ドイツ語の発音 [ˈhaːps.bʊʁk] (ハープスブルク)に基づき、日本語では「ハプスブルク」と転写するのが一般的。時には「ハプスブルグ」などの表記も見られる。スペイン系を指す場合はスペイン風にアブスブルゴとすることもある。
ハプスブルク家は(カエサルの末裔を自称していたことはさておき)現在のスイス北部、バーゼル近郊のライン河畔に建つ古城「ハビヒツブルク」(Habichtsburg)を発祥の地とする一族である。代々「ハプスブルク伯」を世襲していたが、1273年に当主がドイツ王ルドルフ1世(詳細は大百科の記事を参照)となったことで世界史に登場。弱小貴族だったルドルフ1世は当時権勢を誇っていたボヘミア王オタカル2世を倒すことでオーストリア公領を獲得した。この先しばらくの間、ハプスブルク家からドイツ王ないし神聖ローマ皇帝は選出されなかったが、このオーストリアを基盤に勢力を拡大していく。なお、後にハプスブルク家はオーストリア公ならぬ「オーストリア大公」なる爵位をでっち上げ、更にこれを公式のものとすることに成功する。一方、スイスにあった最初の拠点は喪失した。
15世紀にドイツ王を世襲するようになり、更に16世紀にはローマ教皇からの戴冠を受けずに神聖ローマ皇帝を名乗るようになった。ハプスブルク家は、ブルゴーニュ領ネーデルラント、ブルゴーニュ自由伯領、スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを婚姻を通じて継承し、皇帝カール5世の下で巨大な領土を統治するに至った。また、その弟フェルディナント1世がハンガリーおよびボヘミアの王位を継承した。あまりにも領土が広がったこともあり、その後、スペイン王位を中心とする西側の「スペイン系ハプスブルク(アブスブルゴ)家」と、神聖ローマ皇帝およびオーストリア大公位を中心とする東側の「オーストリア系ハプスブルク家」へと分けられた。
スペイン系ハプスブルク家は中南米など世界各地に植民地を獲得し、その国家は「日の沈まぬ帝国」と称されるに至ったが、後に勢力を弱めてしまった。1700年をもって同系は断絶する。
一方のオーストリア系ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝を事実上世襲するとともに、オーストリア大公、ボヘミア国王、ハンガリー国王などを兼ねていた。17世紀前半の三十年戦争によって神聖ローマ皇帝自体の権威および権力は失墜したが、ハプスブルク家は同家が統治する中・東欧の領土を徐々に一体化させることで、その権力を維持した。このため、歴史学の世界では、当時のオーストリア大公領、ボヘミア王国、ハンガリー王国などの領土を「ハプスブルク君主国」と総称するのが一般的である。「ハプスブルク帝国」などと呼ぶこともあるが、厳密に言えばそのような皇帝位があったわけではない。
1740年に神聖ローマ皇帝カール6世が男子を遺さずに没したことを受け、「オーストリア継承戦争」が勃発する。ハプスブルク家は、同戦争および「七年戦争」によって(昔からボヘミア王国と歴史的なつながりが深く、事実上その一部として扱われてきた)シュレージエン公領の大半を喪失したものの、最終的に娘マリア・テレジア(詳細は大百科の記事を参照)と結婚していたロートリンゲン公フランツ・シュテファンが神聖ローマ皇帝フランツ1世として即位して以降はこの両名の子孫によって皇位が継承されるようになった。厳密には、これ以降の王系は「ハプスブルク=ロートリンゲン家」と称する。
1789年のフランス革命後の混乱の中、フランツ1世とマリア・テレジアとの間に生まれたフランス王妃マリー・アントワネットはギロチンで処刑された。更にナポレオンの進軍によって神聖ローマ帝国も解体したため、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝位を失ったが、これに先立ってハプスブルク君主国を正式に「オーストリア帝国」としておいたため、以後はこのオーストリア皇帝位を世襲することになった。
オーストリア帝国はナポレオン没落後のウィーン体制において列強に位置付けられ、ドイツ連邦の議長国ともなるなど、周辺に大きな影響力を行使した。一方、ナショナリズムの勃興によって各民族が自民族主体の国家を求めるようになったため、ドイツ系、チェコ系、ハンガリー系、イタリア系、クロアチア系、スロヴァキア系など多様な民族から構成されているオーストリア帝国は不安定化した。イタリア統一戦争の一環で1859年にサルデーニャ王国に破れ、ドイツ統一戦争の一環で1866年にプロイセン王国に破れたことで軍事的な弱さをも露呈した。
そこで1867年、帝国内のハンガリー人と「妥協」し、従来のオーストリア帝国を、ドイツ系を中心とする西部の「オーストリア帝国」と、ハンガリー系を中心とする東部の「ハンガリー王国」とに分割した。「オーストリア=ハンガリー二重君主国」の成立である。言うまでもなくハプスブルク家の当主は共通の君主であった。
民族問題は更に悪化し、1914年に皇太子フランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボで暗殺される。これを契機として勃発した第一次世界大戦においてオーストリア=ハンガリー二重君主国側はドイツ帝国などと組んで英仏露などと戦ったが、1918年に敗北した。これによって、チェコスロヴァキアやハンガリーが独立し、残るオーストリアも共和制へと転換し、ハプスブルク家の統治は終了した。
皇帝の直系にして最後の皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルクは後に欧州議会議員となり、1989年の「汎ヨーロッパピクニック事件」などを通じて冷戦崩壊の一翼を担った。現在はその長男カールが当主となっている。
掲示板
24 ななしのよっしん
2023/07/06(木) 12:49:49 ID: 5EDAntOROU
ロスチャイルドやロックフェラーなんか目じゃないくらいの一族だったのに陰謀論者はアホだから無視されたりしがち
25 ななしのよっしん
2023/11/26(日) 09:01:39 ID: kU7zp8tSqH
でも変な陰口を叩かれない分そっちの方が幸福だと思うよ
26 ななしのよっしん
2023/12/12(火) 14:48:03 ID: NirZyK/uTA
この一族の人で生涯を通して王侯貴族としての勤めを果たす事が全く出来ない健康状態だった人ってスペインのカルロス2世だけ?
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最終更新:2025/04/26(土) 22:00
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