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ニジンスキー

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ニジンスキーとは、以下のものをす。

  1. ヴァーツラフ・フォミーチ・ニジンスキー(Вацлав Фомич Нижинский) - ロシアバレエダンサー(生1890年~没1950年)。本稿前半で記述
  2. ニジンスキー(Nijinsky) - 1から名前を取った1967年まれのアイルランド競走馬本項後半で詳述
  3. ニジンスキー(Nijinsky) - 1の生涯を描いた1980年開のアメリカ映画(監督:ハーバート・ロス)
  4. ニジンスキー - 1の晩年を描いたパルコ劇場の戯曲(作: William Luce, 演出: John Tillinger)
  5. ニジンスキーにぐ(Tribute to Nijinsky) - ロシアフィギュアスケート選手エフゲニー・プルシェンコFS使用曲(作曲: Edvin Marton, 振付: Юрий Смекалов)
  6. ニジンスキー~奇跡の舞~ - 宝塚歌劇団組のミュージカル(作・演出:原田諒)

1の概要(バレエダンサー)

ヴァーツラフ・フォミーチ・ニジンスキーは、ロシアバレエダンサーである。ミドルネーム日本ではフォミッチと表記されたり、そもそも省略されることもある。

1890年にウクライナのキエフで生まれる。サンクトペテルブルクの舞踊学校バレエを学んだ後、ロシアバレエ団創立者のセルゲイ・ディアギレフに見出された。ディアギレフは同性愛者であり、ニジンスキーと体関係にあった。

高い跳躍中性的な動きで観客を魅了し、ミハイルフォーキン振付の「薔薇の精」でその跳躍を存分に披露したとされる。残念ながら、ニジンスキーが演じる姿を収めた映像は存在しない模様。

ニジンスキー自身も振付を行なうようになったが、初めて振付をした1912年上演の「牧の午後」では、自慰行為にふける牧(ギリシア神話に登場するパーン)を題材とし、これを露に表現したことで物議を醸した。しかし、結果的に同年だけで15回の上演を行い、次第に受け入れられてモダンバレエの先駆けとなった。

翌1913年に振付した「春の祭典」では、バレエの基本である垂直ライン視し、内股で首を傾げる動作を取り入れた。初演では開演後に客席で意見が分かれ、上演の最中に乱闘が起こり、野次が飛び交うという大混乱を招いた。しかし、初演以降は混乱も起きずに受け入れられている。
同年の南演の途中、ニジンスキーのファンであったバレリーナのロモラ・デ・プルスキと結婚嫉妬したディアギレフにガチ切れされてロシアバレエ団を追放される。自身でバレエ団を結成するが、行は不振に終わる。

第一次世界大戦時、ハンガリーで拘留される。1916年にディアギレフから振付師として呼び戻されるが、この頃に統合失調症を発症。

1919年のスイスでの演を最後に、二度と舞台に復帰できなかった。また、スイス演後から入院するまでの数週間で「ニジンスキーの手記」を残している。
その後は精神病院を転々とし、1950年に死去。亡くなる時に「薔薇の精」のポーズを取ったと言われている。

あまりにも新な振付で上記のような混乱も招いたが、ニジンスキーのパフォーマンスは次第にモダンバレエとして評価されるようになった。
曖昧さ回避にも記載のあるように、スケート選手のプルシェンコが「ニジンスキーにぐ」という演でニジンスキーの振付を取り入れて演じている(2003年-2004年シーズンFS使用曲。ロシア杯では、芸術点において旧採点方式の満点であるオール6.0点を獲得)。

ニジンスキーの死から約20年後、ロモラ夫人は夫にあやかった名を持つ競走馬・ニジンスキーを応援するようになり、三冠第1戦の2000ギニーステークスに感銘を受け、騎乗したレスター・ピゴット騎手手紙を書いた。そして英ダービー(ダービーステークス)に招待され、夫の名を持つニジンスキーの二冠達成を見届けた。

2の概要(競走馬)

ニジンスキーは、1967年まれのアイルランド競走馬。いわゆる英国三冠敗で制し、現在のところ最後の英国三冠馬になっている。

Northern Dancer(ノーザンダンサー)、Flaming Page(フレーミングページ)、Bull Page(ブルページ)という血統。は言うまでもなくウルトラ大種だが、フレーミングページと交配された時にはまだ種入り2年で、ニジンスキーがセリに出された時には産駒はデビューもしていなかった。

それなのにニジンスキーは8万4千カナダドルという破格の値段で落札された。これは当時のカナダレコードだそうである。もちろんノーザンダンサー競走馬時代の実績もあるのだが、実はのフレーミングページからしカナダダービーにあたるクイーンプレートとカナダオークスを制し、アメリカケンタッキーオークスでも2着に入ってカナダ最優秀3歳に選ばれたほどの名だったのである。おまけにニジンスキーは2歳時に既に170cmも体高があったという見栄えのする体の持ちだった。そこをアイルランドヴィンセントオブライエン調教師に見初められ、アメリカ宝石チャールズ・W・エンゲルハードに購買されたのだった。

「ニジンスキー」と名づけたのはエンゲルハードである。「北の踊り子」と「炎の一節」の子供に、ロシア天才バレエダンサーの名を付けるとは見事と言う他い。ニジンスキーは中で静止すると言われた跳躍と、中性的な妖しい表現伝説となったダンサーだが、同時に狂気を併せ持つと言われ、若くして精を病んで後半生を精神病院で過ごし、不遇のまま「生まれ変わったらになりたい」という言葉を残して没したという悲しい人物でもある。

そんな天才の名を受け継いだニジンスキー。実は彼も狂気とまでは言わないが「炎のようだ」とまで言われるほど気性のしいだった。気に入らないことがあると房に閉じこもるわ、後ろ足で立ち上がって威嚇するわ、調教でもまったく言うことを聞かないわで、オブライエン調教師は根気強く致をしなければならなかった。

しかしながらデビューするとこれがもうモノが違う。ほとんど追われることなく、イギリスの2歳チャンピオン決定戦のデューハーストSまで5戦5勝。アイルランドイギリスの最優秀2歳に選出され、この時点で既に英ダービーの大本命とされるようになった。なお、騎手アイルランドではリアム・ウォード騎手が、それ以外のではレスター・ピゴット騎手が務めるという分担が引退まで続いた。

3歳になり、一叩きを古相手に楽勝して臨んだ2000ギニーはこれもほとんど追われることなく抜け出して圧勝。ダービーはそれまでのレース振りから距離不安が言われた上、発走30時間を切った頃に疝痛を起こすという不運に見舞われたが、中団から圧倒的な脚で突き抜け史上2位タイム勝。アイリッシュダービーも入れ込みながらなりで3身差で勝利

キングジョージVI世&クイーンエリザベスSではなりで、直線で上が相手を見ちゃう余裕があるというあきれたレースぶりで優勝。ちなみに負かしたは全部古で、必死に追いまくって2着したブレイクニーは前年の英ダービー馬である。

あまりの強さにこの時点で々に種入りシンジゲートが組まれたのも理からぬ話。544万ドルは当時の世界レコードだった。

次の標は当然、凱旋門賞だった。しかしキングジョージから凱旋門賞までには2ヶ以上あった上、の間に癬を患ったニジンスキーの調整には狂いが生じていて、手頃なステップが見当たらなかった。どうしようかと思っていたオブライエン調教師。そこに「是非、セントレジャーSに出て三冠馬になってくれ!」という要望が聞こえてきたのである。

セントレジャーが行われるドンカスター競馬場の関係者だった。当時、既に三冠路線は形骸化しており、特に14ハロン115ヤード(約2920m)も走らなければならないセントレジャーは中短距離メインになりつつあった競馬の流れから外れてしまって、有がことごとく回避する有様だったのである。実はニジンスキー以前にも二冠は何頭か出ていたのだが、どれもセントレジャーに出ていなかった。最後に三冠を達成したのはバーラムというで、なんと1935年の話だった。

ニジンスキーが出て三冠馬になれば話題になり、再びセントレジャーに陽が当たる時代が来るかもしれない。そういう論見らしかった。オブライエン調教師は渋ったが、結局のエンゲルハードが了承してニジンスキーはセントレジャーに出走。直線抜け出してあっさり勝利し、35年ぶりの三冠馬となったのであった。

どう見ても楽勝だったのだが、騎手レスター・ピゴットは直線が長く感じたという。やはり距離がニジンスキーには長かったのだろう。ニジンスキーはレース体を減らしてしまい、回復に手間取ってしまう。

そして凱旋門賞。オッズは単勝1.4倍の圧倒的な1番人気であり、アイルランドでの騎乗を担当したウォード騎手が「もし負けたら裸でアイルランドまで帰ってやるよ」と言い放つなど、大多数はニジンスキーの勝利を信じて疑わなかった。しかしニジンスキーは直線で先を行くササフラを交わしたもののいつもの伸びがい。上のピゴット騎手が思わずを入れると、大きく左によれて体勢を崩し、ササフラに頭差差し返されてしまったのである。

敗の名の敗戦はいつだって衝撃的だが、ニジンスキーの敗戦はアイルランドイギリスで大ニュースになり、大きな議論を呼んだ。あれほど強かったニジンスキーが負けた理由の一つに「距離不向きであった過酷なセントレジャーの疲れ」があったのはどう考えても明であるとしか思われず、「セントレジャーに使うべきではなかった」という非難がオブライエン調教師の元に舞い込む騒ぎになった。実際には癬の影などもあったようなのだが、結局この騒動のおかげでセントレジャーは「凱旋門賞なら出てはいけない」レースに成り下がってしまったのだった。逆効果にも程がある。

もっとも、凱旋門賞の後に出走したチャンピオンS(元からここで引退する予定だったらしい)でも2着に敗れており、その際に営は「もはや闘志を失っている」と口をえたので、一概にセントレジャーを悪者にするのもどうかと思う。そもそもニジンスキーは3歳時、4月から10月チャンピオンSまで8戦も走っている。欧州の山坂ある競馬場で、厳しい12ハロン以上のGIレースを5回も走っているのだ。そりゃ疲れるだろう。パドックファンに取り囲まれたりしたら尚更である。凱旋門賞ではなんか大かいて泡吹いているのが動画で確認出来る。

ニジンスキーはこれで引退。13戦11勝2着2回の連対率100%を達成している。動画で見た感じ、3歳前半の強さは桁違いであり、特にキングジョージの遊んでいるようなレースは一見の価値がある。

引退後、アメリカで予定通りに種入りしたニジンスキーは、期待通り、あるいは544万ドルもちょっと安かったかと思うような大活躍を見せる。なにしろGIレベルレースを勝ったを書き出すだけでも大変というレベルである。意外な事に英リーディンサイアーは一回しか獲っていないが、種入りした産駒も数知れず、一代で「ニジンスキー系」と呼ぶに相応しい一大勢を築き上げるのである。

日本で特に有名な産駒はマルゼンスキーラムタラだろう。持ち込みとして日本で走ったマルゼンスキーは桁違いのスピードで圧勝を続け「スーパーカーだ!」と日本中を驚嘆させた。種としても大活躍し、おかげでその後日本に大量にニジンスキー産駒が種として輸入される事となった。ちなみに、マルゼンスキーはニジンスキーに体や雰囲気がそっくりである。
ラムタラはニジンスキーの死後活躍。英ダービーキングジョージを制し、ニジンスキー産駒がそれまでどうしても獲れなかった凱旋門賞も制して念をらしたのだった。ニジンスキー最後の傑作というに相応しい名である。後に日本に輸入されたが種としては……。

なお、種入りしたときにアメリカに同名の種(1958年まれのトムフール産駒)がいたため、区別のために名の後に「II」を付けられた。そのため、厳密にいえば「ニジンスキーII系」と呼ぶのが正確ではあるのだが、1958年産のニジンスキーはおそらくさほど活躍しなかったため、単に「ニジンスキー系」とされている。

1992年25歳で死亡一流の競走成績と種成績を併せ持つ世紀の名であった。サラブレッド歴史が続く限り、その名は血の中に残り続けて消えることはいであろう。

血統表

Northern Dancer
1961 鹿
Nearctic
1954 鹿
Nearco Pharos
Nogara
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
Natalma
1957 鹿
Native Dancer Polynesian
Geisha
Almahmoud Mahmoud
Arbitrator
Flaming Page
1959 鹿
FNo.8-f
Bull Page
1947 鹿
Bull Lea Bull Dog
Rose Leaves
Our Page Blue Larkspur 
Occult
Flaring Top
1947 
Menow Pharamond
Alcibiades
Flaming Top Omaha
Firetop

クロス:Phalaris 5×5(6.25%)、Selene 5×5(6.25%)

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