ニーチェ 単語

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ニーチェ

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くりかえし閲覧されねばならないもの ニーチェの概要はそれなのだ

 フリードリヒヴィルヘルム・ニーチェ独:Friedrich Wilhelm Nietzsche, 1844年10月15日 - 1900年8月25日)は、ドイツ古典文献学者で、アマチュア哲学者。
 プロイセン王国の寒レッケン出身であるが、1869年以降、プロイセン籍を捨て、heimatlos籍)となる。1879年、健康上の都合で大学の職を辞したあと、スイスイタリア、南フランスを転々とする。1889年、トリノ倒し狂気に陥る。以後、10年以上、廃人として生き、1900年、55歳で息を引き取る。
 ショーペンハウアーののもとワーグナー創作活動を支援する理論付けを試みるが、その後、厳しい同時代批判、形上学批判芸術批判道徳批判を行うようになり、思想の成熟期には、への意志、永劫回帰人といった重要概念を着想する。また、哲学的な著述のかたわらで、作や作曲も行っていた。

 ニーチェによる思想的な試みは、のちのドイツ青年運動保守革命ナチズム、実存義、フランクフルト学派第一世代、ポストモダンなどの思想運動に大きなを与える。こうしたも含め、解釈と評価は大きく分かれる。

くりかえし読まれねばならないもの ニーチェの著作はそれなのだ

関連商品の項も参照

くりかえし聴かれねばならないもの ニーチェの楽曲はそれなのだ

くりかえし生きねばならないもの ニーチェの生涯はそれなのだ

年譜

※ニーチェの生涯は「9」の付く年を節として覚えるとよいと言われる。49年にはを亡くし、69年に大学教授となり、79年に教授職を辞し、89年に発狂、99年には20世紀初頭のニーチェ受容に大きなを与えたグロースクターフ版全集の刊行が開始される、といった具合である。


1844年 ドイツのレッケンで、カールフランツィスカ(旧姓エーラー)の間に生まれる。
    両ともにルターの牧師の系である。
    ※ニーチェの死後、ワーグナーがエーラーの遠いせきだったことが分かる。

1846年 エリーザベトが生まれる。

1848年 ルートヴィヒ・ヨーゼフが生まれる(50年に折)。
    三月革命フランクフルト会議

1849年 カール死去。

1850年 ナウムブルクに移住。

1858年 プフォルタ学院に入学

1860年 ショーペンハウアー、死去。

1861年 堅信礼を受ける(ただ洗礼によってではなく自分の意志でキリスト者となる儀式)。
    この頃、初めてワーグナーの作品に触れる。

1862年 「運命歴史」、「意志の自由運命」を書く。
    ビスマルクプロイセン王国の宰相になる。


大学生時代】
1864年メガラのテオグニスについて」を卒業論文プフォルタ学院を卒業
    ボン大学神学部に学籍登録。
    リッチュル教授、ヤーン教授ら(いずれも古典文献学)の授業を受ける。

1865年 とのケンカの末、ボン大学文学部に学籍登録。
    学内政争の末、リッチュルがライプツィヒ大学に移ったため、ニーチェも同大学に移る。
    この頃『意志と表としての世界』に出会い熱中する
    リッチュルの導のもと、「文献学研究会」を組織。

1866年 「文献学研究会」で研究発表を行うなか、大学に残ることを決意するようになる。
    ランゲの『唯物論歴史』を読む。
    普墺戦争(同年中に講和)。ニーチェは近視のため兵役を免れる。

1867年 懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」が受賞。
    ただしニーチェはリッチュルから事前懸賞論文のテーマを知らされていた。つまり出来レース

1868年 リヒャルト・ワーグナーと知り合う


バーゼル大学教授時代】

1869年 24歳の若さバーゼル大学に招聘され、古典文献学の員外教授に就任する。
    就任講演「ホメロスの人格について」(後の「ホメロス古典文献学」)。
    プロイセン籍を失い、籍に。

1870年 ニーチェ、正教授に昇格。フランツ・オーヴァーベックと知り合う。
    開講演「ギリシャの楽劇」、「ソクラテスと悲劇」。
    「オイディプス王」について講義。
    戦争(-71年)。ニーチェは看護兵として志願、従軍する。

1871年 哲学教授職を希望するがかなわず。
    「ソクラテスギリシア悲劇」出版。
    ドイツ帝国成立。

1872年 処女『悲劇の誕生』を出版。学者としての信用を失い、事実上、学界から追放される
    講演「私たちの教育施設の将来について」。
    「プラトン以前の哲学者たち」、「ギリシアローマの弁論術」について講義。
    バイロイト祝祭劇場の起工式に参加。
    この起工式でマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークと知り合う。

1873年 「プラトン以前の哲学者たち」の講義をパウル・レーが聴講。
    「道徳外の意味における真理虚偽」を口述筆記させる。
    『ダーフィト・シュトラウス出版。

1874年 『生に対する歴史の利出版。
    「アリストテレスの弁論術」について講義。
    教育者としてのショーペンハウアー』出版。
    『ら文献学者』を準備するも完成ならず。

1875年 エリーザベト、ニーチェの世話のためバーゼルに来る(78年まで)。
    ケーゼリッツ(後のペーター・ガスト)、ニーチェの講義を聴きに来る
    ウル・レーの『心理学考察』を読む
    E・デューリングの『生の価値』を読む。

1876年 病気療養のため1年の休職を許される。
    バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー出版。
    バイロイ音楽。ニーチェは聴いているのが苦痛だった。
    レー、マイゼンブークとともにソレントへ(翌年5月まで)。
    ソレントでワーグナーと偶然で最後の出会い。

1877年 この頃の遺稿に、初めてへの意志」という言葉が現れる

1878年 人間的、あまりに人間的』を出版。ワーグナーと決裂
    エリーザベト、実家に戻る。

1879年 『様々な意見と箴言』出版。
    バーゼル大学を辞職し、ニートになる
    『漂泊者とその出版。


ニート時代】

1881 出版。
    初めてジルス=マリーに滞在。8月永劫回帰思想を着想

1882年 ローマルー・ザロメと知り合う。
    すったもんだで、レー、ルーと疎遠に。そのうえともケンカに…
    『悦ばしき知識』出版。

1883年 レー、ルーと絶交。
    ワーグナー、死去。
    『ツァラトゥストラ』第1部出版。
    マイゼンブークへの手紙に、自分の新しい名はアンチクリストが良い、と書く。
    エリーザベトが反ユダヤ義者と婚約したことが原因で再びケンカとなる。
    『ツァラトゥストラ』第2部出版。

1884年 『ツァラトゥストラ』第3部出版。

1885年 シュマイツナー書店と決裂。
    『ツァラトゥストラ』第4部出版。
    エリーザベト、結婚

1886年 フリッチュ書店・ナウマン書店から自著を再版するため、既刊書を読み直す機会を得る。
    こうした自著の読み直しをきっかけに、自らの思想を体系的に再考することになる
    『善悪の彼岸出版。
    『ツァラトゥストラ』『反時代的考察』『悲劇の誕生』『人間的、あまりに人間的』第二版出版。
    エリーザベト、南米パラグアイへ。

1887年 『悦ばしき知識』第二版出版。
    道徳の系譜』出版。
    「生への賛歌」出版。
    デンマーク評論家ゲオルク・ブランデスと文通をするようになる。

1888年 ブランデスコペンハーゲン大での開講義「ドイツ哲学フリードリヒ・ニーチェ」。
    ボードレール・ドストエフスキー・トルストイ・ルナンを読む。
    ワーグナーの場合』出版。
    『アンチクリスト』、『この人を見よ』をめぐり錯綜した校正のやりとりがなされる。
    ビスマルクに対し宣戦布告稿を書く。
    12月末から翌初めにかけて狂気手紙を知人に送る。
    しい友人は悪質な冗談だと思った(ニーチェはふざけた手紙を書くことがあった)。


狂気の時代】

1889年 カルロアルベルト広場にて倒、精異常をきたす
    にすがりついて泣いたと言われるが出典不明。
    オーヴァーベック、ニーチェをバーゼルに連れ帰り入院させる。
    、ニーチェをイェーナの大学病院に入院させる。
    『偶像の黄昏『ニーチェ対ワーグナー出版。

1890年 がニーチェの後見人になり、ニーチェは自宅で療養するようになる。
    エリーザベト、パラグアイでの植民地経営に失敗して破産、夫を亡くして帰する。

1892年 ペーター・ガスト、ニーチェの著作の刊行と編集を委任される。
    このとき後に破棄される『この人を見よ』の原稿の写しを取る。
    エリーザベト、再びパラグアイへ。

1893年 エリーザベト、再帰
    『アンチクリスト』を体系的著作とは認めないなど、ニーチェの著作管理に介入してくる。
    エリーザベト、ニーチェの著作管理・遺稿編纂のため、ニーチェ・アルヒーフの設立を計画する。

1894年 エリーザベト、実家にニーチェ・アルヒーフ設置。
    ガストエリーザベトと決裂。
    ルー、『作品におけるニーチェ』出版。
    アンチクリスト』出版。

1895年 エリーザベト、病人のニーチェでビジネスを企てていると咎められ、ケンカになる。
    エリーザベト、銀行からの融資でニーチェの著作権を、理矢理、から買い取る

1896年 ニーチェ・アルヒーフ、ワイマールへ。 

1897年 ニーチェのフランツィスカ、死去。

1899年 グロースクターフ版ニーチェ全集の刊行開始
    ガストエリーザベトのもとで働くようになる。

1900年 ニーチェ、死去。

主要関連人物 は重要度

 カール・ルートヴィヒ・ニーチェexit ☆☆☆
(Carl Ludwig Nietzsche, 1813 - 1849)

 ニーチェの。いわゆるニーチェ牧師。ニーチェの生涯においては、メッチャ影が薄い。『この人を見よ』では、柔和な父親として描かれているが、ニーチェが4歳のときに亡くなった計算なので、虚像であるか、祖母から聞かされていたイメージであろう。
 プロイセンに忠実な人で、フリードリヒヴィルヘルム4世にあやかり、フリードリヒヴィルヘルムという洗礼名をニーチェに施した。そのため、3月革命の知らせを聞いたとき、激怒絶望したという。こうした政治的な態度は、カール本人の人柄というよりも牧師の柄からくるものである。キリスト教というのは、本来、封建的な勢だったからである民主主義運動をなしているのはキリスト教運動遺産である」(『善悪の彼岸』202番)といった言葉を安易に受け容れてしまうのは、哲学書の読み過ぎ…。ニーチェやエリーザベトの保守的な性格は、牧師のの生まれという出自からくるものである。ニーチェは、アンチクリストにはなれても、封建的な精から自由になることはできなかったようである。


 フランツィスカ・エルネスティーネ・ローザウラ・ニーチェexit ☆☆☆
Franziska Ernestine Rosaura Nietzsche, 1826 - 1897)

 ニーチェの実家のエーラーは、ワーグナーと遠いせきである。
 ニーチェの伝記類でフランツィスカが悪く書かれているものはほとんどい。若くして夫を亡くし、女手で2人の子を育て上げ、精を病んだ息子回復を祈りつつ老いた身で看護に尽くしながら死んでいった母親を悪く言う方が難しいだろう。
 学を棄てた息子と大げんか、いつまでも結婚しない子どもたちに「はよ結婚しておくれ」と言い、大学を辞め転地療養中のニーチェに大学に戻れないかと持ちかけたりと口うるさいが、35を過ぎてヨーロッパを転々としているニーチェにハム靴下を送って面倒を見たりと、なんだかんだ言っていいオカンである。


 エリーザベト・フェルスター=ニーチェexit 
Elisabeth Förster-Nietzsche, 1846 - 1935)
フルネームは、レーゼエリーザベト・アレクサンドラ・ニーチェ(Therese Elisabeth Alexandra Nietzsche)

 悪名高いニーチェの
 好きなものは、ワーグナー音楽ドイツ帝国、上流階級の暮らし。
 嫌いなものは、ユダヤ人あれ? どっかの誰かに似てね?

 なぜ悪名高いかというと、

1. ニーチェの手紙や遺稿を竄した
2. 反ユダヤ義だった
3. ニーチェの売り込みをかけた結果、ニーチェをナチに売り渡した
4. 極度のブラコンで、ニーチェの路を邪魔した

といった悪行が挙げられる。

 非常に立ち回りが上手く、子どもの頃からニーチェの書いたものを収集していたこともあり、落書き同然の切れまで漏らさず集めてニーチェ・アルヒーフを設立したのは、やはり彼女の業績である。しかし、エリーザベトは、ニーチェの思想をサッパリ理解していなかった。
 ニーチェからは、ラーマというあだ名で呼ばれていた。これは、ラーマという動物リャマのこと)が自ら重い荷を担うことからくる(とエリーザベトはっている)。しかし、リャマは、嫌なことがあるとを吐きかけて攻撃してくる動物であり、あだ名の由来はこっちから来るのではないかという解釈もある。実際、エリーザベトは、ニーチェ・アルヒーフ設立の敵を罵り巧みに退けてみせている。また、フェルスター=ニーチェという姓を名乗っているのは、哲学者ニーチェのだということを印づけるための作戦であり、夫の死後に法務当局を通して新たに作った姓だった(それ以前はエリーザベト・フェルスターだった)。それだけでなく、ニーチェと出版社との契約書類を精し、とは言い難い契約を出版社が結ばせていたことを掘り起こすと、訴訟をちらつかせて、その後の交渉を有利に進めた(ニーチェが執筆活動をしてたときにエリーザベトが出版社との交渉役になっていたら、ニーチェが認知されるのはもっとかったかも知れない)。
 ブラコンだと言われているが、ニーチェの結婚話を進めようとしたりしており、セクシュアリティレベルでの感情はないと思われ──

 ニーチェが褐色だったのに対して、エリーザベトは金髪碧眼で、いかにも「アーリア人」といった貌である。メガネはかけてないが、ニーチェと同じでド近眼。


 ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナーexit ★★★ 
Wilhelm Richard Wagner, 1813 - 1883)

 言わずと知れた19世紀を代表する作曲・劇作家。詳しくは、当該記事参照。
 『悲劇の誕生』で学界から黙殺されたニーチェを、表向き弁護しつつ、プライベートでは、をしないようにニーチェに言い聞かせ、実的な歴史研究を軽んじないよう助言するなど、大物の割に面倒見がいい。しかし、反ユダヤ義者であったため、ニーチェがユダヤ人のパウル・レーと仲良くなるに連れて、両者の関係が悪化していく。また、結婚できないしないニーチェに同性愛者の疑いをかけたことは、ニーチェの怒りを買ったようである(しかし、ニーチェはチキンなので面と向かって怒ることはしない)

 『人間的、あまりに人間的』から『ワーグナーの場合』まで、一貫してワーグナーを攻撃し続けたニーチェであるが、攻撃の矛先は、ワーグナー音楽そのものよりも、その偽りの祝祭と後の時代の文化産業に向けられていたと言うべきだろう。例えば、ニーチェは、『パルジファル』をしく嫌悪したと言われるが、スコアが送られてくると素直に感心したという。

 ちなみに、無限によって体系化されているワーグナー音楽を、ニーチェは「タコ」に喩えている。 


 ペーター・ガストexit ☆☆☆
Peter Gast, 1854 – 1918)

 本名ハインリヒ・ケーゼリッツ(Heinrich Köselitz)。ライプツィヒ音楽大学学生だったガストは、初期ニーチェの著作に感銘を受け、バーゼル大学のニーチェの講義を聴きに来る。『バイロイトにおけるリヒャルト・ワーグナー』の準備期間からニーチェを手伝い、以後、ニーチェの助手としてを尽くす。ニーチェの面子を潰さないように婉曲な助言をしたりと、気の回るところもある。その他、「生への賛歌」(作詞ルー・ザロメ・作曲ニーチェ)の編曲をしたりもしている。

 作曲として身を立てることを見、ニーチェにも応援してもらうが、破れ挫折。ニーチェの思想にも詳しく遺稿の文字も判読できたガストは、以後、エリーザベトの奴隷となって恣意的な遺稿の編纂に協させられることとなる。
 エリーザベトによって破棄された『この人を見よ』の最終稿の写しを保管していたため、彼の死後、この写しは、『この人を見よ』の失われたテクストとして再発見される。


 フランツ・カミルレ・オーヴァーベックexit ☆☆☆
Franz Camille Overbeck, 1837 – 1905)

 教会でニーチェの友。生涯を通じて変節を繰り返し多くの友人と疎遠になっていったニーチェと最後までしかった。
 オーヴァーベックバーゼルに赴任してきたとき、偶然にもニーチェと同じ下宿の店子だった。ニーチェは、夕食後オーヴァーベック部屋を訪れ、長々とお喋りしたという。オーヴァーベック最初の著作『私たちの時代の学のキリスト教性』は、ニーチェの『ダーフィト・シュトラウス』と同時出版であり、フリッチュ書店からの出版のためニーチェは奔走したという。

 トリノで精異常をきたしたニーチェを迎えに行ったのも、オーヴァーベックだった。そのとき、ニーチェの未完成原稿の重要性に気付いたオーヴァーベックは、ガストと申し合わせて写しを取った。しかし、エリーザベトのにかかって原稿を奪われ、ニーチェ最後の体系的著作の原稿を紛失したという濡れ衣を着せられる。

 ちなみにニーチェとオーヴァーベック手紙は、ベンヤミンによって編集された書簡集『ドイツの人々』に収録されている。


 マルヴィーダ・フォン・マイゼンブークexit ☆☆☆
(Malwida von Meysenbug, 1816 – 1903)

 女性蔑視が基本のニーチェがしく尊敬する女性バイロイトの起工式で初めて会ったとき、ニーチェは、マイゼンブークの聡明さに気付いたという。ただし、ニーチェは、それ以前からマイゼンブークの──匿名で出版された──『ある理想義者の回想』を熱心に読んでいた。
 マイゼンブークは、自由に言論できるサロンを開き、作家芸術家応援していた。そのため、ワーグナーのみならず、ロマンロランガリバルディなどとも顔見知りである。ニーチェがバイロイト祝祭劇場逃げ出した後も、ニーチェ、レーとともにソレントで合宿したりと、手厚く支援している。このとき『人間的、あまりに人間的』が仕上げられた。エリーザベトと共にニーチェの結婚話を進めようとしたり、レーとルーを引き合わせたりと、とても世話好きの女性である。
 しかし、『ワーグナーの場合』が出版されると、こうした温かい関係も冷え込むこととなる。


 ウルルートヴィヒ・カールハインリヒ・レー ★★★
Paul Ludwig Carl Heinrich Rée, 1849 – 1901)

 いわゆるウル・レー。中期ニーチェに不可欠のを与えた友人。本人はプロテスタントだが、両ユダヤ教徒(つまりユダヤ人)。道徳の背後にある心理を分析しアフォリズムという形で暴露する方法は、ニーチェに引き継がれ、系譜学において一つの完成形を見る。まあ、レーのせいで、ニーチェの著作の多くが読みにくいアフォリズム集になったとも言えるのだが…。
 が悪いため原稿の校正に苦心していたニーチェにタイプライタープレゼントしたりもしている。

  ルー・ザロメとしくなるためニーチェの助けを借りようとするが、ニーチェまでもルーに惚れてしまう。結局、ニーチェの自爆によって、三角関係においては勝利を収めるも、自らルーの心を射止めるには至らず。遺書とも取れるのメモを残して転落死…事故なのか自殺なのか。


 ルー・アンドレアス=ザロメexit 
(Lou Andreas-Salomé, 1861 – 1937; Луиза Густавовна Саломе)

 ロシア出身の著述エッセイスト、精分析
 自由空気と新しい知識をめてロシアから西ヨーロッパにやってくる。マイゼンブークの紹介でレーと知り合い、レーの仲介でニーチェと知り合う。
 マイゼンブークは、自由めるルーの中に若い頃の自分を見出し、ルーもマイゼンブークを尊敬していた。ニーチェがルーに入れ込んだ理由の一つに、ルーの中にマイゼンブークのような自由な精を見たからかもしれない。一方で、ルーがニーチェにどういったレベルの感情を持っていたのかは、なお解釈の余地がある。

 ルーの著した『作品におけるニーチェ』は、ニーチェの思想を初めて、初期・中期・後期に分けたものと知られる。この著作を書いた後だが、ルーフロイトに精分析の手ほどきを受けており、またアンナフロイトがこの著作を精分析の先取りと評しているため、『作品におけるニーチェ』は、ニーチェについての精分析として読むことができるかも知れない(ただ、後の新フロイト義につながるアンナフロイトに評価されても微妙かも知れないが)


 フリードリヒ・ヴィルヘルム・リッチュルexit ☆☆☆
Friedrich Wilhelm Ritschl, 1806 - 1876)

 ボン大学ライプツィヒ大学時代のニーチェの教授
 ボン大学古典文献学の基礎を築いた一人。ボン大学での学内政争に敗れてライプツィヒ大学に移る。それにともない、ニーチェもライプツィヒ大学に…。ライプツィヒ大学を新たな拠点に「文献学研究会」を組織し、まだ学生だったニーチェにバリバリ仕事研究をさせる(昔はこんな大学先生よくいた)
 ニーチェのバーゼル大学教授就任を旋するが、これはバーゼル文教担当官がリッチュルの関係者であったため可だった。教授資格論文はおろか博士論文も執筆してないニーチェが大学教授に就任するのは異例のことだったが、リッチュルは、ニーチェが受賞した懸賞論文「ディオゲネス・ラエルティオスの典拠について」をにしてニーチェの人事を進めた。しかし、懸賞論文のテーマディオゲネス・ラエルティオスだったということは、事前にリッチュルからニーチェにリークされていたのである。
 ニーチェの就職を急がせた理由として、ニーチェの文献学に対する関心の喪失をリッチュルが懸念したからだとする研究もある。リッチュルの懸念が現実のものとなったのか、ニーチェは『悲劇の誕生』で実的な歴史研究から逸脱していくことになる。リッチュルは、学問的研究を軽んじて哲学に救いをめるニーチェを厳重注意するが、皮にも、こうした忠告は、ワーグナーからニーチェが受けた忠告と重なるものでもあった。

 リッチュルは、古典学の中心にテクストクリティークを置くという方法を採った。つまり、歴史学において文字情報第一義を取った。ニーチェが文献学・歴史学批判するとき、やたら本を読まされることを挙げることが多いが、これはリッチュルの方法に対する批判になってはいても、歴史研究全般への批判にはなっていない。


※その他、コジマワーグナーブルハルトローデ、ドイッセンなど、挙げていればきりがないのでこの辺で。また、ショーペンハウアーのように面識がない人物は省く。

ショーペンハウアーとワーグナーの影響

ニーチェは「俺ら」である

 ニーチェは哲学ショーペンハウアーと作曲ワーグナーから大きなを受けている。このことは、「俺ら」的にとても興味深い。

 生命溢れる哲学イメージされるニーチェであるが、とにかく運動音痴数学が苦手。おまけコミュ障である。ペンを握ったときだけ、攻撃性がむき出しになる。そして、最後には、オカン介護するどころかオカン介護される。まさに「俺ら」。「俺ら」と違うのは、「プフォルタ学院」という名門校を卒業した高学歴と、一人暮らしに身の回りの世話するため来てくれるがいることくらいである(ブラコンだと噂されるエリーザベトであるが、当時のドイツでも、男性に奉仕するのが女性の美徳だった。ニーチェの家族くにを亡くしていたので、好むと好まざるとにかかわらず、長男であったフリードリヒサポートするのがエリーザベトにとって状況的に自然なのである)。

 つまり、ニーチェは、体育会系ではなく、圧倒的に文化系(しかも理系ではなく文系)であり、い顔して屋内に籠もるような人間だった。そんなニーチェがワーグナー中になるということは、非常に俺ら的なのである。ワーグナーなどのクラシック音楽世界は、俺らに縁がないように思える。けれども、ネットテレビもなかった頃、つまり複製芸術が普及する以前、生で触れる音楽演劇は結構ポピュラーな娯楽だった(もちろんそれなりに時間のある人に限られたが)。ニーチェは、俺ら映画アニメ中になるように、ワーグナー中になった。

 そんなニーチェは、自分の専門である古典文献学を活かしてワーグナー応援したい、という痛々しい計画を思いつく。「古典文献学」というと聞き慣れないだろうけれども、要は歴史学であり、ニーチェの専門は古代ギリシャであった。
 しかし、資料を読み込んだり発掘したりして、客観的な事実追求する歴史学(ニーチェの同時代にあのシュリーマントロイアを発掘している)と、虚構の世界を作り出すワーグナーとでは、根本的に住む世界が違う。考のようなものもできない。ニーチェの専門は古代ギリシャだが、ワーグナーの作品群はゲルマンケルト神話伝説に範を取っているからである。
 そこでニーチェは、大学時代に読み込んでおりワーグナーとの共通の話題でもあったショーペンハウアーの哲学を使って、ギリシャ悲劇とワーグナー創作活動とを架する「設定」を練り上げ、歴史学は、客観事実ではなく、歴史的な神話らせることに、その使命がある、とするに至ったのである(なんという中二病!)。

 その「設定」とは、俺らが生きている世界は、彼岸世界で苦悩する的存在の思い描くであって、俺ら芸術に触れるとき感じる崇高なオーラは、彼岸世界的存在に由来する…だから、古代と現代とかそういう相対的な差異は本質的な障にならないと大体こういった感じのものである。

 こうしたニーチェの企みは、三つの方面において失敗している。

 まず、ニーチェは、ショーペンハウアーを理解していなかった。当然である。ショーペンハウアーを理解するには、かなりの程度でカント哲学を理解していなければならない。しかし、ニーチェの専門は、あくまで歴史学であり、哲学はずぶの素人である。そもそも、数学がダメな時点で、哲学むきではない。ニーチェがロゴスを批判したのは、ロゴスの本質を知っていたからではなく、ロゴスが苦手だったからではないかという疑いすら生ずる。

 また、ニーチェは、歴史学の業界での信用を決定的に失う。ニーチェは若くしてバーゼル大学教授になったので優秀な古典文献学者だったとみなすむきもあるが、この就職はコネによるものであり、ニーチェは大学に就職するための論文すら書いていない。それぐらいコネが大事な世界で信用を失うことは致命的である。ニーチェの時代の歴史学は、実的な学問研究として自らをし始めていた。そんな折に、神話など歴史的なものを追求することこそが歴史学の役割だ、など言い出すヤツはトンデモもいいところである。学界側は、特別ニーチェに冷たくしたのではなく、当然の対処をしたまでなのである。

 しかし、最も致命的だったのは、ニーチェがワーグナーを理解していなかったことである
 なにしろニーチェは、俺らである。あまりにワーグナーに入れ込みすぎて、ワーグナーを信奉してしまっていた。ある作品よりもそのファンがウザかったりその作品の信者が痛かったり、ということはよくある。ニーチェは、ワーグナー創作活動に神話的役割を期待した…大まじめにである。その入れ込み具合は、

生存世界とは、美的現としてのみ永遠に是認される。
Nur als aesthetisches Phänomen ist das Dasein und die Welt ewig gerechtfertigt.

『悲劇の誕生』第5章

という仰々しい命題によく表れている。
 しかし、ワーグナーの方はプロである。たしかにワーグナードイツ神話創造を口にしないではなかった。しかし、現実と上手く折り合いを付けながら、なによりもまず、エンターテイメントとしての音楽を着実に提供していくことを自らの仕事としていた。ワーグナーも、自分の創作活動に真剣だっただろうが、ニーチェが自分に投影するような夢物語マジで取り組む気は最初からない。だから、権者にも大衆にも、柔軟に接し、彼らの生活に余提供していた。

 これに気付いたとき、ニーチェははじめ、ワーグナーに裏切られた、と感じた。それはくしくも、ワーグナーライフワーク、『ニーベルングの指環』がバイロイト祝祭劇場で初めて上演されたときだった。しかし、ワーグナーにしてみればいい迷惑である。ワーグナーは、ニーチェが自分を応援したせいで学界から黙殺されたことを憐れみ、ニーチェを擁護する論評を発表したりしている。それだけでももらい事故なのに、勝手に滅されるのではたまったものではない。

 しかし、しばらくするとニーチェも落ち着きを取り戻す。そして、たいそうな「設定」が尾ひれとしてくっついているだけで、日々の忙しさを忘れ慰めをもらうため娯楽作品にあずかっているという点では、ワーグナーが商売相手にしている人たちと自分とは何ら変わらない、ということに気付く自分は「俺ら」だった、と。もっといえば、自分自身がみっともないがゆえに娯楽作品をめ、娯楽作品は単なる娯楽作品だと開き直れないがゆえに、アポロだ、ディオニュソスだ、神話だという形上学的な理論武装に走ってしまった、ということに気付く。
 後になってニーチェが「神は死んだ」と述べるとき、その言葉はなによりも、若い頃の自分に対して言い渡されていたのである。同時代の世相や弱者のメンタリティに向けられる辛辣なニーチェの批判は、ニーチェ自身の体験から生ずるものなのであり、ニーチェが俺らだったからこそ、ショーペンハウアーやワーグナーを脱し、自らの哲学を構築し始めることができたのである。

三位一体

ニーチェ・レー・ルー

 ニーチェ(37歳)がルー・ザロメ(21歳)に会ったのは、永劫回帰を着想して間もない1882年の4月の下旬、ローマのサン・ピエトロ寺院でのことだった。
 ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』を著したさい一緒に合宿した友人のパウル・レーに、すてきな女性紹介したい、といってローマに呼び出された。既にレーとルーは顔見知りで、レーはルーをあちこち連れ回したいと画策していた。しかし、未婚の若いが身元もはっきりしない男と一緒に出歩くのもアレなので、かつてはバーゼル大学で教を執り若者導に当たっていたニーチェを利用すれば、ルーを連れ出す言い訳も立つ、とレーは考えたのである(レーは、この計画を「三位一体」と呼んだ)。そんなことも知らずノコノコと出掛けていったニーチェは、たちまちルーに惚れ込んでしまう。
 こんなふうに書くと、レーはズルい男に見えるが、男と女、惚れた腫れたの話なら、これくらいの駆け引きはあってもいい(んじゃない?)。そもそも、レーからすると、友人に自分の恋愛の手助けをしてもらおうとしただけの話であって、ニーチェがルーに惚れてしまうのは、誤算でしかなかった。

 にしても、ニーチェは、ルーのどこに惚れたのか。
 聞くだけ野暮ってものだが、少し参考になるのが、レーからの呼び出しを受けた頃、ニーチェが友のフランツ・オーヴァーベックに宛てた手紙だ。そこでニーチェは、タイプライター調子が悪い、自分と一緒に仕事ができるくらい十分に知的で教育された若い人を身近に置きたい、この仕事のために2年間の結婚生活に入ることさえあるかも知れない、と書いている。おそらく、ニーチェは、レーの手紙に書かれていた「すてきな女性」を、着想したばかりの永劫回帰を形にするための、新たな助手にしたいと考えていたのである(ペーター・ガストえ?オレは?」)。当時、知的な分野で仕事をしている男性が、ルーチンワークなどをこなす女性の助手を妻として迎えるということはしくなかった(いまだと妻の方が有名だけど、キュリー夫妻とか…)。しかし、ニーチェにしてみると、新しい仕事のための助手というのは、ただの助手というわけでもなかったようである。というのも、ニーチェは、永劫回帰思想を共有できるような助手めていたと思われるからである。実際、『ツァラトゥストラ』の案の中には、「パーナ」という名前の、ツァラトゥストラの最もする女性子が登場するバージョンもある(パーナというのは、ディオニュソスの従者パーン女性名にしたもの)。ルーに期待をかけるニーチェの気持ちは、次のような『ツァラトゥストラ』の一節に現れていると言えるだろう。

私には、生きたづれが必要だ。
自分自身に従おうとするがゆえに私に従い──私のめるところへとむかうづれが。
Lebendige Gefährten brauche ich,
die mir folgen, weil sie sich selber folgen wollen — und dorthin, wo ich will.

──『ツァラトゥストラ』序説9

 そんなわけだから、ニーチェは、必死ルー婚した(ただしエリーザベトはそんな事実はないと否定している)。しかし、間入れず、答えはノー。当時のルー結婚する気はさらさらなかった。ルーめていたものは自由人生と新しい知識だった(のちにルー結婚するのだが…)。

 ここで諦めておけばいいのだが、スパルタ全寮制ギムナジウム出身で、大学時代も一時期を除いてゴリゴリ古典研究一筋だったニーチェには、とても空気が読めない。新しい知識をめているルーとレーのにくっついていればいつか振り向いてくれるのではないか、と淡い期待を抱いてしまう。というよりもむしろ勘違いをしてしまう。そこで、ニーチェは、パリウィーンといった大学都市で3人一緒に一つ屋根の下で学究生活を送ろう、と提案する。ルーにはニーチェの下心が見え見えだったようだが、これを断りはしなかった。
 5月には、ニーチェ、レー、ルー、そしてルーの4人で、スイス都市ルツェルンへと旅行する。このとき、荷台に乗ったルーが荷車を引く二人の男を鞭で打つ、というモチーフの有名な写真exitが撮られる。このへんてこな──当時としては悪趣味な──写真を思い付いたのはニーチェ自身だった(そして、この写真こそが、ニーチェとルーの間の微妙な関係にエリーザベトが怒り狂う引き金となる)。

 3人の共同学究生活の始まりがからと決まると、の間の身の振りが問題となった。そんなおり、ルーは、ローマで世話になっていたマルヴィーダ・フォン・マイゼンブークから、7月末に催される『パルジファル』の初演を聴くためバイロイトに行くよう勧められ、バイロイト行きを決めた。こうしたルーバイロイト行きに付き添ったのが、エリーザベトであった。これがニーチェの意志なのか、エリーザベトの意志なのか、あまりはっきりしない。ただ、エリーザベトは、ニーチェの新しい助手になってくれるかも知れない若い女性興味を持っていたし、『パルジファル』を聴きたいと思っていた。

 ルーエリーザベト。のちに不倶戴天の敵となる二人だったが、バイロイトに向かう路での心はさほど悪くはなかった。事情が悪化するのは、バイロイトに着いてからである。まだ結婚適齢期であったルーは、バイロイトの男たちからチヤホヤされたし、そのうえワーグナーコジマからも歓迎された。その一方で、エリーザベトは、ワーグナーに逆らったフリードリヒとして肩身の狭い思いをしていた。そんななか、ルーは、ルツェルンで撮られた例の荷写真バイロイトの人たちに見せびらかしていたのである。荷写真は、当時の紳士淑女がらすると、メチャクチャ恥ずかしい写真であり、それを見せて回られるというのは、SNSに載せてしまったバカ写真拡散されるようなものである。エリーザベトは、の反逆ののちもバイロイトの人たちと良い関係でいたいと思っていたが、それでも、ニーチェ>>越えられない壁>>バイロイ、という構図は固いものだった。そのため、ルーのこうした振る舞いは許せなかった。にもかかわらず、怒りを抑えていたエリーザベトに追い打ちをかけたのは、ニーチェがルーと一つ屋根の下で暮らそうと論んでいるということを今さらルーの口から聞かされた、ということである。ニーチェは、にこの同棲の計画を黙っていた。古き良き礼節を重んずるがこの計画を恥じて反対することは火を見るよりも明らかだったからである。ショックを受けたエリーザベトは、静を装いながら、ルーを残してバイロイトをあとにした。

 8月エリーザベトからバイロイトでのルーの振る舞いを聞いたニーチェは、いささか困惑させられた。しかし、のちのち落ち合うことにはなっていたので、イェーナチューリンゲン州)にいるルーのもとへエリーザベトを迎えにやった。二人のキャットファイトはまさにこのイェーナで闘われた。
 エリーザベトは、説教する。若い未婚の女性ならばもっとレディらしくにふるまうように、と。しかし、ルーにとって、そんな古くさいお説教は聴くに値しないものだった。ここに2人のメンタリティの違いがよく表れている。ルーは、知識をめてロシアから西ヨーロッパにやってきて、スイスイタリアなどを、自由闊達に飛び回る女性である。これに対して、エリーザベトは、保守的な地方都市の礼節を重んずる牧師のであり、最終学歴ドレスデン学校である(ニーチェはこれを「ナウムブルクの美徳」と呼んでいる)。エリーザベトも、オールミスに甘んじているところや、のちのち、植民地経営のために冒険の日々を送ったり、ニーチェ・アルヒーフ設立のため辣腕を振るったりとするところからして、決して地方都市淑女という器に収まらないのはたしかである。それでも、こんにちなお古典となっているニーチェ解説書『作品におけるニーチェ』を書いたり、20世紀でもをひそめられた精分析にいちく関心を寄せたりするルーべれば、レベル差がありすぎる。二人の話は噛み合わなかった。しかし、ルーのような破廉恥女に言い寄られると、ニーチェの名誉が傷つく、とエリーザベトが罵ると、さすがのルーも許せなかったと見える。自分はニーチェという男に対してはなんの恋愛感情も抱いてないのに、学問的関心を口にしながらも淫らな下心を抱いて自分に近寄ってくる男こそエリーザベトのフリードリヒ・ニーチェその人だ、とルーは言い切った
 ルーのこの言葉は、エリーザベトにとって致命的だった。エリーザベトは口げんかは得意な方なのだが、ルー自由な精から発せられるルール用の礼節を欠いた言葉とやり合うすべを知らなかった。そして、なにより痛手となったのが、エリーザベトの抱くへの尊敬が根拠のない独りよがりだったということを思い知らされたことである。エリーザベトは別にブラコンではない! しかし、名門校プフォルタ学院に学費免除で通って卒業し、弱冠24歳で──しかも教授資格論文はおろか博士論文も免除で──バーゼル大学教授に就任したニーチェは、エリーザベトと家族にとって誇りだった(実際のところ、バーゼル大学教授就任は、コネによるもので、教授資格論文・博士論文免除の理由ともなった懸賞論文の受賞も、出来レースでありニーチェの実ではない)。そうしたニーチェ一家の誇りであるフリードリヒが、女性から言い寄られることはあっても、性道徳を欠いた女性に自ら言い寄っていくなどありえないはずであり、バイロイトで笑いものにされるなど許せないことだった。少なくとも、エリーザベトの内設定において、ニーチェは、もっと評価されるべき天才のはずだった。しかし、エリーザベトと家族の誇りなど、ニーチェの地元を一歩出ればどうでもいいことであり、ロシアの地からやってきたルーにとってはなおさらである。ニーチェには興味がない、というルーの態度は、まさにエリーザベトの偶像を打ち砕いた。アラフォーの未婚女性のささやかな誇りを粉々にした。結局のところ、エリーザベトを怒らせたのは、ルーに近付いたことではない。そうではなく、ルーがニーチェのことを庸な男性と見なし、なんらの好意も敬意も抱かなかったことこそがエリーザベトの逆鱗に触れたのである
 その後、イェーナにほど近い避暑地で、ニーチェ、ルーエリーザベトが合流する。ルーと再会して内心ウキウキのニーチェだったが、バイロイトでのルーの振る舞いをたしなめてしまう! というのも、著作の中でこそラディカル道徳批判するニーチェだったが、私生活においては、折り正しくふるまってしまうチキンだからである。このことは、ニーチェに対するルーの不信を強めた。それはニーチェの言ってることとやってることが違うからではない。ニーチェがルー「たしなめた」からである。たしかに、ルーは、ニーチェに自分の学究生活サポートをしてもらってはいた。しかし、それでも、ルーに言わせれば、自分はニーチェの子でも助手でも婚約者でもないのである。一体どういうつもりで、たしなめたりするというのか。ニーチェは、永劫回帰思想を共有できる新しいづれを探していた。そして、まさにそれを得んとしている、と思っていた。しかし、そもそものはじめから突っぱねられていたのである。ニーチェはそんなことも分かっていなかった。兄妹そろって独りよがっていたのである。8月の終わり、ルーはひとまずニーチェのもとを離れる。

  • 【ちょい補足】
    • 当時のルーがニーチェをどうでもいいヤツとまで思っていたかは怪しい。たしかに、アラフォーのくせして中学生のようにウブなニーチェがルーの手のひらの上で転がされていたことは、想像に難くない。ファザコンだったという容疑すらあるルーが、身体は大人・中身は子どものニーチェに恋愛感情を持ったというのは考えにくい。しかし、文章を添削してもらったり、ジェンダーについて議論したりと、知的な分野ではかなり仲良くしてはいたのである。 ──問題なのは、この時期のニーチェとルーの関係を示す史料の信頼性である。一方で、ニーチェがルーに言い寄ったという事実抹消したいエリーザベトは、手紙竄し伝記にも事実と異なることを記した(このことは、カール・シュレヒタによって綿密に暴かれたのでよく知られている)。しかし、もう一方で、ルーの残した回想録も、ニーチェのこととなると切れが悪い。もともとルー自由な気質だっただろうが、若さに任せて男を振り回していたとなると外聞も良くない。その相手が既に有名になっていたニーチェであればなおさらである。エリーザベトにもルーにも、程度の差こそあれ、この時期のことにはに認めたくない点があるようであり、そのことが事態を怪しく面くしてくれている。

 ニーチェ、レー、ルーの三人が再び合流したのは、10月初めのライプツィヒだった。ニーチェとルーの間にはかなりの距離ができていたのに対し、レーとルー距離は縮まっていた。そして、ニーチェは愚かにも、レーの悪口を言ってルーとの関係を回復しようとした。ルーは当然ドン引きである。11月の初め、ニーチェは、レー、ルーと別れる。その後、再会することはなかった。12月の終わりに、ニーチェは、2人に宛てて、自殺をほのめかす手紙を書く。当然、2人の──特にルーの?──気を引きたいからであろう(その後、レーとルーは、しばらくベルリンで暮らすが、結局ルーはレーも突っぱねる)。

  このようにして、ニーチェの新しいづれを探すは終わる。12月の中頃ルーに宛てて用意していた手紙稿で2人が会った頃を回想し、自分の哲学のすべて(すなわち永劫回帰思想)をルーに教えてあげようと心に決めていた、とニーチェは記している。なんとも痛々しい哲学の押し売りだが、永劫回帰思想は、づれと共有するのではなく、自分自身で体現しなければならないものである、とニーチェが考えるようになったのは、この失恋がきっかけだったのかも知れない。子たちのもとを離れたツァラトゥストラは次のようにっている。

かつて、創造者は、づれと自らの希望子どもたちを探した。
すると見よ、そうしたづれは、まず自ら創造しなければ見出せないということが分かった。
Gefährten suchte einst der Schaffende und Kinder seiner Hoffnung:
und siehe, es fand sich,
dass er sie nicht findennne, es sei denn, er schaffe sie selber erst.

──『ツァラトゥストラ』「来ては困る幸福」

 「私には、生きたづれが必要だ」とられていた『ツァラトゥストラ』第1部は、こうした失恋のあとに完成している。つまり、づれを探し、やがて子のもとを離れ、自ら永劫回帰を実現しようとする、という『ツァラトゥストラ』の物語は、1882年の痛ましい失恋の体験を肥やしにして書き上げられている。…だが、そんなの労作『ツァラトゥストラ』も、しばらくは出版社の倉庫に眠ったままであった。
 

くりかえし考えなければならないもの ニーチェの思想はそれなのだ

現代思想の先駆者?

、ツァラトゥストラよ。今なお深淵を愛さんや? モミの木のごとく。
— Aber du, Zarathustra,
 liebst den Abgrund noch,
 thust der Tanne es gleich? —


──『ディオニュソス・ディテュランボス』「猛禽の間にて」

 ロマン義の残と勃する実義とのせめぎあいのなか、ニーチェは、人間における在を探した。ニーチェは、その時代の例外者であり、単独者であり、やがてアンチクリストを自認するようになる。例外者とは普遍性に包摂されない人間で、それは「外(ex)」に「立っている(sistere)」者であり、世界の内に投げ入れられつつ自らを投企する者である。つまり、例外者は、あらゆる普遍性を個別的に突き破る者なのである。

 

 …こうしたニーチェ解釈は、実存義が盛を誇った頃になされたニーチェの注解に見出される。たしかに、ニーチェは、人間の精を呪縛する宗教芸術、そしてなにより道徳を強く批判していた。こうしたところが、自己の存在を起点に物事を考えていこうとする実存義には魅に思えたのかも知れない。しかし、ニーチェは、人間が自らの意志により自己決定することなどとうていできない、ということにも自覚的だったのであり、こうした点において、ニーチェの思想は、実存義と相容れない性格を持っている。実存義への批判となったフランスポストモダンによってニーチェが再発見されたのも、単なる思想の潮流ではなく、思想の内容からして、当然の成り行きだったと言えるだろう。
 ポストモダンによるニーチェの再発見が、20世紀初頭の思想運動(ドイツ青年運動保守革命ナチズム、実存義など)によって覆い隠されていたニーチェの洞察を引き出したのはたしかである。しかしながらニーチェは、マルクスキルゴールと同じく、19世紀の思想である。ニーチェは、世界大戦を知らなかった。ニーチェが批判している民主主義も、こんにちよりずっと封建的な民主主義だった。それどころか、民主主義を敷いているヨーロッパでも非常に少なかった。中央集権国家は生まれつつあったときであり、都市大学が強い政治を持っていた。キリスト教への懐疑はだれのにも明らかだったけれども、一応キリスト者としてふるまうのが社会常識だった。こうした時代において構想されたニーチェの思想に、こんにち私たちが感じている大衆社会の問題、技術文明の問題、民主主義の問題などを恣意的投影するということは、再びニーチェの思想を覆い隠すことになりかねない。つまり何が言いたいかというと、19世紀のヨーロッパをちゃんとイメージしないと、ニーチェが何を言ってるのかマジで分かんなくなる、ということである

 

『悲劇の誕生』の思想

生涯の「ショーペンハウアーとワーグナーの影響」の項も参照

 1872年、ニーチェは、『悲劇の誕生』を世に出した。それは、古典文献学の書を装いながら、芸術における新しい人間救済の理想をかかげる試みであった。ニーチェによれば、私たちの日常における安寧はかりそめのものであり、自然の内なる野蛮なによって、いつ引き裂かれるかも分からないほどもろいものだとされる。ニーチェは、自然の内なる野蛮なと、そうした野蛮を押さえ込む知性のとを、古典文献学の伝統から拝借した名前でもって、「ディオニュソス」と「アポロ」と名付けた。このように、自然の「ディオニュソス」と古代ギリシャ文化の「アポロ」という二つの原理を立て、両者の対立が芸術作品を産出するとして、ニーチェは、古代ギリシア芸術史を形上学的に説明した。そして、ディオニュソスという野蛮なアポロを引き裂いてしまう様子を作品として形作ったものこそが、古代ギリシャ人最高の芸術作品、ギリシャ悲劇であるとした。こうしたディオニュソスの破壊のは、むきだしのまま発露してしまうと、生命体そのものをも破壊してしまうが、アポロによって悲劇として結晶化することにより、日常における「れ彼れ」の区別がかりそめであることを開示し、人間人間と、そして人間自然との和解を作り出すとされる。

  • 【もうちょっと詳しく…】
    • え?なに言ってんのか分かんない?──たぶんまっとうな知性の持ちだったらそう感じるはず。だって、かなり突拍子もないこと言ってるからね。『悲劇の誕生』の世界設定によると、この世界は、現実には存在せず、本当の意味で存在している神様みたいなヤツが思い描いているみたいなものだ、ということになっている。時間とか間とか原因・結果とか、そういったものも全部まぼろし…。に存在する神様の苦悩から沸き上がってくる破壊のがこうした不安定な夢の世界を突き崩そうする。これがディオニュソス。一方で、神様は、破壊を免れようと自らを固く守る。これがアポロディオニュソスとアポロは、根にいる一の神様から発する二つので、根っこをたどれば同じところに帰着する。だから、この世界に存在するように見える、あれこれの物も、個々の人間も、バラバラに見えているだけで、根においては同一だとされる。このディオニュソスとアポロがぶつかるときなんで芸術作品が生まれるかというと、アポロのまぼろしがディオニュソスのを強く強く抑え込んだとき、神様も自分の苦しみを忘れることができて、神様分身である人間も「美しい」という気持ちにあやかることができるかららしい。これがニーチェの考える新しい救済の形上学なのだ。 ──『悲劇の誕生』の世界設定を感覚的にイメージしたければ、ワーグナーの楽劇のDVDとかを借りてきて観るといいネットに転がってると思うけど)。観客からは見えないオーケストラピットの中で間断なく一体となって奏でられる音楽ディオニュソス(あるいは、苦悩する神様のうなりみたいに考えてもいい)。舞台の上でとなった音楽を歌う俳優たちの歌アポロ。ようするに、ニーチェは、ワーグナー舞台装置を、あらゆる芸術ジャンルモデルにしようとしただけではなく、宇宙論にまで拡するというをやっている。DVDとかで観ると、オーケストラも撮されているから、あんまり参考にならないかもしれない。劇場の客席に座ったときが一番ピッタリくるはず。だけど、日本ワーグナーの楽劇が演奏される機会は少ないし、チケットはン玉が飛び出るような値段だ

 補足はこれくらいにしておきたい。ニーチェによれば、最高の芸術作品にして最高の救済手段であったギリシャ悲劇を滅ぼしたものは、知性を重んずる「ソクラテス義」だったとされる。さらに、ニーチェは、古典ギリシャからのヨーロッパの転落を、ソクラテス義の侵食として描き、当時のヨーロッパ、とりわけドイツの教養義や古典文献学をこうしたソクラテス義として批判した。こうしたソクラテス義からの脱出路として、ニーチェは、古典文献学による神話再生を唱え、神話という基礎のもと、ギリシャ悲劇の再生であるワーグナー音楽によって、ただの戦争による統一ではなく、の意味で新しいドイツ民族の統一が成し遂げられる、とした。

 出版当時、大変不評だったこの作品だが、現在古典ギリシャのことも、演劇のことも、音楽のことも、ワーグナーのことも知らないただの読書たちから芸術論上の不朽の名作と呼ばれている。しかし、1886年に再版された『悲劇の誕生』第二版において、ニーチェは、かつてみずからが著した『悲劇の誕生』を厳しく批判している。

 『悲劇の誕生』は、──とりわけその終盤部分は──ニーチェにしてはしく、ナショナリズムの傾向が強く、これは、20世紀の保守革命の思想と多くの共通点を持つ。20世紀初頭において、『ツァラトゥストラ』に劣らず『悲劇の誕生』が読まれたのも、こうした事情がある。しかし、こうした性格を持つ著作だからこそ、後々のニーチェは、これを黒歴史扱いしていると言える。

道徳批判の思想

芸術の批判から道徳の批判へ

 『悲劇の誕生』の試みで辛をなめたニーチェは、その失敗を振り返ってみる。

 『悲劇の誕生』の狙いとはなんだったか。それは、ワーグナーの理想をサポートすること。つまり、芸術による人間の救済という理想のサポートである。同じ標に向かっているつもりだったのに、なぜニーチェとワーグナーはすれ違ったのか。ニーチェが高潔でワーグナーが俗物だったからではない。2人の間には、まさにと子との間といえるジェネレーションギャップがある(くしくも、ニーチェのカールは、ワーグナーと同い年である)。ワーグナーの世代には、1848年の3月革命の経験がある。ワーグナーは、プロイセン軍への抵抗に参加して指名手配されているし、マイゼンブークは、女性のための大学革に参加している。ちなみに、ゴリゴリ保守であるニーチェのは、国王の忠実なしもべたるべき臣民の反逆にブチ切れていた。
 この革命は、言わずもがな、挫折に終わる。当時3歳だったニーチェには、こうした時代の動きが理解できない。だから、世の中を動かすということがどんなに困難であるかをワーグナーの世代が肌身をもって知っているのに対して、ニーチェの世代にはまったく実感がない。芸術についても、ワーグナーには、三月以降(Nachmärz)の現実的な見方があったのに対して、ニーチェは、まったく歴史現実が見えていなかった。民族の統一という役割を担う神話的な芸術は、もはや過去のものとなりつつあった。ニーチェは、やっとこのことに気付く。こうした時代状況を、ニーチェは、日が沈んだあとになって燃え上がる夕焼けに喩えている。ニーチェが『悲劇の誕生』で捉えていたのは、芸術の残でしかなかった。そして、この芸術の残にあれこれと理屈が付けられていたに過ぎなかった。

 しかし、ここからが歴史を専門とするニーチェの腕の見せ所である。現代の芸術夕焼けだとするなら、陽が高かった頃の芸術はどんなだったか。太古芸術はどんなものか。ニーチェは、時計の針をもどす。太古芸術は、もちろんエンターテイメントではない。その意味で『悲劇の誕生』の認識は、あながち間違っていないのである。つまり、民族共同体を統一する神話の役割こそ、太古芸術の役割にほかならない。芸術家民族教師であり、芸術作品は教育のための媒体であった。例えば、ホメロス古代ギリシャの勇敢な戦士の振る舞いを教えていたように。ダビデの篇がイスラエルの民にを畏れる心を教えていたように。このように、民族共同体アイデンティティを形作りキープしていくのが太古芸術の機だった、とニーチェは分析する。
 では、ホメロスダビデの篇が、──その他、太古芸術が──それぞれの民族に教えているものは何か。それは、それぞれの民族共同体における美徳つまり道徳を教えているのである。太古芸術のもとにおいて、vox populi, vox Dei(民の)ということわざ現実のものとなっている、とニーチェは言う。民族の伝統となっている道徳が、芸術を通してり直されると、あたかものようにくけれども、その内実は民族が堅持してきた美徳なのである。芸術という太陽地平線の下に沈んだあと、く燃える夕焼けだけを見ていると、芸術道徳的な機に気付くことはできない。19世紀においては、民族アイデンティティを教え込むという芸術における機が──とりわけその道徳的基盤が──忘却されているのである。

 3月革命に連なるヨーロッパの啓的な運動は、信仰への懐疑を作り出し、道徳を動揺させる。こうしたなか、道徳的な機を失いながらも、かすかに秘的な雰囲気を残している芸術に、人々はなんともいえない魔力を感じて引きつけられる。ニーチェもまたそんな1人だった。
 芸術の起は看破される。それは、芸術というものを、歴史的なプロセスの中に置き、忘却という人間の心理に照らし合わせることによって、はじめて明らかになる。『悲劇の誕生』と『反時代的考察』において、「歴史的なもの」とみなされていた芸術は、歴史の中に置き直される。

 では、芸術の起明らかになったいま、何がなされるべきか。現代の芸術に再び道徳的な機を取り戻すべきか。それは時代が許してくれない。そんなことをしても『悲劇の誕生』の轍を踏むだけである。いまは芸術という時計の針を進めるときである。それは、幾千年という歴史を経たいま、芸術が私たちに与えてくれた認識、すなわち「どんなものであっても、生きるということ、それはいいものだ」という認識をブラッシュアップすることである。このことによって、芸術は捨てられ、学問的な認識に取って替わられる。

 ただし、新しい認識をブラッシュアップするうえで最大の敵がいまなお残る。それこそが道徳である。

よくある誤解

ニーチェの道徳批判=キリスト教道徳批判?

 ニーチェの道徳批判についてよくある誤解は──

強いこと=よい(gut)v.s. 弱いこと=わるい(schlecht)

という対立図式を尺度にして、ニーチェがキリスト教道徳市民社会批判した、というものである。こうしたニーチェ解釈によれば、キリスト教道徳は、弱さに対して、謹み、優しさ、義しさ、といった美徳の名を与えて、生命の根底にあるめてやまない欲求弱体化させた、とされる。そして、こうしたキリスト教道徳によって抑圧されていた欲求すなわちへの意志を解き放つことこそが、ニーチェの新しい理想だと解釈される。そして、この新しい理想にかなった人間像こそ、金髪野獣であり、自由であり、人なのだ、と。

 しかし、ニーチェの道徳批判についてのこうした解釈は、色々と褄が合わない。

 そもそも、キリスト教道徳は、どのように作り出されるのか。そこにはまず、強者が強者であり、弱者が弱者である、という前提がある。こうした状況下で、強者は自らの強さを満喫している一方で、弱者は強者に嫉妬心を抱く。これが、かの有名なルサンチマン(ressentiment)である。しかし、なぜ弱者は、ルサンチマンを抱くのか。それは、弱者が強くなりたい、と思っているからである。つまり、弱者は、強者に劣らず、いや強者以上に、への意志を抱いているのである。こうしたへの意志は、強くなりたいという欲求を満たすため、新しい道徳を作り出す。例えば、慎み深く暴力に手向かうことがないということこそが本当の強さだ、という価値を創造することによって。こうすることによって、抑圧されたへの意志は、強さをめる欲求を満たす。
 ようするに、キリスト教道徳は、への意志が自らの欲求を満たすために創造したものであり、もともとはへの意志を抑圧するものではないのである。への意志を抑圧するものとしてキリスト教道徳批判する論法は、キリスト教道徳についてのニーチェの分析と噛み合っていない。
 さらに問題なのが、道徳批判遂するためにキリスト教道徳は有効である、とニーチェがみなしているという事実である。場合によっては、キリスト教道徳がニーチェの心強い味方となる状況もあるのだ。

 もちろん、ニーチェは、キリスト教道徳を厳しく攻撃している。このことは、紛れもない事実である。しかし、このことから、ニーチェの道徳批判、すなわち、キリスト教道徳批判、と結論付けることはできない。キリスト教道徳は、ニーチェのターゲットの一つに過ぎない。ニーチェが批判しているのは、道徳の全体である。

 金髪野獣

  • 【ニーチェって貴族道徳を褒めてたんじゃないの】
    • 結論から言うと、理論上は褒めていない。ニーチェ個人の感情としては、共感や憧憬に似たものがあるのはたしかであり、色々と好ましい形容がされる。好ましい形容がされているのに、なんで理論上は褒めてない、ってことになるのか。その理由は、道徳ってものがどのように作られるかという点についての、ニーチェによる歴史的な分析に立ち戻ると分かる。貴族道徳も永遠の昔からあるわけではない。貴族道徳もいつかの時点で創造されたものである。つまり、キリスト教道徳貴族道徳の支配下で敗北感を味わった弱者たちによって創造されたように、貴族道徳もなにか別の道徳の支配下で敗北を味わった人たちによって創造されたものなのだ(ただし、貴族道徳の前にどんな道徳があったのかは全くられないし、そもそもったところで理論の説得に変化はない)。こうした道徳による下克上の繰り返しは、どこまでも遡ることができるのであって、貴族道徳が特別な根だというわけではない。ニーチェが貴族道徳キリスト教道徳較するのは、一方を好ましい理想として示すためではなく、両者が見たにはかなり違っていても、自分は強いと信じたがるへの意志に作り出されたものだという点では同じ本質を持っている、ということを示すためなのである。

道徳的先入見の思想

道徳の本質は人間を瞞すということである

 ニーチェは、──キリスト教道徳だけでなく──一切の道徳批判する。しかし、なぜニーチェは道徳批判するのか。それは、への意志を弱体化させるからではない。道徳は、への意志のツールに過ぎず、への意志が自ら欲求を満たすために道徳を作り出しているのである。

 道徳批判されるのは、それが──への意志が作り出した──ウソだからである。キリスト教道徳の例にもあるように、への意志は、自分が強いと信じ込むために、ウソの価値を作り出す。そして、人間は、こうしたウソの価値を尺度にして物を見るようになる。こうした価値は、時代を経ていくうちに疑われなくなり、人間の精をすっかり支配するようになる。人間は、どんなふうに生きようか、なんのために生きていこうか、と考えるとき、知らず知らずのうちに道徳コントロールのもとで考えざるを得なくなるのである。
 こうした道徳によるマインド・コントロールこそ、「どんなものであれ、生きること、それはいいものだ」という芸術によって与えられた認識の最大の妨げになる。しかし、道徳というものは、「こうした生き方はいいものだ」・「こうした生き方はよくないものだ」という物の見方を人間に押しつける。というよりも、人間が自らそうした物の見方を積極的に身に付ける。なぜなら、道徳的な物の見方を身に付けようとしないということは、「よくないこと」だからである。つまり、道徳が幅を利かせているかぎり、生きることそのもののよさ、という認識は排除されてしまうことになる。──だから、キリスト教道徳にかぎらず、一切の道徳批判されねばならない。道徳というものは、生きることそのもののよさをウソの価値で覆い隠してしまうからである。

神は死んだ

道徳の支配は道徳によって終わる

 しかし、ここで大きな矛盾が生じてくる。道徳による強マインド・コントロールのもとに置かれている人間が、どうやって道徳批判するというのか。

 ニーチェによれば、長い道徳歴史を通じて、こうした矛盾を解消するきっかけを与えてくれたものこそ、キリスト教なのだという。キリスト教は、単なるルサンチマンの産物に尽きない。イスラエルの民の道徳底的に守り抜こうとするあまり、道徳を守り抜くことはできないのではないか、という疑いを抱くことから、キリスト教は生じてきた。こうした性格を持つキリスト教は、道徳の価値を素に信じる精のうちに、道徳に対する懐疑を植え付ける。道徳を順守してるつもりだったけど、オレって罪人なんじゃね…という罪の意識を作り出すことによって。キリスト教自体は、一つの道徳として、つまりキリスト教道徳として定着してしまう。けれども、キリスト教が産み出した道徳に対する懐疑は、本当に道徳は実現可なのか、という本当さを問いかける意志、すなわち、真理への意志に結実する。ここにおいて、ウソの価値を作り上げることを本質とする道徳が、真理という価値を追究するようになる。道徳道徳自身にとって最も命取りな価値である真理追究したとき、遂に道徳人間に対する支配を失うことになる。ニーチェは、こうした事態に触れ、を殺した。道徳道徳性によって死んだ」と述べている。

 の死は、無神論を宣言することなどではない。そうではなく、道徳歴史を引き継いできた人類が、自らの支配者であった道徳を打ち倒してしまったことを意味する(だから、「神は死んだ」と告知したとき、既にだれものことを信じてはいないのである)。それゆえに、かつて、道徳人間を支配していた時代、は生きていたのであり、人間を支配していたのである。
 人間を支配する道徳から精自由になったときこそ、「生きるということはいいものだ」という芸術の認識を確かなものとするときである。しかし、そうした認識を確かなものとするにはどうすればいいのか。言い換えるならば、生きることを肯定するとはどういうことか。こうした問題に答えるために着想されるのが、永劫回帰思想である。

  • 【本当に神は死んだのか】
    • 神様が死んだんだから、人間の精を支配する道徳の脅威は過ぎ去ったんだし、あれこれ騒がなくてもいいんじゃね、という意見もあるかも知れない。しかし、道徳の脅威はくならない。なぜなら、道徳というのは、への意志という黒幕が送り出してくる〈手先〉に過ぎないからであり、長きに渡ってヨーロッパを支配していた道徳が死に絶えたように見えても、次の道徳が支配権を握るのは時間の問題だからである。なので、ニーチェは、が死んだあとでも、同時代において勃しつつある道徳批判する。例えば、ナショナリズムとか、民主主義とか、歴史義などがそうである。──そういう意味では、「神は死んだ」というキャッチフレーズ自体が、かなり言い過ぎなのである。実際には、真理追究し始めた道徳パンチをもらった神様が、一を回しているくらいのことでしかない。なぜなら、人間が生きているかぎり、自分は強いと信じたがる欲求は生き続けるからであり、こうしたへの意志は、道徳創造して自分の欲求を満たすからである。

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 ::::::::        │ キリスト教道徳がやられたようだな…  │
 :::::   ┌───── └───────────v────┬───┘
 :::::   │ ヨーロッパ道徳の中で最弱 …     │
┌────  └────────v ───┬─────────┘
│  真理に忠実であろうとするなど  │
│  道徳の面汚しよ         │
└────v─────────────┘
  |ミ, /  `ヽ /!    ,.──、
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ   ト `=j r=レ     /ミ !彡
T | / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|
 /人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /
 /  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\
  ナショナリズム   民主主義     歴史

 

永劫回帰思想

最高の肯定の方式

 ニーチェの後期思想の題は『ツァラトゥストラ』に見られる永劫回帰思想である。永劫回帰思想こそ、「生きることはいいものだ」という認識を裏書きして生を肯定するとはどういうことか、という問題に対する答えである。

 永劫回帰思想によれば、宇宙永遠に繰り返す円環運動であり、各人の人生もまた永遠に繰り返す円環運動である。世界は、喜びだけではなく、苦しみにも満ちあふれており、この苦悩が永遠に生死の反復を繰り返す(これを敢えて実存義的な表現に置き換えれば、永遠に転がり落ちる巨大な岩を山頂に持ち上げ続けるシーシュポスに喩えられる)世界と生とが反復する円環でないならば、苦しみは、なにか新しいもののための苦しみとなり、意味のある苦しみとなるだろう。しかし、世界永遠に回帰するのであり、そこに新しいものはなにもない。世界と生とは、より良くなることもなければ、より悪くなることもなく、これまで生きてきたとおり、永遠に同一である。
 こうした永遠の円環をなす時間の中に自らの人生を置きながら、「これが生きるということだったのか?よし、もう一度!」と言うことこそが、生の肯定であり、より良いなにか、より新しいなにか、少なくともより違ったなにかをめるような者は、どれほど自分の人生満足しているかのように見えていたとしても、自らの生きてきた生を肯定してはいない。生きるということを肯定するということが、一体どれほど苛酷な条件のもとで「然り」を言うことであるのか、という問題を定式化したものこそ、永劫回帰思想なのである。

  • 【結局、永劫回帰思想って役に立つの】
    • 99.99役に立たない。ニーチェの狙いは、役に立たなさにある。役に立つ、ってことが言えるためには、こうした人生は楽しい、こうした人生はイヤだ、といった価値評価(どんな生がよいかという評価)が前提になる。けれども、永劫回帰思想が示してくれるのは、「どんなものであっても生きるということはよい」という命題イエスを言うための条件なので、「よさ」「わるさ」といった価値が加味されないことが大前提となっている。永劫回帰思想が提示する時間の円環の中には、終わりが。したがって、標というものが成り立たないので、「役に立つ」という言葉が意味になってしまうのだ。──時間が回帰するなら、一を大事にするようになるんじゃない、という解釈もある。けれども、こうした解釈は、時間の回帰というものを、映画の収録や動画の編集のように考えてしまっている。これから何回となく再生されるようになるコンテンツを今まさに創造している、というならば、細心の注意を払うようになるというのもまあ分かる。けれども、時間が回帰しているというならば、始まりはのであり、今がコンテンツ創造の時である、という解釈は、永劫回帰思想の解釈になっていないのである。──永劫回帰思想に役立つところがあるとすれば、回帰する時間の中で自分の人生イエスということが非常に苛酷であるということを示してくれる点であり、それはすなわち、「いい人生はどんな人生か」というウソを教えてくれる道徳に、人間がどれほど弱いかを教えてくれるというところである。

 参考文献人間の流れ』関根透・竹内善一:北出版

なお以下のような解説はすべて誤りである

Ecrasez l’infâme!(『この人を見よ』)
  • ニーチェの思想はニヒリズムである
  • への意志→への意志
  • ニーチェの思想はニヒリズムではない
  • への意志→権への意志
  • 永劫回帰とは死んだ後、もう一度同じ人生を繰り返すことである
    (これについてはウィキペディアも間違っている)
  • への意志の体現者が人である
  • 永劫回帰とは一つの喩であり、時間の反復などニーチェは論じていない
    (こうしたことは、後の狂気の片鱗でしかない)
  • 永劫回帰の体現者が人である
  • 人間の活動の根底にあるへの意志は、わざわざ追求されるまでもない
    • なぜなら、への意志ははじめからそこにあるからである
  • 人間の活動の根底にあるへの意志こそが、追求されねばならない
    • なぜなら、への意志こそが生命体の本来の姿だからである

くりかえし議論しなければならないもの ナチズムへの影響はそれなのだ

 ナチに積極的に参加し自らもナチであったハイデガーと違い、ニーチェにはナチに協したことはない。そもそもナチが活動していた時期に既にニーチェは死去している。なにしろ、ニーチェは、ナショナリズムポピュリズムを否定しているので、もともとナチズムとの相性はよくない。実際、ナチ理論エルンスト・クリークなどは、ニーチェのドイツ嫌い、反々ユダヤ義などからして、ニーチェをナチズムのイデオローグに仕立てるのは理だと判断していた。ただし、ニーチェの思想がナチズムでなかったにせよ、民主主義を否定していることは疑いない

 ともあれ、思想の内容とは別である。ニーチェの思想は、ナチズムにを与えている

エリーザベトを通しての影響

 まず、ニーチェのエリーザベトの果たした役割が大きい。第一次大戦におけるドイツの敗戦は、愛国者であったエリーザベトをひどく失望させ、SPDドイツ社会民主党)によるに対して大きな恐怖を抱かせた。エリーザベトは、とはちがって社交的で商才もあった。実際、ニーチェの著作を管理し、遺稿の編纂をするための財団を築いて、エリーザベトは大きな財をなしていた。ところが、ベルサイユ体制下でのマルクの大暴落によって、エリーザベトは多くの財産を失うことになる。これに追い打ちをかけつつあったのが、迫り来るニーチェの著作権切れであった。当時のヨーロッパでの著作権は、著者の死後30年までしか保護されなかった。つまり、1930年でもって、ニーチェの遺族であるエリーザベトは著作権にあずかることはできなくなるのだった。ゆっても、1930年といえば、エリーザベトは84歳なのだが
 このため、エリーザベトは、反ワイマール共和的なドイツ保守に助めることにした。1926年エリーザベトは、シュペンラーファイヒンガーといった著名人連署を得て、ヒンデンブル大統領に援助をめている。そのさい、エリーザベトは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』が大戦に参加した兵士携帯されていたこと、ニーチェの思想が戦争のための美徳を賞賛していることを強調した。ヒトラー政権成立の前年、エリーザベトは初めてヒトラーに会い、ヒトラーから大きなバラ花束を贈られる。ただ、ヒトラーがヒンデンブルクと大統領選を争っていたりしたのもあり、エリーザベトが直ちにヒトラー密になることはなかった。しかし、1933年ヒトラー政権が誕生すると、エリーザベトは、的にも私的にも、ヒトラーからの支援を受け、そしてまた、ヒトラー政権を賛美した(なお、88歳になったエリーザベトは、ヒトラーと2ショット写真を撮っている)。また、エリーザベトのもとで働いていた従弟のR・エーラーは、ナチレイシズムと優生思想がニーチェの思想と完全に一致するという解釈を示した。ニーチェは、ナチズムの思想的徴として承認され、ニーチェの『ツァラトゥストラ』は、ヒトラーの『わが闘争』、ローゼンベルクの『二十世紀の神話』とともに、タンネンベルク戦勝記念碑の中に安置された1935年エリーザベトがすると、その葬儀ヒトラーも参列した。

 

ドイツ青年運動から保守革命へ

 ニーチェののはたらきに劣らず重要なのが、20世紀初頭のドイツ青年運動を通じてのである。
 ドイツ青年運動の詳細に関しては、Wikipedia英語版ドイツ語版を参照して欲しいワンダーフォーゲル」などのキーワードでググって欲しいが、基本的には、文明化された市民社会キリスト教道徳への反抗から、自然の内なる生に立ち帰ろうという運動ハイキングキャンプなどを楽しむ。こうした運動は、ただ野山を歩き回るだけでなく、ワーグナーリルケ、ゲオルゲなどの作品世界を受容していった。そうしたなかで、市民社会キリスト教道徳批判し生そのものを寿いだニーチェのテクストはバイブルとなっていたらしい(少し昔のニーチェ解説書には、ニーチェが機械に支配されている大衆社会批判したと説明されていることがあるが、こうした解釈は、おそらく青年運動行して生まれたものである。ニーチェは、大衆社会ナショナリズム批判的であるが、別に機械文明を批判してはいない)。

 ドイツ青年運動そのものには、右翼左翼もないと言えるのであるが、むしろ右翼左翼が混在していた。こうした右左の混在から、後のナチズムに大きなを与える保守革命の思想が形成されていく。ユンガー、シュペンラーゲオルゲ、トーマスマンヤスパースハイデガーなども保守革命の思想にを受けている。後にナチ民啓宣伝大臣となるゲッベルスがニーチェについての講義を受けたグンドルフも、ゲオルゲのサークルに属していた(ただし、グンドルフはユダヤ人だった)。ニーチェの遺稿編纂にかかわり人思想と第三帝国は密接な関係にあると説いたE・ホルネッファーも、キリスト教に替えて、新しい義的な自然に基づく宗教が置かれるべきだと考えていた。
 ニーチェについての研究書も著している哲学者のカール・レーヴィットは、「必要なのは出帆すること。生きることではないという標」が「ニーチェからゲッベルス英雄的物言いにまでつながっていることは否定できない」と述べている。


 このように、ナチズムに対するニーチェのは、ロジカルなものというよりも、そのレトリックと雰囲気によるものが大きい。その意味で、ニーチェが存在しなくとも、ポーランド侵攻やアウシュビッツといった蛮行は行われていたと言える。しかし、断片的に引用されたニーチェの美辞麗句に触発された若者が、突撃隊なり衛隊なりに入隊し、平和市民生活を送っていた者の命を奪うようなことがあったとしたら、そこにニーチェのがないと断言するのは難しいだろう。

ハイデガーのニーチェ講義

 ナチズムへのニーチェのにおいて、思想史の上で最も重要なのは、ハイデガーへのである。

 戦後ハイデガーがある雑誌のインタビューに答えてったところによると、ナチス政権下で彼がニーチェを題にした講義(ニーチェ講義)は、聴く人が聴けば、ナチズム批判になっているという。なるほど、ハイデガーが残した講義ノートをパッと見るかぎり、──哲学歴史についての膨大なウンチクとともに──手厳しいニーチェ批判を見出すだけで、ナチス政権の話はおろか、政治話題を見て取ることはできないかも知れない。しかし、ハイデガーのニーチェ講義は、ナチズムの批判を意図して書かれている。

ナチズムのマスコット

 ハイデガーのニーチェ講義によれば、ニーチェの言う「への意志」の内には「生存圏」の確保が原理的に具わっている、という。「生存圏(Lebensraum)」という言葉は、中世以来のドイツ人による東欧侵略東方入植を正当化しようとする地理学・生物学を装ったジャルゴンであり、一次大戦においても二次大戦においても、ドイツ戦争的を理論補強するために使われた言葉である。つまり、ハイデガーは、ポーランド侵攻に見られるようなドイツ侵略行為をニーチェの言う「への意志」の内に見ている。
 さらにまた、ニーチェ講義によれば、への意志が意味するところは、もっと大きなを得るための「勢づけ(Ermächtigung)」だ、とも言われる。翻訳されてしまうと見通せなくなってしまうが、この Ermächtigung という言葉は、第三帝国の始まりとされる「全権委任法(Ermächtigungsgesetz)」という法律名前に含まれるフレーズである。

 ニーチェのキーワードナチス政権の重要句に引きつけて解釈していることから分かるように、ハイデガーは、ニーチェという哲学者を当時のナチス政権を代表するマスコットキャラクターとして描いている。そして、ニーチェの哲学を形上学の完成形として断罪することにより、当時のナチズムをもまた、哲学歴史の根的な視点から、批判しようとしていたのである。

形而上学としてのニーチェ?

 ハイデガーの言う上学とは、「存在するものとは何か」と問うことであり、とりわけ「眼の前に存在するものとは何か」という問題意識に歴史的に囚われたままでいることを意味する(ポストモダンにおける形上学批判はこうした用法を踏襲している)。存在するものが現れ出てくる存在の根を問わず、眼の前に存在するものばかりを問題にし続けるということは、眼の前に存在しコントロールな支配の対としてのみ存在するものを捉える誤りであり、ニーチェの説くへの意志において、こうした誤謬が極まっている、というのがハイデガーにおけるニーチェ批判である。そして、これはまた、当時のナチズムに対する批判でもあった。眼の前に存在するものばかりを問い続けることにより、人間科学技術に駆り立てられるようになり、また眼の前に存在するものばかりに取り組む日常から抜け出せなくなり…自らの死を問うことがなくなり…うんたらかんたら…。 ニーチェ講義には、


ニーチェの形上学の意味において、
無条件な《機械経済学》に適合するのは、ただ人だけであり、
逆にまた、無条件地球支配を設立するため、人は《機械経済学》を必要とする。
Der unbedingten «machinalen Ökonomiist
im Sinne der Metaphysik Nietzsches nur der Über-mensch gemäß,
und umgekehrt: dieser bedarf jener zur Einrichtung der unbedingten Herrschaft über die Erde.

という人解釈がある。ニーチェのどこをどう読めばこういう解釈が出てくるのかと首をかしげたくなるかも知れないが、こうした言い回しの背後にはナチズムのマスコットキャラクターとしてニーチェを解釈するという試みがある。

根源を取り戻す(本来のナチズム(笑))

 ハイデガーは、ニーチェというキャラクターくことでナチズムを批判していたにもかかわらず、ナチズムを捨てたわけではなかった。むしろ、存在するものが現れ出てくる存在の根を取り戻そうとする自分の問いこそが、ナチズムの運動の本来の意味を理解している、とすら考えていた。ハイデガーは、──ニーチェ講義ではないが──フライブル大学学長を辞任した年の講義において、ナチズムの偉大さとは縁の哲学ナチズムの哲学として横行している、と不満を漏らしたあと、返すで、ニーチェもまた哲学の核心を突くことがなかった、と批判している。
 しかし、ハイデガーの倒錯したナチズム理解の中にこそむしろ、ニーチェの『悲劇の誕生』のモチーフが生きている。ニーチェは、『悲劇の誕生』において、人文義的な伝統において解釈される理性的なギリシャ像によって覆い隠されていたギリシャ人のドロドロした根を取り出そうと試みていた。ハイデガーもまた、プラトン以来の「存在するものは何か」という問いによって覆い隠されてしまっていた「存在するものが現れ出てくる存在の根は何か」という問いを取り戻そうとしていた。「存在の根」などというめいたものに対するハイデガーのこだわりにこそ、ドイツ青年運動の中で燃えていたニーチェ熱を見て取ることができる。根を取り戻そうとするこうした憧れは、哲学ではなく、ドイツ青年運動に参加していた世代の中で醸成された気分にほかならない。

 ところで、衆明らかなように、哲学歴史の高みから世界史を睥睨するナチズム批判は、ハイデガーの意図がどうあれ、政治社会の細部にが届いておらず、ひどく回りしたものになっている。

くりかえし語られねばならないもの ニーチェの言葉はそれなのだ

 ニーチェの言葉はよく引用され、その中には、ニーチェの言葉と知られずに引かれているものもある。でも、そんなこと、ニーチェに限ったことじゃない。古典となった、作家、著述、思想の言葉なんて、みんなそんなもんである。

ニーチェのアフォリズム?

 ニーチェはアフォリズムという文体を多用している…が、それが本当にアフォリズムなのか結構あやしい。アフォリズムというのは本来、短く簡潔な文章で事柄の本質を突くような文体である。
 ところが、ニーチェのアフォリズムはダラダラと長い。4や5にわたる小論文クラスのものも別にしくない(しかもアフォリズムという体だから段落分けがない)。そのうえやっかいなのが、アフォリズムの最初に、「しかしながら」という接続詞が来たり、「こうしたことは」という示代名詞が来たりもするということである。これは、アフォリズム集という形を取って、いくつものアフォリズムの塊が一つの論考を形作っていることを意味している。だから、ニーチェのアフォリズム集をパラパラとめくってに付いたとこを読んでみてもサッパリ分からない、という結果になる。だからといって、順を追って読んでいると、知らない間に一つのアフォリズムの塊からもう一つのアフォリズムの塊へと移ってしまい、話が変わっている、ということが起きていたりする。
 だから、なんだかんだ言ってニーチェのアフォリズム集は読みづらい。コツとしては長くて大きいアフォリズムを丁寧に読むのが良い。大きいアフォリズムは、当然、情報量も多いので、周囲のアフォリズムを解釈する助けになってくれることがある。しかし、「神は死んだ」で知られる『悦ばしき知識』125番などは、ドラマ仕立てのせいで長くなっているだけで、わずかな情報量しかないように、残念ながら、長いからといってアフォリズムの中身があるとは限らない。

「神は死んだ」

『悦ばしき知識』において登場する言葉。なお、この言葉には続きがあり、

神は死んだ! 神は死んだままだ! 々がを死なせたのだ!
あらゆる殺者の中の殺者である自分たちを、々はどう慰めればよいのか?」

となっている。関連項目も参照されたし。

「人間的、あまりに人間的」

ニーチェの著作『人間的、あまりに人間的』に由来するものだが、これをもじって「○○な、あまりに○○な」などといわれることもある。

「深淵を覗く時深淵もまたあなたを覗いている」

『善悪の彼岸』に登場する言葉。

くりかえし購入されねばならないもの ニーチェの関連商品はそれなのだ

ニーチェの本は売れなかった?

 ニーチェは、その人物像が誇大に描かれてきただけに、人類にはすぎた哲学者であり、彼の死後、やっと時代が追いついてきたかのように思われるきらいがある。しかし、これは一部、誤解である。
 彼は、生涯を通じて、フリッチュ書店シュマイツナー書店ウマン書店の三つの出版社から本を出している。このうち、シュマイツナー書店からは、『教育者としてのショーペンハウアー』から『ツァラトゥストラ』に至るまで、10年にわたって自著を出版していたけれども、シュマイツナー書店は、刷ったニーチェの著作を書店に並べなかった。そのため、待てど暮らせど、ニーチェのもとには自著の反が聞こえてこなかった。なぜなら、世間の人がニーチェを読みたいなどと思うことがあったとしても、ニーチェの書いた物は出版社の倉庫に眠っていたため、手に取ることができなかったからである(やっぱネット通販って便利)。『悲劇の誕生』が黙殺されたことは、古典文献学のルールを破ったニーチェの自業自得なのであるが、『教育者としてのショーペンハウアー』以降のニーチェは、黙殺すらされていなかった。
 『ツァラトゥストラ』出版後しばらくしてこの事実を知ったニーチェは、当然怒り心頭で、シュマイツナー書店と決別し、フリッチュ書店、ナウマン書店から自著を出版するようになる。以降、ニーチェは、だんだんと世間に知られるようになり、『この人を見よ』を準備していた頃には、だいぶ手応えを感じて強気になっている(もちろん病気も考えられる)。

 生涯を通じて本が売れないことに本が読まれないことに沸々とルサンチマンの炎を燃やしていたニーチェのため、彼の本を買ってあげてもいいかもしれない。

『悲劇の誕生』(Die Geburt der Tragodie aus dem Geiste der Musik)

 ニーチェの著作としては最初のもの。これ以前にも論文は執筆していた。ワーグナー音楽を媒介にしたドイツの形成に古典文献学が果たすべき役割を説明するためにショーペンハウアーの上学を応用する、という理矢理で力技野心作。それゆえにとにかく議論が散らかっている。
 序盤では、特にギリシア芸術作品を、アポロディオニュソスという二つの上学的な原理で説明し、中盤では、悲劇の終焉や同時代の古典文献学ソクラテス義の弊として描いている。終盤では、ワーグナーこそがドイツ復活であり、ギリシア文化研究はこれに寄与しなければならない旨が述べられる。序盤、中盤、終盤の三つは、稿段階では別々の論考であり、終盤のワーグナー賛美は、急遽、差し入れられたものだった。
 1886年にナウマン書店から出版された第二版に新しく付された序文では、『悲劇の誕生』の初版が出たときの若気の至りを「形上学的慰め」と特徴付け批判してみせている。しかし、この新しい序文でも、『悲劇の誕生』において既に道徳批判芽があったかのように述べられているが、に見るならば、これは後付けである。
 翻訳としては、新しいなんとかをつくる会でも知られる西尾幹二の訳に定評がある。ただし、注意すべきなのは訳の選択である。Wissenschaftを科学と訳すのはもちろん間違っていない。しかし、『悲劇の誕生』で問題となっているWissenschaftは、概ね古典文献学のことなので、理系の学問をイメージしないよう注意しなければならない。

『反時代的考察』Unzeitgemäße Betrachtungen

 『反時代的考察』はもともと、別々に執筆された論文であり、一つの単行本ではなかった。ただし、論文の構想自体は一定の時期にまとめて錬られている。このような性質の四篇の論文は、シュマイツナー書店との決別を機に、1886年、一冊の本としてフリッチュ書店から出版し直された。
 ぶっちゃけ、『生に対する歴史の利』以外の論考が深く掘り下げられているのを編者は見たことがない。この時期のニーチェについて言うと、『道徳外の意味における真理虚偽』、『ギリシア人の悲劇時代における哲学』といった遺稿の方が好んで読まれているかも知れない。というのも、この時期のニーチェは、『悲劇の誕生』の失敗を受けて自重しており、自らの本音を活字にすることは控えていたからであり、そうした本音の部分は、ノートに書きためられていたからである。しかし、『反時代的考察』の論考があまり掘り下げられないのには、研究者側の事情も大きい。『反時代的考察』の議論には、19世紀に威を持った知的な運動の勢図が暗黙の前提となっており、こうした知的背景を知っておかないと、ニーチェがだれと戦っているのかが非常に読み取りにくくなってしまう。20世紀初頭の研究者には、こうした思想史的背景常識として身についていたが、今日研究者には、こうした常識が失われてしまっているのである。

 『教育者としてのショーペンハウアー』が出版されたとき、「私はお前に似ていない…ショーペンハウアー」という匿名電報がニーチェのもとに届いた、とエリーザベトは記している。このエピソード事実ならば、『反時代的考察』に描かれるショーペンハウアーもワーグナーも、ニーチェの勝手な自己投影であったことを示す傍であり、それぞれの論考をニーチェの自己表現として読むこともできるだろう。

 なお、シュマイツナー書店との決別きっかけに再版された著作には、次々と新たな序文が付されたが、『反時代的考察』には新しい序文が付けられなかった。

『人間的、あまりに人間的』Menschliches, Allzumenschliches

 『人間的、あまりに人間的』の構想ははじめ、『反時代的考察』の続編として準備されていた。しかし、ちょうどこの時期に、ニーチェはウル・レーから決定的なを受ける。そうしたのもと、これまでにない形で表現を得たニーチェの思想が、『人間的、あまりに人間的』なのである。
 『人間的、あまりに人間的』は、ニーチェが初めて著したアフォリズム集である。このアフォリズムという文体は、レーから学んだものであり、『人間的、あまりに人間的』の36番にはレーの心理学的な洞察への賛辞が見出される。ただし、生兵法はケガのもとと言うべきなのか、ニーチェは、アフォリズムという文体を使いこなせていない感がある。例えば、いくつものアフォリズムが数珠つなぎになって一つのコンテクストを形成しているような箇所がある。そのため、アフォリズムを読まされる方としては、一つ一つの断章を切り離さないように読むことを強いられる。めんどくさ。なんのためのアフォリズムなのか!?ただ、このようなコンテクストを伴ったアフォリズムは、その後のニーチェの持ち前の文体となっていく。
 ニーチェがレーから受けたもう一つのが、歴史的に形作られたものとして道徳心理学的に分析するという方法である。こうした道徳批判の方法は、以降のニーチェの思考において踏襲されていき、『道徳の系譜』において最も鋭い形で呈示される。道徳の系譜』の序論でレーはさんざんdisられているのだが…
 形上学、宗教芸術といった歴史的なものへの決別が一貫した態度として貫かれており、私たちがイメージしやすいニーチェの哲学は、『人間的、あまりに人間的』からスタートしている。

『曙光』Morgenröthe

 人間的、あまりに人間的』が、形上学、認識論、倫理学、宗教、美学、政治ジェンダーなど、たくさんの引き出しを持っていたのに対し、『』は、「歴史的に形作られたものとして道徳心理学的に分析するという方法」にを集中して著されている。『』において議論の中心が道徳になるとともに、人間の多様な利関心の中枢をなすものとして道徳が位置付けられるようになる。
 道徳というと、ひとのものを奪ってはいけないとか、ウソをついてはいけないといった、私たち現代の人間にとって〈道徳的〉と思われることばかりをイメージするかも知れない。しかし、ニーチェが道徳を取り上げるとき、歴史的な蓄積によって疑いの余地なく順守されるようになった行動パターンのことを念頭に置いている。例えば、ラーメンをズルズルすするのは恥ずべきことではないがパスタをすするのは恥ずべきこととされる。これは、パスタを食べるときは音を立てない、という行為の価値が、歴史を通じて、疑われることなく信じられるようになったことを意味している。ニーチェは、道徳歴史的に作られた虚偽意識として解釈する(こういうところが結構マルクスに似てると摘されたりする)。

『悦ばしき知識』Fröhliche Wissenschaft

 1881年8月、ニーチェはジルス=マリーアで永劫回帰インスピレーションに与る。この新しい思想を思い付いたのち、一番最初に書かれた著作が『悦ばしき知識』である。
 そのため、『悦ばしき知識』の稿には既に、ツァラトゥストラという名前の登場人物が見られる。「男たちこそが女たちを堕落させる」と賢者(68番)、「音楽巨匠を渇望する」と革新106番)、そして「神は死んだ」と告知する狂気の人(125番)は、稿段階では、ツァラトゥストラとなっていた。さらにまた、『悦ばしき知識』第一版の最後の断章(342番)は、翌年に刊行される『ツァラトゥストラ』第一部冒頭に繋がるように、ツァラトゥストラが登場している。

 『悦ばしき知識』第一版は、1882年、四篇構成でシュマイツナー書店から刊行された。第三書では有名な「神は死んだ」という言葉が告知されている。その他、第三書では、生命の活動形態に応じて相対的な真理がある、という認識論が示されている。そして、第四書の最後から2番の断章(341番)は、刊著作中、一番最初に永劫回帰告知される箇所である。
 『悦ばしき知識』は、このように、「の死」と「永劫回帰」とを告知し、さらにまた生命活動に応じて真理は異なると論ずるなど、後期思想に特有の論点が既に多く含まれている。その意味において、『悦ばしき知識』は、中期思想と後期思想を架するものであり、かなり人気のある著作である。文庫で持てる翻訳もたくさん出ていることから、この著作の人気がうかがい知れる。

 1885年、シュマイツナー書店と決別したニーチェは、新たに序文を付するなどしながらこれまでの著作を刊行し直す。その中でひときわ大きな増補を施されたのが『悦ばしき知識』である。『悦ばしき知識』第二版は、序文のみならず第五書と付録編を付され、五篇構成となる。第五書においては、キリスト教は自分自身を否定する性質を持つ、という分析がなされている。こうした、道徳道徳によって否定されるという分析は、『善悪の彼岸』以降ニーチェが堅持する立場であり、第三書で示された「の死」を理解する助けになる。その一方で、第一版から6年の歳けており、『ツァラトゥストラ』や『善悪の彼岸』の刊行を経ているため、初版の部分(第一書から第四書)と第二版増補部分(第五書)とが整合的に読めるのか、議論の余地のあるところである。実際、ニーチェは手紙の中で、この第五書を『善悪の彼岸』に付した方が良いのではないか、と述べている。

『ツァラトゥストラ』Also Sprach Zarathustra

 『ツァラトゥストラ』はニーチェの代表作とも言えるもので、最も重要な著作の一つであるとする点において、あまり異論は見られない。ただし、この著作は、論文でもアフォリズム集でもなく、散文の形で、永劫回帰教師、ツァラトゥストラの遍歴を描くものとなっている。
 この著作の文体は、非常に独特で、古いドイツ語を模して書かれている。そのため、ドイツ語そのものは、時代劇の脚本のようなテイストがある。これを日本語翻訳するのは難しい。この著作の独特の文体は、当然、彙にもしており、ルサンチマン運命ニヒリズムデカダンスといったよく知られるニーチェのキーワードが『ツァラトゥストラ』には登場しない。これらの言葉が、フランス語ラテン語であるため、『ツァラトゥストラ』のテクストに組み込めないのである。例えば、時代劇で、

 「文を書き写しておいた」

と言わず、

 「拠文書のコピーを取っておいた」

と言ったりしたらおかしいだろう。ほかにも、キリスト教と言わず、十字架と言ったり、芸術家と言わず、詩人と言ったりと、婉曲な言い回しが多い。
 こうした文体の性質からして、ニーチェの代表作にもかかわらず、ルサンチマン運命ニヒリズムも出てこない。これらのキーワードを期待して『ツァラトゥストラ』を読んでも、当てが外れるだけである。ただし、これらのキーワードに相当する言葉づかいは見出すことができるので、読み手はそうしたことを斟酌しなければならないというを折らされる。メンドクサ…

 このように色々と欠陥が多い『ツァラトゥストラ』がなお最重要著作の一つとしてカウントされるのは、刊著作中、永劫回帰題にしているのが、一この著作だからである。他の著作においても、少し触れる程度には、永劫回帰に言及することがある。しかし、『ツァラトゥストラ』ほどの情報量はない。ところが、当の『ツァラトゥストラ』では、永劫回帰について、はっきりとられることはなく、永劫回帰思想は未だに包まれ、様々な解釈を施され続ける。


 『ツァラトゥストラ』は、全4部構成。このうち第4部は、第3部までにべて文体も異なっており、これを付録と位置付けるむきもある。実際、ニーチェが、シュマイツナー書店と決裂し、1886年にフリッチュ書店から『ツァラトゥストラ』の新版を出したとき、第1部から第3部までが合本され、第4部は含まれなかった。ニーチェが『ツァラトゥストラ』の正編を第3部の終わりまでと見ていたことは事実であり、こうした編集方針は、ニーチェが正気を保っていたあいだ撤回されることはなかった。たしかに、永劫回帰教師たるツァラトゥストラの遍歴のクライマックスは、第3部の終わりであり、第4部の最後ではない。

 第1部のおもだった舞台は「まだらウシ」という町。内容的には、そこでツァラトゥストラが延々と説教をするというもので、第1部は単調である。よく出てくるキーワード人であり、永劫回帰についてはまったく言及されない。当の人についても、内容のある教説はほとんど見られない。駱駝獅子幼な子という精の三つの変化など、有名な話もあるが、その他の箇所は、やはり退屈である。そのため、第1部で『ツァラトゥストラ』を投げ出す人も結構いる。…だっておもろくないからね(実際には、中期ニーチェの著作を読み込んでおくと、関連性のある教説は多くある。第1部は玄人向けなのである)。

 『ツァラトゥストラ』の重要性がはっきりと見えてくるのは第2部。第2部の舞台に「至福の々」。第2部は単調な教説だけではなく、情描写も含まれたり、色んな登場人物が現れたり、「歌」や「解き」など、ドラマチックシチュエーションもある。第1部とべてはっきりしている点は、人への言及がほとんどくなるということである。とはいえ、への意志という言葉で生命現を説明しようとする「自己」について論ぜられるなど、重要な教説には事欠かない。こうした教説のなかで、最も注すべきなのは、復讐」というキーワードと「永劫回帰」との関連である。そして、ツァラトゥストラという登場人物が、永劫回帰思想をることにさんざんし、最後にはそれを拒否するというところなども、第2部の見所である

 第3部では、ツァラトゥストラが至福の々を離れて自分のすみかであった洞窟まで帰る路と洞窟での孤独が描かれる。第2部で拒絶した永劫回帰思想を受け容れられようになるまでの、ツァラトゥストラの精の深まりが描かれる…のだが、ぶっちゃけ、当時の社会への批判やこれまで説かれた教説の復習など、脱線も多い。とりわけ重要なのは、永劫回帰間との関連に言及している章(「」)と、ツァラトゥストラに仕えている永劫回帰についてったのに対して、ツァラトゥストラがどういったレスポンスをしているかが描かれる章(「快癒に向かう者」)である。最終的に、ツァラトゥストラと彼のとの対話を経て、生(生きること)との和解を歌う歌で終わる。

 第4部の舞台は、ツァラトゥストラ洞窟とその周辺の山である。預言者王様・学究・魔術師・教皇・最も醜い人間めてなった乞食・ツァラトゥストラといった登場人物とツァラトゥストラとの対話が繰り広げられる。預言者とツァラトゥストラは、既に第2部で登場している。こうしたやりとりが『ツァラトゥストラ』第三部までに対してどういった寄与をなすのか、不可解な点が多い。


 重要な著作ゆえに多くの翻訳がある。
 ちくま学芸文庫から出ている全集版の翻訳は、膨大な注が付されており、ぶっちゃけ読みづらい。また、注自体、実存哲学的な考えにニーチェを引きつけようとする当時の流れに引っられてしまっている。そのせいで注が本文より分かりにくい言葉でいっぱいになっている。自己存在とか、自己の炎とか言われても、さっぱり分からない。
 岩波文庫翻訳者、氷上英は、翻訳と注釈は違うとして、いっさい注を付けていない。こちらの方が初心者は使いやすいであろう。中公文庫・中クラシックスなどに収録されている手塚富雄の訳も、手許に置きやすく、かつ優れた翻訳である。

『善悪の彼岸』Jenseits von Gut und Böse

 ニーチェは、『ツァラトゥストラ』の刊行中にも、『善悪の彼岸』という表題でアフォリズム集の稿を用意していた。しかし、刊行された『善悪の彼岸』は、こうした稿から材料こそ取っているものの、違った意図から作られたものである。そのことは、『善悪の彼岸』の構成と『人間的、あまりに人間的』の構成を較すると分かる。両者とも、まず形上学批判と認識論からスタートし、宗教倫理学などを論じた上で、ジェンダー、芸術作品や芸術家などを考察するという構成になっている。つまり、『善悪の彼岸』は、ニーチェの円熟した思想に即して新しい形で作り直された『人間的、あまりに人間的』なのである。『人間的、あまりに人間的』においては歴史的な経過の中で捉え直されていた形上学・宗教道徳芸術などが、『善悪の彼岸』においては、める欲求という視点への意志のパースペクティヴ)からより深く捉え直される(ニーチェは、歴史的な経過の中で物事を捉え直す方法を放棄したのではなく、める欲求歴史から物事を捉え直すようになる)。このように、『善悪の彼岸』の内容は理論整備が進んでおり、初心者には非常に手ごわいものになりつつある。第1章、第2章などをスラスラ読める人は、ニーチェの哲学と相性がいいと言えるだろう。
 『善悪の彼岸』には、

 「キリスト教は民衆向けのプラトニズムだから…」(序文)
 「すべての深いものは仮面する」(40番)
 「あなたが長く深淵をのぞき込むならば、深淵もまたあなたをのぞき込む」(146番)
 「道徳今日ヨーロッパにおいて畜群道徳である」(202番)

など、どこかで聴いたことがあるようなニーチェの名台詞の多くが見出されるので、ニーチェのものとして伝えられる言葉の出典を見たい人にはオススメかも知れない。

 『善悪の彼岸』は、シュマイツナー書店との決裂後はじめて出版した著作であり、久しぶりに書店に並んだ著作であった。売れ行きこそよくなかったが、書評などが新聞に載るようになった。そうした書評の中で、『善悪の彼岸』にある「精ダイナマイト」という言葉が取り上げられたことを喜んだニーチェは、のちのち、手紙や『この人を見よ』の中で「私はダイナマイトだ」と発言するようになる。

『道徳の系譜』Zur Genealogie der Moral

 『道徳の系譜』は非常に重要視される著作である。しかし、この著作が重要視されるのは、内容に即してではなく、読み手の都合によるものが大きい。アフォリズム集や『ツァラトゥストラ』のような著作は、呪文解読するような難しさがある。それに対して、『道徳の系譜』は、一応、論文という体で書かれているため、ニーチェを読んでみようとする人が手に取りやすいのである。このため、『道徳の系譜』だけをソースにしたニーチェ論が世に多く出回っている。
 『道徳の系譜』ばかりに依拠したニーチェ解釈は、驚くほど紋切りの解釈となっており、その意味で分かりやすい。そうしたニーチェ解釈によれば、ニーチェは、ルサンチマンを抱く弱者を悪玉、強者を善玉として道徳歴史を描いており、強者の道徳である貴族道徳を賛美したとされる。しかし、こうした話は、『道徳の系譜』のせいぜい第一論文に限られたものであり、良心や正義芸術、学問、哲学の発生を道徳歴史に即して描く第二論文・第三論文をほとんど無視している(それに、第一論文にしても、ルサンチマンという心情を生々しく描写してこそいるが、貴族道徳に帰ろうとすることは時代錯誤だと述べられているのである)。
 ニーチェにとっての道徳とは、歴史の蓄積によって疑われることなく順守されるようになった行動パターンであって、必ずしも弱者の恨から作り出されたルールのことを意味したりはしない。このことは、『善悪の彼岸』が、成熟した思想に応じて作り直された『人間的、あまりに人間的』であるように、『道徳の系譜』は、新たに書き上げられた『』だったと理解すれば分かりやすい。『人間的あまりに人間的』・『善悪の彼岸』は、多様なテーマを扱うのに対して、『』・『道徳の系譜』は、歴史的に形作られたものとして道徳心理学的に分析するということを本分としている。こうした方法を踏襲して、『道徳の系譜』では、次のような歴史的な分析が示される。

第一論文では、身分のよさを意味していた「善」という概念が、やがて「善」そのものとして独立しているかのような見かけを帯びるようになる概念が描かれる。しかし、見かけが変わっても「善」という概念は、依然として、身分のよさ、つまり支配する者を暗々裏に意味し続けるとされる。

第二論文では、人間という生物がいかにして良心を備え、「正義(さ)」というものを理解するを得たのか、という生物的な考察がなされる。そして、こうした道徳を育成してゆくことが、ゆくゆくは道徳の支配から離れた自己管理のできる個人さえも産み出す、とされている。

第三論文では、禁欲義的理想というものが、その見かけに反して生命維持の機を持っており、宗教芸術、学問、哲学など、これまで存在してきたすべての理想を産み出してきた、という人類史的見解が示される。

 『道徳の系譜』という著作が濫用されてきた背景には、中期ニーチェの研究が非常に遅れていたという事情がある。そのため、紋切りの解釈にはまることなく『道徳の系譜』を読むためには、中期ニーチェの研究を活かした解説書などにを通しておくのがよい。左翼ニーチェの代表者である三島一は、『道徳の系譜』の濫用に警鐘を鳴らし、世界的に見てもい時期から中期ニーチェを研究する必要性を説いている。

『ワーグナーの場合』Der Fall Wagner

 関連商品サムネが『偶像の黄昏/反キリスト者』になっているが間違いではない。『ワーグナーの場合』は単行本での翻訳がなく、ちくま学芸文庫では第14巻に、社版では第期第3巻に、収録されている。
 1888年の2月末、ニーチェは、助手のペーター・ガストからワーグナーの表現スタイルについての質問となる手紙を受け取った。ニーチェは、これに答え、ワーグナーを除いて最もワーグナー的であったのはボードレールだったと述べている。それは、ボードレールが近代だったからだとされている。たしかに、87年末から88年頭にかけて、ニーチェはボードレールについての読書ノートを付けており、そこにはワーグナーとの共通点を見るメモもある。また、『ワーグナーの場合』の最初の稿でも、ワーグナーを取り扱えるほど近代的な人物としてボードレールの名が挙げられ、ワーグナー芸術作品を特徴付けるものは、フランス的なものだとされていた。もっとも、『ワーグナーの場合』の完成稿にボードレールの名は出てこなくなる。

 ボードレールの話はどうでもいいとしてワーグナーの場合』という著作の題は近代についての認識である。実際、この著作の序文には、「ワーグナーを通じて、近代性は、自分の最も密な言葉をる」と述べられている(「近代」といっても、ニーチェにしてみれば同時代のことなので、「現代」のことをいってる)。
 この著作で取り上げられる近代の問題とは、古い道徳からの自由める近代人間が、なぜか香を焚きしめられた空気の中で救済されたがるという現である。ニーチェによれば、①感覚を刺し、②崇高なシンボルをちりばめ、③内容にもかかわらずいっぱしの思想があるかのようにほのめかすことによって、聴き手・受け手が勝手に作品の内容をみ取って感動してしまうようにするのが近代文化産業であり、これを表現スタイルとして確立させたのがワーグナーの業績だとされる。自由めていたはずの近代人間は、こうした文化産業の内に自分の救済を見ようとするようになり、自分で自分を拘束するようになる
 ニーチェは、ドイツ帝国の形成とワーグナーの台頭が同時的だったことに深い意味があるとも述べている。こうした摘にファシズムの予言を見るのはいくらなんでもやり過ぎであるが、ファシズムの体験以降、社会科学や大衆文化論が取り上げた問題と『ワーグナーの場合』の題とは、多くの点で共通点があり、単なるワーグナー論を越えた内容を持つ著作となっている。揮者のフルトヴェングラーも「ワーグナーの問題」という論文をものし、ニーチェの提起した問題を引き継いで考察している。

ワーグナーの場合』を刊したニーチェは、突然ワーグナーを裏切ったのはなぜか、と批判されることになる。それも当然のことで、『人間的、あまりに人間的』においては、名しでワーグナー批判してはいなかったし、その後のワーグナー批判を含む著作も出版社の倉庫にあったからである。そして、なにより、ニーチェとワーグナーとの決裂は、私生活レベルでのものに過ぎず、部外者には知るよしもなかったからである。
 こうした批判を受けて、ニーチェは、『様々な意見と箴言』から『道徳の系譜』に至る著作から、ワーグナーについて言及した言説を選び出して、少々字句を変えたうえで一冊の本にし、自分のワーグナー批判がずっと以前からのものであると反論した。

『偶像の黄昏』Götzen-Dämmerung

 『ツァラトゥストラ』の出版後、ニーチェは、体系的な著作の準備に取りかかる。この著作の紆余曲折を経た準備過程において、稿の内から重要なアフォリズムが選び出され、「序論」として用意される。そして、体系的著作の準備がなかなか進まないなかで、この「序論」が独立に刊行され『偶像の黄昏』となる。
 『偶像の黄昏』には「ひとはいかにしてハンマー哲学をするか」という副題が付いている。この「ハンマー」という言葉は多くの翻訳で「鉄槌」と訳されており、こうした訳は、あたかも感情にまかせて気に入らないものをぶちこわすのがニーチェの哲学であるかのような印を与える。しかし、『偶像の黄昏』の序文によれば、ハンマー哲学をするというのは、ハンマーで問いかけ中身があるかどうか聴き出すことだとされる。つまり、「ハンマー哲学をする」のハンマーとは、RPGで出てくるような鉄槌ではなく、医師建築技師が持っているような打診ハンマーのことを意味している。
 体系的な著作の序論として用意されていたものだけあって、真理と仮の問題、道徳の問題、自由因果性の問題など、ニーチェなりに理論的な問題に取り組んでいる。アフォリズムも、長すぎず短すぎず、またコンテクストに応じて章分けしてくれているので読みやすい。さらにまた、ニーチェが、──の死の告知者でもなく、への意志の教師でもなく──永劫回帰教師として自己を規定する言が収録されており、その意味でも重要な著作である。しかしながら、肝心の永劫回帰思想について、『偶像の黄昏』で言及されることはないので、ニーチェの後期思想を理解するためには、やはり『ツァラトゥストラ』を読むのを避けることはできない。

『アンチクリスト』Der Antichrist

 『ツァラトゥストラ』の出版後、ニーチェは体系的著作の準備を進めていた。この著作の構想は何度も練り直され、表題も、永劫回帰哲学への意志』『一切の価値の価値転換』と変化していく(そうしたなか、序論部分が独立して『偶像の黄昏』になった(『偶像の黄昏』商品解説参照))。
 ニーチェのエリーザベトが編纂した遺稿集『への意志』は、こうした練り直しのなか描かれた設計図を、一応、参照にしている(ただし、遺稿は切り刻まれた上で再配列されたりと、色々ひどいことになっている)。
 練り直しがかなり進んだ段階での『一切の価値の価値転換』の構成案の一つとして、次のようなメモが残っている。

『一切の価値の価値転換』
 第一書 アンチクリスト キリスト教批判の試み
 第二書 自由    ニヒリズム運動としての哲学批判
 第三書 インモラリスト 道徳という最も宿業的な種類の無知への批判
 第四書 ディオニュソス 永劫回帰哲学

88年のからにかけての遺稿において、これに類したメモはいくつも残されているが、それらの多くにおいて、『一切の価値の価値転換』は、キリスト教批判哲学批判道徳批判永劫回帰哲学、という4部構成で構想されている。それゆえ、こんにち々のに触れる『アンチクリスト』は、『一切の価値の価値転換』の第一書ではないかという憶測が当然なされる(エリーザベトが生存しているあいだは、『アンチクリスト』が体系的著から生まれてきたとみなされることはなかった。もし、そんなことを認めることになれば、彼女が編纂した『への意志』が偽書であると認めることになるからである)。しかし、『アンチクリスト』の校了後の遺稿を見ると、こうした4部構成での構想が崩れ始めてくる。88年11月のニーチェの手紙では、『アンチクリスト』でもって『一切の価値の価値転換』が完成したと述べられており、12月には、『アンチクリスト キリスト教への呪詛』という表題に変更される。こうした経緯を踏まえ、グロイター版ニーチェ全集の編集者は、ニーチェの体系的著作は、──ニーチェの発狂によって中断されたのではなく──断念された、と結論付けている

 『アンチクリスト』は、キリスト教批判の著作であるが、その批判スタイルは、これまでのニーチェによるキリスト教批判とは一線を画すものとなっている。これまでのキリスト教批判は、道徳批判と軌を一にするものであり、歴史的に形作られたものとして心理学的な分析を施されることにより批判されていた。
 しかし、『アンチクリスト』においては、イエスとの対のもと、イエスから生したキリスト教キリスト教下にある哲学が、いかにイエスそのものに反するものであるのか、という観点から批判される(興味深いことに仏教との対なども行われる)。
 こうした「イエスキリスト教」という構図を採用しているため、『アンチクリスト』は、キリスト教会を批判しているがキリスト教批判していない、とか、キリスト教批判しているがイエスその人は批判していない、などと解釈されることがある。しかし、それは誤りである。キリスト教は、ルサンチマンによる価値創造によってへの意志の欲求を満たし、道徳歴史を通じて復讐勝利を収めてきた。イエスは、こうしたルサンチマンに手を染めたりはせず、敵を愛し決して悪に抵抗しない。しかし、こうしたイエスは、悪と戦うことによって痛みに触れることを避けるため精の内に後退する態度であるとされる。その意味で、イエスこそは、──ルサンチマンらによって武装される以前の──現実否定なのである。体系的な著作が断念され、『アンチクリスト』のコンテクストが不明瞭なままとなっているため、こうしたイエス像の意味するところは、なかなか理解しにくい。とはいえ、ニーチェの他の著作を手がかりにしてみれば、こうしたイエスは、苦痛の一切を含めて生を肯定するニーチェの運命の対極にある、と言えるかも知れない。

『この人を見よ』Ecce Homo

 何種類も翻訳があるが、新潮文庫(あるいは社版第期第4巻所収)の西尾幹二訳、あるいは、光文社古典新訳文庫の丘沢静也訳以外の選択肢はない。というのも、『この人を見よ』には、底本確定に問題があり、こうした問題を踏まえた翻訳は、現在のところ、これらの翻訳しかないからである。とはいえ「ルサンチマン」を「内攻的復讐感情」という西尾幹二の訳は、かなり的確ながら、やや踏む込みが過ぎた翻訳だと思われる
 『この人を見よ』は、校正過程で、いくつもの修正稿が出版社に送られていた。そのうち最終稿だとされるものには、ニーチェのに対する誹謗──こそが永劫回帰思想に対する異論であるという誹謗──が含まれていた。この原稿は、遺稿管理者であったニーチェのによって破棄され、1908年に『この人を見よ』は一応の出版にこぎ着ける。ところが、ニーチェの助手であったペーター・ガストがこの最終稿の写しを密かに保管しており、彼の死後、1969年、この最終稿が発見された。グロイター版ニーチェ全集の編集者は、この最終稿を決定稿として扱っている。たしかに、ニーチェのエリーザベトを非難する文言が含まれた原稿を採用することは、遺稿管理者としての地位を固めていたエリーザベトにとって政治的なスキャンダルとなるものだったかも知れない。しかし、エリーザベトが問題の原稿を破棄した理由が本当に保身によるものであったのかも、明らかになっているわけではない。実際のところ、幾度も繰り返された校正過程において時系列上の最終稿だった原稿が内容上の決定稿になるのかは、ニーチェにしか分からないのである。
 西尾幹二訳は、こうした底本の違いを注によって示しており、複数のテクストを較しながら読むことができる(ただし西尾幹二自身は、グロイター版の編集方針には反対している)。

 『この人を見よ』は、アフォリズム集でもなく論文でもなく、「自伝」という体裁を取っている。ただし、この自伝は、最初から自伝として構想されていたわけではない。いくつかの著作を読むと分かることだが、ニーチェは、著作の序文で自分語りをするというを持っている。読み手としては、序文を読むとき、その著作のアウトラインや執筆の意図などが説明されるのを期待するものだが、ニーチェの書く序文・序論には、そうした説明は見出されず、執筆時の自分の体調など、正直どうでもいいことがたくさん書かれている。
 ニーチェは、80年代の後半を通じて、体系的著作を準備しており、その著作の序論が『偶像の黄昏』となった(関連商品解説参照)。こうした体系的著作の「序論」だった『偶像の黄昏』の校正の中で、『原-この人を見よ』と呼ばれる「自分語り」の稿ができあがる。そして、この稿の内の一部が『偶像の黄昏』に編入され、残りが『この人を見よ』となる。つまり、『この人を見よ』は、体系的著作の「序論」の執筆過程で生じた「自分語り」が独立したものなのである。

 『この人を見よ』は、ニーチェによるただの「自分語り」ではない。『この人を見よ』の次を見た人は、その内容の滑稽さに驚く。「なぜ私はかくも賢明なのか」「なぜ私はかくも悧なのか」「なぜ私はかくもよい本を書くのか」などということを自伝で書くというのは、狂気じみた印を与えるからである。しかし、これらはいずれもニーチェ一流のジョークでありフィクションである。ニーチェは、お金にも女性にも苦労したことがない、とっているが、そんな事実はない。「何かを「欲する」とか、何かを得ようと「努する」とか、何らかの「的」や「願望」を絶えず忘れないでいるとか──こういったことを私は経験的に知らない」(「なぜ私はかくも悧なのか」9)とニーチェは述べているが、こうした運命地は、痛みに触れないため悪に抵抗しないイエスに対される。十字架に架けられた者対ディオニュソスという構図が『この人を見よ』という擬似自伝を貫いているのである。

くりかえし視聴されねばならないもの ニーチェの関連動画はそれなのだ

くりかえし参照されねばならないもの ニーチェの関連項目はそれなのだ

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掲示板

  • 305 ななしのよっしん

    2023/11/06(月) 22:46:32 ID: ekYmUEbAwz

    変だけどおもしろいから好き

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  • 306 ななしのよっしん

    2024/03/21(木) 08:58:21 ID: xpkS2lHpHu

    近代哲学を強く批判し、現代思想の流ともなったニーチェに対しても容赦ない。「なんじの敵には軽蔑すべき敵を選ぶな。なんじの敵には誇りを感じなければならない」という有名な言葉も「なんか言ってることが『少年ジャンプ』っぽい」「この人、一生童貞だったんですよね。やっぱ童貞の考え方ですよ」とバッサリ。

    一方、ニーチェの「若い頃からモテてきた男の想像犬以下である」という言葉については「モテない男のオナニーに賭ける情熱といったらすさまじいものがあります」「さすが、童貞ニーチェはその辺よくわかってますね。(中略)かなりの名言です。評価します」と称えていた。

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  • 307 ななしのよっしん

    2024/04/02(火) 19:15:44 ID: KRE0H+tTtG

    「精など体の玩具に過ぎない。」
    TS女体化系をホモ扱いする輩を一蹴出来る真理としてよくお世話になってます先生

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最終更新:2024/04/26(金) 00:00

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