ドレスデン爆撃とは、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて行われた連合軍のドレスデンへの爆撃である。多くの一般市民が犠牲となった事から「ドイツのヒロシマ」とも言われる。
第二次世界大戦も末期に入った1945年初頭、ドイツは窮地に立たされていた。西と南からは連合軍が、東からはソ連軍が大挙して雪崩れ込み、ドイツの息の根を止めるべく首都ベルリンへ進撃する。
1月、イギリスの諜報機関はドイツ軍が最大42個師団を東部戦線へ輸送出来る能力を保持していると判断し、イギリス空軍とアメリカ空軍は攻撃計画を変更。2月2日、連合軍はベルリンへの爆撃が悪天候で困難な場合、ドレスデン攻撃を代替案に挙げた。2月4日より始まったヤルタ会談で西側連合軍とソ連はドイツ東部の都市を爆撃してソ連軍の進撃を助ける事で同意。
後の悲劇の地となるドイツ東部の街ドレスデンはベルリン、プラハ、ブレスラウ、ワルシャワ、ライプツィヒ、ニュルンベルクなど要所へ伸びる鉄道が重なった交通の要衝であった。1944年8月24日より連合軍の爆撃が始まったが航続距離の問題で大変散発的なものであり、市民に若干の犠牲者が出ていたものの、現地のドイツ軍部隊や拠点は無傷で残っていた。しかし年末になると東プロイセンから逃げて来た避難民が押し寄せ、各都市へ脱出するためにドレスデンの鉄道を頼った。1945年1月より現地のドイツ軍は要塞の拡張工事に着手するが、1月16日にドレスデンが空襲を受けたのを境に東部戦線から増援要求がしきりに届くようになり、駐留部隊は移動。高射砲部隊もドレスデンから去った。そしてドレスデンは無防備都市を宣言。市内には軍事施設もドイツ軍も無く、文字通り無防備であり、ここを空襲しても戦略的価値は全く無かった。ゆえにドイツ軍もドレスデンは攻撃されないだろうと考えていたのだが…。
ところが、戦後を見据えてソ連を牽制しておきたい米英は圧倒的軍事力を誇示するための舞台を欲していた。その思惑にぴったりな場所こそが、ソ連軍の鼻先に位置するザクセン州の州都ドレスデンであった。
1945年2月13日早朝、この日のドレスデンは暗雲が広がっていた。当初の予定ではアメリカ軍の航空隊が昼間爆撃をするはずだったが、悪天候のため一旦中止。続いて夜間爆撃を担当するイギリス空軍に出撃命令が下り、同日18時に200機以上のランカスター爆撃機が英本土から発進した。陽動のため別働隊も出撃させ、計1180機が投入された。
21時51分、ドレスデンに空襲警報発令。当初、接近する敵編隊はライプツィヒを狙っていると推測されたが、21時59分に現地の防空司令部がドレスデンを標的にしていると確信。クロチェ飛行場からメッサーシュミットBf110が緊急発進したが、目標上空に到達するまで30分を要した。22時3分、現地司令部は市民に向けて敵機の接近を訴えた。
22時過ぎ、ドレスデン上空に先発隊が到達。照明弾を落とし、後続の本隊に爆撃目標の位置を知らせた。目標はツヴィンガー宮殿、ドレスデン城、聖母教会、市役所、十字架教会など歴史的価値の高いものまで含まれた。やがて本隊が到着、22時30分頃に第一陣の243機のランカスターが爆撃を開始した。まず高性能爆弾で建物の屋根を吹き飛ばし、丸見えになった内部へ焼夷弾を投下する戦法が取られた。建物はあっと言う間に炎に飲み込まれ、その炎によって地表付近は真空状態となり、火災旋風を引き起こした。建物ではなく地面に落ちた高性能爆弾は水道管を破壊し、円滑な消火活動を妨げた。大火は生き物のように燃焼範囲を広げていき、ドイツ市民を無慈悲に喰らって焼き尽くした。爆撃自体は僅か24分で終わったが、地獄はまだ始まったばかりだった。イギリス軍は爆撃機隊を二つに分けており、第一陣の爆撃から3時間後に第二陣が爆撃するよう練られていた。これは避難や消火作業が最も活発になる時間帯を狙って爆撃するためで、明らかに非戦闘員を狙い撃ちにした鬼畜の所業であった。
日付が変わって翌14日午前1時23分、第二陣のランカスター529機が到着。予想以上に燃え広がっていたので、作戦を変更して爆撃エリアを拡大させた。今度は通常爆弾を投下していった。二度の爆撃で1477トンの爆弾と1081トンの焼夷弾が投下され、ドイツ有数の文化都市は炎の海に沈んだ。市内は高温になり、窓と言う窓から炎が噴き出していた。建物を支える骨組みは熔け、次々に崩れ落ちた。一連の空襲でイギリス軍は6機のランカスターを喪失。このうち3機は味方機の誤爆で失われている。
2月14日正午過ぎ、今度はアメリカ軍の爆撃機隊が襲来。司令官はあのカーチス・ルメイ大佐である。彼は四隅に焼夷弾を落とし、人々を逃げられないようにしたうえで爆弾を投下する爆撃法を考案。784機のP-51戦闘機に護衛された2100機のB-17が、ほとんど廃墟になったドレスデンの街に爆弾474トンと焼夷弾300トンを投下した。さらにエルベ河畔に避難していた一般市民に機銃掃射を加え、蹂躙した。今回の空襲ではかろうじてドイツ空軍機の迎撃が間に合ったが、膨大な数の護衛戦闘機に阻まれて1機の米爆撃機を落とすのが精一杯だった。予定では2月14日で爆撃が終了するはずだったが…。
2月15日、ライプツィヒ近郊の合成油工場爆撃に向かっていた編隊が悪天候により断念。代わりに第二の目標であるドレスデンへと殺到した。正午から10分間、南東郊外が爆撃にさらされた。あまりにも凄惨かつ広範囲に渡った爆撃のため、正確な死者数は未だ判然としていない。推定では12万人が亡くなったとされているが、後年の研究では少なく見積もっても3万5000名程だと言われる。ドレスデンの町並みは破壊し尽くされ、85%が灰燼に帰した。
不可解な事に、連合軍はエルベ河北部にある軍事施設には全く手をつけず、非戦闘員だけを殺傷していった。このような鬼畜の手に染めたのは、ドイツ軍が誇るV2ロケットをイギリスが恐れていたとも、ロンドンやコベントリーに対する爆撃の報復とも言われている。
瓦礫の山と化したドレスデンだったが、3月2日と4月17日に追い討ちの爆撃を受けている。
ドレスデンへの空襲は「ソ連軍の進撃を助ける」という名目であったが、戦略的価値は全く無かった。むしろ無防備な町への爆撃を禁じたハーグ条約の違反に繋がってしまった。
連合軍は「ドレスデンには東部戦線に繋がる鉄道網があった他、市内の110の工場と5万人の労働者、鉄道、通信施設を狙った」と弁明。ドレスデンへの爆撃は逆に町を救ったとして正当化した。しかし一般市民を攻撃した事についてはイギリス国内からも非難の声が上がったと言う。教会ではミサのたびに献金を募り、ドレスデンの復興支援に充てた。この無差別爆撃でノウハウを学んだアメリカ軍は、東京大空襲を始めとする日本の都市爆撃を繰り返していく事になる。
1945年2月16日、ドイツ宣伝省は「ドレスデンには軍需工場は無かった」と発表。25日には火傷を負った二人の子供が写った写真集「ドレスデン 難民の虐殺」を公開し、3月にドイツ政府は20万の死傷者が出たと発表している。
生き残った市民が目の当たりにしたのは、うず高く積み上げられた瓦礫の山だった。あちこちに倒れていた焼死体は一旦街の端っこに集めて焼却していたが、作業が間に合わなかったので中央のアルトマルクト広場に運んでまとめて焼いた。一度は壊滅したドレスデンだったが、市民の努力によって見事復興した。ドイツ空軍の爆撃で大損害を受けたコベントリーとは姉妹都市の関係になり、資金援助を受けている。
戦後、東ドイツ領になったドレスデンは西側諸国を非難する宣伝材料として使われた。また1966年までの修復作業の間に1858体の遺体が発見されている。現代では2月13日に追悼集会が行われているが、同時にネオナチを始めとする国粋主義グループも外国人排斥のデモを行っている。極右団体はドレスデン爆撃を「爆弾によるホロコースト」と非難している。
2022年公開の映画『Оperation Seawolf』(邦題「U・ボート オペレーション・シーウルフ」)の主人公ケスラーはドレスデン爆撃で妻子を失った設定となっている。
掲示板
3 ななしのよっしん
2021/06/05(土) 21:31:34 ID: A3kkRJOHgC
当時のドレスデンは無防備都市宣言なんてしてないんだけど何でこんなデマがまかり通ってるんだろうなぁ…
むしろドイツはモノホンの無防備都市のチャンネル諸島を爆撃してるのに。
4 ななしのよっきん
2022/11/01(火) 19:54:43 ID: aQWCInDHqF
そもそも日本が戦争に踏切ったのもアメリカのせい。
結局支持率欲しさに蹂躙され、そして敗戦国のレッテルを貼られた。
そんなアメリカを信用せず自分らで守れるようにしなければまたこうなる。
5 ななしのよっしん
2025/07/29(火) 22:08:37 ID: SeB0HXAAYF
>>4
満州で妥協してりゃ余計な警戒されずに済んだんだよなあ…
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最終更新:2025/12/10(水) 05:00
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