パンがなければケーキを食べればいいじゃない 単語

パンガナケレバケーキヲタベレバイイジャナイ

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パンがなければケーキを食べればいいじゃない (仏:Qu'ils mangent de la brioche ! 、英:Let them eat cake) とは、農民たちがパンに事欠いていることを知った、『身分の高い女性』が言ったとされる言葉。「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」とも。

一般に「マリー・アントワネットが言ったとされる言葉」として知られるが、歴史学者たちは「マリー・アントワネットが言うはずがない」としている。そもそも初出では「身分の高い女性」としてしか言及されておらず、マリー・アントワネットの発言とされたのは後世の創作と見られている。

概要がなければトリビアを書けばいいじゃない

原文である『Qu'ils mangent de la brioche !』はただしく翻訳すると、「彼らにブリオッシュを食べさせなさい」である。ブリオッシュは一般的なパンよりもバターを使った贅沢品といえるものである。フランスの代表的菓子パンであり、ガトー (=ケーキ) の一種とされることもある。訳では英語話者にとってブリオッシュが一般的でないこともあって、単にケーキ (Cake) と直され、『Let them eat cake』となったわけである。そこから日本語に、かつかなりの意訳をされているわけである。

この文章が出てくる初出は社会契約論などで知られている哲学ジャン=ジャック・ルソーが自身の自伝として執筆した『告白 (仏:Les Confessions)』のなかで、ルソーがワインを盗んだあと、そのお供にパンが欲しかったのだが、その時の自身の格好が瀟洒すぎたのでそのへんのパン屋に行くのはどうかなと考えたというくだりである。そこで彼は「身分の高い女性」が、百姓どもは食べるパンもありませんと言われて「ブリオッシュを食べればいいじゃない」と答えたという話を思い出し、ブリオッシュのような贅沢品しかない菓子店に向かうというものである。

この、『告白』は1782年に出版されたが、このエピソードが書かれた第6巻の執筆は1765年であり、まだマリー・アントワネットは9歳であった。9歳の女の子政治的な陳情をするほうがおかしいし、そもそも彼女はまだ王太子妃でもなくフランスに住んですらいないので、このエピソードで言及されている「身分の高い女性」はマリー・アントワネットではないはずである。というより、そもそもこのエピソードも、ルソーがワインを盗んだくだりもすべてルソーの創作なのではないかと言われている。歴史学者たちは『告白』には不正確な記述が多く、一種のユーモアとして語られているというわけである。すごくたく言えば盛りに盛りまくった若い頃のヤンチャ自慢である。「昔はワルだったんだぜ」と若い頃の犯罪を誇示するのは古今東西共通らしい。

しかし後の世では革命歴史フランス革命後に当時の貴族無知関心ぶりを批判する文脈で、その代表的なエピソードとしてこのストーリーが用いられ、これまた当時の高女性としていちばん名が知られていたルイ16世の妃であるマリー・アントワネットが発言したことにされてしまったのである。当の本人は断頭台の露となってしまっており、反論することもできないわけである。

なお当の本人は割と慈善であったといい、飢饉に際して宮廷費を削って寄付したりしていたという。さらに彼女趣味は農民ごっこであり、離宮プティ・トリアノンに作らせた自分用の農に農民を住まわせて共に園芸や酪農を楽しんでいた彼女が農民を突き放すような発言をするのも不自然である。また後世に残っている言葉からはこれから自分を殺す処刑人に対しても、よろけて足を踏んでしまったことに謝罪を述べるなど高な姿勢を見せていたりする。歴史は「性格からしても言いそうにはない」としており、また当時他の高女性が発言したことにされているケースについても言及している。

しかし当のフランスではいまだにマリー・アントワネットがこの発言をしたと信じられており、政治家パンの値段を間違えたことを「現代のマリー・アントワネット」であると批判されていたりする。

なんでひき肉のお粥を食べないのか?

そんな、実際にはマリー・アントワネット言っていない台詞なのだが、よりにもよって東アジアには本当にこれに近いことを言ってしまった皇帝がいる。西恵帝 (司馬衷) である。

恵帝下が荒れ果てて、民衆が穀物がないため餓死していると臣下から報告された。すると恵帝不思議そうな顔をして、こう答えたという――「百姓充飢、何不食肉糜 (がなくて飢えているのなら、なんでひき肉お粥を食べないのか)」と。

この「何ぞ( にくび ) を食わざる」は『書』恵帝紀に記載されており、マリー・アントワネットと異なり本当に言ってしまっているのだから救いようがない。そりゃも滅びるわ。一応これでも諸葛亮と智謀を争い、その後は臣としてとやり合いながらも内の困難も権謀術数で切り抜けたかの智将・司馬懿曾孫、そしてを滅ぼした司馬昭の孫、定させを滅ぼした司馬炎 (武帝) の子なのだが……。こうして司馬昭でありやはり策謀である司馬師も加え4代が三国志で知られるをすべて滅ぼした後に、トドメとして自分たちの王であるまで滅びてしまった。

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