ナラティブ(Narrative)とは、わたし自身によって語られる物語である。
わたしが知る限りではこれは1960年代に文芸理論上で提唱された概念であり、"物語(の内容)"を意味するストーリー(Story)とは異なる概念として"語り"を意味するナラティブが定着したという。"ストーリー"は文学文芸の内容を指す狭義的な意味合いでの物語であり、"ナラティブ"はより広義的な意味合いでまとまりのある文章や会話全般も含まれると言ったところだろう。比較的身近な言葉を例に解釈すると、劇や映画、漫画の中で物語の内容が語られる「ナレーション(Narration)」や「ナレーター(Narrator)」は、それぞれ"物語る行為と"物語る者”だ。
先の説明で「ナラティブは語りを意味する…」と言ったが、実のところ日本語訳ではストーリーもナラティブどちらも"物語"という訳語が重複して使われている。これは日本語の"物語(物語り)"という言葉がストーリーとナラティブ両方の意味合いを持っているからだろう。なんだかちょっとややこしい…。
文芸理論上だけではなく、医学や看護学ではこの概念が広く用いられている。「ナラティブセラピー」や「ナラティブアプローチ」と呼ばれるものだ。
医療や看護においては何よりエビデンス(科学や統計に基づいた根拠)が重要である。しかし、根拠に基づいた医療や看護であっても、治療とは決して医者や看護師からの一方的な行為ではなく、患者への理解やコミュニケーションもまた大切な要素であり、患者との関係を深めることで問題解決をすることが現代の医療看護であると言われている。すなわち、患者側が語る症例、患者自身の"物語り"が医療看護におけるナラティブなのだ。
文芸理論や医療関係を中心に用いられていたナラティブという概念…、最近わたしは文芸や医療は違った場面で、それもなんとなく身近で見かけている。どうやら近年ではビデオゲームの分野において、それまでの"ストーリー"の概念に代わる新しい物語の手法として用いられたり解釈されたりで注目され始めているそうだ。
前置きが長くなってしまったが、わたしはここでナラティブ・ゲームについて語りたいと思う。
ビデオゲームにおける物語は、文芸や漫画、映画などの物語を読み解いていくときとは異なる体験をすることがある。それは、読み手すなわちプレイヤーは自身の行動が影響するゲームプレイにおいて自身が物語を生み出すこともある。つまり、プレイヤー自身が物語の語り手になりうるということだ。ゲームの中で語られる物語ではなく、プレイヤーの体験によって形成される自身の物語がビデオゲームにおけるナラティブである。
この概念は"ストーリー"に代わるビデオゲームにおける物語の手法として解釈され定着していて、GDC(Game Developers Conference/ゲーム開発者会議)では、ゲームの脚本を評価するそれまでの「Best writing award」に代わって、現在は「Best narrative award」が用いられており、脚本だけではなく物語の手法も評価されるようになっている。
もちろん、全てのゲームがナラティブということではない。例えば、ゲーム内の主人公キャラクターの台詞を読み進めることやNPCとのストーリ上の会話、ムービーやカットシーン、スクリプトを使用して決まった動きをするイベント演出で描かれる物語は、ゲーム内のキャラクターの物語でありプレイヤー自身の物語ではない。プレイヤーが体験するのはゲーム内のキャラクターの追体験や感情移入であり、常に物語の読み手側にいることになる。つまりこれらは"ストーリー"を読み解くゲームだ。
それではプレイヤーが語り手になるゲーム、ナラティブ・ゲームとは具体的にどういったものなのだろうか。最近話題になったいくつかのゲームタイトルを中心に触れてゲームにおけるナラティブとは何なのか考えてみたいと思う。
このゲームはナレーターのナレーションによって進行する。ナレーターはプレイヤーの行動やゲームの進行を先回りしていて、これから何を選択すると何が起こるかを全て語り誘導してくる。
「あなたは左の扉を選びました」…そうナレーションで語られたあとプレイヤーはゲーム側の指示に従うか、それとも右の扉というもうひとつの選択肢を選ぶか、果ては関係のない別の扉を選んだり、来た道を戻ったり、明後日の方向に走り出したりゲームの流れを無視した全く違う行動に出ることも自身の判断で選ぶことが出来る。
これはゲームの中のナレーターが語る本来の物語とは全く違う物語が無数に構成されていくアドベンチャーゲームだ。結末のある物語が主体でありながらも、そこに明確なゴールやエンディングは存在しない。プレイヤー自身が考え行動して物語を生み出すことがゴールであると開発者は語っている。
失踪したイーサン・カーター少年の物語。過去を見通すことができる能力を持った探偵が少年からの手紙を受け取り、彼の住む地に辿り着いた場面からこのゲーム始まる。
この物語の結末はゲームが始まった時点で決まっている。しかし、本作には物語やゲームを進める導線のようなものはなく、どのように物語の姿を追っていくかはプレイヤー自身の探索や行動から成り立っている。そして、どのような順路を辿ってもやがて一つの答えに辿り着けるように設計されている。プレイヤー自身の探索と推理から物語の本当の姿を掴み結末に辿り着くまでの体験がナラティブなのである。
タイトルの通り我が家に帰宅するところから始まる。主人公が家族から離れている間に起こった家族間の物語を探索していくアドベンチャーゲームである。
このゲームは舞台になっている90年代のアメリカの一般家庭の様子と、その当時のサブカルチャーの再現に重点が置かれている。これは台詞や文章で物語を直接語るのではなく、ゲームの中で描かれている背景から伝えられる物語の手法、「環境ストーリーテリング(Environmental storytelling)」を重点的に用いたゲームである。家族の誰かが散らかしたままの雑誌の内容やテレビの側に置かれたVHSのラベル、スーパーファミコン(SNES)のカセット…などの細かい背景描写やアイテムのひとつひとつ、そこから伝わってくる断片的な人物像、それらを元にプレイヤーの探索と想像力から物語の全体像が構成されていくゲームである。
廃墟だけが残った孤島を舞台にしたアドベンチャーゲームだ。プレイヤーは主人公の独白と共に孤島を探索する。選択肢や謎解きといったようなものは一切ない。このゲームは物語を伝える体験のためにゲームらしいものをほとんど削ぎ落している。果たしてこれは"ゲーム"であるのかという疑問の声も少なくはない。
これはプレイヤー自身が断片的な独白と孤島の様々な情景から物語を思い浮かべていくゲームである。プレイヤーの想像力で物語の隙間を埋めることがゲームを楽しむ原動力であると開発者は語っている。
本作は2008年に制作されたHalf-Life2のMODが原型になっている。当時大学生だった開発者がゲームによるストーリーテリングの手法を研究するために制作したそうだ。先に紹介したプレイヤーがゲームの中の世界を探索する形式のナラティブ・ゲームの先駆者とも言えるかもしれない。
このゲームのテーマは友情である。タイトルの"ひとりぼっちだったトーマス"の通り、ゲームを進めていくにつれて新しい友達に出会うことになる。
プレイ動画やスクリーンショットを一見すれば分かるように主人公は"長方形"である。そしてゲームの中で出会い協力していく友人たちもまた"長方形"や”四角形”なのだ。果たして彼らをキャラクターと言ってもいいのかわからないかもしれないが、実際にゲームをプレイしているとプレイヤーは長方形でしかない彼らに確かな人物像を見出して、そこから彼らの物語を追体験するのである。
このようにプレイヤー側で豊かな人物像を想像すること(させること)もまたナラティブであると言われている。詳細なキャラクター造形や舞台背景を描かなくてもプレイヤーの想像力によって深く豊かな物語は成り立つのだ。本作は英国アカデミー賞ゲーム部門の演技賞を受賞、加えてストーリー賞にもノミネートされている。
警察で事情聴取を受ける女性の録画映像から事件の手がかりを解き明かしていくゲーム。ゲームは終始パソコンの画面を見るだけである。プレイヤーはデータベースから女性が事件について語る映像を探し、その映像の中で女性が語る話から新しいキーワードを見つけ出し、そのキーワードを元にデータベースからさらなる映像を探すという構成になっている。
ゲームからは順序立てたストーリーや全体像が語られることはない。断片的な情報をプレイヤー自身が再構築し、物語全体や映像の中の女性の感情を考察していくゲームである。
ある個人のウェブサイト…に見せかけたFLASHゲームだ。ゲーム内に再現されたウェブサイトにアクセスしたところから物語は始まる。プレイヤーつまりはウェブサイトの閲覧者になった自分は記念すべき訪問者で挨拶を掲示板に書き込むように催促される。しかし、どこから書き込んだらいいのか、どうやって管理人と連絡を取ったらいいのか分からない。そうしているうちに掲示板は訪問者の書き込みがないことを理由に雲行きが怪しくなっていく。自分の行動が原因でインターネット上の掲示板で騒動が起きてしまい、そして恐ろしい結果を体験することになる。
この演出はゲームが公開された当時、ゲームではなく本当の出来事だと勘違いしてしまう人が後を絶たず、製作者の実際のウェブサイトの掲示板に書き込みをする人も数多かった。ゲームの中の物語という枠組みを超えてプレイヤー自身の現実体験を生み出していたと言えるだろう。
何となくゲームにおけるナラティブ、ナラティブ・ゲームとはどういったものなのか分かってきただろうか。ここで紹介したのはほんの一例でしかない。そして何より、解説やプレイ動画に目を通して知ろうとしても、それは誰かが語ったゲームの解説を読むか聞いただけで自分自身の体験ではない。ナラティブ・ゲームとは何か、ゲームから生まれる自分が語る物語とは何なのか、それは自分がそのようなゲームに実際に触れることで生まれて、そこで初めて知ることが出来るのだ。
今までこの記事の文章を読み進んできて思い考え感じたことを掲示板で語ろうとしたとき、それもまたひとつのナラティブなのかもしれない。それだけではなく、読み進めている自分自身がその時点で語り手になる記事もあると言えるのではないだろうか。
…とは言ったものの、わたしが思うにこの項目の定義と解釈は曖昧かもしれない。概要説明ではなく頁を開いた自身の体験から成り立っている記事を例として紹介したい。
掲示板
24 ななしのよっしん
2024/02/26(月) 14:57:02 ID: PoptKmHqNn
こうやってナラティブちゃん(仮)の画像があって語りで聞かせるてくれるだけでなんか愛着が湧いて、このキャラの情報とか話してくれることってもっと無いのかなぁ……って気持ちになっちゃうのがナラティブなんだなぁ
25 ななしのよっしん
2024/03/07(木) 12:03:24 ID: uhEsfyFzCT
「テロール教授の怪しい授業」でナラティブの恐ろしさが話題になっていた。
「Aすべきだ、Bだからだ」
のBの部分に、「客観的な根拠と厳密な論証に基づく事実」よりもお手軽な「話題としてなじみのあるナラティブ」が論拠になりがち。
Bはある程度までは事実に基づいている場合も多いけど、所詮は一例にすぎない。
なのにそこから「お手軽に」普遍的な結論を出してしまうというのをしばしばやらかす。
26 ななしのよっしん
2025/02/22(土) 17:06:13 ID: 0OEFaPyGb+
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最終更新:2025/03/26(水) 01:00
最終更新:2025/03/26(水) 01:00
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