ハンニバル作戦 単語

ハンニバルサクセン

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ハンニバル作戦(Operation Hannibal)とは、第二次世界大戦末期1945年1月23日から5月にかけてドイツ海軍が行った東プロイセンポメラニア、西プロイセンからの脱出作戦である。

背景

1941年6月22日バルバロッサ作戦によりドイツ陸軍300万はソ連領へ侵攻。奇襲を受ける形となったソ連軍は連戦連敗して首都モスクワの眼前まで迫られるも、根こそぎ動員や特戦隊の配置など数の暴力を以って反撃し、1942年の時点でソ連軍の兵ドイツ軍の兵を上回った。地を埋め尽くす津波を前にドイツ軍は予備兵を使い果たしてしまい徐々に西側へと押し出されるようになる。そして1944年6月22日独ソ戦開始から2年の節ソ連軍は一大反攻作戦バグラチオン」を発動。ドイツ軍の中央軍集団が半壊した事で東部戦線そのものが崩壊に陥り、本格的にソ連領から叩き出され始めた。

東部戦線の崩壊は最前線に程近い東プロイセンドイツ市民を戦慄させた。10月22日にはソ連軍の東プロイセン侵入が始まりに近いネンメルスドルフが最初に陥落。スターリンが発した「ファシストは皆殺しにしろ」によりソビエト兵は住民を虐殺、この事が伝わると市民先に東プロイセンから脱出しようと恐慌状態と化した。12月に入るとメーメルダンツィヒ、ゴーテンハーフェンといった沿部にドイツ軍50万人とドイツ系避難民150万人が孤立。既に陸路は寸断されて本に戻る事が出来ず危機的状況に陥った。

ハンニバル作戦

1945年1月23日ソ連軍に全包囲された東プロイセンの住民を救助するため、ドイツ海軍カール・デーニッツ提督オットー・クメッツ提督はコンラー・エンゲルハルト少将にハンニバル作戦の計画と実行を示。バルトでくすぶっていた重巡洋艦アドミラル・ヒッパーから100トン未満の掃海艇まで投入し、動ける民間船舶を全て徴用して東プロイセン一の良港ゴーテンハーフェンにかき集められた。護衛は第4、第6駆逐隊、第3、第6艇隊が担当した。

積載に長ける大難民の輸送を担当。陸軍と協し、はしけやノルウェーの漁まで使ってゴーテンハーフェンから本へと難民を脱出させるが、どの艇も定員オーバーを承知で難民を乗せており、300人乗りの駆逐艦難民2000人以上乗っていたケースもあった。だがソ連軍が黙ってこれを見逃すはずがなく、1月30日午後にヴィルヘルム・グストロフ号がポメラニアでS-13の撃で沈没運史上最悪の9343名の死者を出すというタイタニック号かに上回る大惨事が引き起こされた。でも知名度は低い。S-13は2月9日にも客ジェネラル・フォン・スチューベンを撃沈しており、乗客4000名中650名しか生き残れなかった。

バレン戦以降、バルトで訓練任務に従事していたドイツ海軍の大艦はアウグスト・ティー中将官とした第2戦闘グループに編入され、重巡リュッツォウ、アドミラル・シェーアプリンツ・オイゲンを中核に水上戦闘艦隊を結成。敗走するドイツ陸軍支援するため身が焼けただれるまで支援を行い、ソ連軍の侵攻を押し留めた。彼らの奮闘でソルバメ半島で孤立した部隊が脱出に成功したり、一時的に東プロイセン首都ケーニヒスベルクとの連絡を回復させるなど、およそ20万人の市民ドイツ西部へ脱出できた。

3月初旬、アドミラル・シェーアエルビング級魚雷艇T-36が地上のドイツ軍支援する中、海軍の小艦艇が立ち往生していた7万5000名の軍民を救出し、大ドイッチュラントも1万1000名を輸送した。4月4日から翌日にかけて小ボートと上陸用舟艇の集団が3万以上の兵士民間人を乗せてヘラ半島に輸送。4月だけで26万5000人がダンツィヒからヘラへの避難に成功したと言われる。だが損も発生し、4月15日に輸送団がソ連潜水艦L-3に撃され、翌16日にゴヤが沈没。6000名以上の命が失われた。また避難先である西側は連合軍の猛攻を受け、キール軍港に停泊中だったアドミラル・シェーアが転覆、アドミラル・ヒッパーは大破したのち自沈処分となった。シュヴィーネミュンデに停泊中のリュッツォウはトールボートの至近弾を受けて大破浸したものの、乗組員の不断の努により副と前部を復旧させて戦闘を維持し続けた。

5月1日自殺したヒトラー総統の遺言に従って総統に着任したデーニッツ提督は孤立しているクールラント軍集団の救出を優先するよう命じた。艦隊の集結地として使用されていたヘラ半島もいよいよソ連軍の魔手が迫り、終戦を迎える5月8日までに15万人以上が脱出。5月8日21時、大小92隻の団がラトビア都市リビウを脱出し、5月10日キールへ入港。この航を以ってハンニバル作戦は終結した。

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掲示板

  • 1 ななしのよっしん

    2022/04/30(土) 17:35:13 ID: lDe13hPvsZ

    この作戦によって東プロシア領からの救出に成功した民間人は二万近くに及び、戦後ドイツ海軍再建への支持と好感情に繋がった……
    というのがデーニッツ回顧録による神話で、60年代以降から研究が進んで実際には現地指揮官の独断専行に近い形で実行されて救出できたのも数十万という。それでも史上最大規模の救出作戦であることは間違いない

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