バリ島とは、インドネシア共和国に属する東南アジアの島である。
バリの由来は、サンスクリット語で「神への捧げもの」を意味するワリから。
バリ島は、インドネシアの第一級地方自治体『バリ州』がある島。人口は約320万で、島面積は約5633平方キロメートル。州都をテンパッサルに置く。9つの県から形成され、州内にはアグン山やバトゥール山などの活火山が複数存在する。インドネシア自体、赤道が通っている国のためバリ島の気候も熱帯。年間を通して平均気温は28℃である。4月から10月にかけては乾季で、11月から3月までが雨季にあたる。公用語はインドネシア語だが、それとは別にバリ語というものも使われている。他のインドネシア人や公的の場ではインドネシア語を、バリ人同士ではバリ語と使い分けている模様。
バリ島では人口の9割以上がバリ・ヒンドゥー教を信仰しており、西暦の他にもう一つ独特な暦を持つ。大変信仰深い島で、宗教行事によっては飛行機の発着すら無くなる日もある。インドネシア全体で見れば80%以上がイスラム教徒だが、バリ島はヒンドゥー教一色。ヒンドゥー教特有のカースト制度も健在で、相手の身分によって言葉を選ばなければならない。ただ、インドの本家と比べると厳しくない。
日本人にも過ごしやすい気候、美しい大自然が織り成す絶景、直行便がある利便性と旅行先として人気。片道の交通費は約4~10万円ほど。直行便の場合は7時間程度で到着するが、乗り継ぎ便は9時間以上かかる。このため機中泊も覚悟しなければならない。
金品を狙った犯罪がやや多く、外務省は危険レベル1(十分注意してください)としている。
有史以前に、ジャワ島から渡ってきたインドネシア人が定住。有人島となる。紀元前300年頃に青銅器が伝来し、また同時期に稲作も始まった。4~5世紀頃、お隣のジャワ島との交流が盛んになる。ジャワ島から様々なものが入ってきて、ヒンドゥー教と仏教が伝わる。また政治はジャワ島の影響を受けるようになる。
913年にマルデワ王朝が誕生。1248年に東ジャワを征服したシンガサリ王朝の侵攻を受け、一時はバリ全土を支配される。しかしわずか8年後にマジャパヒト王国によってシンガサリ王朝が倒されたため、再びマルデワ王朝の支配が始まる。が、1342年にマシャパヒトの侵攻を受けてマルデワ王朝は滅亡。傀儡のゲルゲル王朝が樹立された。
16世紀頃、宗主国のマシャパヒトがイスラム勢力に押されて衰えてくると、バリ島に貴族、僧侶、工芸師などが逃げ込んできた。様々な人材の流入を受けた結果、ゲルゲル王朝は他の島の影響を受けない独立国のような存在となった。ところが1651年、ゲルゲル王朝が衰退。中央政権が弱体化したため、地方豪族や貴族が各地の実権を支配。戦国時代みたいな事になってしまう。各地の貴族・豪族が次々に独立をした結果、バリ島内には8つの国が混在する混沌とした政情と化す。
そんな中、思わぬ外敵が出現する。19世紀頃、オランダ軍が襲来したのである。上陸したオランダ軍は、圧倒的な軍事力で8つの国を攻撃し始めた。これに対しバリ人はププタンを実行。これは「血の最後の一滴まで敵に抵抗せよ」という意味で、各王家は降伏を選ばず徹底抗戦。決死に戦い続けたが、原始的な槍と盾では銃器を持つオランダ軍には敵わなかった。包囲された王家は、王族ゆかりの寺院で最期の祈りを済ませると、王宮に火を放った。そして重臣や婦女子を連れて行進し、オランダ軍に迫る。制止の声を聞かずに向かってくる王家の一団に怖気ついたオランダ兵は次々に発砲。全員が死ぬまで行進が止まる事は無かった。1849年、まず最初にブレレン王国が滅んだ。その後も各王家は凶弾に倒れ、1908年、最後に残っていたクルンクン王国が滅亡。バリ全土はオランダ軍の支配下に置かれた。しかし無抵抗の王を惨殺した事を国際社会が非難したため、植民地化したにも関わらずバリ島文化の保全が行われた。
オランダが支配され始めて間もない1917年、バリ島南部で大地震が発生。死者1000人以上、負傷者も1000人以上出す大惨事となった。さらに翌年にはスペイン風邪が流行し、1919年にはネズミが大発生。穀物に大打撃を受ける。追い討ちと言わんばかりにオランダが税率を50%も引き上げ、バリ人を痛めつけた。不幸の渦中にいる1920年、オランダ王立郵便船会社の定期便がやってくるようになり、ヨーロッパにバリ島の名が知れ渡るようになった。これを機に白人のバリ島観光が盛んになり、著名な芸術家が続々と訪れている。だが運命はバリ島が幸せになる事を許さず、1930年に世界恐慌が発生。凶作も重なった事でバリ人は貧困に喘いだ。これほど凶事が続いたのは、オランダの統治により神様への礼儀を疎かにしてしまったからだとバリ人は考え、反省。地震によって倒壊した寺院を修復し、宗教行事を復活させた。1931年、パリで行われた国際植民地博覧会では、オランダはバリ文化を前面に押し出してアピールした。これが功を奏し、観光客が増加した。また手付かずの自然が残っている事から「最後の楽園バリ」とまで言われた。
そして1941年12月8日、大東亜戦争が勃発。大日本帝國はアメリカ・イギリス・オーストラリア、そしてオランダに宣戦布告。東南アジアに点在する資源地帯を狙って南方作戦を開始した。もともとバリ島は攻略目標では無かったが、オランダ軍の中枢であるジャワ島攻略に備えて航空隊を進出させる事にし、飛行場の適地としてバリ島が抜擢された。1942年2月18日、台湾歩兵第1連隊第3大隊長金村少佐率いる金村支隊がマカッサルを出発。翌日にサヌール泊地へ到着し、揚陸が行われた。2月19日深夜、帝國海軍の第8駆逐隊と連合軍艦隊がバリ島近海で交戦している(バリ島沖海戦)。バリ島には少数のオランダ軍がいたが、瞬く間に粉砕。テンパッサルの宿営地を突破し、飛行場を確保した。2月27日、首都のシンガラジャを占領し、3月8日に全土を掌握。まもなく陸海軍の航空隊が進出。ジャワ島を空襲して攻略作戦を支えた。オランダ軍が全軍降伏した後の4月23日、バリ島は海軍の軍政担当地域となった。5月に堀内豊秋大佐率いる治安部隊が到着し、優れた手腕でバリの治安を改善。島民に生業へ戻るよう命じた。
1945年4月、インドネシアの独立運動家スカルノが来訪。独立に向けて演説を行い、島内でも独立の機運が高まる。8月6日、バリ島テンパッサル飛行場を発進した九九式襲撃機がロンポク海峡で米潜水艦ブルヘッドを撃沈した。8月15日の終戦時、バリ島は小スンダ民政部の管轄下にあった。同地には阿南大佐率いる帝國陸軍第48師団台湾第1歩兵連隊が駐留していた。一部の治安維持部隊以外はムングイ収容所に収監された。
終戦後の1945年8月17日、スカルノが独立を宣言。だが宗主国のオランダがこれを認めるはずがなく、インドネシアに侵攻(インドネシア独立戦争)。12月、スラバヤからバリ島に戻ってきたグスティ・ングラライ中佐は来るべきオランダ軍との戦闘に備えようとしたが、バリ人はほぼ丸腰だった。そこで武器を調達するべく、現地の日本軍を襲う事に決めた。だがその行動はスパイによって筒抜けであり、逆に日本軍に襲撃されて敗走した。当時の日本軍は戦勝国と化したオランダからインドネシアの独立運動を抑えるよう言われていたのだ。ングラライ中佐は一旦ジャワ島へと戻った。一方の日本軍も、連合国には武器を渡したくない思惑があった。このためわざと井戸の中に武器を放棄し、あとから来たインドネシア人がそれを回収した。こうしたやり取りがバリ島でもあった。
1946年3月2日、バリ島にもオランダ軍が上陸して戦火が広がる。バリ島に残っていた第3警備隊の日本兵がインドネシア軍に合流、4月4日にはングラライ中佐も戻ってきた。だがこの頃には既に島の大部分がオランダ軍に掌握され、日本軍も武装解除されていた。ングラライ中佐は組織的に戦うために小スンダ人民闘争協議会を立ち上げ、バリ島の王族も抗戦に参加。激戦へと発展していく。しかし武器、兵力、物資など全ての面において不利なインドネシア軍は苦戦。残留日本兵も次々に斃れていく。タバナン県にあるオランダ軍の兵舎を襲撃し成功するなど局地的勝利はあったが、戦況は日に日に悪化。傷を負って歩けなくなったングラライ中佐を残留日本兵が背負い、ングラライ中佐に不満を言うバリ兵を残留日本兵が説得して回った。戦火の中でいつしか絆が芽生え、ングラライ中佐は残留日本兵の事を信頼するようになった。自身が認めた4名の日本兵には特別な階級を与えていた事が後に判明した。
圧倒的な火力によって海岸から後退させられ、ブドゥグル山麓に立てこもる。追撃してきたオランダ軍はマルガの村落にてインドネシア軍を捕捉し、空軍機がガス弾と焼夷弾を投下。激しい爆撃を壕の中で耐え続け、オランダの歩兵部隊が接近してきたのを見るや一斉に飛び出した。ププタンを実行するために。
11月20日午後、バリ島西部のマルガにてバリ島戦線最大の戦闘が生起。オランダ軍と交戦し、窮地に追いやられる。インドネシア軍はオランダ軍の降伏勧告を無視し、最後まで徹底抗戦。96名全員が壮烈な戦死を遂げた。ゲリラ戦を指揮してきたングラライ中佐が戦死した他、残留日本兵4名も戦死。戦死者は全員マルガの英雄墓地に埋葬された。全滅と引き換えにオランダ軍にも甚大な被害を与え、戦意を喪失させた事で独立への土台が築かれた。戦闘は1947年に入っても続き、1月7日にバリのゲリラ指導者がパンジの地にて徹底抗戦を誓う。だが8月に入ると、王族の大半がオランダ軍に投降。抵抗を続けるバリ人は少なくなった。
1950年、インドネシアはついに念願の独立を勝ち取った。これに伴ってバリ島もインドネシアに組み込まれたが、島内では大混乱が発生。特に国民党と共産党の政治対立が激しかった。その後、日本からの敗戦賠償金を使ってリゾート開発に注力。ホテルなどを作ったが、一時は無計画な開発が乱立したためジャカルタ中央政府が介入。国主導で開発計画を行った。こうして年間250万人が訪れる一大リゾート地が爆誕した。
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最終更新:2024/11/08(金) 21:00
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