ニコライ・ゲラシモヴィッチ・クズネツォフとは、ソビエト海軍提督で最終階級は元帥(最高位)。第二次世界大戦時の海軍人民委員(海軍大臣)、初代ソビエト海軍総司令官である。
1904年、ロシア海軍誕生の地セヴェロドヴィンスクを擁するアルハンゲリスク州の寒村に生まれた。
1919年、年齢を詐称(2歳逆サバした)して15歳でソビエト海軍に入隊。
1926年に名門フルンゼ海軍学校を卒業し、軽巡洋艦「チェルヴォーナ・ウクライナ」に当直士官として勤務。後に大尉に昇進すると海軍アカデミーで作戦・戦術を学ぶ。
参謀部勤務か士官乗組員かを選択できたが、彼は現場を経験するためにあえて軽巡洋艦「クラースヌイ・カフカス」士官乗組員として艦隊勤務を選ぶ。それからわずか1年で彼は「チェルヴォーナ・ウクライナ」に舞い戻った。
今度は艦長として。
1936年からは共和国派支援のために内戦の激化するスペインに派遣され、「ドン・ニコラス」の偽名で1年に渡って駐在武官および軍事顧問として勤務。
この経験で彼はファシズムに対する反感と敵意を抱いたという。
1937年に帰国すると、いきなり太平洋艦隊副司令という大役を任せられる。
さらに半年足らずで司令官に任命。これといった実戦を経験していないにも関わらず驚くべき出世スピードである。
彼は自身が標的にならない範囲で大粛清の危機に晒される同僚たちの助命に尽力したという。
1939年には若干34歳で海軍人民委員(海軍大臣)という重責をWW2に渡って任された。
1941年、彼はドイツとの戦争を確実視していた。
しかし管轄が違うとはいえ格上の階級にあり、先の戦争で名声を得ていたチモシェンコとジューコフは「ドイツの挑発に応じる」ことを禁止する命令を出していた。
畜生め、連中ヴォトカに頭をやられたか?
クズネツォフは彼らの面子よりも祖国を守り抜くことを決意した。
チモシェンコとジューコフはあくまでも赤軍(陸軍)の所属。法的にはそれと独立している海軍は彼らの命令に従う義務はない。
運命の日である6月22日の夜明け、ドイツ軍の侵攻を察知したクズネツォフは全ソビエト艦隊に戦闘準備を命じた。
同日4時45分、ドイツ国防軍に「バルバロッサ」が発令。独ソ戦の幕が切って落とされた。
赤軍の多くがドイツ軍の電撃攻勢に混乱する最中、ソビエト海軍はまるで待ち構えていたかの如く効果的な反撃を開始した。
この緒戦において、ソビエト海軍はただの1隻の船、ただの1機の航空機をも失わなかった。
それから2年間、ソビエト海軍はカフカス(コーカサス)地方の死守に腐心した。
ここに位置するのはかつて世界最大であったバクー油田を擁するアゼルバイジャン、そして同士書記長の故郷グルジア。
まさしくここはソビエトの生命線だったのだ。
カフカスは俺たちの庭だ。黒い海をクラウツの血で赤く染めてやれ
1942年、ドイツ南方軍はカフカス侵攻作戦「ブラウ」を発動。
主力艦隊を務めた黒海艦隊はドイツ空軍の航空攻撃で甚大な被害を受けながらも艦砲射撃と精鋭たる海軍歩兵の奇襲による挟撃でセヴァストポリ要塞を陥落まで援護し続けた。
そしてブラウ作戦がスターリングラードでの敗北により頓挫すると、ドイツ軍の猛攻から10ヶ月も耐え抜いたセヴァストポリ要塞はわずか1ヶ月足らずで奪還された。
そして1944年、カフカス死守の功績によりクズネツォフは新設された海軍元帥の地位を与えられた。
続いて最高の名誉勲章であるソ連邦英雄を受章。戦後も初代海軍総司令官と軍事次官を務め上げた。
軍人としてこれ以上ない名誉に包まれていたのだが…
1947年、被害妄想を再発したスターリンによって無理やりそのポストから外され、部下たちと共にでっち上げの軍法会議にかけられた挙句中将に降格させられる。
しかし流石に思うところがあったのか1951年には自らの命により復帰させ、今度は海軍相のポストまでも与えた。
だがスターリンが死ぬと、今度は政界復帰を果たしたジューコフの露骨な嫌がらせを受けるようになる。
彼は命令無視の件を未だに根に持っていたのだ。
1955年、戦艦「ノヴォローシスク(旧ジュリオ・チェザーレ)」が不可解な爆沈事故を起こすと、それを口実にポストから外し、降格させ、さらには強制退役に「海軍と関係のあるあらゆる仕事の禁止」という公私混同も甚だしい人事を下した。
…しかし程なくジューコフもまた過ぎた専横をフルシチョフに咎められ政界からの永久追放という制裁を下された。
軍を去った後、彼は多くの随筆や論文、回顧録を執筆し発表した。
中でもスターリンの圧制・党の干渉に対する批判的な論調を展開し、「国家は法によって統治されなければならない」と自らの自論を強調した。
ジューコフとフルシチョフの失脚後、退役軍人会はクズネツォフの階級と軍人年金の回復、そして国防省監察総監の一人にさせようという運動を起こした。
しかしそれらは後任の海軍総司令官であったセルゲイ・ゴルシコフによって無視され続けた。
弱小沿岸海軍をアメリカに匹敵する巨大外洋艦隊に育て上げたこの野心家には、かつての上官の名誉など些末ごとでしかなかったのだ。
1988年、ゴルシコフが死去するとすぐさまソ連邦海軍元帥へと名誉回復がなされた。
1990年、空母「アドミラル・クズネツォフ」就役。彼の魂は今も海にある。
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最終更新:2025/12/09(火) 15:00
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