ノンテンダー(英語: nontender[1])とは、特にプロ野球の用語では、一言でいえば自由契約である。
意味としては上記が全てであるが・・・細かくいえば、それなりに出場した選手が年俸に見合わない、コスト削減、選手層の若返りなどの理由で翌年の契約を提示(tender)せず(non-)、自由契約にして他球団でも交渉できるような状態にするという事である。さらに、FA権を持っていても、自由契約とする事で移籍に伴う補償が不要にもなる。当然であるが、その選手を切った球団にも交渉権はある。
また、自由契約にした事で選手の立ち位置の一新という効果もあり、球団が変わった事もあって前年度はレギュラーだった選手が、次のシーズンでは準レギュラー(代打の切り札、守備固め)を受け入れる事がある。
選手の移籍が盛んなメジャーリーグでは有名である一方で、日本ではそういった事は基本的になく、『ノンテンダー』という単語ですら、2021年シーズン終了後に日本ハムのGMに就任した稲葉篤紀が発言するまで、知名度は全くといっていいほどなかった。
日本で『ノンテンダー』という単語の知名度を上げたのは、2021年のオフシーズンに北海道日本ハムファイターズが西川遥輝、大田泰示、秋吉亮を自由契約にしたのが発端。西川は海外FA権、大田と秋吉は国内FA権を持っていた。この時の日本ハムは5位に沈んでおり、しかも3人は不振に陥っていた事や、球団側も使用している札幌ドームの支払い負担が重かったという事情もあった。後に大田は横浜DeNAベイスターズに、西川は東北楽天ゴールデンイーグルスに入団が決定した。秋吉はNPB球団との契約に至らず、独立リーグ・日本海オセアンリーグの福井ネクサスエレファンツに入団した。
日本ハムがそれなりに出番があったり、そこそこ活躍した選手を自由契約にするケースは珍しくもなく、過去には坪井智哉、多田野数人、村田透がいる。なお、この3人は年俸を下げられて再契約となっている。だが、一気に3人というケースは前例がなかった。
ただし日本ハム以外でも、そこそこ以上に活躍した選手が自由契約になった事態は過去にも起きている。
横浜ベイスターズでは、1993年に多くの看板かつベテラン選手に自由契約を通告している。その中には、スーパーカートリオの1人である屋鋪要や130試合に出場した高木豊、こけしバットが代表的な山崎賢一など、知名度が高かったり、60試合以上も出ていた選手がいた。一説では、FA制度で巨人から駒田徳広を獲得する為という説も出ていた。一方で高木は前の年に年俸調停を申請し、その時に上積みに成功したのが解雇の要因になったと語っている。
最終的に高木は日本ハムファイターズに、屋鋪は読売ジャイアンツに、山崎は福岡ダイエーホークスに移籍している。移籍した山崎や屋鋪は控えとして活躍した一方、高木の方は衰えが凄まじかったらしく、当時日本ハムの監督だった大沢啓二が著書で嘆くほどでもあった。
石井琢朗も2008年に98試合も出場しながらも、自由契約になっている。この時の横浜は球団の経営内外も崩壊状態であり、石井もそれに巻き込まれた形であった。補足すると、当初石井は引退勧告を受けていたが、現役続行を希望していた事もあり、自由契約を球団に頼んでいる。最終的に広島東洋カープに移籍。後に引退してコーチになり、2016年の広島のリーグ優勝に貢献した。
オリックス・バファローズや東北楽天ゴールデンイーグルスでも、中村紀洋に自由契約を通告したという例もある。
85試合出場したオリックスについては、中村が公傷を主張したのに対し、球団側が認めなかった事が発端。最終的に年を越し、2007年1月17日に自由契約となった。その後、中村は中日に育成選手として入団するが、当時のスター選手が育成選手として入団した事には、プロ野球ファンに衝撃を与えた。ただし、元近鉄の監督であった梨田昌孝が中日監督であった落合博満に入団を頼んだ事、余らせる枠に困った落合が苦肉の策で育成枠にねじ込んだというのが真相である。その後、中村は中日でレギュラーとして活躍し、2007年シーズンでは日本一に貢献している。
一方で129試合出場したにも関わらず、楽天を自由契約になった件については、現在でも理由は不明となっている。しかし以前と違い、次のシーズンの開幕戦になっても所属球団が決まる事はなかった。5月、暗黒期真っ最中であった横浜ベイスターズに入団する事になり、後に2000本安打を達成している。
読売ジャイアンツでも、表向きは若返りという理由で、主力である村田修一に自由契約を通告している。自由契約になるまでの成績(2017年)は、118試合出場、14本塁打、58打点、打率.262という事もあって、「どこか獲得するだろう」と思っていた野球ファンも当時は多かった。さらに、2000本安打まで残り135本という事もあり、注目を集めていた。
しかし・・・12月どころか年を越しても獲得するNPB所属球団が現れず、3月にBCリーグの栃木ゴールデンブレーブスに入団。NPB復帰を目指したものの、NPBの契約期限である7月31日までに、NPB側からの声はかからなかった。最終的に9月に引退、そのすぐ後に読売ジャイアンツのコーチを務めることになった。獲得する球団が現れなかった理由として、村田がレギュラーを希望していた事、監督として2000本安打までの縛りがネックだった事、横浜時代での態度の問題を先輩達が覚えていたり知っていて、若手に悪影響を及ぼす可能性を懸念していたなど、獲得するデメリットが多かった事が有力な説として挙げられている。
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最終更新:2024/04/23(火) 20:00
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