ヌルハチ 単語

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ヌルハチ

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ヌルハチとは、清王朝太祖である。後を建し、後に270年続く清の礎を築いた人。

フルネームはアイシンギョロ・ヌルハチ。漢字で書くと新覚羅・児哈爾哈斉)。「児哈」は明が使用した漢字で、清人はこれを嫌って「爾哈斉」と表記した。

概要

ヌルハチの人生は25歳で挙兵して以来、遠征と戦争にあけくれる日々であった。

後々に大清帝国の始祖となるヌルハチであるが、彼が挙兵した当初は周りは敵だらけであった。明やモンゴルはもちろん女族も3の部族(西女や野人女)に分かれており、更にはヌルハチの所属する建州女族ですら、ほとんどがヌルハチに敵対する存在であった。ヌルハチは長い闘争を経てこれらを順番に征伐していく。

挙兵とマンジュ国の建国

ヌルハチは1559年に建州(マンジュ)女族の新覚羅氏のタクシの第四子、ヒタラ氏のエメチの長男として産まれた(諸説あり)。エメチが身ごもってから13ヶ出産だったという。ヌルハチ=スレ=バトゥル(ヌルハチのこと)は、幼少の頃より徳を示す子供であったが、ヌルハチが10歳の時に生が亡くなり、が再婚すると継との折り合いが合わず苦労が多くなったとされる。ヌルハチがトゥンギャ氏のタブン=バヤン、ハハナ=ジャチンと結婚して、分独立)しようとしたときにも継に言いくるめられた父親余り財産を分けてくれず、ヌルハチは商いをするなど、ほぼ独で生計をたてていかなければいけなかった。妻ハハナ=ジャチンとの間には80年に長男チェエン、83年には次男のダイシャンが産まれている。

ヌルハチ25歳の時に、祖オチャンガとタクシが明の将軍成梁に殺されるという事件が起きた。ことの経緯はこうである。1583年、明の万暦帝治世下、グレという地にいたアタイジャンギンを明の広寧の総司令官成梁が包囲した。しかし中々攻め落とすことが出来なかった成梁は、兵士に 「アタイを殺した者はこのエジェン(長官)にするぞ」といって籠絡作戦に出る。この作戦は上手くいきアタイを討つことはできたのだが、この時スクスフ部のトゥルであるカンワイランという名のアンバン (大守)が、アタイを救出しようとしたギオチャンガとタクシを殺すように成梁にけしかけたため、成梁は二人を殺してしまった。

この事件に対してヌルハチは敵討ちのため挙兵する。ヌルハチの長い長い覇権闘争の幕開けであった。

ヌルハチのと祖と殺した成梁は、これは失策であったと認めヌルハチに謝罪と賠償の品を送ってきたがヌルハチはこれを認めず、明の清河堡を攻撃し、成梁をそそのかしたニカンワイランの引き渡しをめた。これに怒った明側はギヤマンの地にを築き、 それをニカンワイランに与え彼をマンジュのハン(王)と認めると宣言した。この時、一族の中からも祖オチャンガの甥であるロンドンをはじめとしてニカンワイランの味方をするものが続出し、ヌルハチは孤立してしまう。ただしギヤムフのガハシャンハスフやジャンチャンシュ・ヤンシュ兄弟など、ヌルハチの側につくものもいた。ヌルハチが挙兵した時の武装はわずかにが13個だけという有様であり、を着ない者も含めても兵の数は数十程度であったと推測されている。

1583年5月ヌルハチはニカンワイランの居トゥルに侵攻を開始するも、ヌルハチに協してくれる予定になっていたサルのノミナが、ロンドンの調略によって離反してしまい、ヌルハチが到着した時にはノミナから連絡を受けたニカンワイランは明の近くにあるギヤバンへ既に逃げ出した後であった。その後、面倒ごとを避けた明はニカンワイランを見放してしまった為ニカンワイランを見捨てるものが続出し、今度は彼が孤立に陥る。ニカンワイランは妻子・兄弟などわずかな共を連れてジェチェン部の北、スクスフ部から遠く離れたオルホン(撫順北の范河付近)に落ち延びるも、3年後1586年に再びヌルハチに攻められ最後はヌルハチが派遣したジャイサの手によって殺された。

カンワイランとの戦いに明け暮れる一方でヌルハチは、建州女5部(スクスフフネヘワンギヤドンジェチェン)を統合することにも精を出していた。ヌルハチは1587年にはギヤハ・ショリ両河の間にある土地に最初の居である旧老(フェ=アラ)を築き軍備を整え、同年にフネヘ部のドゥンを攻めてジャハイを降させる。

翌年1588年には西(フルン)女ハダ部のダイシャンアミン=ジェジェを妻に迎え入れ、その直後にヌルハチの優勢を感じたスワンドンゴ、フォオンドンの三部がヌルハチに帰した。更にヌルハチはワンギヤダイドゥ=メルゲンを倒し、翌年1589年にはジョーギヤのニングチン=メルゲンを殺する。この頃にはマンジュ5部にヌルハチの敵はいなくなり、ここにマンジュが建された。

マンジュに対して明はヌルハチに建州衛都督僉事(せんじ)を授与し、ヌルハチはこれを利用して明との取引によって富を蓄えると武器を買い入れて軍備を増強していった。マンジュは数ある北方民族の中の一つである女族の更に建州女にすぎなかったが、マンジュ立は他の女族やモンゴル世界に大きなを与える事となった。

女真族統一戦線(VS海西女真族)

グレの戦い

ヌルハチ勢伸びる事に危機感を覚えた西(フルン)女の4部(ハダイェヘホイファウラ)は 1593年にマンジュの東南に広がる白山部とワルカ部を巡る争いをきっかけに内モンゴルハルハ5部の一つコルチン部と共に3万の連合軍を集めマンジュに侵攻した。内分けは以下である。

マンジュ連合軍はグレの地で突。数では勝る連合軍であったがイェへの王(ベイレ)の一人であるブジャイが討ち取られたことにより、全軍が総崩れになってしまった。これが世に言うグレの戦いである。戦いに勝利したヌルハチは数多くの捕虜や物資と共に明から将軍称号も得て、全女族統一へののりを大きく進める。

ヌルハチはグレの戦い以後、西女族とそれに組した部族を順に各個撃破していった。

最初にヌルハチが攻めたのは白山部のジュシェリ・ネイェンの両地方であった。ジュシェリ地方ではイェへに従うかヌルハチに従うかで内は議論が紛糾していた。最終的にヌルハチのイェチェンが、同じ部族でイェヘのユレンゲり、残りのイェへも掃討したためにジュシェリは定させた。次に攻めたネイェン地方もヌルハチのスルドゥンガと反ヌルハチのセオウェンとセクシが戦争になったが、結局ヌルハチの協を得たスルドゥンガがセオウェンとセクシが立て篭るフォドホを落とし、これもマンジュの支配下に収められた。

ハダ部攻略

その後、アムール周辺にあるフルハ部と貢関係を結んだヌルハチは、次にハダ部の攻略にかかる。ハダ部もまたイェへとマンジュの間で挟みの状態にあった。

1597年にイェへ部のナリブルはハダ部を攻撃し始めた。ハダ部国王メンゲブルはヌルハチに人質と共にヌルハチに援軍の要請を送り、ヌルハチはこれに応じて2000の兵を差し向けるも、イェへの誘惑に乗ってしまったメンゲブルはヌルハチの兵を殺しようとしていた。

これを知ったヌルハチは急遽自ら兵を率いてハダを攻撃し、メンゲブルを捕虜にする(後に死刑)。ヌルハチはハダの住民を全てマンジュに連れていってしまい、ここに事実上ハダ部は滅んだ。

ハダ部は明の対女対策の要の地であり、これを滅ぼしたヌルハチに対して経済制裁をちらつかせるなどの圧をかけた。そこでヌルハチはメンゲブルの長子であるウルグダイとハダの住民を元の地に戻したのだが、イェへ部のナリブルがハダへの侵略を繰り返した為に、結局ハダの住民はマンジュに戻されることになった。ちなみにウルグダイはこの後ハダの地を踏むことなく、ヌルハチの忠臣となって活躍した。

支援していたハダ部が滅んだことにより、今後明はヌルハチに対抗するためにイェへを支援していくこととなった。

ホイファ部攻略

続いてヌルハチが攻めたのはホイファ部であった。1607年、ホイファ部は西女でも一番弱小のであり、マンジュとの決戦を前にしてベイレ(王)のバインダリがホイファの補修工事を行うなどしていたが、変地異をきっかけにバインダリの一族を先にしてホイファ部の住民のイェへへの亡命が止まらなくなった。

ここにきてバインダリはマンジュに援軍を要請してこの騒ぎを収めようとしたが、ホイファとマンジュが手を組むことを恐れたイェへのナリブルは、亡命したホイファの住人を元の地に返すことを条件にマンジュと手を切るようにバインダリに言う。これに応じたバインダリであるが、ナリブルはいつまでたっても亡命人を返さず約束を反故にしてしまった。バインダリは再度ヌルハチ側につくように政策転換するが、中途半端な対応の連続にヌルハチの疑惑を招き、とうとうマンジュ軍に攻め滅ぼされてしまった。バインダリはヌルハチに殺され、ハダに続いてホイファもここに滅亡を迎えた。

ウラ部攻略

ウラ部の国王ジャンタイはグレの戦いで捕虜になって以来、フェ=アラで虜囚生活を送っていたが、ブジャンタイの代わりにウラを統治していたブジャンタイマンタイが殺されるとヌルハチはブジャンタイをウラに返した。

この時ブジャンタイ叔父のヒンニヤが跡を狙ってブジャンタイを暗殺しようと待ち構えていたが、トゥルクン=フワジャンとボルコン=フィヤングがブジャンタイを護送していたのでヒンニヤの企みは失敗している。

その後ウラはマンジュとイェへの両方と関係を結びんでいたが、ワルカ地方を巡りマンジュと対立を深め、1607年にウラがワルカ地方のフィオを攻めている時にヌルハチの軍と(うけつがん)で衝突。結果ヌルハチが大勝し、和するもその後ウラはイェへと接近したためにヌルハチは再度出征し、1613年にウラを滅ぼす。

こうしてヌルハチはイェへ以外の西女族を全て支配下に入れた。

ヌルハチの政権

西女族を吸収しつつ勢いに乗るヌルハチは1603年に居(ヘトゥ=アラ)に移していた。1606年にはモンゴルハルハ5部はヌルハチにスレ=クンドゥレン(恭敬なるという意味)=ハン称号を送り、マンジュ国王として承認した。

族は北方民族ではあるが、農耕を体とした民族であった。しかし北原の土地は痩せており、その為、安定した生活を得るという的が常にヌルハチの戦争にはあった。そのため、ヌルハチが最も欲しがったのは、肥沃な華北大地、すなわち明の領土である。

ここまできて流石にヌルハチを無視できなくなった明政府は、女族で一残ったイェへを支援し、ヌルハチを圧迫した。ヌルハチも女族統合のために大明との戦いを覚悟し、イェへを除く女族のベイレらからスレ=ゲンギェン(英明なるという意味)=ハン称号を送られてハン位についた。ここにおいてヌルハチは後のアイシン(後)の原になる政権を築いていく。

マンジュの際は同一部族での権闘争の性格があったが、それ以降の戦争独立の統合という覇権闘争であった。ヌルハチは統治を高めるために、モンゴル文字を基に女文字開発させ、更に侵略したの人民を自分の支配地に連れてこさせる徙民(しみん)政策をとった。そのためマンジュ成立以降のヌルハチ政権は多民族国家としての特色が強く、それを端的に示すのが八旗制である。

八旗制

八旗制とはヌルハチが他民族の統合と、それぞれの伝統の保存を両立しながら勢を拡大するために用いた軍事制度である。ヌルハチは軍団を鑲・正・正・鑲・正・鑲・正・鑲の8つのグサ(旗の意)に分け統轄した。

当初のグサは、成人男子300人で1ニル。5ニルで1ジャラン、5ジャランで1グサで編成されていた。この八旗は時代を経て数や人種を増やしていき、二代皇帝ホンタイジの治世で八旗古、八旗軍などというものもできた。八旗には様々な特権が与えられ、民間人とは明確に区別されていた。各旗は独立として存在し、旗人はその旗王の命のみを聞くという独特な社会制度であった。

アイシンの身分制度

ヌルハチのの身分制度は次世代のホンタイジ政治にも関わってくるため、ここでちょっと説明する。

石橋秀雄氏によると当時の女族の社会には3つの基本的な位置づけがあった。

  1. グルン)における君民の関係を示す、君ハン)と臣民イルゲン)
  2. 部族(氏族)における族長と構成員の従関係を示す、(ベイレ)、大臣(アンバン)、民(ジュシェン
  3. (ボー)におけるの関係を示す、エジェン)と(アハ)の関係

この中で三つ目のボーにおけるエジェンとアハの関係がもっとも厳格とされていた。そしてこれらは更に全体として

ハン)ー 王(ベイレ) ー 大臣(アンバン) ー 臣民イルゲン)・民(ジュシェン

という関係があった。こう見るとハンであるヌルハチは、旗の王であるベイレの上にあるように思えるが、実際はハンはベイレの代表者というニュアンスが強く、専制的なはもっていなかった。ハンが独占権を持つようになるのはヌルハチ以後のことになる。

ヌルハチの後継者

ヌルハチの後継者はになるのかというのは後にとって重要な問題であった。中国のように皇太子システムは存在しないし、長子相続なんて伝統も当然ない。当初は長男のチェエンを後継者に名していたのだが、チェエンが増長したためヌルハチはこれを嫡した。その後、後継者補に上ったのは、次男ダイシャン、甥のアミン、5男マングルタイ、そして8男のホンタイジであった。ヌルハチは1616年に即位した当初、政の最高機関として四大ベイレ(ホショ=ベイレ)制をとり、この時の四大ベイレが上記の四人だったのである。この中で頭一つ抜けていたのは次男のダイシャンであった。部下からの信頼も厚く、また明との戦いの中で得た軍功も十分であった。

しかし、ダイシャンはヌルハチの妻グンタイ、つまり義理のと貫通した疑惑をもたれ、また別の男女れから息子を殺しようとした事件が起きてダイシャン嫡されてしまった。ヌルハチはこの時同時に、四大ベイレを8人に拡大し、上に述べたダイシャンを除く3人の他に、10男デゲレイ、甥ジルガラン、孫のヨト、14男ドルゴン、15男ドドを後継者補に加え入れた。

ハン位は中国皇帝のような専制君ではなく、合議制の議長のようなポジションで絶対的権は存在しなかったが、それでもヌルハチの後継者を巡る政争は数々起こった。

明との対立

時を遡って1556年、度重なる戦乱に財政が危機に陥った明朝鉱税と呼ばれる鉱物に対する税を発布した。この鉱税は極めて評判が悪く、反対意見も多かったが皇帝が意を通す形になった。こうして明は鉱税太鑑と呼ばれる宦官を各地に派遣したのだが、この時、ヌルハチに接する地方に来たのは万暦帝の寵を受けて専横を極めていた、悪徳宦官であった。高は鉱税を管理するだけでなく、ヌルハチら東人の生命線ともいえる人参貿易にまで介入し、買い占めを行い利ざやを稼いだ上でヌルハチには料を支払わなかった。元々東人と明人の絶妙なパワーバランスの上で成り立っていた貿易であるが、これにより東人の高への憎悪は増大した。

また高東の軍事にまで手を出して、反対する者を次々と東から追放した。東巡撫の植は1599年に高排除のために起きた反乱の責任を押し付けられ追放されてしまう。東の総兵官、1601年に高の弾劾を受けて失脚。その後東巡撫にはヌルハチとも因縁のある成梁が就く事になったが、往年の名将ぶりはとうの昔であり、彼は既に老人になっていて緊高まる東のまとめ役としてはあまりに不適格であった。巡撫には緝(ちょうしゅう)という将軍がつき、彼は高におもねることはかったが、成梁と高の仲が密であったため、成梁との連携が不可欠な緝は高に表だって対立することはできなかった。

1600年代に入ると、明と後の対立はますます深まって行く。東の貿易のな商品は皮と人参であり、その頃のヌルハチは皮と人参を明に高く売りつけようと圧を加え続けていた。また1606年には明に対して価の値上げを要して貢を停止している。価とは貢の代の名で支払われるのことである。

それに加えて明と後領土問題も深刻化をたどって行った。特に問題となったのは江の北に広がる丘陵地域であった。この場所は16世紀から、混乱を避けた明人が入植しており、時に後の領土にまで入って来ていた。当初は自内の混乱を治めるのに躍起になっていたヌルハチであるが、それが安定するにつれでこの地域に焦点が当てられるようになったのである。明は何継祖と呼ばれる役人を派遣して、後妥協を図る。結局、明が毎年600両を支払うことによって入植を黙認するということになった。

しかし総兵官の成梁と巡撫の緝はこの地域が後の紛争の火種になると考えて、1603年から5年の間に、入植者を強制移住させる計画を実行に移した。成梁は婿宗功に数千の兵を与えて、住民のを焼き払い理矢理に明の領内に連れてこさせた。この時、多くの人民が餓死や溺死により命を落としたとされる。この事件は棄地啗虜と呼ばれ、当初は成梁は自分たちが連行したのは逃亡兵だと朝廷に偽ったが、後にバレて成梁は失脚に追い込まれている。

成梁の失脚及び、度重なる反乱の責任を問われた高東からいなくなると、さすがの明朝も後を脅威に感じ始めるようになり、今まで支援していたハダの代わりにイェへを支持してマンジュの孤立を図った。ヌルハチも明の変化を敏感に察知して価の値上げの撤回をするなど妥協政策に転換するが、領土問題を巡る争いは止まることはなく、明との全面衝突に突入していく。

サルフの戦い

1616年に(アイシン号を宣言し八旗を整備したヌルハチは1618年、七大恨を発し明と本格的な戦争に突入する。七大恨の内容は、

  1. 理由もなくわがや祖を殺した事
  2. 互いにえないという約束を破った事
  3. 約束を破った越境者を処刑した報復に、の使者を殺し威嚇した事
  4. とイェへ部族のとの結婚をさまたげ、そのモンゴルに与えた事
  5. 近くでわが女族がつくった穀物を穫らせず、追い払った事
  6. 悪辣なイェへ部族を信用して、われらを侮辱したこと
  7. な裁きに背き、悪を善、善を悪として不をおかした事

以上を見ると、2、3、5のように領土的、経済的な要因も含まれており、ヌルハチが安定した経済基盤確保に強い興味を持っていた事が伺える。ヌルハチの軍事的の一つには、常に豊かな農耕地を確保することにより、経済基盤を安定させることが入っていたことは押さえておきたい。

同年、ヌルハチは明の護を受けていたイェへ周辺の諸を攻撃し始める。永芳が守る撫順を攻め、これを降させ、同日に東州、根丹の二と望楼の類い五を陥落させる。5月には撫安、衝、三岔児(サンチャル)などの11を落とし、7月には要所の清河を脅かした。明は名将成梁の息子、対日戦で軍功をあげたを起用して防戦に挑ませるも間に合わず、清河は陥落。これにより東全体がヌルハチの侵略の射程に入った。

1619年、明は本を入れてヌルハチ討伐に挑む。総大将鎬を置き、軍を軍3万、軍1万5千、軍2万5千、綎軍1万の4つに分けてヌルハチの居である(ヘトゥ=アラ)に侵攻させた。数の上では優勢であった明であるが、軍の連携が乏しく速度に勝るヌルハチに各個撃破され大敗を喫する。後の趨勢を決定づけたこの戦いをサルフの戦いと呼ぶ。明に大勝したヌルハチは長年の宿敵イェへを統合し、悲願であった全女族の統一に成功した。25歳で挙兵してから36年。ヌルハチは既に還暦えていた。しかしヌルハチの前進は止まらない。

遼東を巡る戦い

サルフの戦いの後に1619年、鎬に変わって東経略に着任したのは廷弼であった。廷弼は棄地啗虜事件の調を行っていた経験もあって東には詳しい人物であったが、その頃にはサルフでの勝利とイェへの滅亡により東における後の有利は決定的であり、兵士の士気も低かったため、廷弼はあえて守勢に回り軍備を整える方針をとった。この方針はそれなりに効果を発揮したのだが、中央政府からは消極策に写り、廷弼は更迭。後任には袁応泰が就いた。袁応泰は当時飢饉に苦しんでいたモンゴル人を収容するなどして兵の数を増やし、撫順と清河を奪い返す計画を立てたが、それに先んじてヌルハチは瀋陽を強襲した。

1620年にジャイフィヤンからサルフへ遷都していたヌルハチは、瀋陽をあっという間に陥落せしめる。大砲で守られていたをこれだけ素攻略できた裏には、の賀世賢に不満を持っていたモンゴル人が後に内応して中からを開いてしまったからと言われている。袁応泰は瀋陽に援軍を送りヌルハチの甥ヤバハイを討ち取るなど後軍を苦戦させるが、結局敗北。袁応泰は兵をに集めて防備を固めるも、後の追撃に遭いは陥落。袁応泰も戦死した。を得たその日のうちにヌルハチは陽への遷都を決定し、幹部達の反対を押さえてこれを決行した。瀋陽と陽の2大重要拠点を獲得したヌルハチであったが、この二つの戦いは後にとっても大きなダメージを残した。

一方で、瀋陽と陽を失った明政府には大きな動揺が起こり、以前は東を難に治めていた廷弼の再任が強く推されるようになった。朝廷召還された廷弼は三方布置策という陽奪還策を提言した。三方布置策とは広寧には騎歩兵部隊を置いて敵を引きつけ、天津と山頭半島の登州・州(らいしゅう)に軍を設け、隙をついて半島を攻撃する。そうすれば後は本拠地が気になり兵が分散され、その間隙を縫って陽を回復するという作戦である。時の皇帝はこれを採用し、廷弼を経略に起用する。

しかし、廷弼の戦略は彼が思うようには進んでいかなかった。一番の原因になったのは東巡撫の王化貞との不和であった。廷弼は王化貞と意見が衝突することが多く、その為、彼が自由に動かせる兵の数も大幅に制限されてしまった。その上、明が針としていた廷弼の三方布置策も王化貞配下の毛文が後から鎮江を奪還してしまった(鎮江の戦い)ことにより、逆に計画は破綻する。この勝利によって三方布置策のような慎重策は嫌われ中央政府の評価が王化貞に傾いてしまったのである。元々廷弼に対する反感は強く、これ以後東の実権は王化貞がとることになった。しかしこの王化貞は兵を操る才が乏しく、後には連戦連敗。重要拠点の一つである広寧を奪われ西関まで敗走し、後にこの責任を問われて1632年に死刑に処されている。また廷弼は同じく責任を問われ王化貞に先んじて1625年に死刑になった。

その頃ヌルハチの敵には明の他に、モンゴルがあった。アイシンは南に領土を広げることにより、元王朝の血を引き継ぎ明から歳幣(援助)を受けて内モンゴルの統合を進めていたチャハル部のリンダン=ハンとの戦いも余儀なくされる。また毛文ゲリラ攻撃にも苦しめられ、一方でヌルハチ領内の人が毛文の調略に応じてしまったため、文化的な轢もありヌルハチはこの頃から人融和から人弾圧に方針を転換している。

ヌルハチは1626年の寧遠(ねいおんじょう)の戦いの後に死亡する。一説には明軍が用いたポルトガル大砲で負傷しそれがもとで亡くなったとされる。

ヌルハチの死後は、子のホンタイジが後を継いた。ホンタイジハン位を得た決め手は不明瞭だが、一説にはハンの権をこれ以上高めないよう、相続順位が低めのホンタイジが選ばれたと言われている。またこの時、ヌルハチはドルゴンドドアバハイに殉死を命じている。

ヌルハチ色々

年表

西暦 事項 関連事項
1559 ヌルハチ誕生。
1567 と死別。 10
1577 する。 19 信長右大臣
1580 長男チュエン誕生。 22
1581 次男ダイシャン誕生。 23
1582 24 本能寺の変
1583 オチャンガ、タクシがグレ死亡ヌルハチ挙兵。 25 秀吉大坂城
1585 ジュチェン部を攻撃。 27
1586 敵ニカンワイランを討つ。 28
1587 旧老(フェ=アラ)を築く。 29
1588 ドンゴ部のホホリ来投。ワンギャ部のダイドメルゲンを殺す。ハダ、イェへから妻を娶る。 30
1589 明より都督僉事に任ぜられる。 31
1592 34 の役
1593 グレの戦いで九カ国連合軍を破る。 35
1595 明より将軍に任じられる。 37
1596 朝鮮の使者、申忠一がフェ=アラに訪問。 38
1597 39 慶長の役
1599 ハダ部を滅ぼす。 41
1601 ウラ部より妻を娶る。 43
1602 明より入植地問題に関して撫賞をもらう。 44
1603 (ヘトゥ=アラ)に遷都する。 45
1605 47 棄地啗虜
1607 ウカルガンの戦い。ホイファ部を滅ぼす。 49
1608 50
1609 のシュルハチ閉する。 51
1613 ウラ部を滅ぼす。 55 ロマノフ成立
1615 57 大坂夏の陣
1616 ハン位につく。 58
1618 七大恨をげ、明との全面衝突に挑む。撫順を攻め落とす。 60
1619 サルフの戦い。開原・を攻め落とす。ジャイフィアン遷都。イェへ部を滅ぼす。後を建 61
1620 サル遷都 62
1621 を攻め落とす。遷都 63
1622 広寧を攻め落とす。東京遷都 64
1625 瀋陽遷都 67
1626 寧遠を侵攻中、重傷を負い死亡ホンタイジ即位。 68

都の移り変わり

  1. 15年 旧老(フェ=アラ)
  2. 31年 老(ヘトゥ=アラ)
  3. 命4年   ジャイフィヤン
  4. 命5年   サル
  5. 命6年  
  6. 命7年   東京
  7. 命10年 瀋陽

関連項目


清帝国へののり

  1. 初代ヌルハチによる建州女の統一(マンジュの建
  2. 初代ヌルハチによる女族の統一(アイシン、後の建)   ←いまここ
  3. 二代ホンタイジによる皇帝即位(清王朝の成立)
  4. 三代目順治帝による北京(このちょっと前に明滅亡)
  5. 四代目康煕による中国統一
  6. 五代雍正、六代による領土拡大

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