が投入されていた。3月12日夜に機雷を敷設出来るよう警戒厳重なケープタウン沖へ慎重に進んでゆく。ところが同日午後にイギリスの舎弟である南アフリカ空軍機に発見され、名前と行き先を尋ねてきた。ドッガーバンクは冷静に「こちらレバーンバンク。ニューヨークからレシフェを経由してケープタウンに向かっている」と返信。更に乗組員が甲板に出て帽子を振るパフォーマンスも加えた。すると敵機は満足して海域から離脱。見事味方と誤認させる事に成功した。夕刻に小型船を発見して容易く回避。ドッガーバンクは下部甲板に機雷投下用レールを持っていないので機雷を甲板上まで吊り上げる必要があったが、翌13日早朝までにケープタウン沖に60個を敷設した。
敷設任務を完了させたドッガーバンクは、アグラス岬に機雷を敷設するカイロ作戦に参加するため喜望峰方面に向かう。その途上の19時45分、敵艦が赤い信号灯を点滅させながら水平線上に出現、シュナイデヴィント船長はバーミンガム級軽巡洋艦と判断したが、実際は修理のためサイモンズタウンへ向かっていた旧式軽巡ダーバンだった。ダーバンが送ってきたNNJ信号と呼ばれるもので「連合軍の船舶だけが持つ秘密の旗を掲揚せよ」を意味する。中身がドイツ船のドッガーバンクは当然そんなものなど持っていない。迂闊に応えては正体が露見してしまうため沈黙を保つ。するとダーバンが近づいてきて「船名は何ですか?」と訊いてきたので、前回同様「レバーンバンク。ニューヨークまで行きます。ダーバン、おやすみなさい」と返信。かなり大胆な返信だったが、怪しまれる事無くダーバンは暗闇の中へと消えていった。辛くも誤魔化す事には成功したものの、シュナイデヴィント船長は相当肝を冷やしたようで、使用可能な機雷15個を早急に敷設して現場海域から逃げ去ろうと考えた。ひとまずアグラス岬に機雷15個を敷設したのち全速力で南下。幸いドッガーバンクは敵に見つからなかったが、明らかにパトロールが強化されている様子だった。
3月14日朝、見張り員が遠方に大型客船がいると報告。船長はその大型客船を追い越そうと速力を上げるが、大型商船の正体は英補助巡洋艦チェシャーであり、商船にしては速すぎる事から逆に疑惑を抱かせてしまう。間もなくチェシャーから誰何の信号が送られてきた。ドッガーバンクは「インバーバンク、モンテビデオからメルボルンに向かっている」と返信し、インバーバンクのコールサインとレッド・エンサインを掲げて変装する。再びチェシャーから「どこから」「行き先」を問われて「モンテビデオ」「メルボルン」と返信。緊迫の一瞬。圧し潰されそうな空気の中で返って来たのは「幸せな航海を祈っています」だった。ダーバンに続いてチェシャーの目も欺く事に成功したのだった。実は敵だとも知らずにドッガーバンクを送り出すイギリス艦艇に向けてシュナイデヴィント船長は「良い一日を!」と返礼した。……敵をむざむざ見逃した時点で「良い一日」ではないという皮肉をたっぷり込めて。九死に一生を得たドッガーバンクは南に逃走。その後、通信量が増加した事から機雷による被害が発生したと判断。
ドッガーバンクが仕掛けた機雷は最初の戦果を出した。3月16日午前1時30分、ケープタウン沖で航空機9機と弾薬1600トンを積んでボンベイに向かっていたオランダ貨物船アルシオーネ(4534トン)が触雷。激しい爆発により船内が揺さぶられると同時に船体が右舷側へ傾いていく。無線機器の故障で救難信号こそ出せなかったが、沈没が遅かったおかげで乗組員全員が脱出に成功、彼らの目の前でアルシオーネは午前1時55分に船尾より沈没した。アルシオーネ沈没は連合軍に思わぬ混乱をもたらす。機雷による沈没のため本海域にUボートが移動した形跡が無く、J・ルーカス船長は雷撃で撃沈されたと主張したが現地の上級士官は納得せず、一時は原因不明の爆発と報道された。だが浮遊している機雷を偶然英タンカーが発見・回収して原因が判明。イギリス海軍は掃海艇を集中させてケープタウン沖の掃海を図ったが、作業がガバガバだったせいで多くの機雷が残ってしまい今後も被害が続出していく事となる。
一度は喜望峰に向かったドッガーバングだったがカイロ作戦に従事するべく再び南大西洋へ移動。4月16日から17日夜にかけて、アグラス岬南南東にEMC型機雷80個を5つの機雷原に分けて敷設。敵に見つかる前に離脱した。こうして計155個の機雷を敷設。
5月2日、ニューヨークからケープタウン沖に入った英貨物船ダルフラムが触雷して損傷、自力で港まで逃げ込んだ。5月4日朝にオランダ貨物船マンガカリハット(元ドイツ船リンデンフェルト)がケープタウン沖へ来訪した時、ダルフラムからの救難信号を受信して異常が起きていると悟る。ヴァン・ストリーメン船長は速力を上げて危険な機雷原を早々に突破しようとしたが午前7時15分に触雷大破。巨大な水柱が築かれた。第一船倉から黄色い煙が吐き出され、船首が急速に沈下し始めたものの第二船倉が無事だったため、損傷に構わず航行を続け、小型トロール船トートル号の支援を受けて午後12時40分に入港。マンガカリハットにとって幸運だったのは2400トンの爆発物が誘爆しなかった事だろう。5月15日、アグラス岬沖にて機雷原があるとも知らずにWS-18船団が突っ込み、英貨物船スーダン(6677トン)が触雷、第二船倉に積み込まれていた400トンのTNTは船底に穿たれた穴から零れ落ちたため誘爆こそ避けられたが、あえなくスーダンは沈没した。他にも駆逐艦補給艦ヘクラを大破させて乗組員24名が戦死する大損害を与えた。余談だが戦争中の全期間を通してWS船団が損害が出たのは今回だけである。このように物資集積地であるケープタウンの沖合いで被害が続出し、地上の連合軍は動揺したという。
5月28日、司令部より「EMF型機雷に欠陥がある」との通達があったため、残っていた55個を船外へ投棄する。6月21日、南大西洋で仮装巡洋艦ミヒェルや随伴給油船シャルロッテ・シュリーマンと会同。ミヒェルが撃沈した敵船舶の捕虜124名を、シャルロッテ・シュリーマンから68名の捕虜を引き取り、ミヒェルに弾薬と食糧を補給した。1週間ほど行動を共にした後、極東に向かうため2隻と別れてインド洋方面に向かう。また道中でUボートと何度か会同して魚雷と燃料を補給している。インド洋と言えば、かつてドッガーバンクが拿捕された場所だが、セイロン沖海戦の敗北により英東洋艦隊は南アフリカまで後退、代わりに同盟国の大日本帝國海軍が進出してきているなど拿捕当時と比べて戦況が一変していた。その恩恵を受けてドッガーバンクは安全に航行出来、日本占領下バタビアを経由して日本本土に向かう。8月18日、御前崎沖にて特設捕獲網艇興海丸が護衛につき、8月19日に横浜へ到着した。
三菱重工横浜船渠にて10月23日から29日、11月9日から14日にかけて2回に渡って入渠整備。また敷設しなかったTMB型磁気機雷は日本海軍に譲渡された。ドイツ海軍の新型機雷を入手出来た日本側は喜び、「仮称三式機雷」と名付けてテストを行ったという。11月30日13時48分、横浜港内に停泊していた高速給油艦ウッカーマルクが突如爆発事故を起こし、横付けしていた仮装巡洋艦トールを巻き込んで更に誘爆、同じ埠頭に停泊中の貨物船ロイテンや第3雲海丸をも炎上させ、ドイツ兵62名、中国人船員36名、日本人5名の計103名が死亡する大惨事に発展。ウッカーマルクと同じ埠頭に係留されていて運良く助かったのはドッガーバンクだけだったが、ロイテンの回航要員に転属した元乗組員1名が犠牲となった。
12月10日、先の爆発事故で乗艦を失ったウッカーマルクやトールの生存者257名、7000トンの原材料、脂肪、魚油を積載して横浜を出港。この時の乗船者は365名にまで膨れ上がった。まず神戸に寄港して積み荷のタバコを降ろし、代わりに生ゴムを積載して出発。サイゴンを経由したのちシンガポールに入港するが、現地ではディーゼル燃料が手に入らなかったため、1943年1月10日にバタビアへ回航、ここでディーゼル燃料の補給を受ける。1月15日、フランスに帰国するためバタビアを出港。インド洋を西進して喜望峰を回り、南大西洋を北上していく。
1943年3月3日21時53分、カナリア諸島西方約1000海里の中部北大西洋で哨戒中のU-43がイギリスの貨物船らしき船影を発見。この船こそドッガーバンクだったのだが、元イギリス船なのが災いしてダニーデンスター(イギリスの冷蔵貨物船)と誤認され、U-43から扇状に放たれた魚雷3本を喰らって3分以内に沈没させられてしまった。沈没の際に5隻の救命ボートが下ろされ、それぞれに10名前後の生存者が乗っていたため、U-43が近づこうとしたが暗闇による視界不良に阻まれて断念。大声で船名を問いかけてみたところ、生存者から何かしらの返答があったものの聞き取れなかった。余談だがダニーデンスターはこれより前の1942年11月29日に座礁して放棄されている。
あまりにも早い沈没だったため救難信号を出せず、ドイツ海軍司令部は数日間ドッガーバンクの行方を掴めなかったという。3月18日、ドッガーバンクが入港するという事で港の200マイル圏内では攻撃を控えるよう周囲のUボートに通達され、3月21日には到着が遅いドッガーバンクを「敵に追われて回避行動を取っている」と判断し、船舶に対する攻撃禁止エリアを拡大させている。
漂流した乗組員と捕虜の殆どが死亡。当初、救命ボートの1隻には15名の生存者が乗っていたが、ボートが転覆した際に9名が溺死または行方不明になって6名に減少。水も食糧も無い絶望的な漂流は生存者から生きる希望を奪った。漂流19日目、もはや助からないと悟った4名から「殺して欲しい」と懇願され、シュナイデヴィント船長が拳銃で射殺。その後を追うように船長も拳銃自殺した。1名は渇きに耐えかねた末に海水を飲んで死亡、ボートに乗っていた飼い犬も衰弱死し、最後に残ったフリッツクルトもまた衰弱し切っていて仲間の遺体を水葬出来ずにいた。沈没から26日後の3月29日、スペインのタンカーに救助されて唯一クルトだけか生き残った。
ドッガーバンクの沈没はベルリンに驚愕と不快感をもたらした。何せ、戦争遂行に必要不可欠で渇望していた生ゴムと石油をヨーロッパへ送り届ける前に沈没してしまったのだから。同士討ちだと判明した後、司令部は士気低下を防ぐためU-43の艦長ハンス・ヨアヒム・シュヴァントケ中尉に戦時日誌からドッガーバンク撃沈の記述を削除するよう命令し、乗組員には知らせなかった。
何故このような悲劇が起きてしまったのか。同士討ちを避けるためドッガーバンクの行動予定は周囲のUボートに通達されていたのだが、ドッガーバンクは予定よりも早いペースで航行しており、予定の位置と実際の位置が数日分ズレる事態が発生。封鎖突破船という事で大々的にハーケンクロイツの旗を掲げていないし、U-43がドッガーバンクを雷撃した海域は本来封鎖突破船がいないはずの場所であり、見た目も明らかにドイツ製のものとは違った。これらの要素が全て噛み合ってしまったが故の悲劇である。敵はおろか味方さえも騙してしまった。
インバーバンク級貨物船18隻のうち8隻が戦火で失われている。また、ドッガーバンクが運んだTMB型磁気機雷のうち9個は伊6によって、1943年3月13日にオーストラリア東岸へ敷設された。
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最終更新:2025/12/09(火) 18:00
最終更新:2025/12/09(火) 18:00
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