ナイジェル・マンセル(Nigel Mansell)とは、愛すべき馬鹿・・・
もとい、'80~'90年代F1黄金期における屈指の名ドライバーである。
本名はナイジェル・アーネスト・ジェイムズ・マンセル(Nigel Arnest James Mansell)。
1953年8月8日生、英国ウスターシャー州出身の英国人ドライバー。
1980~1995年(除1993年)に亘りF1に参戦。名門チームを渡り歩き幾度もタイトル争いに絡んできた名ドライバー。
1992年にはF1で、翌1993年にはCARTでチャンピオンに輝いている。
その豪快な走りと愛嬌のある人柄で「荒法師」、「大英帝国の愛すべき息子」、「ライオンハート」、「マンちゃん」など数々の異名を持ち、多くのファンに愛された。
幼少の頃、父に乗せてもらったカートマシンが後のキャリアの原点となった。エンジニアになるための勉学に励むがドライバーになる夢を捨てられず財産の一切合財を売り払い参戦資金を捻出、それでも不足した分は妻ロザンナとともにアルバイトで稼いだ。下位フォーミュラのブリティッシュ・フォーミュラ・フォード、イギリスF3で成績を挙げる。
チャンスのためなら我が身を省みず、フォーミュラ・フォード時代にブランズ・ハッチでの予選中、事故で首を骨折するも医師の制止も聞かずレースに復帰しその年(1977年)のチャンピオンを獲得。
F3時代にはレース中の事故(ちなみに接触相手は破壊王チェザリスであった)で脊椎を負傷してしまったが、そこにF1のロータス・チームからテストの誘いが舞い込む。「怪我をしたのは別人です!」と言い張り、鎮痛剤を常人の7倍注射してテストドライブを行った。
上記テストでの熱意にも心打たれた名門ロータスの総帥、コーリン・チャップマンに見出され1980年第10戦オーストリアGPにて初参戦。翌'81年からフル参戦し第5戦ベルギーGPで3位初表彰台、だが他のレースでは多くのリタイアを重ねた。'82年、チャップマンが急逝し、チーム内での後ろ盾を失い伸び悩むこととなった。結局ロータスでは未勝利に終わる。
1985年、フランク・ウイリアムズの招聘でウイリアムズ・ホンダに移籍。第14戦ヨーロッパGP(英ブランズ・ハッチ)で初勝利、続く南アフリカGPも連覇する。
1986〜1987年はチームメイトにネルソン・ピケを迎え、強力なホンダ・ターボを擁するチームは2年連続でコンストラクターズ・タイトルを連覇。一方のドライバーズ・タイトルにおいては、フランクはチームオーダーを設けず、ピケとのタイトル争いは熾烈を極めた。
'86年には通算5勝。しかし最終戦オーストラリアGP、64周目に走行中左リアタイヤがバーストしリタイア、ノーポイントに終わりタイトルはアラン・プロストの手に渡った。
翌'87年は通算6勝。しかし第15戦日本GPは鈴鹿サーキットでの予選中にS字カーブでスピンしタイアバリアに突っ込む。マシンは宙へ浮かびコースに叩きつけられた衝撃で背中を負傷し、最後の2戦の欠場を余儀なくされる。この時点でタイトルはピケに決定。
2年連続で最多勝利を挙げながらも目前でタイトルを逃す不運に見舞われ「無冠の帝王」と呼ばれるようになる。
1988年、チームはホンダエンジンを失い、非力でオーバーヒートに悩まされるジャッドエンジンを搭載。シャシーもアクティヴサスペンションが開発途上のために信頼性を欠き12戦でリタイア(加えて2戦を水疱瘡で欠場)、2位表彰台が2回のみという結果に終わる。この惨状を受けチームからの離脱を決意した。
1989年、前年のエンツォ・フェラーリ生前最後となる加入オファーを受諾しスクーデリア・フェラーリに移籍。F1マシンで初めてセミ・オートマティック・トランスミッションを搭載した革新的な"640"をドライヴ、初戦ブラジルGPで早速の勝利をもたらす。この年もギアボックストラブルに悩まされリタイアが多かったが、2勝をマークしドライバーズ・ランク4位。
翌'90年はチームメイトにアラン・プロストを向かえるが、政略の腕に長けたプロストがチームを掌握したため居心地を悪くしたマンセルは第8戦イギリスGP後に引退表明を行う。第13戦ポルトガルGPでシーズン唯一の優勝をするもスタート時にプロストに幅寄せしたため怒りを買う結果となった。
1991年、引退宣言を撤回し古巣ウイリアムズに復帰。ルノーエンジンを得てハイテク導入も進んだマシンを駆り好成績を収めることになる。通算5勝を挙げるも序盤3戦のリタイアやカナダGP、ポルトガルGPでの事件が響き、ドライバーズ・ランク2位。
1992年、洗練された空力パッケージに熟成したアクティヴサスペンション、TCSを搭載し最強のハイテクマシンと名高い"FW14B"を駆り通算9勝/14PPとシーズンを席巻、第11戦ハンガリーGPにて早々に悲願のドライバーズ・チャンピオンを獲得した。
しかし、フランク・ウイリアムズは翌シーズンにアラン・プロストあるいはアイルトン・セナ獲得に動いたためマンセルは不快感を示し第13戦イタリアGPの記者会見で2度目の引退表明。
1993年、CARTへ転向し通算5勝でドライバーズ・チャンピオンを獲得、異なるカテゴリーのタイトルを2年連続で獲得した唯一のドライバーとなった。
翌'94年もCARTに参戦するが、F1界ではウイリアムズへ移籍したアイルトン・セナが第3戦サンマリノGPで事故死。セナのシートを埋めるべくカムバックし最後の3戦に出走、最終戦オーストラリアGPでF1最終勝利を果たす。
1995年、マクラーレン・メルセデスに移籍するもオーナー、ロン・デニスとそりが合わず今度こそ引退することとなった。中年太りのせいで、コックピットに座りづらかったのも原因の一つらしい。
・1984年第9戦ダラスGP。チェッカー目前の最終ヘアピンでリアをウォールにぶつけギアボックスを壊してしまったマンセル。自力でマシンを押しフィニッシュラインを目指そうとするが、灼熱に襲われ倒れこんでしまう(11:11~)
その男気には観客達も感動し、惜しみない拍手を贈った。
・1987年第10戦オーストリアGP。2度目のスタートに失敗、ただでさえ狭いエステルライヒ・リンクを塞いだ結果後続集団が多重衝突を起こす大迷惑w しかもその原因たる張本人は優勝してしまった。でもちゃんとF1の神様から天罰が待っていた・・・(9:51~)
・1990年第15戦日本GP。スタート直後の第一コーナーで悪名高い「セナプロ・クラッシュ」が発生、さらに翌周にはその砂を踏んだベルガーもスピンアウト。上位四強の内3人が早々にリタイアし、労せずしてトップに躍り出たマンセル。このまま楽勝かと思われたが、26周目にタイヤ交換を終えピットアウトする際にドライヴシャフトを折ってしまい痛恨のリタイア!この瞬間、プロストのドライバーズタイトルに続き、フェラーリはコンストラクターズタイトルをも逃すことになってしまった。
・1991年第6戦カナダGP。優勝を目前にした最終ラップにまさかの急停止!観客に手を振る際に誤って電気系のスイッチに触れてしまったのでは・・・?と囁かれた、いわゆる「キルスイッチ事件」(ピットに戻ったマシンのエンジンに点火するとちゃんと始動しギアも入ったそうである)。
・1989年第13戦。フェラーリのピットを通り過ぎてしまい禁止されているピットレーンでのリバースギアを使用。レースに戻るが失格裁定が下り黒旗が出るもこれを3周に亘って無視、よりによってタイトル争いをしているセナと接触しリタイアさせてしまう(FIAから5万ドルの罰金と次戦出場停止処分が下った)。
・1991年第13戦。29周目にタイヤ交換のためピットイン。ここで右リア担当がナットを締めきらないままクルーはマンセルを送り出してしまいタイヤは当然ポロリ!ピットレーンを塞ぎ再装着するも失格→黒旗。
「2台のフェラーリが来ている!2台のフェラーリが来ている!」
「ここはモナコモンテカルロ!絶対に抜けない!」
「ライオンリターン!マンセルのいる風景!マンセルのいる風景だぁ!」
掲示板
急上昇ワード改
最終更新:2024/04/24(水) 00:00
最終更新:2024/04/24(水) 00:00
スマホで作られた新規記事
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。