フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(独:Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツの古典文献学者で、アマチュア哲学者。
プロイセン王国の寒村レッケン出身であるが、1869年以降、プロイセン国籍を捨て、heimatlos(無国籍)となる。1879年、健康上の都合で大学の職を辞したあと、スイス、イタリア、南フランスを転々とする。1889年、トリノで昏倒し狂気に陥る。以後、10年以上、廃人として生き、1900年、55歳で息を引き取る。
ショーペンハウアーの影響のもとワーグナーの創作活動を支援する理論付けを試みるが、その後、厳しい同時代批判、形而上学批判、芸術批判、道徳批判を行うようになり、思想の成熟期には、力への意志、永劫回帰、超人といった重要概念を着想する。また、哲学的な著述のかたわらで、詩作や作曲も行っていた。
ニーチェによる思想的な試みは、のちのドイツ青年運動、保守革命、ナチズム、実存主義、フランクフルト学派第一世代、ポストモダンなどの思想運動に大きな影響を与える。こうした影響も含め、解釈と評価は大きく分かれる。
※ニーチェの生涯は「9」の付く年を節目として覚えるとよいと言われる。49年には父を亡くし、69年に大学教授となり、79年に教授職を辞し、89年に発狂、99年には20世紀初頭のニーチェ受容に大きな影響を与えたグロースオクターフ版全集の刊行が開始される、といった具合である。
1844年 ドイツのレッケンで、父カール、母フランツィスカ(旧姓エーラー)の間に生まれる。
両親ともにルター派の牧師の家系である。
※ニーチェの死後、ワーグナーがエーラー家の遠い親せきだったことが分かる。
1848年 弟のルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれる(50年に夭折)。
三月革命・フランクフルト国民会議
1861年 堅信礼を受ける(ただ洗礼によってではなく自分の意志でキリスト者となる儀式)。
この頃、初めてワーグナーの作品に触れる。
1862年 「運命と歴史」、「意志の自由と運命」を書く。
ビスマルク、プロイセン王国の宰相になる。
【大学生時代】
1864年 「メガラのテオグニスについて」を卒業論文にプフォルタ学院を卒業。
ボン大学神学部に学籍登録。
リッチュル教授、ヤーン教授ら(いずれも古典文献学)の授業を受ける。
1865年 母とのケンカの末、ボン大学文学部に学籍登録。
学内政争の末、リッチュルがライプツィヒ大学に移ったため、ニーチェも同大学に移る。
この頃『意志と表象としての世界』に出会い熱中する。
リッチュルの指導のもと、「文献学研究会」を組織。
1866年 「文献学研究会」で研究発表を行うなか、大学に残ることを決意するようになる。
ランゲの『唯物論の歴史』を読む。
普墺戦争(同年中に講和)。ニーチェは近視のため兵役を免れる。
1867年 懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」が受賞。
ただしニーチェはリッチュルから事前に懸賞論文のテーマを知らされていた。つまり出来レース…
1868年 リヒャルト・ワーグナーと知り合う。
1869年 24歳の若さでバーゼル大学に招聘され、古典文献学の員外教授に就任する。
就任講演「ホメロスの人格について」(後の「ホメロスと古典文献学」)。
プロイセン国籍を失い、無国籍に。
1870年 ニーチェ、正教授に昇格。フランツ・オーヴァーベックと知り合う。
公開講演「ギリシャの楽劇」、「ソクラテスと悲劇」。
「オイディプス王」について講義。
普仏戦争(-71年)。ニーチェは看護兵として志願、従軍する。
1871年 哲学教授職を希望するがかなわず。
「ソクラテスとギリシア悲劇」出版。
ドイツ帝国成立。
1872年 処女作『悲劇の誕生』を出版。学者としての信用を失い、事実上、学界から追放される。
講演「私たちの教育施設の将来について」。
「プラトン以前の哲学者たち」、「ギリシアとローマの弁論術」について講義。
バイロイト祝祭劇場の起工式に参加。
この起工式でマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと知り合う。
1873年 「プラトン以前の哲学者たち」の講義をパウル・レーが聴講。
「道徳外の意味における真理と虚偽」を口述筆記させる。
『ダーフィト・シュトラウス』出版。
1874年 『生に対する歴史の利害』出版。
「アリストテレスの弁論術」について講義。
『教育者としてのショーペンハウアー』出版。
『我ら文献学者』を準備するも完成ならず。
1875年 エリーザベト、ニーチェの世話のためバーゼルに来る(78年まで)。
ケーゼリッツ(後のペーター・ガスト)、ニーチェの講義を聴きに来る。
パウル・レーの『心理学的考察』を読む。
E・デューリングの『生の価値』を読む。
1876年 病気療養のため1年の休職を許される。
『バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー』出版。
バイロイト音楽祭。ニーチェは聴いているのが苦痛だった。
レー、マイゼンブークとともにソレントへ(翌年5月まで)。
ソレントでワーグナーと偶然で最後の出会い。
1877年 この頃の遺稿に、初めて「力への意志」という言葉が現れる。
1878年 『人間的、あまりに人間的』を出版。ワーグナーと決裂。
エリーザベト、実家に戻る。
1879年 『様々な意見と箴言』出版。
バーゼル大学を辞職し、ニートになる。
『漂泊者とその影』出版。
【ニート時代】
1881年 『曙光』出版。
初めてジルス=マリーアに滞在。8月、永劫回帰思想を着想。
1882年 ローマでルー・ザロメと知り合う。
すったもんだで、レー、ルーと疎遠に。そのうえ母・妹ともケンカに…
『悦ばしき知識』出版。
1883年 レー、ルーと絶交。
ワーグナー、死去。
『ツァラトゥストラ』第1部出版。
マイゼンブークへの手紙に、自分の新しい名はアンチクリストが良い、と書く。
エリーザベトが反ユダヤ主義者と婚約したことが原因で再びケンカとなる。
『ツァラトゥストラ』第2部出版。
1885年 シュマイツナー書店と決裂。
『ツァラトゥストラ』第4部出版。
エリーザベト、結婚。
1886年 フリッチュ書店・ナウマン書店から自著を再版するため、既刊書を読み直す機会を得る。
こうした自著の読み直しをきっかけに、自らの思想を体系的に再考することになる。
『善悪の彼岸』出版。
『ツァラトゥストラ』『反時代的考察』『悲劇の誕生』『人間的、あまりに人間的』第二版出版。
エリーザベト、南米パラグアイへ。
1887年 『悦ばしき知識』第二版出版。
『道徳の系譜』出版。
「生への賛歌」出版。
デンマークの評論家ゲオルク・ブランデスと文通をするようになる。
1888年 ブランデス、コペンハーゲン大での公開講義「ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ」。
ボードレール・ドストエフスキー・トルストイ・ルナンを読む。
『ワーグナーの場合』出版。
『アンチクリスト』、『この人を見よ』をめぐり錯綜した校正のやりとりがなされる。
ビスマルクに対し宣戦布告の草稿を書く。
12月末から翌月初めにかけて狂気の手紙を知人に送る。
親しい友人は悪質な冗談だと思った(ニーチェはふざけた手紙を書くことがあった)。
【狂気の時代】
1889年 カルロ・アルベルト広場にて昏倒、精神に異常をきたす。
馬にすがりついて泣いたと言われるが出典不明。
オーヴァーベック、ニーチェをバーゼルに連れ帰り入院させる。
母、ニーチェをイェーナの大学病院に入院させる。
『偶像の黄昏』・『ニーチェ対ワーグナー』出版。
1890年 母がニーチェの後見人になり、ニーチェは自宅で療養するようになる。
エリーザベト、パラグアイでの植民地経営に失敗して破産、夫を亡くして帰国する。
1892年 ペーター・ガスト、ニーチェの著作の刊行と編集を委任される。
このとき後に破棄される『この人を見よ』の原稿の写しを取る。
エリーザベト、再びパラグアイへ。
1893年 エリーザベト、再帰国。
『アンチクリスト』を体系的著作とは認めないなど、ニーチェの著作管理に介入してくる。
エリーザベト、ニーチェの著作管理・遺稿編纂のため、ニーチェ・アルヒーフの設立を計画する。
1894年 エリーザベト、実家にニーチェ・アルヒーフ設置。
ガスト、エリーザベトと決裂。
ルー、『作品におけるニーチェ』出版。
『アンチクリスト』出版。
1895年 エリーザベト、病人のニーチェでビジネスを企てていると咎められ、母とケンカになる。
エリーザベト、銀行からの融資でニーチェの著作権を、無理矢理、母から買い取る。
1899年 グロースオクターフ版ニーチェ全集の刊行開始。
ガスト、エリーザベトのもとで働くようになる。
1900年 ニーチェ、死去。
カール・ルートヴィヒ・ニーチェ ☆☆☆☆
(Carl Ludwig Nietzsche, 1813 - 1849)
ニーチェの父。いわゆるニーチェ牧師。ニーチェの生涯においては、メッチャ影が薄い。『この人を見よ』では、柔和な父親として描かれているが、ニーチェが4歳のときに亡くなった計算なので、虚像であるか、母や祖母から聞かされていたイメージであろう。
プロイセン王家に忠実な人で、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にあやかり、フリードリヒ・ヴィルヘルムという洗礼名をニーチェに施した。そのため、3月革命の知らせを聞いたとき、激怒し絶望したという。こうした政治的な態度は、カール本人の人柄というよりも牧師の家柄からくるものである。キリスト教というのは、本来、封建的な勢力だったからである「民主主義運動をなしているのはキリスト教運動の遺産である」(『善悪の彼岸』202番)といった言葉を安易に受け容れてしまうのは、哲学書の読み過ぎ…。ニーチェやエリーザベトの保守的な性格は、牧師の家の生まれという出自からくるものである。ニーチェは、アンチクリストにはなれても、封建的な精神から自由になることはできなかったようである。
フランツィスカ・エルネスティーネ・ローザウラ・ニーチェ ☆☆☆☆
(Franziska Ernestine Rosaura Nietzsche, 1826 - 1897)
ニーチェの母。実家のエーラー家は、ワーグナーと遠い親せきである。
ニーチェの伝記類でフランツィスカが悪く書かれているものはほとんど無い。若くして夫を亡くし、女手で2人の子を育て上げ、精神を病んだ息子の回復を祈りつつ老いた身で看護に尽くしながら死んでいった母親を悪く言う方が難しいだろう。
神学を棄てた息子と大げんか、いつまでも結婚しない子どもたちに「はよ結婚しておくれ」と言い、大学を辞め転地療養中のニーチェに大学に戻れないかと持ちかけたりと口うるさいが、35を過ぎてヨーロッパを転々としているニーチェにハムや靴下を送って面倒を見たりと、なんだかんだ言っていいオカンである。
エリーザベト・フェルスター=ニーチェ ★★☆☆
(Elisabeth Förster-Nietzsche, 1846 - 1935)
※フルネームは、テレーゼ・エリーザベト・アレクサンドラ・ニーチェ(Therese Elisabeth Alexandra Nietzsche)
悪名高いニーチェの妹。
好きなものは、ワーグナーの音楽、ドイツ帝国、上流階級の暮らし。
嫌いなものは、ユダヤ人。あれ? どっかの誰かに似てね?
なぜ悪名高いかというと、
1. ニーチェの手紙や遺稿を改竄した
2. 反ユダヤ主義だった
3. ニーチェの売り込みをかけた結果、ニーチェをナチに売り渡した
4. 極度のブラコンで、ニーチェの恋路を邪魔した
といった悪行が挙げられる。
非常に立ち回りが上手く、子どもの頃からニーチェの書いたものを収集していたこともあり、落書き同然の紙切れまで漏らさず集めてニーチェ・アルヒーフを設立したのは、やはり彼女の業績である。しかし、エリーザベトは、ニーチェの思想をサッパリ理解していなかった。
ニーチェからは、ラーマというあだ名で呼ばれていた。これは、ラーマという動物(リャマのこと)が自ら重い荷を担うことからくる(とエリーザベトは語っている)。しかし、リャマは、嫌なことがあると唾を吐きかけて攻撃してくる動物であり、あだ名の由来はこっちから来るのではないかという解釈もある。実際、エリーザベトは、ニーチェ・アルヒーフ設立の敵を罵り巧みに退けてみせている。また、フェルスター=ニーチェという姓を名乗っているのは、哲学者ニーチェの妹だということを印象づけるための作戦であり、夫の死後に法務当局を通して新たに作った姓だった(それ以前はエリーザベト・フェルスターだった)。それだけでなく、ニーチェと出版社との契約書類を精査し、公平とは言い難い契約を出版社が結ばせていたことを掘り起こすと、訴訟をちらつかせて、その後の交渉を有利に進めた(ニーチェが執筆活動をしてたときにエリーザベトが出版社との交渉役になっていたら、ニーチェが認知されるのはもっと早かったかも知れない)。
ブラコンだと言われているが、ニーチェの結婚話を進めようとしたりしており、セクシュアリティレベルでの感情はないと思われ──
ニーチェが褐色の髪だったのに対して、エリーザベトは金髪碧眼で、いかにも「アーリア人」といった風貌である。メガネはかけてないが、ニーチェと同じでド近眼。
ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー ★★★★
(Wilhelm Richard Wagner, 1813 - 1883)
言わずと知れた19世紀を代表する作曲家・劇作家。詳しくは、当該記事参照。
『悲劇の誕生』で学界から黙殺されたニーチェを、表向き弁護しつつ、プライベートでは、無茶をしないようにニーチェに言い聞かせ、実証的な歴史研究を軽んじないよう助言するなど、大物の割に面倒見がいい。しかし、反ユダヤ主義者であったため、ニーチェがユダヤ人のパウル・レーと仲良くなるに連れて、両者の関係が悪化していく。また、結婚できないしないニーチェに同性愛者の疑いをかけたことは、ニーチェの怒りを買ったようである(しかし、ニーチェはチキンなので面と向かって怒ることはしない)。
『人間的、あまりに人間的』から『ワーグナーの場合』まで、一貫してワーグナーを攻撃し続けたニーチェであるが、攻撃の矛先は、ワーグナーの音楽そのものよりも、その偽りの祝祭と後の時代の文化産業に向けられていたと言うべきだろう。例えば、ニーチェは、『パルジファル』を激しく嫌悪したと言われるが、スコアが送られてくると素直に感心したという。
ちなみに、無限旋律によって体系化されているワーグナーの音楽を、ニーチェは「タコ」に喩えている。
ペーター・ガスト ★☆☆☆
(Peter Gast, 1854 – 1918)
本名ハインリヒ・ケーゼリッツ(Heinrich Köselitz)。ライプツィヒ音楽大学の学生だったガストは、初期ニーチェの著作に感銘を受け、バーゼル大学のニーチェの講義を聴きに来る。『バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー』の準備期間からニーチェを手伝い、以後、ニーチェの助手として力を尽くす。ニーチェの面子を潰さないように婉曲な助言をしたりと、気の回るところもある。その他、「生への賛歌」(作詞ルー・ザロメ・作曲ニーチェ)の編曲をしたりもしている。
作曲家として身を立てることを夢見、ニーチェにも応援してもらうが、夢破れ挫折。ニーチェの思想にも詳しく遺稿の文字も判読できたガストは、以後、エリーザベトの奴隷となって恣意的な遺稿の編纂に協力させられることとなる。
エリーザベトによって破棄された『この人を見よ』の最終稿の写しを保管していたため、彼の死後、この写しは、『この人を見よ』の失われたテクストとして再発見される。
フランツ・カミルレ・オーヴァーベック ★☆☆☆
(Franz Camille Overbeck, 1837 – 1905)
教会史家でニーチェの親友。生涯を通じて変節を繰り返し多くの友人と疎遠になっていったニーチェと最後まで親しかった。
オーヴァーベックがバーゼルに赴任してきたとき、偶然にもニーチェと同じ下宿の店子だった。ニーチェは、夕食後オーヴァーベックの部屋を訪れ、長々とお喋りしたという。オーヴァーベック最初の著作『私たちの時代の神学のキリスト教性』は、ニーチェの『ダーフィト・シュトラウス』と同時出版であり、フリッチュ書店からの出版のためニーチェは奔走したという。
トリノで精神に異常をきたしたニーチェを迎えに行ったのも、オーヴァーベックだった。そのとき、ニーチェの未完成原稿の重要性に気付いたオーヴァーベックは、ガストと申し合わせて写しを取った。しかし、エリーザベトの罠にかかって原稿を奪われ、ニーチェ最後の体系的著作の原稿を紛失したという濡れ衣を着せられる。
ちなみにニーチェとオーヴァーベックの手紙は、ベンヤミンによって編集された書簡集『ドイツの人々』に収録されている。
マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク ★☆☆☆
(Malwida von Meysenbug, 1816 – 1903)
女性蔑視が基本のニーチェが珍しく尊敬する女性。バイロイトの起工式で初めて会ったとき、ニーチェは、マイゼンブークの聡明さに気付いたという。ただし、ニーチェは、それ以前からマイゼンブークの──匿名で出版された──『ある理想主義者の回想』を熱心に読んでいた。
マイゼンブークは、自由に言論できるサロンを開き、作家や芸術家を応援していた。そのため、ワーグナーのみならず、ロマン・ロラン、ガリバルディなどとも顔見知りである。ニーチェがバイロイト祝祭劇場を逃げ出した後も、ニーチェ、レーとともにソレントで合宿したりと、手厚く支援している。このとき『人間的、あまりに人間的』が仕上げられた。エリーザベトと共にニーチェの結婚話を進めようとしたり、レーとルーを引き合わせたりと、とても世話好きの女性である。
しかし、『ワーグナーの場合』が出版されると、こうした温かい関係も冷え込むこととなる。
パウル・ルートヴィヒ・カール・ハインリヒ・レー ★★★☆
(Paul Ludwig Carl Heinrich Rée, 1849 – 1901)
いわゆるパウル・レー。中期ニーチェに不可欠の影響を与えた友人。本人はプロテスタントだが、両親はユダヤ教徒(つまりユダヤ人)。道徳の背後にある心理を分析しアフォリズムという形で暴露する方法は、ニーチェに引き継がれ、系譜学において一つの完成形を見る。まあ、レーのせいで、ニーチェの著作の多くが読みにくいアフォリズム集になったとも言えるのだが…。
目が悪いため原稿の校正に苦心していたニーチェにタイプライターをプレゼントしたりもしている。
ルー・ザロメと親しくなるためニーチェの助けを借りようとするが、ニーチェまでもルーに惚れてしまう。結局、ニーチェの自爆によって、三角関係においては勝利を収めるも、自らルーの心を射止めるには至らず。遺書とも取れる謎のメモを残して転落死…事故なのか自殺なのか。
ルー・アンドレアス=ザロメ ★★☆☆
(Lou Andreas-Salomé, 1861 – 1937; Луиза Густавовна Саломе)
ロシア出身の著述家、エッセイスト、精神分析家。
自由な空気と新しい知識を求めてロシアから西ヨーロッパにやってくる。マイゼンブークの紹介でレーと知り合い、レーの仲介でニーチェと知り合う。
マイゼンブークは、自由を求めるルーの中に若い頃の自分を見出し、ルーもマイゼンブークを尊敬していた。ニーチェがルーに入れ込んだ理由の一つに、ルーの中にマイゼンブークのような自由な精神を見たからかもしれない。一方で、ルーがニーチェにどういったレベルの感情を持っていたのかは、なお解釈の余地がある。
ルーの著した『作品におけるニーチェ』は、ニーチェの思想を初めて、初期・中期・後期に分けたものと知られる。この著作を書いた後だが、ルーはフロイトに精神分析の手ほどきを受けており、またアンナ・フロイトがこの著作を精神分析の先取りと評しているため、『作品におけるニーチェ』は、ニーチェについての精神分析として読むことができるかも知れない(ただ、後の新フロイト主義につながるアンナ・フロイトに評価されても微妙かも知れないが)。
フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュル ★☆☆☆
(Friedrich Wilhelm Ritschl, 1806 - 1876)
ボン大学・ライプツィヒ大学時代のニーチェの指導教授。
ボン大学の古典文献学の基礎を築いた一人。ボン大学での学内政争に敗れてライプツィヒ大学に移る。それにともない、ニーチェもライプツィヒ大学に…。ライプツィヒ大学を新たな拠点に「文献学研究会」を組織し、まだ学生だったニーチェにバリバリ仕事と研究をさせる(昔はこんな大学の先生よくいた)。
ニーチェのバーゼル大学教授就任を斡旋するが、これはバーゼル市文教担当官がリッチュルの関係者であったため可能だった。教授資格論文はおろか博士論文も執筆してないニーチェが大学教授に就任するのは異例のことだったが、リッチュルは、ニーチェが受賞した懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」を盾にしてニーチェの人事を進めた。しかし、懸賞論文のテーマがディオゲネス・ラエルティオスだったということは、事前にリッチュルからニーチェにリークされていたのである。
ニーチェの就職を急がせた理由として、ニーチェの文献学に対する関心の喪失をリッチュルが懸念したからだとする研究もある。リッチュルの懸念が現実のものとなったのか、ニーチェは『悲劇の誕生』で実証的な歴史研究から逸脱していくことになる。リッチュルは、学問的研究を軽んじて哲学に救いを求めるニーチェを厳重注意するが、皮肉にも、こうした忠告は、ワーグナーからニーチェが受けた忠告と重なるものでもあった。
リッチュルは、古典学の中心にテクストクリティークを置くという方法を採った。つまり、歴史学において文字情報第一主義を取った。ニーチェが文献学・歴史学を批判するとき、やたら本を読まされることを挙げることが多いが、これはリッチュルの方法に対する批判になってはいても、歴史研究全般への批判にはなっていない。
※その他、コジマ・ワーグナー、ブルクハルト、ローデ、ドイッセンなど、挙げていればきりがないのでこの辺で。また、ショーペンハウアーのように面識がない人物は省く。
ニーチェは哲学者ショーペンハウアーと作曲家ワーグナーから大きな影響を受けている。このことは、「俺ら」的にとても興味深い。
生命力溢れる哲学でイメージされるニーチェであるが、とにかく運動音痴で数学が苦手。おまけにコミュ障である。ペンを握ったときだけ、攻撃性がむき出しになる。そして、最後には、オカンを介護するどころかオカンに介護される。まさに「俺ら」。「俺ら」と違うのは、「プフォルタ学院」という超名門校を卒業した高学歴と、一人暮らしの家に身の回りの世話するため来てくれる妹がいることくらいである(ブラコンだと噂される妹エリーザベトであるが、当時のドイツでも、男性に奉仕するのが女性の美徳だった。ニーチェの家族は早くに父を亡くしていたので、好むと好まざるとにかかわらず、長男であったフリードリヒをサポートするのがエリーザベトにとって状況的に自然なのである)。
つまり、ニーチェは、体育会系ではなく、圧倒的に文化系(しかも理系ではなく文系)であり、青い顔して屋内に籠もるような人間だった。そんなニーチェがワーグナーに夢中になるということは、非常に俺ら的なのである。ワーグナーなどのクラシック音楽の世界は、俺らに縁がないように思える。けれども、ネットもテレビもなかった頃、つまり複製芸術が普及する以前、生で触れる音楽や演劇は結構ポピュラーな娯楽だった(もちろんそれなりに時間のある人に限られたが)。ニーチェは、俺らが映画やアニメに夢中になるように、ワーグナーに夢中になった。
そんなニーチェは、自分の専門である古典文献学を活かしてワーグナーを応援したい、という痛々しい計画を思いつく。「古典文献学」というと聞き慣れないだろうけれども、要は歴史学であり、ニーチェの専門は古代ギリシャであった。
しかし、資料を読み込んだり発掘したりして、客観的な事実を追求する歴史学(ニーチェの同時代にあのシュリーマンがトロイアを発掘している)と、虚構の世界を作り出すワーグナーとでは、根本的に住む世界が違う。考証のようなものもできない。ニーチェの専門は古代ギリシャだが、ワーグナーの作品群はゲルマンやケルトの神話や伝説に範を取っているからである。
そこでニーチェは、大学時代に読み込んでおりワーグナーとの共通の話題でもあったショーペンハウアーの哲学用語を使って、ギリシャ悲劇とワーグナーの創作活動とを架橋する「設定」を練り上げ、歴史学は、客観的事実ではなく、超歴史的な神話を蘇らせることに、その使命がある、と豪語するに至ったのである(なんという中二病!)。
その「設定」とは、俺らが生きている此岸の世界は、彼岸の世界で苦悩する神的存在の思い描く夢であって、俺らが芸術に触れるとき感じる崇高なオーラは、彼岸の世界の神的存在に由来する…だから、古代と現代とかそういう相対的な差異は本質的な障壁にならない…と大体こういった感じのものである。
こうしたニーチェの企みは、三つの方面において失敗している。
まず、ニーチェは、ショーペンハウアーを理解していなかった。当然である。ショーペンハウアーを理解するには、かなりの程度でカント哲学を理解していなければならない。しかし、ニーチェの専門は、あくまで歴史学であり、哲学はずぶの素人である。そもそも、数学がダメな時点で、哲学むきではない。ニーチェがロゴスを批判したのは、ロゴスの本質を知っていたからではなく、ロゴスが苦手だったからではないかという疑いすら生ずる。
また、ニーチェは、歴史学の業界での信用を決定的に失う。ニーチェは若くしてバーゼル大学の教授になったので優秀な古典文献学者だったとみなすむきもあるが、この就職はコネによるものであり、ニーチェは大学に就職するための論文すら書いていない。それぐらいコネが大事な世界で信用を失うことは致命的である。ニーチェの時代の歴史学は、実証的な学問研究として自らを律し始めていた。そんな折に、神話など超歴史的なものを追求することこそが歴史学の役割だ、など言い出すヤツはトンデモもいいところである。学界側は、特別ニーチェに冷たくしたのではなく、当然の対処をしたまでなのである。
しかし、最も致命的だったのは、ニーチェがワーグナーを理解していなかったことである。
なにしろニーチェは、俺らである。あまりにワーグナーに入れ込みすぎて、ワーグナーを信奉してしまっていた。ある作品よりもそのファンがウザかったりその作品の信者が痛かったり、ということはよくある。ニーチェは、ワーグナーの創作活動に神話的役割を期待した…大まじめにである。その入れ込み具合は、
生存と世界とは、美的現象としてのみ永遠に是認される。
Nur als aesthetisches Phänomen ist das Dasein und die Welt ewig gerechtfertigt.『悲劇の誕生』第5章
という仰々しい命題によく表れている。
しかし、ワーグナーの方はプロである。たしかにワーグナーもドイツ神話の創造を口にしないではなかった。しかし、現実と上手く折り合いを付けながら、なによりもまず、エンターテイメントとしての音楽を着実に提供していくことを自らの仕事としていた。ワーグナーも、自分の創作活動に真剣だっただろうが、ニーチェが自分に投影するような夢物語にマジで取り組む気は最初からない。だから、権力者にも大衆にも、柔軟に接し、彼らの生活に余興を提供していた。
これに気付いたとき、ニーチェははじめ、ワーグナーに裏切られた、と感じた。それはくしくも、ワーグナーのライフワーク、『ニーベルングの指環』がバイロイト祝祭劇場で初めて上演されたときだった。しかし、ワーグナーにしてみればいい迷惑である。ワーグナーは、ニーチェが自分を応援したせいで学界から黙殺されたことを憐れみ、ニーチェを擁護する論評を発表したりしている。それだけでももらい事故なのに、勝手に幻滅されるのではたまったものではない。
しかし、しばらくするとニーチェも落ち着きを取り戻す。そして、たいそうな「設定」が尾ひれとしてくっついているだけで、日々の忙しさを忘れ慰めをもらうため娯楽作品にあずかっているという点では、ワーグナーが商売相手にしている人たちと自分とは何ら変わらない、ということに気付く…自分は「俺ら」だった、と。もっといえば、自分自身がみっともないがゆえに娯楽作品を求め、娯楽作品は単なる娯楽作品だと開き直れないがゆえに、アポロだ、ディオニュソスだ、神話だという形而上学的な理論武装に走ってしまった、ということに気付く。
後になってニーチェが「神は死んだ」と述べるとき、その言葉はなによりも、若い頃の自分に対して言い渡されていたのである。同時代の世相や弱者のメンタリティに向けられる辛辣なニーチェの批判は、ニーチェ自身の体験から生ずるものなのであり、ニーチェが俺らだったからこそ、ショーペンハウアーやワーグナーの影響を脱し、自らの哲学を構築し始めることができたのである。
ニーチェ(37歳)がルー・ザロメ(21歳)に会ったのは、永劫回帰を着想して間もない1882年の4月の下旬、ローマのサン・ピエトロ大寺院でのことだった。
ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』を著したさい一緒に合宿した友人のパウル・レーに、すてきな女性を紹介したい、といってローマに呼び出された。既にレーとルーは顔見知りで、レーはルーをあちこち連れ回したいと画策していた。しかし、未婚の若い娘が身元もはっきりしない男と一緒に出歩くのもアレなので、かつてはバーゼル大学で教鞭を執り若者の指導に当たっていたニーチェを利用すれば、ルーを連れ出す言い訳も立つ、とレーは考えたのである(レーは、この計画を「三位一体」と呼んだ)。そんなことも知らずノコノコと出掛けていったニーチェは、たちまちルーに惚れ込んでしまう。
こんなふうに書くと、レーはズルい男に見えるが、男と女、惚れた腫れたの話なら、これくらいの駆け引きはあってもいい(んじゃない?)。そもそも、レーからすると、友人に自分の恋愛の手助けをしてもらおうとしただけの話であって、ニーチェがルーに惚れてしまうのは、誤算でしかなかった。
にしても、ニーチェは、ルーのどこに惚れたのか。
聞くだけ野暮ってものだが、少し参考になるのが、レーからの呼び出しを受けた頃、ニーチェが親友のフランツ・オーヴァーベックに宛てた手紙だ。そこでニーチェは、タイプライターの調子が悪い、自分と一緒に仕事ができるくらい十分に知的で教育された若い人を身近に置きたい、この仕事のために2年間の結婚生活に入ることさえあるかも知れない、と書いている。おそらく、ニーチェは、レーの手紙に書かれていた「すてきな女性」を、着想したばかりの永劫回帰を形にするための、新たな助手にしたいと考えていたのである(ペーター・ガスト「え?オレは?」)。当時、知的な分野で仕事をしている男性が、ルーチンワークなどをこなす女性の助手を妻として迎えるということは珍しくなかった(いまだと妻の方が有名だけど、キュリー夫妻とか…)。しかし、ニーチェにしてみると、新しい仕事のための助手というのは、ただの助手というわけでもなかったようである。というのも、ニーチェは、永劫回帰思想を共有できるような助手を求めていたと思われるからである。実際、『ツァラトゥストラ』の草案の中には、「パーナ」という名前の、ツァラトゥストラの最も愛する女性の弟子が登場するバージョンもある(パーナというのは、ディオニュソスの従者パーンを女性名にしたもの)。ルーに期待をかけるニーチェの気持ちは、次のような『ツァラトゥストラ』の一節に現れていると言えるだろう。
私には、生きた道づれが必要だ。
自分自身に従おうとするがゆえに私に従い──私の求めるところへとむかう道づれが。
Lebendige Gefährten brauche ich,
die mir folgen, weil sie sich selber folgen wollen — und dorthin, wo ich will.──『ツァラトゥストラ』序説9
そんなわけだから、ニーチェは、必死でルーに求婚した(ただしエリーザベトはそんな事実はないと否定している)。しかし、間髪入れず、答えはノー。当時のルーに結婚する気はさらさらなかった。ルーが求めていたものは自由な人生と新しい知識だった(のちにルーも結婚するのだが…)。
ここで諦めておけばいいのだが、スパルタの全寮制ギムナジウム出身で、大学時代も一時期を除いてゴリゴリの古典研究一筋だったニーチェには、とても空気が読めない。新しい知識を求めているルーとレーの脇にくっついていればいつか振り向いてくれるのではないか、と淡い期待を抱いてしまう。というよりもむしろ勘違いをしてしまう。そこで、ニーチェは、パリやウィーンといった大学都市で3人一緒に一つ屋根の下で学究生活を送ろう、と提案する。ルーにはニーチェの下心が見え見えだったようだが、これを断りはしなかった。
5月には、ニーチェ、レー、ルー、そしてルーの母の4人で、スイスの都市ルツェルンへと旅行する。このとき、荷台に乗ったルーが荷車を引く二人の男を鞭で打つ、というモチーフの有名な写真が撮られる。このへんてこな──当時としては悪趣味な──写真を思い付いたのはニーチェ自身だった(そして、この写真こそが、ニーチェとルーの間の微妙な関係にエリーザベトが怒り狂う引き金となる)。
3人の共同学究生活の始まりが秋からと決まると、夏の間の身の振りが問題となった。そんなおり、ルーは、ローマで世話になっていたマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークから、7月末に催される『パルジファル』の初演を聴くためバイロイトに行くよう勧められ、バイロイト行きを決めた。こうしたルーのバイロイト行きに付き添ったのが、エリーザベトであった。これがニーチェの意志なのか、エリーザベトの意志なのか、あまりはっきりしない。ただ、エリーザベトは、ニーチェの新しい助手になってくれるかも知れない若い女性に興味を持っていたし、『パルジファル』を聴きたいと思っていた。
ルーとエリーザベト。のちに不倶戴天の敵となる二人だったが、バイロイトに向かう旅路での心象はさほど悪くはなかった。事情が悪化するのは、バイロイトに着いてからである。まだ結婚適齢期であったルーは、バイロイトの男たちからチヤホヤされたし、そのうえワーグナーやコジマからも歓迎された。その一方で、エリーザベトは、ワーグナーに逆らったフリードリヒの妹として肩身の狭い思いをしていた。そんななか、ルーは、ルツェルンで撮られた例の荷車の写真をバイロイトの人たちに見せびらかしていたのである。荷車の写真は、当時の紳士淑女がらすると、メチャクチャ恥ずかしい写真であり、それを見せて回られるというのは、SNSに載せてしまったバカな写真を拡散されるようなものである。エリーザベトは、兄の反逆ののちもバイロイトの人たちと良い関係でいたいと思っていたが、それでも、ニーチェ>>越えられない壁>>バイロイト、という構図は固いものだった。そのため、ルーのこうした振る舞いは許せなかった。にもかかわらず、怒りを抑えていたエリーザベトに追い打ちをかけたのは、ニーチェがルーと一つ屋根の下で暮らそうと目論んでいるということを今さらルーの口から聞かされた、ということである。ニーチェは、母と妹にこの同棲の計画を黙っていた。古き良き礼節を重んずる母と妹がこの計画を恥じて反対することは火を見るよりも明らかだったからである。ショックを受けたエリーザベトは、平静を装いながら、ルーを残してバイロイトをあとにした。
8月、エリーザベトからバイロイトでのルーの振る舞いを聞いたニーチェは、いささか困惑させられた。しかし、のちのち落ち合うことにはなっていたので、イェーナ市(チューリンゲン州)にいるルーのもとへエリーザベトを迎えにやった。二人のキャットファイトはまさにこのイェーナで闘われた。
エリーザベトは、説教する。若い未婚の女性ならばもっとレディらしくにふるまうように、と。しかし、ルーにとって、そんな古くさいお説教は聴くに値しないものだった。ここに2人のメンタリティの違いがよく表れている。ルーは、知識を求めてロシアから西ヨーロッパにやってきて、スイス、イタリアなどを、自由闊達に飛び回る女性である。これに対して、エリーザベトは、保守的な地方都市の礼節を重んずる牧師の娘であり、最終学歴もドレスデンの花嫁学校である(ニーチェはこれを「ナウムブルクの美徳」と呼んでいる)。エリーザベトも、オールドミスに甘んじているところや、のちのち、植民地経営のために冒険の日々を送ったり、ニーチェ・アルヒーフ設立のため辣腕を振るったりとするところからして、決して地方都市の淑女という器に収まらないのはたしかである。それでも、こんにちなお古典となっているニーチェ解説書『作品におけるニーチェ』を書いたり、20世紀でも眉をひそめられた精神分析にいち早く関心を寄せたりするルーと比べれば、レベル差がありすぎる。二人の話は噛み合わなかった。しかし、ルーのような破廉恥女に言い寄られると、ニーチェの名誉が傷つく、とエリーザベトが罵ると、さすがのルーも許せなかったと見える。自分はニーチェという男に対してはなんの恋愛感情も抱いてないのに、学問的関心を口にしながらも淫らな下心を抱いて自分に近寄ってくる男こそエリーザベトの兄フリードリヒ・ニーチェその人だ、とルーは言い切った。
ルーのこの言葉は、エリーザベトにとって致命的だった。エリーザベトは口げんかは得意な方なのだが、ルーの自由な精神から発せられるルール無用の礼節を欠いた言葉とやり合うすべを知らなかった。そして、なにより痛手となったのが、エリーザベトの抱く兄への尊敬が根拠のない独りよがりだったということを思い知らされたことである。エリーザベトは別にブラコンではない! しかし、名門校プフォルタ学院に学費免除で通って卒業し、弱冠24歳で──しかも教授資格論文はおろか博士論文も免除で──バーゼル大学の教授に就任したニーチェは、エリーザベトと家族にとって誇りだった(実際のところ、バーゼル大学の教授就任は、コネによるもので、教授資格論文・博士論文免除の理由ともなった懸賞論文の受賞も、出来レースでありニーチェの実力ではない)。そうしたニーチェ一家の誇りであるフリードリヒが、女性から言い寄られることはあっても、性道徳を欠いた女性に自ら言い寄っていくなどありえないはずであり、バイロイトで笑いものにされるなど許せないことだった。少なくとも、エリーザベトの脳内設定において、ニーチェは、もっと評価されるべき天才のはずだった。しかし、エリーザベトと家族の誇りなど、ニーチェの地元を一歩出ればどうでもいいことであり、ロシアの地からやってきたルーにとってはなおさらである。ニーチェには興味がない、というルーの態度は、まさにエリーザベトの偶像を打ち砕いた。アラフォーの未婚女性のささやかな誇りを粉々にした。結局のところ、エリーザベトを怒らせたのは、ルーが兄に近付いたことではない。そうではなく、ルーがニーチェのことを凡庸な男性と見なし、なんらの好意も敬意も抱かなかったことこそがエリーザベトの逆鱗に触れたのである。
その後、イェーナにほど近い避暑地で、ニーチェ、ルー、エリーザベトが合流する。ルーと再会して内心ウキウキのニーチェだったが、バイロイトでのルーの振る舞いをたしなめてしまう! というのも、著作の中でこそラディカルに道徳を批判するニーチェだったが、私生活においては、折り目正しくふるまってしまうチキンだからである。このことは、ニーチェに対するルーの不信を強めた。それはニーチェの言ってることとやってることが違うからではない。ニーチェがルーを「たしなめた」からである。たしかに、ルーは、ニーチェに自分の学究生活のサポートをしてもらってはいた。しかし、それでも、ルーに言わせれば、自分はニーチェの弟子でも助手でも婚約者でもないのである。一体どういうつもりで、たしなめたりするというのか。ニーチェは、永劫回帰思想を共有できる新しい道づれを探していた。そして、まさにそれを得んとしている、と思っていた。しかし、そもそものはじめから突っぱねられていたのである。ニーチェはそんなことも分かっていなかった。兄妹そろって独りよがっていたのである。8月の終わり、ルーはひとまずニーチェのもとを離れる。
ニーチェ、レー、ルーの三人が再び合流したのは、10月初めのライプツィヒだった。ニーチェとルーの間にはかなりの距離ができていたのに対し、レーとルーの距離は縮まっていた。そして、ニーチェは愚かにも、レーの悪口を言ってルーとの関係を回復しようとした。ルーは当然ドン引きである。11月の初め、ニーチェは、レー、ルーと別れる。その後、再会することはなかった。12月の終わりに、ニーチェは、2人に宛てて、自殺をほのめかす手紙を書く。当然、2人の──特にルーの?──気を引きたいからであろう(その後、レーとルーは、しばらくベルリンで暮らすが、結局ルーはレーも突っぱねる)。
このようにして、ニーチェの新しい道づれを探す恋は終わる。12月の中頃ルーに宛てて用意していた手紙の草稿で2人が会った頃を回想し、自分の哲学のすべて(すなわち永劫回帰思想)をルーに教えてあげようと心に決めていた、とニーチェは記している。なんとも痛々しい哲学の押し売りだが、永劫回帰思想は、道づれと共有するのではなく、自分自身で体現しなければならないものである、とニーチェが考えるようになったのは、この失恋がきっかけだったのかも知れない。弟子たちのもとを離れたツァラトゥストラは次のように語っている。
かつて、創造者は、道づれと自らの希望の子どもたちを探した。
すると見よ、そうした道づれは、まず自ら創造しなければ見出せないということが分かった。
Gefährten suchte einst der Schaffende und Kinder seiner Hoffnung:
und siehe, es fand sich,
dass er sie nicht finden könne, es sei denn, er schaffe sie selber erst.──『ツァラトゥストラ』「来ては困る幸福」
「私には、生きた道づれが必要だ」と語られていた『ツァラトゥストラ』第1部は、こうした失恋のあとに完成している。つまり、道づれを探し、やがて弟子のもとを離れ、自ら永劫回帰を実現しようとする、という『ツァラトゥストラ』の物語は、1882年の痛ましい失恋の体験を肥やしにして書き上げられている。…だが、そんな涙の労作『ツァラトゥストラ』も、しばらくは出版社の倉庫に眠ったままであった。
汝、ツァラトゥストラよ。今なお深淵を愛さんや? モミの木のごとく。
— Aber du, Zarathustra,
liebst den Abgrund noch,
thust der Tanne es gleich? —
ロマン主義の残光と勃興する実証主義とのせめぎあいのなか、ニーチェは、人間における真実の存在を探求した。ニーチェは、その時代の例外者であり、単独者であり、やがてアンチクリストを自認するようになる。例外者とは普遍性に包摂されない人間で、それは「外(ex)」に「立っている(sistere)」者であり、世界の内に投げ入れられつつ自らを投企する者である。つまり、例外者は、あらゆる普遍性を個別的に突き破る者なのである。
…こうしたニーチェ解釈は、実存主義が隆盛を誇った頃になされたニーチェの注解に見出される。たしかに、ニーチェは、人間の精神を呪縛する宗教や芸術、そしてなにより道徳を強く批判していた。こうしたところが、自己の存在を起点に物事を考えていこうとする実存主義には魅力に思えたのかも知れない。しかし、ニーチェは、人間が自らの意志により自己決定することなどとうていできない、ということにも自覚的だったのであり、こうした点において、ニーチェの思想は、実存主義と相容れない性格を持っている。実存主義への批判となったフランスのポストモダンによってニーチェが再発見されたのも、単なる思想の潮流ではなく、思想の内容からして、当然の成り行きだったと言えるだろう。
ポストモダンによるニーチェの再発見が、20世紀初頭の思想運動(ドイツ青年運動、保守革命、ナチズム、実存主義など)によって覆い隠されていたニーチェの洞察を引き出したのはたしかである。しかしながら、ニーチェは、マルクスやキルケゴールと同じく、19世紀の思想家である。ニーチェは、世界大戦を知らなかった。ニーチェが批判している民主主義も、こんにちよりずっと封建的な民主主義だった。それどころか、民主主義を敷いている国はヨーロッパでも非常に少なかった。中央集権国家は生まれつつあったときであり、都市や大学が強い政治力を持っていた。キリスト教への懐疑はだれの目にも明らかだったけれども、一応キリスト者としてふるまうのが社会常識だった。こうした時代において構想されたニーチェの思想に、こんにち私たちが感じている大衆社会の問題、技術文明の問題、民主主義の問題などを恣意的に投影するということは、再びニーチェの思想を覆い隠すことになりかねない。つまり何が言いたいかというと、19世紀のヨーロッパをちゃんとイメージしないと、ニーチェが何を言ってるのかマジで分かんなくなる、ということである。
1872年、ニーチェは、『悲劇の誕生』を世に出した。それは、古典文献学の書を装いながら、芸術における新しい人間救済の理想をかかげる試みであった。ニーチェによれば、私たちの日常における安寧はかりそめのものであり、自然の内なる野蛮な力によって、いつ引き裂かれるかも分からないほどもろいものだとされる。ニーチェは、自然の内なる野蛮な力と、そうした野蛮を押さえ込む知性の力とを、古典文献学の伝統から拝借した名前でもって、「ディオニュソス」と「アポロ」と名付けた。このように、自然の力の「ディオニュソス」と古代ギリシャ文化の「アポロ」という二つの原理を立て、両者の対立が芸術作品を産出するとして、ニーチェは、古代ギリシアの芸術史を形而上学的に説明した。そして、ディオニュソスという野蛮な力がアポロを引き裂いてしまう様子を作品として形作ったものこそが、古代ギリシャ人最高の芸術作品、ギリシャ悲劇であるとした。こうしたディオニュソスの破壊の力は、むきだしのまま発露してしまうと、生命体そのものをも破壊してしまうが、アポロの力によって悲劇として結晶化することにより、日常における「我れ彼れ」の区別がかりそめであることを開示し、人間と人間と、そして人間と自然との和解を作り出すとされる。
補足はこれくらいにしておきたい。ニーチェによれば、最高の芸術作品にして最高の救済手段であったギリシャ悲劇を滅ぼしたものは、知性を重んずる「ソクラテス主義」だったとされる。さらに、ニーチェは、古典ギリシャからのヨーロッパの転落を、ソクラテス主義の侵食として描き、当時のヨーロッパ、とりわけドイツの教養主義や古典文献学をこうしたソクラテス主義として批判した。こうしたソクラテス主義からの脱出路として、ニーチェは、古典文献学による神話の再生を唱え、神話という基礎のもと、ギリシャ悲劇の再生であるワーグナーの音楽によって、ただの戦争による統一ではなく、真の意味で新しいドイツ民族の統一が成し遂げられる、とした。
出版当時、大変不評だったこの作品だが、現在、古典ギリシャのことも、演劇のことも、音楽のことも、ワーグナーのことも知らないただの読書家たちから芸術論上の不朽の名作と呼ばれている。しかし、1886年に再版された『悲劇の誕生』第二版において、ニーチェは、かつてみずからが著した『悲劇の誕生』を厳しく批判している。
『悲劇の誕生』は、──とりわけその終盤部分は──ニーチェにしては珍しく、ナショナリズムの傾向が強く、これは、20世紀の保守革命の思想と多くの共通点を持つ。20世紀初頭において、『ツァラトゥストラ』に劣らず『悲劇の誕生』が読まれたのも、こうした事情がある。しかし、こうした性格を持つ著作だからこそ、後々のニーチェは、これを黒歴史扱いしていると言える。
『悲劇の誕生』の試みで辛酸をなめたニーチェは、その失敗を振り返ってみる。
『悲劇の誕生』の狙いとはなんだったか。それは、ワーグナーの理想をサポートすること。つまり、芸術による人間の救済という理想のサポートである。同じ目標に向かっているつもりだったのに、なぜニーチェとワーグナーはすれ違ったのか。ニーチェが高潔でワーグナーが俗物だったからではない。2人の間には、まさに父と子との間といえるジェネレーションギャップがある(くしくも、ニーチェの父カールは、ワーグナーと同い年である)。ワーグナーの世代には、1848年の3月革命の経験がある。ワーグナーは、プロイセン軍への抵抗に参加して指名手配されているし、マイゼンブークは、女性のための大学改革に参加している。ちなみに、ゴリゴリの保守であるニーチェの父は、国王の忠実なしもべたるべき臣民の反逆にブチ切れていた。
この革命は、言わずもがな、挫折に終わる。当時3歳だったニーチェには、こうした時代の動きが理解できない。だから、世の中を動かすということがどんなに困難であるかをワーグナーの世代が肌身をもって知っているのに対して、ニーチェの世代にはまったく実感がない。芸術についても、ワーグナーには、三月以降(Nachmärz)の現実的な見方があったのに対して、ニーチェは、まったく歴史的現実が見えていなかった。民族の統一という役割を担う神話的な芸術は、もはや過去のものとなりつつあった。ニーチェは、やっとこのことに気付く。こうした時代状況を、ニーチェは、日が沈んだあとになって燃え上がる夕焼けに喩えている。ニーチェが『悲劇の誕生』で捉えていたのは、芸術の残光でしかなかった。そして、この芸術の残光にあれこれと理屈が付けられていたに過ぎなかった。
しかし、ここからが歴史を専門とするニーチェの腕の見せ所である。現代の芸術が夕焼け空だとするなら、陽が高かった頃の芸術はどんなだったか。太古の芸術はどんなものか。ニーチェは、時計の針をもどす。太古の芸術は、もちろんエンターテイメントではない。その意味で『悲劇の誕生』の認識は、あながち間違っていないのである。つまり、民族共同体を統一する神話の役割こそ、太古の芸術の役割にほかならない。芸術家は民族の教師であり、芸術作品は教育のための媒体であった。例えば、ホメロスが古代ギリシャの勇敢な戦士の振る舞いを教えていたように。ダビデの詩篇がイスラエルの民に神を畏れる心を教えていたように。このように、民族共同体のアイデンティティを形作りキープしていくのが太古の芸術の機能だった、とニーチェは分析する。
では、ホメロスやダビデの詩篇が、──その他、太古の芸術が──それぞれの民族に教えているものは何か。それは、それぞれの民族共同体における美徳つまり道徳を教えているのである。太古の芸術のもとにおいて、vox populi, vox Dei(民の声は神の声)ということわざが現実のものとなっている、とニーチェは言う。民族の伝統となっている道徳が、芸術を通して語り直されると、あたかも神の声のように響くけれども、その内実は民族が堅持してきた美徳なのである。芸術という太陽が地平線の下に沈んだあと、赤く燃える夕焼けだけを見ていると、芸術の道徳的な機能に気付くことはできない。19世紀においては、民族のアイデンティティを教え込むという芸術における機能が──とりわけその道徳的基盤が──忘却されているのである。
3月革命に連なるヨーロッパの啓蒙的な運動は、信仰への懐疑を作り出し、道徳を動揺させる。こうしたなか、道徳的な機能を失いながらも、かすかに神秘的な雰囲気を残している芸術に、人々はなんともいえない魔力を感じて引きつけられる。ニーチェもまたそんな1人だった。
芸術の起源は看破される。それは、芸術というものを、歴史的なプロセスの中に置き、忘却という人間の心理に照らし合わせることによって、はじめて明らかになる。『悲劇の誕生』と『反時代的考察』において、「超歴史的なもの」とみなされていた芸術は、歴史の中に置き直される。
では、芸術の起源が明らかになったいま、何がなされるべきか。現代の芸術に再び道徳的な機能を取り戻すべきか。それは時代が許してくれない。そんなことをしても『悲劇の誕生』の轍を踏むだけである。いまは芸術という時計の針を進めるときである。それは、幾千年という歴史を経たいま、芸術が私たちに与えてくれた認識、すなわち「どんなものであっても、生きるということ、それはいいものだ」という認識をブラッシュアップすることである。このことによって、芸術は捨てられ、学問的な認識に取って替わられる。
ただし、新しい認識をブラッシュアップするうえで最大の敵がいまなお残る。それこそが道徳である。
強いこと=よい(gut)v.s. 弱いこと=わるい(schlecht)
という対立図式を尺度にして、ニーチェがキリスト教道徳や市民社会を批判した、というものである。こうしたニーチェ解釈によれば、キリスト教道徳は、弱さに対して、謹み、優しさ、義しさ、愛といった美徳の名を与えて、生命の根底にある力を求めてやまない欲求を弱体化させた、とされる。そして、こうしたキリスト教道徳によって抑圧されていた欲求すなわち力への意志を解き放つことこそが、ニーチェの新しい理想だと解釈される。そして、この新しい理想にかなった人間像こそ、金髪の野獣であり、自由精神であり、超人なのだ、と。
しかし、ニーチェの道徳批判についてのこうした解釈は、色々と辻褄が合わない。
そもそも、キリスト教道徳は、どのように作り出されるのか。そこにはまず、強者が強者であり、弱者が弱者である、という前提がある。こうした状況下で、強者は自らの強さを満喫している一方で、弱者は強者に嫉妬心を抱く。これが、かの有名なルサンチマン(ressentiment)である。しかし、なぜ弱者は、ルサンチマンを抱くのか。それは、弱者が強くなりたい、と思っているからである。つまり、弱者は、強者に劣らず、いや強者以上に、力への意志を抱いているのである。こうした力への意志は、強くなりたいという欲求を満たすため、新しい道徳を作り出す。例えば、慎み深く暴力に手向かうことがないということこそが本当の強さだ、という価値を創造することによって。こうすることによって、抑圧された力への意志は、強さを求める欲求を満たす。
ようするに、キリスト教道徳は、力への意志が自らの欲求を満たすために創造したものであり、もともとは力への意志を抑圧するものではないのである。力への意志を抑圧するものとしてキリスト教道徳を批判する論法は、キリスト教道徳についてのニーチェの分析と噛み合っていない。
さらに問題なのが、道徳批判を完遂するためにキリスト教道徳は有効である、とニーチェがみなしているという事実である。場合によっては、キリスト教道徳がニーチェの心強い味方となる状況もあるのだ。
もちろん、ニーチェは、キリスト教道徳を厳しく攻撃している。このことは、紛れもない事実である。しかし、このことから、ニーチェの道徳批判、すなわち、キリスト教道徳批判、と結論付けることはできない。キリスト教道徳は、ニーチェのターゲットの一つに過ぎない。ニーチェが批判しているのは、道徳の全体である。
ニーチェは、──キリスト教道徳だけでなく──一切の道徳を批判する。しかし、なぜニーチェは道徳を批判するのか。それは、力への意志を弱体化させるからではない。道徳は、力への意志のツールに過ぎず、力への意志が自ら欲求を満たすために道徳を作り出しているのである。
道徳が批判されるのは、それが──力への意志が作り出した──ウソだからである。キリスト教道徳の例にもあるように、力への意志は、自分が強いと信じ込むために、ウソの価値を作り出す。そして、人間は、こうしたウソの価値を尺度にして物を見るようになる。こうした価値は、時代を経ていくうちに疑われなくなり、人間の精神をすっかり支配するようになる。人間は、どんなふうに生きようか、なんのために生きていこうか、と考えるとき、知らず知らずのうちに道徳のコントロールのもとで考えざるを得なくなるのである。
こうした道徳によるマインド・コントロールこそ、「どんなものであれ、生きること、それはいいものだ」という芸術によって与えられた認識の最大の妨げになる。しかし、道徳というものは、「こうした生き方はいいものだ」・「こうした生き方はよくないものだ」という物の見方を人間に押しつける。というよりも、人間が自らそうした物の見方を積極的に身に付ける。なぜなら、道徳的な物の見方を身に付けようとしないということは、「よくないこと」だからである。つまり、道徳が幅を利かせているかぎり、生きることそのもののよさ、という認識は排除されてしまうことになる。──だから、キリスト教道徳にかぎらず、一切の道徳が批判されねばならない。道徳というものは、生きることそのもののよさをウソの価値で覆い隠してしまうからである。
しかし、ここで大きな矛盾が生じてくる。道徳による強力なマインド・コントロールのもとに置かれている人間が、どうやって道徳を批判するというのか。
ニーチェによれば、長い道徳の歴史を通じて、こうした矛盾を解消するきっかけを与えてくれたものこそ、キリスト教なのだという。キリスト教は、単なるルサンチマンの産物に尽きない。イスラエルの民の道徳を徹底的に守り抜こうとするあまり、道徳を守り抜くことはできないのではないか、という疑いを抱くことから、キリスト教は生じてきた。こうした性格を持つキリスト教は、道徳の価値を素朴に信じる精神のうちに、道徳に対する懐疑を植え付ける。道徳を順守してるつもりだったけど、オレって罪人なんじゃね…という罪の意識を作り出すことによって。キリスト教自体は、一つの道徳として、つまりキリスト教道徳として定着してしまう。けれども、キリスト教が産み出した道徳に対する懐疑は、本当に道徳は実現可能なのか、という本当さを問いかける意志、すなわち、真理への意志に結実する。ここにおいて、ウソの価値を作り上げることを本質とする道徳が、真理という価値を追究するようになる。道徳が道徳自身にとって最も命取りな価値である真理を追究したとき、遂に道徳は人間に対する支配力を失うことになる。ニーチェは、こうした事態に触れ、「神が神を殺した。道徳は道徳性によって死んだ」と述べている。
神の死は、無神論を宣言することなどではない。そうではなく、道徳の歴史を引き継いできた人類が、自らの支配者であった道徳を打ち倒してしまったことを意味する(だから、「神は死んだ」と告知したとき、既にだれも神のことを信じてはいないのである)。それゆえに、かつて、道徳が人間を支配していた時代、神は生きていたのであり、人間を支配していたのである。
人間を支配する道徳の力から精神が自由になったときこそ、「生きるということはいいものだ」という芸術の認識を確かなものとするときである。しかし、そうした認識を確かなものとするにはどうすればいいのか。言い換えるならば、生きることを肯定するとはどういうことか。こうした問題に答えるために着想されるのが、永劫回帰思想である。
::::::::: ┌────────────────────┐
:::::::: │ キリスト教道徳がやられたようだな… │
::::: ┌───── └───────────v────┬───┘
::::: │ 奴はヨーロッパの道徳の中で最弱 … │
┌──── └────────v ───┬─────────┘
│ 真理に忠実であろうとするなど │
│ 道徳の面汚しよ │
└────v─────────────┘
|ミ, / `ヽ /! ,.──、
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |!
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='|
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ナショナリズム 民主主義 歴史主義
ニーチェの後期思想の主題は『ツァラトゥストラ』に見られる永劫回帰思想である。永劫回帰思想こそ、「生きることはいいものだ」という認識を裏書きして生を肯定するとはどういうことか、という問題に対する答えである。
永劫回帰思想によれば、宇宙は永遠に繰り返す円環運動であり、各人の人生もまた永遠に繰り返す円環運動である。世界は、喜びだけではなく、苦しみにも満ちあふれており、この苦悩が永遠に生死の反復を繰り返す(これを敢えて実存主義的な表現に置き換えれば、永遠に転がり落ちる巨大な岩を山頂に持ち上げ続けるシーシュポスに喩えられる)。世界と生とが反復する円環でないならば、苦しみは、なにか新しいもののための苦しみとなり、意味のある苦しみとなるだろう。しかし、世界は永遠に回帰するのであり、そこに新しいものはなにもない。世界と生とは、より良くなることもなければ、より悪くなることもなく、これまで生きてきたとおり、永遠に同一である。
こうした永遠の円環をなす時間の中に自らの人生を置きながら、「これが生きるということだったのか?よし、もう一度!」と言うことこそが、生の肯定であり、より良いなにか、より新しいなにか、少なくともより違ったなにかを求めるような者は、どれほど自分の人生に満足しているかのように見えていたとしても、自らの生きてきた生を肯定してはいない。生きるということを肯定するということが、一体どれほど苛酷な条件のもとで「然り」を言うことであるのか、という問題を定式化したものこそ、永劫回帰思想なのである。
ナチに積極的に参加し自らもナチであったハイデガーと違い、ニーチェにはナチに協力したことはない。そもそもナチが活動していた時期に既にニーチェは死去している。なにしろ、ニーチェは、ナショナリズムとポピュリズムを否定しているので、もともとナチズムとの相性はよくない。実際、ナチの理論家エルンスト・クリークなどは、ニーチェのドイツ嫌い、反々ユダヤ主義などからして、ニーチェをナチズムのイデオローグに仕立てるのは無理だと判断していた。ただし、ニーチェの思想がナチズムでなかったにせよ、民主主義を否定していることは疑いない。
ともあれ、思想の内容と影響は別である。ニーチェの思想は、ナチズムに影響を与えている。
まず、ニーチェの妹エリーザベトの果たした役割が大きい。第一次大戦におけるドイツの敗戦は、愛国者であったエリーザベトをひどく失望させ、SPD(ドイツ社会民主党)による赤化に対して大きな恐怖を抱かせた。エリーザベトは、兄とはちがって社交的で商才もあった。実際、ニーチェの著作を管理し、遺稿の編纂をするための財団を築いて、エリーザベトは大きな財をなしていた。ところが、ベルサイユ体制下でのマルクの大暴落によって、エリーザベトは多くの財産を失うことになる。これに追い打ちをかけつつあったのが、迫り来るニーチェの著作権切れであった。当時のヨーロッパでの著作権は、著者の死後30年までしか保護されなかった。つまり、1930年でもって、ニーチェの遺族であるエリーザベトは著作権にあずかることはできなくなるのだった。ゆっても、1930年といえば、エリーザベトは84歳なのだが…
このため、エリーザベトは、反ワイマール共和国的なドイツの保守勢力に助力を求めることにした。1926年、エリーザベトは、シュペングラーやファイヒンガーといった著名人の連署を得て、ヒンデンブルク大統領に援助を求めている。そのさい、エリーザベトは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が大戦に参加した兵士に携帯されていたこと、ニーチェの思想が戦争のための美徳を賞賛していることを強調した。ヒトラー政権成立の前年、エリーザベトは初めてヒトラーに会い、ヒトラーから大きな赤いバラの花束を贈られる。ただ、ヒトラーがヒンデンブルクと大統領選を争っていたりしたのもあり、エリーザベトが直ちにヒトラーと親密になることはなかった。しかし、1933年にヒトラー政権が誕生すると、エリーザベトは、公的にも私的にも、ヒトラーからの支援を受け、そしてまた、ヒトラー政権を賛美した(なお、88歳になったエリーザベトは、ヒトラーと2ショットで写真を撮っている)。また、エリーザベトのもとで働いていた従弟のR・エーラーは、ナチのレイシズムと優生思想がニーチェの思想と完全に一致するという解釈を示した。ニーチェは、ナチズムの思想的象徴として承認され、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、ヒトラーの『わが闘争』、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』とともに、タンネンベルク戦勝記念碑の中に安置された。1935年、エリーザベトが没すると、その葬儀にヒトラーも参列した。
ニーチェの妹のはたらきに劣らず重要なのが、20世紀初頭のドイツ青年運動を通じての影響である。
ドイツ青年運動の詳細に関しては、Wikipediaの英語版かドイツ語版を参照して欲しい「ワンダーフォーゲル」などのキーワードでググって欲しいが、基本的には、文明化された市民社会やキリスト教道徳への反抗から、自然の内なる生に立ち帰ろうという運動で、ハイキングやキャンプなどを楽しむ。こうした運動は、ただ野山を歩き回るだけでなく、ワーグナー、リルケ、ゲオルゲなどの作品世界を受容していった。そうしたなかで、市民社会やキリスト教道徳を批判し生そのものを寿いだニーチェのテクストはバイブルとなっていたらしい(少し昔のニーチェ解説書には、ニーチェが機械に支配されている大衆社会を批判したと説明されていることがあるが、こうした解釈は、おそらく青年運動と平行して生まれたものである。ニーチェは、大衆社会・ナショナリズムに批判的であるが、別に機械文明を批判してはいない)。
ドイツ青年運動そのものには、右翼も左翼もないと言えるのであるが、むしろ右翼と左翼が混在していた。こうした右左の混在から、後のナチズムに大きな影響を与える「保守革命」の思想が形成されていく。ユンガー、シュペングラー、ゲオルゲ、トーマス・マン、ヤスパース、ハイデガーなども保守革命の思想に影響を受けている。後にナチの国民啓蒙宣伝大臣となるゲッベルスがニーチェについての講義を受けたグンドルフも、ゲオルゲのサークルに属していた(ただし、グンドルフはユダヤ人だった)。ニーチェの遺稿編纂にかかわり超人思想と第三帝国は密接な関係にあると説いたE・ホルネッファーも、キリスト教に替えて、新しい神秘主義的な自然に基づく宗教が置かれるべきだと考えていた。
ニーチェについての研究書も著している哲学者のカール・レーヴィットは、「必要なのは出帆すること。生きることではないという標語」が「ニーチェからゲッベルスの英雄的物言いにまでつながっていることは否定できない」と述べている。
このように、ナチズムに対するニーチェの影響は、ロジカルなものというよりも、そのレトリックと雰囲気によるものが大きい。その意味で、ニーチェが存在しなくとも、ポーランド侵攻やアウシュビッツといった蛮行は行われていたと言える。しかし、断片的に引用されたニーチェの美辞麗句に触発された若者が、突撃隊なり親衛隊なりに入隊し、平和な市民的生活を送っていた者の命を奪うようなことがあったとしたら、そこにニーチェの影響がないと断言するのは難しいだろう。
ナチズムへのニーチェの影響において、思想史の上で最も重要なのは、ハイデガーへの影響である。
戦後、ハイデガーがある雑誌のインタビューに答えて語ったところによると、ナチス政権下で彼がニーチェを主題にした講義(ニーチェ講義)は、聴く人が聴けば、ナチズム批判になっているという。なるほど、ハイデガーが残した講義ノートをパッと見るかぎり、──哲学の歴史についての膨大なウンチクとともに──手厳しいニーチェ批判を見出すだけで、ナチス政権の話はおろか、政治権力の話題を見て取ることはできないかも知れない。しかし、ハイデガーのニーチェ講義は、ナチズムの批判を意図して書かれている。
ハイデガーのニーチェ講義によれば、ニーチェの言う「力への意志」の内には「生存圏」の確保が原理的に具わっている、という。「生存圏(Lebensraum)」という言葉は、中世以来のドイツ人による東欧侵略東方入植を正当化しようとする地理学・生物学を装ったジャルゴンであり、一次大戦においても二次大戦においても、ドイツの戦争目的を理論補強するために使われた言葉である。つまり、ハイデガーは、ポーランド侵攻に見られるようなドイツの侵略行為をニーチェの言う「力への意志」の内に見ている。
さらにまた、ニーチェ講義によれば、力への意志が意味するところは、もっと大きな力を得るための「勢力づけ(Ermächtigung)」だ、とも言われる。翻訳されてしまうと見通せなくなってしまうが、この Ermächtigung という言葉は、第三帝国の始まりとされる「全権委任法(Ermächtigungsgesetz)」という法律の名前に含まれるフレーズである。
ニーチェのキーワードをナチス政権の重要語句に引きつけて解釈していることから分かるように、ハイデガーは、ニーチェという哲学者を当時のナチス政権を代表するマスコット・キャラクターとして描いている。そして、ニーチェの哲学を形而上学の完成形として断罪することにより、当時のナチズムをもまた、哲学の歴史の根源的な視点から、批判しようとしていたのである。
ハイデガーの言う形而上学とは、「存在するものとは何か」と問うことであり、とりわけ「眼の前に存在するものとは何か」という問題意識に歴史的に囚われたままでいることを意味する(ポストモダンにおける形而上学批判はこうした用法を踏襲している)。存在するものが現れ出てくる存在の根源を問わず、眼の前に存在するものばかりを問題にし続けるということは、眼の前に存在しコントロール可能な支配の対象としてのみ存在するものを捉える誤りであり、ニーチェの説く力への意志において、こうした誤謬が極まっている、というのがハイデガーにおけるニーチェ批判である。そして、これはまた、当時のナチズムに対する批判でもあった。眼の前に存在するものばかりを問い続けることにより、人間は科学技術に駆り立てられるようになり、また眼の前に存在するものばかりに取り組む日常から抜け出せなくなり…自らの死を問うことがなくなり…うんたらかんたら…。 ニーチェ講義には、
ニーチェの形而上学の意味において、
無条件な《機械経済学》に適合するのは、ただ超人だけであり、
逆にまた、無条件な地球支配を設立するため、超人は《機械経済学》を必要とする。
Der unbedingten «machinalen Ökonomie» ist
im Sinne der Metaphysik Nietzsches nur der Über-mensch gemäß,
und umgekehrt: dieser bedarf jener zur Einrichtung der unbedingten Herrschaft über die Erde.
という超人解釈がある。ニーチェのどこをどう読めばこういう解釈が出てくるのかと首をかしげたくなるかも知れないが、こうした言い回しの背後にはナチズムのマスコット・キャラクターとしてニーチェを解釈するという試みがある。
ハイデガーは、ニーチェというキャラクターを叩くことでナチズムを批判していたにもかかわらず、ナチズムを捨てたわけではなかった。むしろ、存在するものが現れ出てくる存在の根源を取り戻そうとする自分の問いこそが、ナチズムの運動の本来の意味を理解している、とすら考えていた。ハイデガーは、──ニーチェ講義ではないが──フライブルク大学学長を辞任した年の講義において、ナチズムの偉大さとは無縁の哲学がナチズムの哲学として横行している、と不満を漏らしたあと、返す刀で、ニーチェもまた哲学の核心を突くことがなかった、と批判している。
しかし、ハイデガーの倒錯したナチズム理解の中にこそむしろ、ニーチェの『悲劇の誕生』のモチーフが生きている。ニーチェは、『悲劇の誕生』において、人文主義的な伝統において解釈される理性的なギリシャ像によって覆い隠されていたギリシャ人のドロドロした根源を取り出そうと試みていた。ハイデガーもまた、プラトン以来の「存在するものは何か」という問いによって覆い隠されてしまっていた「存在するものが現れ出てくる存在の根源は何か」という問いを取り戻そうとしていた。「存在の根源」などという謎めいたものに対するハイデガーのこだわりにこそ、ドイツ青年運動の中で燃えていたニーチェ熱を見て取ることができる。根源を取り戻そうとするこうした憧れは、哲学ではなく、ドイツ青年運動に参加していた世代の中で醸成された気分にほかならない。
ところで、衆目に明らかなように、哲学の歴史の高みから世界史を睥睨するナチズム批判は、ハイデガーの意図がどうあれ、政治や社会の細部に目が届いておらず、ひどく空回りしたものになっている。
ニーチェの言葉はよく引用され、その中には、ニーチェの言葉と知られずに引かれているものもある。でも、そんなこと、ニーチェに限ったことじゃない。古典となった、作家、著述家、思想家の言葉なんて、みんなそんなもんである。
ニーチェはアフォリズムという文体を多用している…が、それが本当にアフォリズムなのか結構あやしい。アフォリズムというのは本来、短く簡潔な文章で事柄の本質を突くような文体である。
ところが、ニーチェのアフォリズムはダラダラと長い。4頁や5頁にわたる小論文クラスのものも別に珍しくない(しかもアフォリズムという体だから段落分けがない)。そのうえやっかいなのが、アフォリズムの最初に、「しかしながら」という接続詞が来たり、「こうしたことは」という指示代名詞が来たりもするということである。これは、アフォリズム集という形を取って、いくつものアフォリズムの塊が一つの論考を形作っていることを意味している。だから、ニーチェのアフォリズム集をパラパラとめくって目に付いたとこを読んでみてもサッパリ分からない、という結果になる。だからといって、順を追って読んでいると、知らない間に一つのアフォリズムの塊からもう一つのアフォリズムの塊へと移ってしまい、話が変わっている、ということが起きていたりする。
だから、なんだかんだ言ってニーチェのアフォリズム集は読みづらい。コツとしては長くて大きいアフォリズムを丁寧に読むのが良い。大きいアフォリズムは、当然、情報量も多いので、周囲のアフォリズムを解釈する助けになってくれることがある。しかし、「神は死んだ」で知られる『悦ばしき知識』125番などは、ドラマ仕立てのせいで長くなっているだけで、わずかな情報量しかないように、残念ながら、長いからといってアフォリズムの中身があるとは限らない。
『悦ばしき知識』において登場する言葉。なお、この言葉には続きがあり、
「神は死んだ! 神は死んだままだ! 我々が神を死なせたのだ!
あらゆる殺害者の中の殺害者である自分たちを、我々はどう慰めればよいのか?」
となっている。関連項目も参照されたし。
ニーチェの著作『人間的、あまりに人間的』に由来するものだが、これをもじって「○○な、あまりに○○な」などといわれることもある。
『善悪の彼岸』に登場する言葉。
ニーチェは、その人物像が誇大に描かれてきただけに、人類には早すぎた哲学者であり、彼の死後、やっと時代が追いついてきたかのように思われるきらいがある。しかし、これは一部、誤解である。
彼は、生涯を通じて、フリッチュ書店、シュマイツナー書店、ナウマン書店の三つの出版社から本を出している。このうち、シュマイツナー書店からは、『教育者としてのショーペンハウアー』から『ツァラトゥストラ』に至るまで、10年にわたって自著を出版していたけれども、シュマイツナー書店は、刷ったニーチェの著作を書店に並べなかった。そのため、待てど暮らせど、ニーチェのもとには自著の反響が聞こえてこなかった。なぜなら、世間の人がニーチェを読みたいなどと思うことがあったとしても、ニーチェの書いた物は出版社の倉庫に眠っていたため、手に取ることができなかったからである(やっぱネット通販って便利)。『悲劇の誕生』が黙殺されたことは、古典文献学のルールを破ったニーチェの自業自得なのであるが、『教育者としてのショーペンハウアー』以降のニーチェは、黙殺すらされていなかった。
『ツァラトゥストラ』出版後しばらくしてこの事実を知ったニーチェは、当然怒り心頭で、シュマイツナー書店と決別し、フリッチュ書店、ナウマン書店から自著を出版するようになる。以降、ニーチェは、だんだんと世間に知られるようになり、『この人を見よ』を準備していた頃には、だいぶ手応えを感じて強気になっている(もちろん病気の影響も考えられる)。
生涯を通じて本が売れないことに本が読まれないことに沸々とルサンチマンの炎を燃やしていたニーチェのため、彼の本を買ってあげてもいいかもしれない。
ニーチェの著作としては最初のもの。これ以前にも論文は執筆していた。ワーグナーの音楽を媒介にしたドイツ精神の形成に古典文献学が果たすべき役割を説明するためにショーペンハウアーの形而上学を応用する、という無理矢理で力技の野心作。それゆえにとにかく議論が散らかっている。
序盤では、特にギリシアの芸術作品を、アポロとディオニュソスという二つの形而上学的な原理で説明し、中盤では、悲劇の終焉や同時代の古典文献学をソクラテス主義の弊害として描いている。終盤では、ワーグナーこそがドイツ精神の復活であり、ギリシア文化の研究はこれに寄与しなければならない旨が述べられる。序盤、中盤、終盤の三つは、草稿段階では別々の論考であり、終盤のワーグナー賛美は、急遽、差し入れられたものだった。
1886年にナウマン書店から出版された第二版に新しく付された序文では、『悲劇の誕生』の初版が出たときの若気の至りを「形而上学的慰め」と特徴付け批判してみせている。しかし、この新しい序文でも、『悲劇の誕生』において既に道徳批判の萌芽があったかのように述べられているが、公平に見るならば、これは後付けである。
翻訳としては、新しいなんとかをつくる会でも知られる西尾幹二の訳に定評がある。ただし、注意すべきなのは訳語の選択である。Wissenschaftを科学と訳すのはもちろん間違っていない。しかし、『悲劇の誕生』で問題となっているWissenschaftは、概ね古典文献学のことなので、理系の学問をイメージしないよう注意しなければならない。
『反時代的考察』はもともと、別々に執筆された論文であり、一つの単行本ではなかった。ただし、論文の構想自体は一定の時期にまとめて錬られている。このような性質の四篇の論文は、シュマイツナー書店との決別を機に、1886年、一冊の本としてフリッチュ書店から出版し直された。
ぶっちゃけ、『生に対する歴史の利害』以外の論考が深く掘り下げられているのを編者は見たことがない。この時期のニーチェについて言うと、『道徳外の意味における真理と虚偽』、『ギリシア人の悲劇時代における哲学』といった遺稿の方が好んで読まれているかも知れない。というのも、この時期のニーチェは、『悲劇の誕生』の失敗を受けて自重しており、自らの本音を活字にすることは控えていたからであり、そうした本音の部分は、ノートに書きためられていたからである。しかし、『反時代的考察』の論考があまり掘り下げられないのには、研究者側の事情も大きい。『反時代的考察』の議論には、19世紀に威力を持った知的な運動の勢力図が暗黙の前提となっており、こうした知的背景を知っておかないと、ニーチェがだれと戦っているのかが非常に読み取りにくくなってしまう。20世紀初頭の研究者には、こうした思想史的背景が常識として身についていたが、今日の研究者には、こうした常識が失われてしまっているのである。
『教育者としてのショーペンハウアー』が出版されたとき、「私はお前に似ていない…ショーペンハウアー」という匿名の電報がニーチェのもとに届いた、とエリーザベトは記している。このエピソードが事実ならば、『反時代的考察』に描かれるショーペンハウアーもワーグナーも、ニーチェの勝手な自己投影であったことを示す傍証であり、それぞれの論考をニーチェの自己表現として読むこともできるだろう。
なお、シュマイツナー書店との決別きっかけに再版された著作には、次々と新たな序文が付されたが、『反時代的考察』には新しい序文が付けられなかった。
『人間的、あまりに人間的』の構想ははじめ、『反時代的考察』の続編として準備されていた。しかし、ちょうどこの時期に、ニーチェはパウル・レーから決定的な影響を受ける。そうした影響のもと、これまでにない形で表現を得たニーチェの思想が、『人間的、あまりに人間的』なのである。
『人間的、あまりに人間的』は、ニーチェが初めて著したアフォリズム集である。このアフォリズムという文体は、レーから学んだものであり、『人間的、あまりに人間的』の36番にはレーの心理学的な洞察への賛辞が見出される。ただし、生兵法はケガのもとと言うべきなのか、ニーチェは、アフォリズムという文体を使いこなせていない感がある。例えば、いくつものアフォリズムが数珠つなぎになって一つのコンテクストを形成しているような箇所がある。そのため、アフォリズムを読まされる方としては、一つ一つの断章を切り離さないように読むことを強いられる。めんどくさ。なんのためのアフォリズムなのか!?ただ、このようなコンテクストを伴ったアフォリズムは、その後のニーチェの持ち前の文体となっていく。
ニーチェがレーから受けたもう一つの影響が、歴史的に形作られたものとして道徳を心理学的に分析するという方法である。こうした道徳批判の方法は、以降のニーチェの思考において踏襲されていき、『道徳の系譜』において最も鋭い形で呈示される。『道徳の系譜』の序論でレーはさんざんdisられているのだが…
形而上学、宗教、芸術といった超歴史的なものへの決別が一貫した態度として貫かれており、私たちがイメージしやすいニーチェの哲学は、『人間的、あまりに人間的』からスタートしている。
『人間的、あまりに人間的』が、形而上学、認識論、倫理学、宗教、美学、政治、ジェンダーなど、たくさんの引き出しを持っていたのに対し、『曙光』は、「歴史的に形作られたものとして道徳を心理学的に分析するという方法」に力を集中して著されている。『曙光』において議論の中心が道徳になるとともに、人間の多様な利害関心の中枢をなすものとして道徳が位置付けられるようになる。
道徳というと、ひとのものを奪ってはいけないとか、ウソをついてはいけないといった、私たち現代の人間にとって〈道徳的〉と思われることばかりをイメージするかも知れない。しかし、ニーチェが道徳を取り上げるとき、歴史的な蓄積によって疑いの余地なく順守されるようになった行動パターンのことを念頭に置いている。例えば、ラーメンをズルズルすするのは恥ずべきことではないがパスタをすするのは恥ずべきこととされる。これは、パスタを食べるときは音を立てない、という行為の価値が、歴史を通じて、疑われることなく信じられるようになったことを意味している。ニーチェは、道徳を歴史的に作られた虚偽意識として解釈する(こういうところが結構マルクスに似てると指摘されたりする)。
1881年8月、ニーチェはジルス=マリーアで永劫回帰のインスピレーションに与る。この新しい思想を思い付いたのち、一番最初に書かれた著作が『悦ばしき知識』である。
そのため、『悦ばしき知識』の草稿には既に、ツァラトゥストラという名前の登場人物が見られる。「男たちこそが女たちを堕落させる」と語る賢者(68番)、「音楽の巨匠を渇望する」と語る革新家(106番)、そして「神は死んだ」と告知する狂気の人(125番)は、草稿段階では、ツァラトゥストラとなっていた。さらにまた、『悦ばしき知識』第一版の最後の断章(342番)は、翌年に刊行される『ツァラトゥストラ』第一部冒頭に繋がるように、ツァラトゥストラが登場している。
『悦ばしき知識』第一版は、1882年、四篇構成でシュマイツナー書店から刊行された。第三書では有名な「神は死んだ」という言葉が告知されている。その他、第三書では、生命の活動形態に応じて相対的な真理がある、という認識論が示されている。そして、第四書の最後から2番目の断章(341番)は、公刊著作中、一番最初に永劫回帰が告知される箇所である。
『悦ばしき知識』は、このように、「神の死」と「永劫回帰」とを告知し、さらにまた生命活動に応じて真理は異なると論ずるなど、後期思想に特有の論点が既に多く含まれている。その意味において、『悦ばしき知識』は、中期思想と後期思想を架橋するものであり、かなり人気のある著作である。文庫で持てる翻訳もたくさん出ていることから、この著作の人気がうかがい知れる。
1885年、シュマイツナー書店と決別したニーチェは、新たに序文を付するなどしながらこれまでの著作を刊行し直す。その中でひときわ大きな増補を施されたのが『悦ばしき知識』である。『悦ばしき知識』第二版は、序文のみならず第五書と付録の詩編を付され、五篇構成となる。第五書においては、キリスト教は自分自身を否定する性質を持つ、という分析がなされている。こうした、道徳が道徳によって否定されるという分析は、『善悪の彼岸』以降ニーチェが堅持する立場であり、第三書で示された「神の死」を理解する助けになる。その一方で、第一版から6年の歳月を空けており、『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』の刊行を経ているため、初版の部分(第一書から第四書)と第二版増補部分(第五書)とが整合的に読めるのか、議論の余地のあるところである。実際、ニーチェは手紙の中で、この第五書を『善悪の彼岸』に付した方が良いのではないか、と述べている。
『ツァラトゥストラ』はニーチェの代表作とも言えるもので、最も重要な著作の一つであるとする点において、あまり異論は見られない。ただし、この著作は、論文でもアフォリズム集でもなく、散文詩の形で、永劫回帰の教師、ツァラトゥストラの遍歴を描くものとなっている。
この著作の文体は、非常に独特で、古いドイツ語を模して書かれている。そのため、ドイツ語そのものは、時代劇の脚本のようなテイストがある。これを日本語に翻訳するのは難しい。この著作の独特の文体は、当然、語彙にも影響しており、ルサンチマン、運命愛、ニヒリズム、デカダンスといったよく知られるニーチェのキーワードが『ツァラトゥストラ』には登場しない。これらの言葉が、フランス語やラテン語であるため、『ツァラトゥストラ』のテクストに組み込めないのである。例えば、時代劇で、
「証文を書き写しておいた」
と言わず、
と言ったりしたらおかしいだろう。ほかにも、キリスト教と言わず、十字架と言ったり、芸術家と言わず、詩人と言ったりと、婉曲な言い回しが多い。
こうした文体の性質からして、ニーチェの代表作にもかかわらず、ルサンチマンも運命愛もニヒリズムも出てこない。これらのキーワードを期待して『ツァラトゥストラ』を読んでも、当てが外れるだけである。ただし、これらのキーワードに相当する言葉づかいは見出すことができるので、読み手はそうしたことを斟酌しなければならないという骨を折らされる。メンドクサ…
このように色々と欠陥が多い『ツァラトゥストラ』がなお最重要著作の一つとしてカウントされるのは、公刊著作中、永劫回帰を主題にしているのが、唯一この著作だからである。他の著作においても、少し触れる程度には、永劫回帰に言及することがある。しかし、『ツァラトゥストラ』ほどの情報量はない。ところが、当の『ツァラトゥストラ』では、永劫回帰について、はっきりと語られることはなく、永劫回帰思想は未だ謎に包まれ、様々な解釈を施され続ける。
『ツァラトゥストラ』は、全4部構成。このうち第4部は、第3部までに比べて文体も異なっており、これを付録と位置付けるむきもある。実際、ニーチェが、シュマイツナー書店と決裂し、1886年にフリッチュ書店から『ツァラトゥストラ』の新版を出したとき、第1部から第3部までが合本され、第4部は含まれなかった。ニーチェが『ツァラトゥストラ』の正編を第3部の終わりまでと見ていたことは事実であり、こうした編集方針は、ニーチェが正気を保っていたあいだ撤回されることはなかった。たしかに、永劫回帰の教師たるツァラトゥストラの遍歴のクライマックスは、第3部の終わりであり、第4部の最後ではない。
第1部のおもだった舞台は「まだらウシ」という町。内容的には、そこでツァラトゥストラが延々と説教をするというもので、第1部は単調である。よく出てくるキーワードは超人であり、永劫回帰についてはまったく言及されない。当の超人についても、内容のある教説はほとんど見られない。駱駝・獅子・幼な子という精神の三つの変化など、有名な話もあるが、その他の箇所は、やはり退屈である。そのため、第1部で『ツァラトゥストラ』を投げ出す人も結構いる。…だっておもろくないからね(実際には、中期ニーチェの著作を読み込んでおくと、関連性のある教説は多くある。第1部は玄人向けなのである)。
『ツァラトゥストラ』の重要性がはっきりと見えてくるのは第2部。第2部の舞台は主に「至福の島々」。第2部は単調な教説だけではなく、情景描写も含まれたり、色んな登場人物が現れたり、「歌」や「夢解き」など、ドラマチックなシチュエーションもある。第1部と比べてはっきりしている点は、超人への言及がほとんど無くなるということである。とはいえ、力への意志という言葉で生命現象を説明しようとする「自己超克」について論ぜられるなど、重要な教説には事欠かない。こうした教説のなかで、最も注目すべきなのは、「復讐」というキーワードと「永劫回帰」との関連である。そして、ツァラトゥストラという登場人物が、永劫回帰思想を語ることにさんざん躊躇し、最後にはそれを拒否するというところなども、第2部の見所である。
第3部では、ツァラトゥストラが至福の島々を離れて自分のすみかであった洞窟まで帰る旅路と洞窟での孤独が描かれる。第2部で拒絶した永劫回帰思想を受け容れられようになるまでの、ツァラトゥストラの精神の深まりが描かれる…のだが、ぶっちゃけ、当時の社会への批判やこれまで説かれた教説の復習など、脱線も多い。とりわけ重要なのは、永劫回帰と瞬間との関連に言及している章(「幻影と謎」)と、ツァラトゥストラに仕えている鷲と蛇が永劫回帰について語ったのに対して、ツァラトゥストラがどういったレスポンスをしているかが描かれる章(「快癒に向かう者」)である。最終的に、ツァラトゥストラと彼の魂との対話を経て、生(生きること)との和解を歌う歌で終わる。
第4部の舞台は、ツァラトゥストラの洞窟とその周辺の山道である。預言者・王様・学究・魔術師・教皇・最も醜い人間・求めてなった乞食・ツァラトゥストラの影といった登場人物とツァラトゥストラとの対話が繰り広げられる。預言者とツァラトゥストラの影は、既に第2部で登場している。こうしたやりとりが『ツァラトゥストラ』第三部までに対してどういった寄与をなすのか、不可解な点が多い。
重要な著作ゆえに多くの翻訳がある。
ちくま学芸文庫から出ている全集版の翻訳は、膨大な注が付されており、ぶっちゃけ読みづらい。また、注自体、実存哲学的な考えにニーチェを引きつけようとする当時の流れに引っ張られてしまっている。そのせいで注が本文より分かりにくい言葉でいっぱいになっている。自己存在とか、自己超克の炎とか言われても、さっぱり分からない。
岩波文庫の翻訳者、氷上英廣は、翻訳と注釈は違うとして、いっさい注を付けていない。こちらの方が初心者は使いやすいであろう。中公文庫・中公クラシックスなどに収録されている手塚富雄の訳も、手許に置きやすく、かつ優れた翻訳である。
ニーチェは、『ツァラトゥストラ』の刊行中にも、『善悪の彼岸』という表題でアフォリズム集の草稿を用意していた。しかし、刊行された『善悪の彼岸』は、こうした草稿から材料こそ取っているものの、違った意図から作られたものである。そのことは、『善悪の彼岸』の構成と『人間的、あまりに人間的』の構成を比較すると分かる。両者とも、まず形而上学批判と認識論からスタートし、宗教、倫理学などを論じた上で、ジェンダー、芸術作品や芸術家などを考察するという構成になっている。つまり、『善悪の彼岸』は、ニーチェの円熟した思想に即して新しい形で作り直された『人間的、あまりに人間的』なのである。『人間的、あまりに人間的』においては歴史的な経過の中で捉え直されていた形而上学・宗教・道徳・芸術などが、『善悪の彼岸』においては、力を求める欲求という視点(力への意志のパースペクティヴ)からより深く捉え直される(ニーチェは、歴史的な経過の中で物事を捉え直す方法を放棄したのではなく、力を求める欲求の歴史から物事を捉え直すようになる)。このように、『善悪の彼岸』の内容は理論整備が進んでおり、初心者には非常に手ごわいものになりつつある。第1章、第2章などをスラスラ読める人は、ニーチェの哲学と相性がいいと言えるだろう。
『善悪の彼岸』には、
「キリスト教は民衆向けのプラトニズムだから…」(序文)
「すべての深いものは仮面を愛する」(40番)
「あなたが長く深淵をのぞき込むならば、深淵もまたあなたをのぞき込む」(146番)
「道徳は今日ヨーロッパにおいて畜群道徳である」(202番)
など、どこかで聴いたことがあるようなニーチェの名台詞の多くが見出されるので、ニーチェのものとして伝えられる言葉の出典を見たい人にはオススメかも知れない。
『善悪の彼岸』は、シュマイツナー書店との決裂後はじめて出版した著作であり、久しぶりに書店に並んだ著作であった。売れ行きこそよくなかったが、書評などが新聞に載るようになった。そうした書評の中で、『善悪の彼岸』にある「精神のダイナマイト」という言葉が取り上げられたことを喜んだニーチェは、のちのち、手紙や『この人を見よ』の中で「私はダイナマイトだ」と発言するようになる。
『道徳の系譜』は非常に重要視される著作である。しかし、この著作が重要視されるのは、内容に即してではなく、読み手の都合によるものが大きい。アフォリズム集や『ツァラトゥストラ』のような著作は、呪文を解読するような難しさがある。それに対して、『道徳の系譜』は、一応、論文という体で書かれているため、ニーチェを読んでみようとする人が手に取りやすいのである。このため、『道徳の系譜』だけをソースにしたニーチェ論が世に多く出回っている。
『道徳の系譜』ばかりに依拠したニーチェ解釈は、驚くほど紋切り型の解釈となっており、その意味で分かりやすい。そうしたニーチェ解釈によれば、ニーチェは、ルサンチマンを抱く弱者を悪玉、強者を善玉として道徳の歴史を描いており、強者の道徳である貴族道徳を賛美したとされる。しかし、こうした話は、『道徳の系譜』のせいぜい第一論文に限られたものであり、良心や正義、芸術、学問、哲学の発生を道徳の歴史に即して描く第二論文・第三論文をほとんど無視している(それに、第一論文にしても、ルサンチマンという心情を生々しく描写してこそいるが、貴族道徳に帰ろうとすることは時代錯誤だと述べられているのである)。
ニーチェにとっての道徳とは、歴史の蓄積によって疑われることなく順守されるようになった行動パターンであって、必ずしも弱者の怨恨から作り出されたルールのことを意味したりはしない。このことは、『善悪の彼岸』が、成熟した思想に応じて作り直された『人間的、あまりに人間的』であるように、『道徳の系譜』は、新たに書き上げられた『曙光』だったと理解すれば分かりやすい。『人間的あまりに人間的』・『善悪の彼岸』は、多様なテーマを扱うのに対して、『曙光』・『道徳の系譜』は、歴史的に形作られたものとして道徳を心理学的に分析するということを本分としている。こうした方法を踏襲して、『道徳の系譜』では、次のような歴史的な分析が示される。
第一論文では、身分のよさを意味していた「善」という概念が、やがて「善」そのものとして独立しているかのような見かけを帯びるようになる概念史が描かれる。しかし、見かけが変わっても「善」という概念は、依然として、身分のよさ、つまり支配する者を暗々裏に意味し続けるとされる。
第二論文では、人間という生物がいかにして良心を備え、「正義(公平さ)」というものを理解する能力を得たのか、という生物史的な考察がなされる。そして、こうした道徳的能力を育成してゆくことが、ゆくゆくは道徳の支配から離れた自己管理のできる個人さえも産み出す、とされている。
第三論文では、禁欲主義的理想というものが、その見かけに反して生命維持の機能を持っており、宗教、芸術、学問、哲学など、これまで存在してきたすべての理想を産み出してきた、という人類史的見解が示される。
『道徳の系譜』という著作が濫用されてきた背景には、中期ニーチェの研究が非常に遅れていたという事情がある。そのため、紋切り型の解釈にはまることなく『道徳の系譜』を読むためには、中期ニーチェの研究を活かした解説書などに目を通しておくのがよい。左翼ニーチェの代表者である三島憲一は、『道徳の系譜』の濫用に警鐘を鳴らし、世界的に見ても早い時期から中期ニーチェを研究する必要性を説いている。
関連商品のサムネが『偶像の黄昏/反キリスト者』になっているが間違いではない。『ワーグナーの場合』は単行本での翻訳がなく、ちくま学芸文庫では第14巻に、白水社版では第Ⅱ期第3巻に、収録されている。
1888年の2月末、ニーチェは、助手のペーター・ガストからワーグナーの表現スタイルについての質問となる手紙を受け取った。ニーチェは、これに答え、ワーグナーを除いて最もワーグナー的であったのはボードレールだったと述べている。それは、ボードレールが近代的だったからだとされている。たしかに、87年末から88年頭にかけて、ニーチェはボードレールについての読書ノートを付けており、そこにはワーグナーとの共通点を見るメモもある。また、『ワーグナーの場合』の最初の草稿でも、ワーグナーを取り扱えるほど近代的な人物としてボードレールの名が挙げられ、ワーグナーの芸術作品を特徴付けるものは、フランス的なものだとされていた。もっとも、『ワーグナーの場合』の完成稿にボードレールの名は出てこなくなる。
ボードレールの話はどうでもいいとして『ワーグナーの場合』という著作の主題は近代についての認識である。実際、この著作の序文には、「ワーグナーを通じて、近代性は、自分の最も親密な言葉を語る」と述べられている(「近代」といっても、ニーチェにしてみれば同時代のことなので、「現代」のことをいってる)。
この著作で取り上げられる近代の問題とは、古い道徳からの自由を求める近代の人間が、なぜか抹香を焚きしめられた空気の中で救済されたがるという現象である。ニーチェによれば、①感覚を刺激し、②崇高なシンボルをちりばめ、③無内容にもかかわらずいっぱしの思想があるかのようにほのめかすことによって、聴き手・受け手が勝手に作品の内容を汲み取って感動してしまうようにするのが近代の文化産業であり、これを表現スタイルとして確立させたのがワーグナーの業績だとされる。自由を求めていたはずの近代の人間は、こうした文化産業の内に自分の救済を見ようとするようになり、自分で自分を拘束するようになる。
ニーチェは、ドイツ帝国の形成とワーグナーの台頭が同時的だったことに深い意味があるとも述べている。こうした指摘にファシズムの予言を見るのはいくらなんでもやり過ぎであるが、ファシズムの体験以降、社会科学や大衆文化論が取り上げた問題と『ワーグナーの場合』の主題とは、多くの点で共通点があり、単なるワーグナー論を越えた内容を持つ著作となっている。指揮者のフルトヴェングラーも「ワーグナーの問題」という論文をものし、ニーチェの提起した問題を引き継いで考察している。
『ワーグナーの場合』を公刊したニーチェは、突然ワーグナーを裏切ったのはなぜか、と批判されることになる。それも当然のことで、『人間的、あまりに人間的』においては、名指しでワーグナーを批判してはいなかったし、その後のワーグナー批判を含む著作も出版社の倉庫にあったからである。そして、なにより、ニーチェとワーグナーとの決裂は、私生活のレベルでのものに過ぎず、部外者には知るよしもなかったからである。
こうした批判を受けて、ニーチェは、『様々な意見と箴言』から『道徳の系譜』に至る著作から、ワーグナーについて言及した言説を選び出して、少々字句を変えたうえで一冊の本にし、自分のワーグナー批判がずっと以前からのものであると反論した。
『ツァラトゥストラ』の出版後、ニーチェは、体系的な著作の準備に取りかかる。この著作の紆余曲折を経た準備過程において、草稿の内から重要なアフォリズムが選び出され、「序論」として用意される。そして、体系的著作の準備がなかなか進まないなかで、この「序論」が独立に刊行され『偶像の黄昏』となる。
『偶像の黄昏』には「ひとはいかにしてハンマーで哲学をするか」という副題が付いている。この「ハンマー」という言葉は多くの翻訳で「鉄槌」と訳されており、こうした訳語は、あたかも感情にまかせて気に入らないものをぶちこわすのがニーチェの哲学であるかのような印象を与える。しかし、『偶像の黄昏』の序文によれば、ハンマーで哲学をするというのは、ハンマーで問いかけ中身があるかどうか聴き出すことだとされる。つまり、「ハンマーで哲学をする」のハンマーとは、RPGで出てくるような鉄槌ではなく、医師や建築技師が持っているような打診ハンマーのことを意味している。
体系的な著作の序論として用意されていたものだけあって、真理と仮象の問題、道徳の問題、自由と因果性の問題など、ニーチェなりに理論的な問題に取り組んでいる。アフォリズムも、長すぎず短すぎず、またコンテクストに応じて章分けしてくれているので読みやすい。さらにまた、ニーチェが、──神の死の告知者でもなく、力への意志の教師でもなく──永劫回帰の教師として自己を規定する証言が収録されており、その意味でも重要な著作である。しかしながら、肝心の永劫回帰思想について、『偶像の黄昏』で言及されることはないので、ニーチェの後期思想を理解するためには、やはり『ツァラトゥストラ』を読むのを避けることはできない。
『ツァラトゥストラ』の出版後、ニーチェは体系的著作の準備を進めていた。この著作の構想は何度も練り直され、表題も、『永劫回帰の哲学』、『力への意志』、『一切の価値の価値転換』と変化していく(そうしたなか、序論部分が独立して『偶像の黄昏』になった(『偶像の黄昏』商品解説参照))。
ニーチェの妹エリーザベトが編纂した遺稿集『力への意志』は、こうした練り直しのなか描かれた設計図を、一応、参照にしている(ただし、遺稿は切り刻まれた上で再配列されたりと、色々ひどいことになっている)。
練り直しがかなり進んだ段階での『一切の価値の価値転換』の構成案の一つとして、次のようなメモが残っている。
『一切の価値の価値転換』
第一書 アンチクリスト キリスト教批判の試み
第二書 自由精神 ニヒリズム運動としての哲学批判
第三書 インモラリスト 道徳という最も宿業的な種類の無知への批判
第四書 ディオニュソス 永劫回帰の哲学
88年の夏から秋にかけての遺稿において、これに類したメモはいくつも残されているが、それらの多くにおいて、『一切の価値の価値転換』は、キリスト教批判・哲学批判・道徳批判・永劫回帰の哲学、という4部構成で構想されている。それゆえ、こんにち我々の目に触れる『アンチクリスト』は、『一切の価値の価値転換』の第一書ではないかという憶測が当然なされる(エリーザベトが生存しているあいだは、『アンチクリスト』が体系的主著から生まれてきたとみなされることはなかった。もし、そんなことを認めることになれば、彼女が編纂した『力への意志』が偽書であると認めることになるからである)。しかし、『アンチクリスト』の校了後の遺稿を見ると、こうした4部構成での構想が崩れ始めてくる。88年11月のニーチェの手紙では、『アンチクリスト』でもって『一切の価値の価値転換』が完成したと述べられており、12月には、『アンチクリスト キリスト教への呪詛』という表題に変更される。こうした経緯を踏まえ、グロイター版ニーチェ全集の編集者は、ニーチェの体系的著作は、──ニーチェの発狂によって中断されたのではなく──断念された、と結論付けている。
『アンチクリスト』は、キリスト教批判の著作であるが、その批判のスタイルは、これまでのニーチェによるキリスト教批判とは一線を画すものとなっている。これまでのキリスト教批判は、道徳批判と軌を一にするものであり、歴史的に形作られたものとして心理学的な分析を施されることにより批判されていた。
しかし、『アンチクリスト』においては、イエスとの対比のもと、イエスから派生したキリスト教やキリスト教の影響下にある哲学が、いかにイエスそのものに反するものであるのか、という観点から批判される(興味深いことに仏教との対比なども行われる)。
こうした「イエス対キリスト教」という構図を採用しているため、『アンチクリスト』は、キリスト教会を批判しているがキリスト教は批判していない、とか、キリスト教は批判しているがイエスその人は批判していない、などと解釈されることがある。しかし、それは誤りである。キリスト教は、ルサンチマンによる価値創造によって力への意志の欲求を満たし、道徳の歴史を通じて復讐の勝利を収めてきた。イエスは、こうしたルサンチマンに手を染めたりはせず、敵を愛し決して悪に抵抗しない。しかし、こうしたイエスの愛は、悪と戦うことによって痛みに触れることを避けるため精神の内に後退する態度であるとされる。その意味で、イエスの愛こそは、──ルサンチマンらによって武装される以前の──純粋な現実否定なのである。体系的な著作が断念され、『アンチクリスト』のコンテクストが不明瞭なままとなっているため、こうしたイエス像の意味するところは、なかなか理解しにくい。とはいえ、ニーチェの他の著作を手がかりにしてみれば、こうしたイエスの愛は、苦痛の一切を含めて生を肯定するニーチェの運命愛の対極にある、と言えるかも知れない。
何種類も翻訳があるが、新潮文庫(あるいは白水社版第Ⅱ期第4巻所収)の西尾幹二訳、あるいは、光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳以外の選択肢はない。というのも、『この人を見よ』には、底本確定に問題があり、こうした問題を踏まえた翻訳は、現在のところ、これらの翻訳しかないからである。とはいえ「ルサンチマン」を「内攻的復讐感情」という西尾幹二の訳は、かなり的確ながら、やや踏む込みが過ぎた翻訳だと思われる…
『この人を見よ』は、校正過程で、いくつもの修正稿が出版社に送られていた。そのうち最終稿だとされるものには、ニーチェの母と妹に対する誹謗──母と妹こそが永劫回帰思想に対する異論であるという誹謗──が含まれていた。この原稿は、遺稿管理者であったニーチェの妹によって破棄され、1908年に『この人を見よ』は一応の出版にこぎ着ける。ところが、ニーチェの助手であったペーター・ガストがこの最終稿の写しを密かに保管しており、彼の死後、1969年、この最終稿が発見された。グロイター版ニーチェ全集の編集者は、この最終稿を決定稿として扱っている。たしかに、ニーチェの妹エリーザベトを非難する文言が含まれた原稿を採用することは、遺稿管理者としての地位を固めていたエリーザベトにとって政治的なスキャンダルとなるものだったかも知れない。しかし、エリーザベトが問題の原稿を破棄した理由が本当に保身によるものであったのかも、明らかになっているわけではない。実際のところ、幾度も繰り返された校正過程において時系列上の最終稿だった原稿が内容上の決定稿になるのかは、ニーチェにしか分からないのである。
西尾幹二訳は、こうした底本の違いを注によって示しており、複数のテクストを比較しながら読むことができる(ただし西尾幹二自身は、グロイター版の編集方針には反対している)。
『この人を見よ』は、アフォリズム集でもなく論文でもなく、「自伝」という体裁を取っている。ただし、この自伝は、最初から自伝として構想されていたわけではない。いくつかの著作を読むと分かることだが、ニーチェは、著作の序文で自分語りをするという癖を持っている。読み手としては、序文を読むとき、その著作のアウトラインや執筆の意図などが説明されるのを期待するものだが、ニーチェの書く序文・序論には、そうした説明は見出されず、執筆時の自分の体調など、正直どうでもいいことがたくさん書かれている。
ニーチェは、80年代の後半を通じて、体系的著作を準備しており、その著作の序論が『偶像の黄昏』となった(関連商品解説参照)。こうした体系的著作の「序論」だった『偶像の黄昏』の校正の中で、『原-この人を見よ』と呼ばれる「自分語り」の草稿ができあがる。そして、この草稿の内の一部が『偶像の黄昏』に編入され、残りが『この人を見よ』となる。つまり、『この人を見よ』は、体系的著作の「序論」の執筆過程で生じた「自分語り」が独立したものなのである。
『この人を見よ』は、ニーチェによるただの「自分語り」ではない。『この人を見よ』の目次を見た人は、その内容の滑稽さに驚く。「なぜ私はかくも賢明なのか」「なぜ私はかくも怜悧なのか」「なぜ私はかくもよい本を書くのか」などということを自伝で書くというのは、狂気じみた印象を与えるからである。しかし、これらはいずれもニーチェ一流のジョークでありフィクションである。ニーチェは、お金にも女性にも苦労したことがない、と語っているが、そんな事実はない。「何かを「欲する」とか、何かを得ようと「努力する」とか、何らかの「目的」や「願望」を絶えず忘れないでいるとか──こういったことを私は経験的に知らない」(「なぜ私はかくも怜悧なのか」9)とニーチェは述べているが、こうした運命愛の境地は、痛みに触れないため悪に抵抗しないイエスの愛に対比される。十字架に架けられた者対ディオニュソスという構図が『この人を見よ』という擬似自伝を貫いているのである。
掲示板
312 ななしのよっしん
2024/05/28(火) 19:28:05 ID: ekYmUEbAwz
あと、ここで言ってる批判ってダメ出しするって意味じゃなくて限界に挑むってことなんじゃないか?
カントの純粋理性批判の批判がそういう意味だったような
313 ななしのよっしん
2024/06/07(金) 00:06:29 ID: Z5qxeiR2fu
>>309
深読みしすぎだ
WikipediaのT4作戦の記事見てたらニーチェの生き様が中々皮肉が効いてて面白かったのでレスしただけ
>>211が言うように反論どころか発狂死してこそニーチェの哲学の正しさが証明されるのでは?そこが皮肉で面白い
314 ななしのよっしん
2024/08/13(火) 21:28:18 ID: rXzKZ7/DV8
晩年は梅毒が頭に回って自分も殺処分される側の身分になったのに
運が良くそんな無情な末路を迎える世の中じゃなかったので
一応真っ当に死ねた運のいい奴だなっていう感想
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最終更新:2024/09/12(木) 06:00
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