96年、天皇賞(秋)。
挫折が教えてくれる道がある。
全治6ヶ月の悔しさは、エネルギーへと化けた。わずか3歳で天皇賞を勝つなんて。
バブルガムフェロー(Bubble Gum Fellow)とは、1993年生まれの日本の競走馬。3歳(旧表記で4歳)にして天皇賞(秋)を勝った名馬である。名前は「風船ガムを噛む奴」の意。
主な勝ち鞍
1995年:朝日杯3歳ステークス(GI)
1996年:天皇賞(秋)(GI)、スプリングステークス(GII)
1997年:鳴尾記念(GII)、毎日王冠(GII)
通算成績:13戦7勝[7-2-3-1]
![]() |
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「バブルガムフェロー(ウマ娘)」を参照してください。 |
冒頭で引用したCMナレーションでは「3歳で天皇賞を勝った」と表現されていますが、当時は馬齢が旧表記(数え年で計算)だったので、当時の表現では「4歳で天皇賞を勝った」となります。(その後、2001年に満年齢での計算に変更された。)
冒頭と違って正直ややこしいですが、この「概要」欄においては以下より当馬が活躍した時代の表記に合わせて、特に記載がない限り馬齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
1993年4月11日、社台ファームにて生を受ける。後の大種牡馬となるサンデーサイレンスの、2年目産駒となる。
父*サンデーサイレンス、母*バブルカンパニー、母父Lyphardという血統。6歳上の半兄にGI馬Intimiste(クリテリウム・ド・サンクルー)がいる良血である。
当時サンデーサイレンスの初年度産駒が癇性が強い(ちょっとしたことで激しやすい)馬が多く、また2年目産駒もそのような傾向があり、さらに母の父であるLyphardも気性の激しい血統として知られていたため、バブルガムフェローの血統だけを聞いた牧場スタッフたちは相当身構えたとのこと。
ところが、バブルガムフェローは、血統からのイメージとは正反対に、人間の言うことをよく聞く素直な馬だった。当時のスタッフは、「(同期の)ダンス(ダンスインザダーク)みたいにやんちゃな奴は『この野郎』って覚えてるけど、『バブ』は手がかかった記憶がひとつもない」と振り返っている。また後の主戦騎手となる岡部幸雄も、初めてバブルガムフェローの乗り味を確かめた時は「サンデーの子でこんなに乗りやすいのは初めてだ」と感じたとのこと。
藤沢和雄厩舎に入厩したバブルガムフェローは、その動きの良さで大きな期待を集めた。どれくらい大きな期待かといえば「末はブリーダーズカップか凱旋門賞か」みたいなことを藤沢師や岡部幸雄騎手が考えていたレベルであったらしい。
デビューは1995年10月7日。初戦から、鞍上は主戦騎手となる岡部幸雄が勤めた。新馬戦では圧倒的な1番人気に推されたが、3着と敗れる。しかし岡部騎手は、劣勢の状況にもかかわらず馬にほとんど追わなかった。それについて岡部騎手は、「新馬の初戦は、馬が競馬というものを何か分かっていない。勝ち負けよりも楽しくレースを走らせる方が大事」と振り返っている。
次戦で初勝利を飾り、オープン戦となる府中3歳ステークス(OP)では、1番人気だったサクラスピードオーを下して勝利。ほとんど追うこともなく、余裕をもって勝ち上がる内容のレースぶりに、藤沢調教師も鞍上の岡部騎手もこの馬の持っている可能性を意識し始めたとのこと。
こうして2連勝を飾り、藤沢調教師は朝日杯3歳ステークス(GI)への出走を決める。ただし、このレースの出走については岡部騎手は反対だったとのこと。翌年のクラシック路線を意識してあえて過去3戦すべて1800mのレースに出走していたにもかかわらず、1600m戦である朝日杯3歳Sに出走すると、「せっかく馬が覚え始めたレースのペースが乱されてしまう」と心配したものだった。しかし藤沢調教師は、これまで楽なレースしかしていなかった為、ペースの激しい競馬をさせた時にどういった競馬するかを見てみたかったという。
この馬、実に柔らかそうなしなやかな馬体で、薄い鹿毛も綺麗。流星も美しく、青いシャドーロールに社台の勝負服も良く似合う、一見して分かるような良い馬であった。
1995年12月。こうして迎えた朝日杯3歳ステークス(GI)。バブルガムフェローは1番人気に支持される。ちなみに、2番人気エイシンガイモン、3番人気スキーミュージック、4番人気ゼネラリストと外国産馬が人気を集めていた。
そして、レースが始まる。
ふくらめ夢よ
まるで自分のことのように
胸をふくらませて
喜んでくれた人たちの
その優しさにこたえたいもしも躓き倒れて
みんなの期待をしぼませたら
すぐに立ち上がって
駆け出すことを誓おう
レースでは4コーナーで仕掛けた武豊鞍上のエイシンガイモンが早めに抜け出す。しかし、最後の直線で、それまでほとんど追う事をさせなかった岡部騎手のステッキが入り、バブルガムフェローは加速。ゴール前でエイシンガイモンを差し切って1位入線。最後は岡部騎手が追うのを止めるほどであった。
こうしてバブルガムフェローは早くもG1の栄冠を勝ち取った。岡部騎手らしい、けれん味の無いレースっぷりは大物感に溢れており「いやいや、これは来年のクラシックでもこの馬中心に*サンデーサイレンス旋風が吹き荒れ続けるんでないの?」とファンは思ったのだった。
しかしチャンピオンになった直後に、藤沢調教師は次のように語った。
今でこそ競走馬それぞれの距離適性を考えて菊花賞を選択しないケースも多くなっているが、1990年代の3歳馬といえばほぼオートマチックに皐月賞 → 日本ダービー → 菊花賞を目指すのが当然の時代。しかもほぼ1年前の時点で「菊回避」を公言した藤沢調教師の宣言は、多くの人が驚いた。
こうして朝日杯3歳Sのレース内容が評価され、バブルガムフェローはJRA賞の選考で177票中176票という断然の得票を集め、最優秀3歳牡馬に選出された。
年が明けて、1996年3月。スプリングステークス(GII)へ、出走。1番人気を背負っていたが、先行抜け出しで見事勝利。重賞2連勝となった。バブルガムフェローは3歳王者として、クラシック戦線の最有力候補に挙げられるようになった。
また、この年の同世代のライバルにはオークス馬ダンスパートナーの弟ダンスインザダーク、ダービー馬ウイニングチケットの弟ロイヤルタッチ、年明けのジュニアSを圧勝したイシノサンデーらが名を連ねていた。彼らすべてサンデーサイレンスの2年目産駒だったため、ファンからは『サンデーサイレンス四天王』と呼ばれるようになった。
こうして注目も集まるようになり、クラシック初戦の皐月賞に向かっていく、はずだったのだが...。
皐月賞開催の1週前、追い切り調教後、バブルガムフェローの歩様が乱れていることに調教師は気付く。検査の結果、「右後脚の骨折」が判明。全治六か月。皐月賞、日本ダービーなどの春シーズンは全休となり、クラシックは無念の回避となった。
前年のフジキセキに続いてまた3歳王者が消えた(ついでにダンスインザダークも熱発で回避した)ことで、ファンは大混乱。ちなみに、皐月賞に勝ったのはサンデー産駒のイシノサンデー。主役がいなくなっても代役がきっちり勝つとはサンデー恐るべしである。
「全治六か月」という診断であったが、想定以上に回復が早かったため、夏には帰厩することができた。藤沢調教師は今後のローテーションについて、先に宣言していた通り菊花賞ではなく『天皇賞(秋)』と発表した。当時は4歳馬による古馬への挑戦は少なかったが、前年のジェニュインが挑戦し僅差の2着と少しづつ時代が変わり始めていた。この挑戦については「やっぱりサンデーって距離がもたないんだ」と思い込んだファンも多かった。藤沢調教師は「バブルガムフェローのベストは2000m、今の完成度があれば古馬とも互角以上に戦える」という確信があったとのことで、また「バブルは前進気勢が強過ぎたので、長距離は難しいだろうというのが岡部騎手との一致した意見でした。ならば、重量差ももらえるから天皇賞にしようとなっただけ。何も奇をてらったわけではない。」とも振り返っている。
1996年10月。休み明けの初戦として、毎日王冠(GII)に出走。初の古馬相手のレースだったが、カク外*アヌスミラビリスの3着と善戦する。こうして陣営は、『天皇賞(秋)』に挑んでいく。
こうして迎えた天皇賞(秋)(GI)...、と言いたいところだが、トラブルが発生する。
主戦騎手の岡部であるが、カナダのブリーダーズカップクラシック(GI)へ出走のため海外遠征に行くのだが、なんと天気の関係で日程が順延。天皇賞(秋)の日程と重なることが判明する。岡部が騎乗する予定だったタイキブリザードは乗り方の難しい馬で、たとえ現地の一流騎手に依頼したとしてもテン乗りでは不安が残り、また岡部騎手自身も世界への挑戦の夢を諦めることはできなかった。こうして岡部は海外遠征を選択し、天皇賞(秋)の騎手は代役を立てることになった。
そこで白羽の矢が立ったのが、蛯名正義。当時はまだGI勝ちのない27歳の若手騎手。さらに言うと95年天皇賞(春)・ステージチャンプでゴール後に1位と確信してガッツポーズしたもの、実はライスシャワーにハナ差敗れて2着だったり、当時はGI惜敗のイメージがあった騎手である。
急遽の騎乗決定だったため、蛯名は岡部にアドバイスを求めると「クセのない馬だから、好きなように乗ればいいよ」との回答。また蛯名騎手は、藤沢調教師に直前調教での騎乗を申し出たが、藤沢は「その必要なし」とこれを拒否。面食らう蛯名に藤沢調教師は、「こっちでやっとくから大丈夫。この馬なんでもできるから。」「先入観を持たず、真っ白な状態で乗った方がいいよ」と声をかけた。
そして藤沢調教師は蛯名に「せこく乗る必要はない。受けて立つつもりで堂々とした競馬をしてください」とアドバイスしたという。同世代がクラシックを戦っている4歳馬と、GI勝ちのないテン乗りの若手騎手のコンビに、なんと『横綱相撲』を指示したのである。
そんなこんなでまったく不安が解消できないままの蛯名だったが、岡部・藤沢両人は海外遠征に旅立ってしまった。
蛯名の調教時の乗馬を拒否した理由について藤沢調教師は、「バブルガムフェローは何も難しくない馬。ただ追い切る事でレースへの臨戦態勢が整うため、追い切りの時点ではレース当日とは微妙に違う状態。追い切り時のイメージで競馬に行ってほしくないから、本番でのみ乗ってもらう事にした」との理由からの判断であった。
その後、蛯名は返し馬で馬を走らせた時に、「凄い馬だ、これで負けたら自分のせいだ」「岡部さんじゃなかったから負けたとは言わせない」と密かに燃えたと語っている。
そして迎えた天皇賞(秋)(GI)だったが、このレースは出走する面子が凄かった。
という、当時「古馬三強」と呼ばれた人気馬が勢ぞろいしていた。バブルガムフェローは底を見せていないところが評価され、不安定なせいで評価されにくかったマヤノトップガンを上回る3番人気に支持された。そしてレースが始まる。
サクラローレルは出遅れてしまい、鞍上の横山典弘騎手は無理せず後方待機を選択。その瞬間、サクラローレルを管理する境勝太郎調教師は「馬鹿野郎!」と叫んだそうな。対して、バブルガムフェローは先頭二頭を悠然とスルーしてマイペースの3番手。1000m60秒というスローペース。馬群は固まり、明らかに先行馬有利な状況である。
最後の直線、バブルガムフェローは軽い手ごたえで、マヤノトップガンが仕掛けるのを見てからスパート。トップガンも脚を伸ばし、更にマーベラスサンデーも追い込み、サクラローレルも遅れて凄まじい脚を使う。
外からマヤノトップガンだ!マヤノトップガン来た!
マーベラスサンデーも来た!マーベラスサンデーも来た!
さらに!さらに!マーベラスサンデーも外から来ている!サクラローレルは3番手までか!
サクラローレルも追い込んだ!
サクラローレルも追い込んだ!だけども!勝ったのは!
バブルガムフェロー4歳馬!
直線入り口の位置取りの差が物を言って、バブルガムフェローが粘りこんでゴール。最後はむしろ一番伸びており、着差以上の強さを感じさせるレースだった。
4歳(現表記で3歳)で天皇賞(秋)優勝は、1937年の第1回帝室御賞典(天皇賞の前身となったレース)を勝ったハッピーマイト以来59年ぶりで史上2頭目。また1938~86年の古馬限定戦だった期間以後では初の快挙となった。代役として乗り替わった鞍上の蛯名正義騎手は、95年天皇賞(春)・ステージチャンプでの幻のガッツポーズの屈辱を払拭するGI初勝利。色々メモリアルな優勝だった。
レースの後、蛯名騎手は、「今年の4歳が強いんじゃない。この馬が別格なんです。」と言い切った。
当時まだアメリカにいた藤沢調教師は、BCクラシックでタイキブリザードが惨敗し落ち込んでいたが、この一報を知りバブルガムフェローに海外遠征の夢を期待する気持ちになったとのこと。そして、次に挑戦するレースを国際Glレースのジャパンカップに定めた。
次走は、三強が揃って回避したジャパンカップ(GI)。(この当時はローテがきついからということでジャパンカップは強豪にスルーされることが多かった)。バブルガムフェローは日本代表として、日本馬1番人気に支持される。
ところがどうしたことか、バブルガムフェローはまるっきり走る気がない感じで13着。最終直線でシングスピールとファビラスラフインが壮絶な叩き合いを演じる中、故障したかのように下がって行くバブルを見て「????」とファンは疑問で一杯になったのだった。
藤沢師も岡部騎手も甚大なショックを受けたらしく、記者から「バブルは故障ですか?」と聞かれた岡部騎手は「壊れたのは馬の頭だよ・・・」と寂しそうに言った。藤沢師が膨らませていた海外遠征の夢もバチンと弾けたのだった。
立て直しを図るべく休養したバブルガムフェローだったが、放牧先の社台ファームから帰ってきたバブルガムフェローを見た藤沢厩舎のスタッフは「見るからにガレていて(体重が減る、毛づやが悪くなるなど体調が低下している状態)、ショックを受けた」とのことで、なかなか調子は戻らなかった。
復帰戦の鳴尾記念(GII)では、(カラ馬をきっちり差し切って)勝利し復調をアピール。しかしその後の宝塚記念(GI)ではマーベラスサンデー悲願のGI制覇の2着。
秋を迎えて、毎日王冠(GII)を勝利し、再び復調をアピール。
そして迎えた天皇賞(秋)(GI)。前年度の「三強」が不在のうえ、バブルガムフェロー以外のG1馬は2頭しかいなかったこともあり、前年度覇者バブルガムフェローは圧倒的支持を得て、単勝1.5倍の1番人気に推される。単勝支持率は実に51.7%となっていた。
しかしここで現れたのが、牝馬のエアグルーヴ。今となっては考えられないかもしれないが、当時は「牝馬と牡馬には埋められない実力差がある」とされており、現れたエアグルーヴは、マーメイドステークス(GIII)、札幌記念(GII)と重賞を2連勝し、17年ぶり牝馬の秋天制覇に向けて完璧な仕上がりをアピール。ファンからも支持されており、2番人気となっていた。
レースでは、最終直線でサイレンススズカ(完成前)の大逃げを、ほんの少し早めに捕まえに行ったバブルガムフェロー。すると完全にバブルマークだったエアグルーヴが、牝馬とは思えないド迫力の末脚を見せる。ラスト200メートル地点でエアグルーヴが外からバブルに並びかけ、そこからビッシリ叩き合うマッチレースの形に持ち込んだ。そして、『バブルか!? エアか!? バブルか!? エアか!? エアグルーヴ!!』(フジテレビ・三宅正治)の名実況とともに、バブルガムフェローは2着。17年ぶりの大快挙に沸く東京競馬場の中で、史上初の天皇賞(秋)連覇の夢を僅かに逃した事を語ってくれる人は誰もいなかった。ちなみに、秋天1番人気連敗のジンクス阻止もあと少しだった。
その後のジャパンカップ(GI)では、エアグルーヴとの再戦が実現した他、G1級競走5勝のイギリスのピルサドスキーの参戦が注目された。この3頭が上位人気を占め、そのなかでもバブルガムフェローは1番人気に支持された。レースでは、今度はエアグルーヴを徹底マークして狙い済まして追い込んだのだが、最終直線で先に仕掛けたエアグルーヴをピルサドスキーとバブルガムフェローが追う展開となった。しかし、届いたのはピルサドスキー。バブルガムフェローはエアグルーヴに続く3着となった。
ジャパンカップ後、脚に炎症が見られるという事で、引退が発表された。
引退後は、早来スタリオンステーションにて種牡馬となる。(2004年からは門別町のブリーダーズ・スタリオン・ステーションに移動。)名古屋グランプリ(JpnII)を勝利したアッパレアッパレ、京成杯(GIII)を勝利したアーリーロブストなどの重賞馬を輩出。国内ではダート戦線で活躍する馬の方が多かった(シャトル先のオセアニアでは複数の芝重賞馬がおり、産駒で最も賞金を稼いだのは障害馬ミヤビペルセウスなのでダートだけというわけではない)。
父系はカゼノグッドボーイがギリギリで繋いでいるが、2018年に同馬が種牡馬を引退したとも言われており、あとは同馬の仔2頭の行く末次第となってしまった。母父としてはマジンプロスパーやダンシングプリンスを輩出しているが、せめて彼らからあの品の良い馬体を伝えて欲しいものである。
※ここから現在目線で振り返るので、馬齢を現在の表記に戻します。
この馬の来歴を振り返ると、序盤の華々しい活躍に対して、終盤に向けての惜敗が少し寂しい印象を与えるかもしれない。しかし戦績だけを見ると、その成績は非常に優秀である。
通算成績は13戦7勝。うちGIは2勝、GIIは3勝。そしてその内訳は [7-2-3-1]。なんと13戦して4着以下に沈んだのは、例の13着に終わったジャパンカップのみ。それ以外はすべて3着以内という結果で、常に安定して高い実力を発揮していたのだ。「終盤に向けての惜敗が...」などと記載はしたものの、決して大きく負けたわけではなく、同世代のライバルたちと激戦を繰り広げた結果、2~3着に惜敗しただけに過ぎないのである。
改めて振り返ると、そもそも3歳で天皇賞(秋)を勝つということは、当時の競馬界では考えられないことであった。数十年経った現在(2023年時点)でも、3歳で天皇賞(秋)を勝ったのは3頭(シンボリクリスエス、エフフォーリア、イクイノックス)のみであることを考えると、バブルガムフェローが勝利した瞬間に当時のファンが新時代の王者誕生を幻視したとしても無理は無いだろう。本当に驚くべき勝利だったのだ。ただ、その秋天ではサクラローレル、宝塚記念ではマーベラスサンデー、4歳時秋天ではエアグルーヴというライバルたちの派手な物語に埋もれてしまった感は否めない。
また、バブルガムフェローはダンスインザダーク、イシノサンデー、ロイヤルタッチと並んで「サンデーサイレンス四天王」と呼称されていたが、そもそも他の3頭と同じレースをほとんど走っていなかった。バブルガムフェローは骨折で春クラシックを休養に充て、そのまま秋は天皇賞に挑戦、ジャパンカップ後は長期休養に入り、復帰時にはダンスインザダークは引退、イシノサンデーは長期休養中であったためである。結果としてバブルガムフェローが四天王と同じレースに出たのはロイヤルタッチとの2戦のみで、ダンスインザダーク、イシノサンデーとは競争しないまま現役生活を終えている。
おかげで1995年から1997年にかけて間違いなく競馬界の中心にいた一頭でありながら、どうも主役を張れなかった印象があった。
バブルガムフェローや1歳上のジェニュインが挑戦した「3歳での天皇賞(秋)挑戦」というローテーションは、当時は驚きをもって迎えられた。その中でバブルガムフェローは見事に結果を残した。結局、昭和・平成を通して3歳かつ府中開催の2000mの秋天で勝ちきったのはバブルガムフェローただ一頭であった。(もう一頭の3歳秋天制覇者にして後輩のシンボリクリスエスは中山開催での勝ち馬である。)
そして、令和になって3回目となった秋天で、ついにエフフォーリアが府中開催の秋天を制覇。後継者が現れた。このエフフォーリア、3歳秋天制覇の後輩シンボリクリスエスの孫で、藤沢師の弟子にあたる鹿戸雄一師に調教され、バブルの鞍上蛯名の当時同様若手のホープ・横山武史(96秋天ではローレルでやらかしたノリの息子)を乗せて藤沢師現役ラストチャレンジとなったグランアレグリアを撃破の上3歳秋天制覇を成し遂げるなど、バブルとはちょっと縁がある。
翌2022年も、また3歳馬のイクイノックスが同じく府中開催の秋天を制覇するが、こちらはなんとわずか5戦目で勝利してみせた。なおこちらはバブルのように怪我で長期休養してたわけではなく単に身体が弱くて多く走らせることができなかったからこのキャリアとなったのである(どちらかというと同期のフサイチコンコルドみたいな理由)。
彼が1歳上のジェニュインに続いて取った「3歳での秋天挑戦ローテ」は、中距離でのスピードが信条である馬の将来を大きく切り拓くものであった。 ジェニュインと彼が拓いた邪道は今では一つの王道となり、後続の名馬たちがその道を駆け抜けている。
*サンデーサイレンス Sunday Silence 1986 青鹿毛 |
Halo 1969 黒鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to |
Nothirdchance | |||
Cosmah | Cosmic Bomb | ||
Almahmoud | |||
Wishing Well 1975 鹿毛 |
Understanding | Promised Land | |
Pretty Ways | |||
Mountain Flower | Montparnasse | ||
Edelweiss | |||
*バブルカンパニー Bubble Company 1977 栗毛 FNo.1-b |
Lyphard 1969 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Goofed | Court Martial | ||
Barra | |||
Prodice 1969 栗毛 |
Prominer | Beau Sabreur | |
Snob Hill | |||
Euridice | Tabriz | ||
Euroclydon |
掲示板
43 ななしのよっしん
2024/11/17(日) 18:50:17 ID: nxqpv3C6Rw
なぜか「バブルガムフェロー」と「バブルガムフェロー(ウマ娘)」は頻繁に急上昇ワードに入ってくるんよな。
自分の知らない人気YouTuberが不定期に攻略動画でも上げてんのかな。
44 ななしのよっしん
2024/11/21(木) 20:25:46 ID: C/I9zYDQSq
なぜかは知らないが今日も上がってきているね
45 ななしのよっしん
2025/01/12(日) 20:28:21 ID: VLqzJ36SlQ
リアルタイムに見てた人からすると97年も普通に日本競馬の主役だったんだけどね
秋天・JCが両方ともバブル1番人気だったことからも分かってもらえると思うけど
たとえるなら91年のマックに近い
急上昇ワード改
最終更新:2025/02/16(日) 15:00
最終更新:2025/02/16(日) 15:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。