ハイセイコー
石油ショックの世相の中で、男たちはお前に傷む心をあずけていた。
かもめのジョナサンが飛び交う街中で、子供たちは女たちはお前に愛しき挨拶を贈っていた。――強さだけがヒーローの条件ではない。
昭和48年、数百万人のアイドルとなった大いなる男、人呼んで「怪物クン」。
忘れはしない、あの雄大な馬体。忘れはしない、あの軽快なフットワーク。
あの時のお前の勇姿が、私達にはどれほど優しい存在に映ったことだろうか。
ハイセイコー(Haiseiko)とは、1970年生まれの競走馬。日本競馬史上最初のアイドルホースである。
父*チャイナロック、母ハイユウ、母父*カリムという血統。父はリーディングサイアーを獲得したこともある一流種牡馬で、母も公営競馬で16勝も挙げているという当時としてはかなりの良血馬である。生まれた時から馬体も良く、調教に行っても良く走る牧場一番の期待馬だった。
3歳になって公営の大井競馬場に入厩。馬主が中央競馬の馬主権を持っていなかったからである。実は当時は南関東の方が預託料は安く賞金は中央とほとんど遜色なかったので、中央競馬と大井競馬のレベルは拮抗していたらしい。しかし入厩時既に中央競馬移籍は約束されていたという話もある。
調教時から破格の動きを見せていたハイセイコーだが、伊藤正美調教師が吹いたのに気分を害した他厩舎陣営が軒並み「いくら強くても出られなければ終わり」とばかりに出走馬を回避させた結果、予定のレースが不成立となる。気を取り直して出走した初戦でいきなり大井1000mのコースレコードを0.9秒も更新すると瞬く間に6連勝を飾る。常に2着馬に7馬身以上の差をつけたというのだから呆れる強さであった。こんなに強い馬がどうして地方にいるんだよ、という話になるのは当然であろう。面白いのは、ハイセイコーがあまりに強過ぎ、馬券の妙味が失せてしまったためか、勝てば勝つほど大井の観客が減ったという話がある。
4歳になりハイセイコーは別の馬主に売却され、中央に移籍することになる。この時に「地方の怪物中央競馬に殴りこみ!」とマスコミが大々的に取り上げた。このため、ハイセイコーは出走前から大きな注目を集め、中央移籍初戦の弥生賞にはなんと12万人以上の大観衆が詰め掛けた。騎乗したベテランの増沢末夫騎手でさえ初めて目にする人垣であり、まだ海のものとも山の物ともつかない地方出身馬をどうしても勝たせなくてはいけなくなった増沢騎手は強いプレッシャーを感じたという。
その弥生賞は終始手ごたえが怪しかったがじりじりと伸びて1着。続くスプリングステークスも切れは無いがじりじりと脚を伸ばして勝つ。正直、怪物とは縁遠いレース振りだったが、皐月賞では当然の1番人気。そしてハイセイコーはこのレースを直線入り口で先頭に立つという強い勝ち方で勝った。地方移籍馬が中央クラシックを制したのはこれが初めてだった。
この勝利でハイセイコー人気は沸騰。「東京ハイセイコー様」で郵便が届いたという笑い話があったほど(つまり郵便局員にあまねくハイセイコーの名が知れ渡っていたということだ)である。彼はそれまで鉄火場と言われていた競馬場に競馬は知らないがハイセイコーは知っているお客さんを呼び込むことに成功し、競馬の社会的地位をギャンブルから見ることも楽しめるスポーツへと押し上げたのだった。
しかし、ハイセイコーの不敗神話もこれまでだった。次走NHK杯では何とか勝ったものの、単勝支持率が空前の66.6%に達した東京優駿では、ハイペースを追いかけ過ぎたか前走の疲れが残ったのか、タケホープとイチフジイサミに遅れをとる3着に敗れてしまったのである。
その後は中山記念、宝塚記念、高松宮杯を勝ったが、皐月賞以外の八大競走は遂に勝てなかった。菊花賞と有馬記念の2着が最高成績である。適正距離で平坦なコースでは素晴らしく強かったが、当時主流だったクラシックディスタンスでは今一歩勝ちきれなかった。ただしそれでも2着に来るのだから能力自体はかなり高かったと言えるだろう。
しかし負けても人気は衰えなかった。3歳時有馬記念の人気投票ではなんと90%もの人々がハイセイコーに投票した。年間の馬券売上高は一気に30%も増加。それだけではなく一目ハイセイコーが見たいという親子連れが競馬場へ足を運び、馬券も買わずに声援を送った。それまで「競馬やってます」などと言えば白い目で見られたものだったのだが、ハイセイコーのおかげで競馬新聞を人前で読んでも恥ずかしくなくなったというのだから、ハイセイコーはまさに社会そのものを変えてしまった馬だったと言えるであろう。
地方競馬の野武士が中央競馬に殴りこむ、という分かり易いスタイルで注目を集めたのが人気のきっかけであった事は確かであろう。しかしながら、その後敗戦を重ねても人気が衰えなかったのは何故なのだろうか。ハイセイコーが活躍した1970年代。オイルショックの直撃を受けて、高度経済成長が止まり、日本経済が最初の挫折を味わっていたころと重なる。人々は日本経済と同じように挫折を味わいながらもひたむきに走り続けるハイセイコーに励まされたのではなかろうか。
実際、ハイセイコーは大型馬で走るフォームは泥臭く、それでいて足元は丈夫で予定したレースに順調に使われ続けた馬であった。無骨で真面目。如何にも日本人好みの馬だったのである。
ハイセイコーは種牡馬入りしてからかなり成功し、ダービー馬カツラノハイセイコや「サンドピアリスに間違いない」で知られるサンドピアリスなどを出している。産駒には豊かなスピードを伝えており、ライバルだったタケホープに種牡馬としては圧勝した。
もっとも、この戦果も楽に手に入れられた訳では無く、初年度の産駒がカツラノハイセイコを含めハイセイコーと似ても似つかぬ貧相な馬体の馬が多く、カツラノハイセイコがダービーを勝てなかったら種牡馬場の客寄せパンダと化していた可能性もあった。まぁ、今になって考えてみるとハイセイコー産駒はハイセイコーに似ていない方が大戦果を挙げる傾向が高く、カツラノハイセイコとサンドピアリスは大柄なハイセイコーとは正反対の小型馬で、馬格はそれなりにあったハクタイセイは鹿毛のハイセイコーとは違い芦毛馬であった。
何しろとてつもない人気馬であったので、種牡馬入り後も明和牧場に繋養されていたハイセイコーに会おうとファンが我も我もと押し寄せた。種牡馬に会いに行くという観光スタイルが成立したのもハイセイコーの功績である。多くの人が時代を象徴する存在としてハイセイコーの事を語り、色々な本にもなっている。是非読んで欲しい。
2000年死亡。墓には「人々に感銘を与えた名馬、ここに眠る」と記されている。
ハイセイコーを一言で評価するとしたら、『記録より記憶を残した馬』である。
事実、ハイセイコーの大レースの戦果は皐月賞と宝塚記念だけと殿堂入りの条件である「G-1競走3勝以上」には届かず、種牡馬実績もG-1産駒3頭とこちらも「G-1産駒5頭以上(牡馬の場合)」をクリアしていない。それでも、トウショウボーイは選ばれたのにテンポイントが落選した第1回目の顕彰馬選定で選ばれたのは、「競馬の大衆化に貢献した」から……つまり、ハイセイコーは「アイドルだから」と言う理由で殿堂入りを果たした競馬史史上唯一の馬と言えなくもない。
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最終更新:2022/08/17(水) 03:00
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