ヒシアマゾン単語

ヒシアマゾン

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やかな闘魂

ネスという称で呼ばれていた。
戦いを終えた素顔は、くように優しかった。
この美しさのどこに屈強なたちを競り落とそうとした闘志が潜んでいたのか。
エリザベス女王杯をはじめ、20戦10勝中、重賞9勝。
最強記憶は、の胸にも深い。

JRA「ヒーロー列伝」No.43 ヒシアマゾンexit

ヒシアマゾンとは、アメリカ合衆国生まれ、日本調教の元競走馬繁殖牝馬である。

ダイイチルビーニシノフラワーシンコウラブリイノースフライトホクトベガフラワーパークファビラスラフインエアグルーヴシーキングザパールと並ぶ1990年代の女傑[1]の代名詞である。

な勝ち
1993年:阪神3歳牝馬ステークス(GI)
1994年:エリザベス女王杯(GI)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GII)、ローズステークス(GII)、クイーンカップ(GIII)、クリスタルカップ(GIII)、クイーンステークス(GIII)
1995年:産経賞オールカマー(GII)、京都大賞典(GII)

馬主は「ヒシ」の冠名を使うことで知られる阿部一郎。管理調教師関東・美中野良(たかお)。担当厩務員[2]小泉守男[3]。担当した調教助手は南田美知雄、田端正照、田勇。全20戦のうち18戦で手綱を取った騎手中舘英二だった。

厩舎における称は「ネス」で、伝説の女軍団アマゾネスからの連想で名付けられたという[4]

黒鹿毛体で、脚にのバンテージを付けているのが印だった。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
ヒシアマゾン(ウマ娘)を参照して下さい。

当記事では、ヒシアマゾンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載がい限り年齢旧表記(現表記+1歳)で表記します

産声を上げる

ヒシアマゾンは1991年3月26日アメリカ合衆国ケンタッキー州のテイラーメイドファームという巨大牧場で生まれた。このため外国産馬[5]という扱いになった。

「ヒシ」の冠名を使う馬主の一代である阿部信は内を好んでいた。しかし1976年から1977年阿部信の所有する内ヒシスピードが持込[6]マルゼンスキーに敗れ続けた。阿部信の息子阿部一郎は、マルゼンスキーの強さをの当たりにして外国産馬を好む馬主になった・・・ といわれることがあるが、これは俗説である[7]

阿部一郎は優秀な自由に購入できるアメリカ合衆国を付けており、そこで競走馬を買って日本の厩舎に預けたり、さらにはそこで購入した繁殖牝馬アメリカ合衆国牧場に預託して競走馬を生産するというプランを進めていった。

阿部一郎は1000ギニーやコロネーションステークスを制したマイラKaties1989年11月アラブの王族の代理人と競り合いつつ100万ドルで購入して[8]テイラーメイドファームにて繁殖入りさせた。1990年生まれのヒシアリダーはオープンまで出世し、1994年生まれのヒシナイルフラワーカップ(GIII)を勝ち、1996年生まれのヒシピナクルはローズS(GII)を勝っているので成功した取り組みであったといえる。その最も大成功した例が1991年生まれのヒシアマゾンであった。

ヒシアマゾンという名は世界一の大河アマゾン伝説の女軍団アマゾネスの両方が由来である[9]

ちなみに、ヒシアマゾネスで登録するつもりだったが日本種馬登録協会に却下され、苦し紛れにヒシアマゾンで登録しなおしたらOKとなった、と言われている[10]

運命の出会い

2歳の1992年11月から3歳の1993年6月まで千葉県市原市の大東牧場トレーニングを積んだ。場長の三好順二は、大人びていて落ち着いているヒシアマゾンを見て「年が1つ違うんじゃないか」と思ったという。この年代のが1頭になるとソワソワするものだが、ヒシアマゾンは1頭だけいるときも実に落ち着いていた[11]

1993年6月関東・美中野良厩舎に入厩した。ちなみに中野厩舎はこの5ヶ後の11月ホクトベガ1993年エリザベス女王杯を勝っている。そのレースは「ベガベガでもホクトベガ!」の実況で有名である(この動画exit_nicovideoの2分30頃)。

1993年9月中山競馬場新馬戦が開催されるので、それに合わせてヒシアマゾンをデビューさせることになった。中野良調教師は美浦トレセン調教師スタンドにヒシアマゾンの騎乗を依頼しようか考えていた。この年にウイニングチケットを駆って念願のダービージョッキーになった大ベテラン柴田政人か、それともライスシャワーでこの年の天皇賞(春)を勝った的場均か、と考えていたが、2人とも函館開催に行ったままで美浦トレセンに帰ってきていない。さてにしよう、と考えて調教師スタンドを出ようとしたら、通路でばったり中舘英二と出くわした。

中野調教師中舘英二に騎乗を依頼したことはあったが、回数は少ない。ヒシアマゾンの騎乗を依頼することは考えていなかった。しかし中舘英二に「先生、乗る、なんかいませんか」と切り出された[12]

このとき、中野調教師は「そうだなあ、たまには、勝つお前を乗せてやろう」という言葉が反射的に出た。

なぜこの言葉が出たのか中野調教師にはよく分からなかった。「このとき中舘英二に出くわさなかったら中舘英二にはヒシアマゾンの騎乗を依頼することはなかったかもしれない」と中野調教師った。

中野調教師は、「一度コンビを組んだらめったなことでは乗り替えしないのがわたし流のやり方。『ミスったら降ろされる』と騎手に不安感を与えたら乗り方までギクシャクしてくる。オーナーが口を出してくるのなら騎手を替えますが、阿部一郎オーナーはいっさい口を出さない人です」とり、その言葉どおりに中舘英二とヒシアマゾンのコンビは3年2ヶの長きにわたって続いた。

※この項の資料・・・『Number356号 37ページ 石田敏徳の文章』

漆黒の弾丸

新馬戦(中山ダート1200m)はクビ差で勝ったが、プラタナス賞(500万下 東京ダート1400m)はクビ差の2着になった。このころはソエ(管膜炎)という若駒特有の怪が出ていて、脚への負担を減らすため2戦までダートを選んだ[13]

ソエの状態が良くなってきたので芝のレースに挑戦することになり、京成杯3歳S(GII 東京1400m)を2着に入った。1着とはわずかにクビ差で、3着とは4身差であり、しかもヒシアマゾン以外は全だったこともあって、内容が良かった。初めて芝を走ったときの感触を中舘英二が「ダートとは全く違う印アサエンペラー[14]のときにも感じたゾクゾクッという感覚。このはちょっと違うとそのとき初めて思った」と絶賛している[15]。このレースから現役最終戦まで芝を使い続けることになった。

 
阪神3歳牝馬ステークス(GI 阪神1600m)では絶好のスタートから3番手に付けて先行し、そのまま直線に向かった。驚くような勢いで突き抜け、レースレコード更新しつつ5身差の圧勝を収めた(動画exit)。

1993年の3歳時における4戦は、いずれも絶好のスタートを切ってから意欲的に脚を使って先行して3番手以内につけるという教科書どおりの競馬をしていた。1994年を迎えて4歳になると、スタート直後から後方に下がるようになっていく。

年が明けて1994年になっての京成杯(GIII 中山1600m)では、圧倒的人気を背負いながら11番に入り、好スタートを決めたがやや後方に下がる。4コーナーで外を回さず内を突き、直線でインから末脚を発揮しようとするが、インを突いていくときにすこしもたつき、のちに短距離GIで3回2着となる実ビコーペガサスに2身差で敗れて2着となった。

クイーンカップ(GIII 東京1600m)では格下と見られた相手に残り50mまで前に出られ、最後に末脚を発揮してクビ差前に出て辛勝した。「弱い相手に僅差しかつけられない」と見るべきか「勝負根性が凄くて僅差で確実に勝つ」と見るべきか判断に迷うところだが、後者の捉え方をするべきであることがのちに判明していく。

ちなみにこのクイーンカップは、周りのがすべて「斤量53kgの」であるのに対し、ヒシアマゾンだけが斤量55kgを背負っていた。このあたりが苦戦の要因であったのかもしれない。

当時の外国産馬桜花賞オークスに出られず、NHKマイルカップもまだ創設されていなかったため標がイマイチ設定できないまま、距離適性からスプリントも行けるだろうと、クリスタルカップ(GIII 中山1200m)に出走。ペースイマイチ乗り切れず後方のまま4を回るがっ気野郎タイキウルフ[16]逃げ切る勢いを見せていたところを弾丸のような勢いの末脚でぶっ差して勝利する。この勝利は多方面に衝撃を与え、井崎脩五郎氏にいたっては1994年ベストレースナリタブライアンレースを差し置いてこのクリスタルカップを選定したほどである。このレースの後はツメの甘さがを潜め、本格化したと言えるほどの大活躍を始める。

 

4月10日桜花賞ではオグリローマン(動画exit_nicovideo)、5月22日オークスではチョウカイキャロル戦を制しており(動画exit_nicovideo)、そうしたやかな晴れ舞台を横に見ながら6月5日の「残念ダービー」「マル外ダービー」とも称されていたニュージーランドトロフィー4歳S(GII 東京1600m)に出走した。1000m通過614のスローペースからの末脚勝負となり、マチネアレグロを半身ねじせて快勝した。ちなみにこのレースからいバンテージを4つの脚すべてに巻くようになった。

このGIIレースを最後として4歳の競馬が終わった。GIに挑戦することができない外国産馬の悲哀であった。

皐月賞ダービー桜花賞オークスといった4歳クラシックを歩む路線は表街道と呼ばれており、ニュージーランドトロフィー4歳S(GII)が大標になる路線は裏街道と呼ばれていて、1996年NHKマイルカップ(GI)が創設されるまでそういう表現が使われていた。ヒシアマゾン以外に裏街道を通ったことで有名なのはオグリキャップヒシマサルである。

ちなみに1994年に入ってからヒシアマゾンが勝利を争ったは、京成杯ビコーペガサスクイーンカップエイシンバーモント、クリスタルカップタイキウルフニュージーランドトロフィー4歳Sマチネアレグロだが、これらはすべて外国産馬である。1990年代中盤のこの当時は外国産馬がとても強く、マル外マークいて見えた時代だった。

ちなみに2010年代以降の日本競馬サンデーサイレンス系種牡馬産駒がやたらと強く、外国産馬があまり勝てなくなっており、隔世の観がある。

決闘

になり、ヒシアマゾン営は4歳限定で外国産馬の出走が可GIレースであるエリザベス女王杯(京都2400m)を大標に定めた。

それに向けてステップレースを2回使うことになり、クイーンS(GIII 中山2000m)とローズS(GII 阪神2000m)を連勝した。どちらのレーススタート直後に最後方へ下げ、残り1000mから外をマクっていって進出し、4コーナーで先頭に並びかけ、直線で他のに合わせて脚を使って1身~1身1/2程度の差で勝つという、横綱相撲としか言いようのない安定した勝ち方だった。

そのうちローズSではオークス3着アグネスパレードに1身の差を付けて勝している。時計は2分00でレースレコード更新する優秀なものだった。

ローズSの結果を受けて「もしヒシアマゾンがオークスに出ていれば圧勝していただろう」というも当然のようにささやかれるようになった。オークス1位・3位を占めたチョウカイキャロルアグネスパレードにとって、オークスと同じ2400mで争われるエリザベス女王杯は己の名誉を守るため絶対に勝ちたいレースとなった。

11月13日を迎え、曇りの下で本番レースが始まった。「出ろ~」の掛けと共にゲートが開き[17]、36番のヒシアマゾンは上手にスタートを決めたが、包まれることを嫌がったのか後ろに下げ、最後方から3番で1~2コーナーを回っていった。バースルートが最初の1000m58.1ハイペース大逃げ[18]、テンザンユタカハイペースで走り、それに対して3番手以降はバースルートから3.3ほど離れたスローペースとなりやや固まって進んでいく。3コーナーに向けて坂を上っていく残り1000mのあたりでヒシアマゾンが動き、外をマクっていく。坂を上りきって残り800mを切り、坂の下りでさらに勢いを付けて先行勢にとりつき、6番手で4コーナーを回った[19]

直線に入ったところで17番のチョウカイキャロルが外にヨレて、ヒシアマゾンもその煽りを食って外に振れた。しかし中舘英二が左ムチを連打し進路を内に向け、チョウカイキャロルに再度襲いかかっていく。

16番のアグネスパレードはインをすくうようにして突き、残り300mあたりで先頭に立った。その外でチョウカイキャロルが脚を伸ばし、その外でヒシアマゾンがチョウカイキャロルを追いかける。

200mを切って先頭のアグネスパレードの脚色が衰えてきた。チョウカイキャロルとヒシアマゾンがアグネスパレードをかわし、さらにヒシアマゾンがアタマ差だけチョウカイキャロルの前に出る。チョウカイキャロルとのクビの上げ下げとなり、そのままゴールインした。

10分にも及ぶ長い写真判定の末、着順掲示板の一番上にともったのはヒシアマゾンの6だった。着差はわずか3cmハナ差だった。

勝ち時計は2分243で、レースレコード更新し、ヒシアマゾンのみならずこの世代のレベルの高さを示した。

これでメジロラモーヌオグリキャップタマモクロスに並ぶ当時の重賞連勝記録6を達成した。

 

ヒシアマゾンは年末の有馬記念への出走を決めた。このレース三冠馬ナリタブライアンが単勝1.2倍の圧倒的1番人気となっており、それに対抗するがどのになるのかが最大の焦点となった。

天皇賞(秋)を勝ったネーハイシーザー中山競馬場が得意なサクラチトセオー補に考えられたが、この2頭は2000mまでを得意とする中距離のようで絶対的信頼ができない。1年8ヶ前に天皇賞(春)を勝ったライスシャワーは9ヶの休み明けで確信が持てない。アイルトンシンボリは6ヶ前の宝塚記念で2着に入ったがその次のGII3戦で4着2着2着となってジリ脚に戻っている。マチカネタンホイザナイスネイチャはどうせまた3着か4着だろう・・・いやひょっとすると今度こそ来るかもしれない・・・このように予想は困難を極めた。

一方、ヒシアマゾンは6番人気の単勝19.1倍になった。キズ一つない重賞6連勝の身でありながらこの評価は低いような気もするが、この当時は「有馬記念で勝ち負けすることはかなり難しい」という固定観念があり、その固定観念が抵抗となっていたようである。有馬記念におけるの成績は悪く、1986年3冠メジロラモーヌは9着、1987年二冠牝馬マックスビューティーも10着、1993年二冠牝馬ベガも9着であり、「有馬記念において、はとてもにかなわない」という思いが広がっていた。

ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切り、スタート直後の行き脚もよく、ナリタブライアンから2身ほどの後方に付けた。

ツインターボが後先考えずに爆走する一方で2番手集団の先頭を走るネーハイシーザーが最初の1000mを推定61.0で走るスローペースに落とし、群が圧縮されてレースが進んだ。2コーナーを回るころにはナリタブライアンが3番手に浮上し、3コーナーにさしかかるころにはナリタブライアンが加速して先頭に躍り出た。

レースが始まってからサクラチトセオーブライアンをぴったりマークする格好でブライアンの外側の直後を追走していて、3コーナーブライアンペースアップしたときも懸命に食らいついていた。その外から漆黒体を踊らせてヒシアマゾンがすごい勢いでマクっていき、サクラチトセオーに噛みつかんばかりの勢いで顔を右に曲げながら猛然と4コーナーを曲がっていく。

直線の入り口でナリタブライアンに1身半程度の差まで迫ったヒシアマゾンは芝を蹴り上げながら快に走る。しかしナリタブライアンも根性を発揮し、中山の急坂を強く駆け上がっていく。ブライアンとヒシアマゾンの差がじわりじわりと広がり、3身差に開いたところでゴールインした。

ヒシアマゾンと3着ライスシャワーの差は2身半にまで広がっていた。4歳有馬記念で古を圧倒するという、当時の競馬ファンにとってはを疑いたくなるような偉業が達成された間である。「ブライアンやはり強い!古の壁、見事打ち砕きました!」とフジテレビ堺正幸アナ実況したが、古の壁をあっさりとぶちこわしたヒシアマゾンの勇姿も讃えられてよいだろう。ヒシアマゾンは新時代の女王として高らかに名乗りを上げたのである。

有馬記念が2着以内に入ったのは、1978年インターグロリア以来16年ぶりの快挙だった。また、有馬記念で4歳が2着以内に入ったのは1973年のニツトウチドリ以来21年ぶりだった。

女傑の往く道

1995年になり5歳となったヒシアマゾンの営は、アメリカ合衆国への遠征を表明した。

3月4日日本を出発し、9時間の輸を経てカリフォルニア州ロサンゼルス郊外ハリウッドパーク競馬場へ辿り着いたはいいが、そこで入検疫のため48時間も検疫房へ閉じ込められた。四方がコンクリートで囲まれてが2つしかない刑務所のような間に閉され、ヒシアマゾンは相当なショックを受けていた。小泉守男厩務員が検疫房にベッドを持ち込んで寝泊まりして世話したが、この検疫で精的に大きく疲弊し、3月6日サンタアニタパーク競馬場リチャードマンデラ厩舎の房に入ったときにはあまり良くない状態になっていた。さらに運が悪いことに、の少ないはずのカリフォルニア州ロサンゼルスで、29年に一度とも30年に一度とも言われる記録的な豪雨が降っていたのである。あまりの量でダートコース閉鎖されることもあり、調教を上手く積めない。しかもダートコースが流れて路盤が露わになって硬くなり、ヒシアマゾンの脚に負担がかかっていったようである。もともとヒシアマゾンは柔らかいウッドチップでの調教を多くこなしていただったので、硬いダートに慣れていなかった。さらにはが集まって泥田のようにドロドロになった場所も出現するなど、脚を痛めやすい危険な状況になっていった。

最終追い切りが行われる予定だった3月15日になって、小泉守男厩務員がヒシアマゾンの脚の異常に気付いた。左前脚の球節の捻挫と診断され、これで3月18日サンタアナハンデキャップ(古限定GI 芝1800m)への参戦がとりやめとなり、何もできないまま帰の途につくハメになった[20]

後、6月15日に行われるエンプレス杯に同厩舎の先輩ホクトベガと共に登録し、川崎競馬場を震撼させた。登録の時点ではヒシアマゾンという存在の大きさばかりが注されていた。そりゃ中央競馬最強ナリタブライアンっ向勝負を挑めるがやってくるなんて、衝撃通り越してのいじめ?という話である。そのアマゾンは登録のみにとどめて高松宮杯に向かったため、川崎競馬場は一胸を撫で下ろした。実際に出てきたもう一頭のGIホクトベガの走りを見てアゴが外れたであろうが(動画exit_nicovideo)。

さて、ヒシアマゾンは7月9日に中2000mで行われる高松宮杯に出走した。1995年までの同レースの到来を告げる七月の名物重賞だったのである。ヒシアマゾンの勇姿を一見ようと6万5850人の観衆が押し寄せ、中京競馬場史上2番の客入りとなった。ちなみに史上1番1974年ハイセイコーがやってきたときの6万8469人である。単勝1.5倍の断然1番人気となり、57番のん中に入ったヒシアマゾンはゲート内でバタバタと落ち着かない様子である。

ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切ったが、その直後に56番ダンシングサーパスが左に行き、68番アラタマワンダーっ直ぐ走って、ヒシアマゾンの前がパカッと開いた。

上の中舘英二中京競馬場馬場を意識して「少し行っとかなくちゃ」と思ってスタート直後にヒシアマゾンを押っつけて、背中を押していった[21]。素直なヒシアマゾンは騎手示に従い加速したが、そのとき周囲の騎手たちが首を傾けてヒシアマゾンの方を見つつを押さえ込んだ。813番のトーヨーリファールは前走の宝塚記念で速いペース逃げを見せていただが、このも素直に騎手示に従いペースを落とす。

中京競馬場メインスタンドには大勢の観衆が詰めかけていて、スタート直後に各が通過すると大援を上げた。普通ならその大援で引っ掛かって暴走して先頭に躍り出るが出てくるのだが、こんな時に限って、ヒシアマゾン以外の各がきっちりと折り合っている。

結果として、ヒシアマゾンが押し出されて逃げる形になった。1~2コーナーでも3~4コーナーでもヒシアマゾンが最内を通るというめったに見られないとなり、先頭で直線に入った。しかしそこから末脚が伸びず、5着に惨敗した。

トライド(歩幅)が大きくて大外を回して速度を乗せるのがふさわしいであるにもかかわらず3~4コーナーで最内を通り、普段よりも窮屈な走りになって速度が落ちた。斤量が初体験の57kgでが慣れていなかった。直線で伸びなかったのはそういった要因が考えられた。

デビューからの連対記録も12で途切れた。ちなみにデビューから13戦のこのレースで、ヒシアマゾンは初めてに先着を許している。1994年有馬記念まで負ける相手はだけだったのである。

このレースのあとの帰りの新幹線中舘英二は「このには、もう2度と乗れないな」と思ったという[22]

 

覚悟していた中舘英二に対して、中野良調教師は「しょうがないな。次は頑ろう」とを掛けた[23]

再び立て直しをかけ、競馬にヒシアマゾンは帰ってきた。9月17日(日)に台風12号exit関東地方に接近したため、その翌日の9月18日()に中山2200mのオールカマーが開催された。わずか10頭立ての少頭数で、前日の台風もあって芝が稍重だったので、前半1000m65.2々々スローペースとなった。

ヒシアマゾンはゲートで暴れて出遅れたが、前走で引っ掛かって痛いを見た中舘英二は「スタートで引っ掛からないように、そっと優しく出ることだけを考えよう」と肝に銘じていて、出遅れも気にしていなかった[24]

残り1100mになって中舘英二が「そろそろ、ゆっくり進出しようか」と手綱を緩めたら、その間にヒシアマゾンの闘争心に火が付き、一気に引っ掛かり、凄い勢いで外をマクっていき、残り1000mの時点でくも2番手に立ってしまった[25]。4コーナーを回って310mの直線に入ってきたときには先頭に抜けだす。襲いかかってきたアイリッシュダンス[26]に合わせて末脚をガッチリ伸ばし、「永遠に縮まらないクビ差」と評された勝利を得る。

このオールカマー中舘英二は「思った以上に引っ掛かるなあ」と感じた[27]。この引っ掛かりに対する警心が、次の2戦に大きなをもたらすのである。

そして10月京都2400mで行われた京都大賞典に出走した。まずまずのスタートを切ってから後方に下げ、大逃げしたレガシーワールドが最初の1000m59.7で引っるなか、13頭立てで最後尾13番手という貫レースを展開していく。3コーナーでも上がっていかず、4コーナーになってやっと加速して大外へ持ち出した。京都の400mの直線で前を走る10頭を全に抜き去り、2身半の差まで付けてゴールインした。

ヒシアマゾンは残り400m地点から残り200m地点までの1ハロンで11番手から4番手にまで浮上している。この区間のレースラップが112なので、ヒシアマゾンの走りはそれよりももっと速い。畠山直毅は「1ハロン106」と推定している[28]。こうした数字競馬界に衝撃を与えるものだった。

 

ヒシアマゾンは東京2400mで行われるジャパンカップに向かった。この当時は天皇賞(秋)外国産馬に開放されておらず、古が参加できる限定GIレースも存在しなかったので、ジャパンカップ一の選択肢だったのである。故障復帰から2戦ナリタブライアンが1番人気3.7倍で、ヒシアマゾンが2番人気4.3倍となった。1994年有馬記念の時は大きく離れていたオッズの差はほんの僅かにまで縮まっていた。

この年のジャパンカップは出走15頭で日本が6頭。ナリタブライアンとヒシアマゾンの他にはタイキブリザード(宝塚記念2着)がおり、そのほかはマチカネタンホイザロイスアンドロイスナイスネイチャというおなじみの善戦マン3頭だった。天皇賞(春)宝塚記念の勝ちは故障で出走できず[29]天皇賞(秋)の1着と2着有馬記念に備えて回避していた[30]

ペースを作るとみられていた逃げタークパサー(Turk Passer)レース直前になって出走を取り消し、一気に逃げ不在となり、先が読めない混沌とした状況になった。

当日の東京競馬場は薄いが広がっていて、弱い日光が差し込んで芝生が薄く映ったと思えば、その次の間は日光が遮られて芝生緑色が濃くなる、という様子だった。

814番のサンドピットがなかなかゲートに入ろうとしなかったので、712番に入ったヒシアマゾンはゲートの中で暴れ、そのせいもあって出遅れた。

59番のタイキブリザードと610番のエルナンドと611番のストーニーベイは3頭とも好スタートを切ったが、ストーニーベイが出直後にダッシュを決めて左側に切れ込み、エルナンドの前を塞いだ。ストーニーベイに釣られてエルナンドも左によれてタイキブリザードと接触した。前を塞がれつつ左のタイキブリザードと接触したエルナンドが今度は大きく右にふらつく。ふらついたエルナンドがヒシアマゾンの前にやってきて、それを避けるためヒシアマゾンも右に進路を変えざるを得ず、さらに後方へ下がる羽になり、ポツンと離れた最後方に位置した(動画exit)。

58番のデーンウィン(オーストラリア)と611番のストーニーベイ(ニュージーランド)がスタート直後から好ダッシュをして、それに遅れてはならないと59番のタイキブリザードも勢いを付けた。ところが1コーナーに入る直前に、デーンウィンとストーニーベイの両騎手がグイッと手綱を引っって急ブレーキを掛けたので、タイキブリザードが押し出されて先頭に立つことになった。オセアニア競馬ではこういうことがよく発生するのだが、そのことを知っていたタイキブリザード岡部幸雄騎手は「やっぱりな」と思った[31]

逃げるはずではなかったタイキブリザード逃げることになったので、最初の1000mが61.0というスローペースとなり、群が圧縮されている。3コーナーが始まる地点の残り1000mでヒシアマゾンはまだ最後方だった[32]

3~4コーナー中間地点の残り800mを過ぎてもヒシアマゾンはまだ最後方だった。残り750mぐらいになって大けやきの向こう側から各が出てくると、ついにヒシアマゾンが外をマクっていった。このときのヒシアマゾンの凄まじいマクリ脚を見た713番アワッドのエディメイプル騎手は「勝つのはヒシアマゾンだろう」と思ったという[33]

ヒシアマゾンは500mの直線に入るところで大外に出た。火を噴くような勢いで末脚を炸裂させるが、最後まで勢いを保ったランドに1身半だけ届かない0.2差の2着に終わった。ランドの上がり3ハロン348で、ヒシアマゾンの上がり3ハロン347。残り600mの時点で発生していた1身半ほどの差をほとんど詰められなかった。

この当時はに混じって2000m以上のGIを勝つことはのような話といったところであり、そのをもう少しでつかみ取るところだったのだが、大を逸した。ジャパンカップ1992年から1994年まで日本が3連覇していたのだが、その連勝も止まってしまった。

 

ヒシアマゾン営は気をとりなおして1ヶ後の有馬記念への出走を決めた。ジャパンカップ走を評価されてファン投票1位・1番人気に支持された。が1番人気になったのは1958年ミスオンワード以来37年ぶりであり、そのとき以来の史上2度の快挙だった。ちょうど12月24日に開催されるのでいつも控えめな中舘英二騎手日刊スポーツに「サンタになる」とリップサービスを飛ばしていた。2番人気ナリタブライアン、3番人気天皇賞(秋)を2着に入った皐月賞ジェニュイン[34]、4番人気天皇賞(秋)を勝ったサクラチトセオー、5番人気ジャパンカップ4着のタイキブリザード、6番人気菊花賞マヤノトップガンである[35]

この日の中山競馬場晴れ渡っていて、夕日が差し込んでおり、芝生を柔らかな黄色に染め上げていた。そしてが非常に強く[36]、直線で追いになり向こう正面で向かい風になるという向きだった[37]

逃げらしい逃げが見あたらない状況のなかでゲートが開いた。ヒシアマゾンが手に出遅れて最後尾からの競馬となった一方で、それまで逃げの経験がなかったマヤノトップガンが意表を突いて逃げていく[38]。大歓が湧き起こったメインスタンド前でもマヤノトップガンは全く引っ掛からずにペースを保ち、最初の1000mを推定62.1というペースで走った[39]。向こう正面で、ヒシアマゾンは出走12頭中10頭という後方を追走した。ヒシアマゾンのすぐそばにサクラチトセオーが位置している。

マヤノトップガン田原成貴は、「このは切れるタイプではない。あまりひきつけてはどうか」と思い、残り800mから意図的にペースアップした[40]。それに適応できたのはナリタブライアンで、一頭だけ異なる脚で3~4コーナーを加速していく。一方、ヒシアマゾンやサクラチトセオーは3~4コーナーでのマクリが遅く、4コーナーを後方の位置で回った。直線に入った時点でヒシアマゾンがサクラチトセオーよりも1身ほど前にいたのだが、ヒシアマゾンは直線でも伸びず、サクラチトセオーに追い抜かれて離されていく。サクラチトセオーは勝ちから0.4差の3位、そしてヒシアマゾンは勝ちから1.0差の5位に入った。

中野良調教師によると、レース当日のヒシアマゾンの体にはハリがなく、にも元気がなくて、敗戦を直前で予想できたという[41]

この当時からすでに「JC(ジャパンカップ)の反動」というのが有馬記念におけるキーワードだった。1992年トウカイテイオージャパンカップで1着になって1ヶ後の有馬記念で11着に大敗したことで盛んに「JC反動」が言われるようになった。1994年有馬記念で見せた凄まじいマクリができなかったのも「JC反動」が原因だったのだろうか・・・。

黄昏

1996年になり、6歳になったヒシアマゾンは蹄(ひづめ)の調子が悪くなっており、以前ほど頻繁にレースを使うことができない身体になっていた[42]3月大阪杯(GII)を使うことができず、6月になってやっとGI安田記念にぶっつけで臨むことになった。

この年の安田記念メンバーと称されていて、前年の覇者ハートレイク、前年のマイルトロットサンダー、前年のスプリント王ヒシアケボノ、1ヶ前にスプリント界の頂点に立ったフラワーパーク、スプリンGIで2着3回のビコーペガサスといった短距離マイル路線の強が一堂に会していた。しかも前年の天皇賞(秋)2着のジェニュイン、前年のGI戦線で何度も掲示板に乗ったタイキブリザードオークスダンスパートナー良血のレコードヤマニンパラダイスも参戦しており、まさに移りするような顔ぶれとなった。

この多士済々なメンバーに割って入ったヒシアマゾンは、1800m以下のレースを走るのが2年ぶりなのにもかかわらず4番人気に支持された。この当時の馬券購入者たちがヒシアマゾンを警していたことがよく分かる。ヒシアマゾンは血統的にもマイルをこなせそうだし、なんといってもを軽々と差しきる快な姿が人々の裏に焼き付いていた。

ヒシアマゾンはやっぱり出遅れたが意欲的に中を走り17頭の中の9番手あたりまで押し上げた。しかし、マイル戦の急な流れに戸惑ったのか0.8差の10着に敗れた。ちなみにヒシはヒシでもヒシアケボノがあわや逃げきりかといった好走を見せて3着に入っている。

 

このあとは阪神2200mで行われる宝塚記念に出走する予定だった。1600mの安田記念で速いペース競馬をしてシャキッと気持ちを切り替えた2200mの宝塚記念で好走することはよくあることで、1999年グラスワンダー2002年ダンツフレームがこの例に該当する。しかも阪神2200mは3~4コーナーが緩やかな度で、外からマクっていくヒシアマゾンにとっては絶好の舞台と思われた。ヒシアマゾンのファンにとっては期待が膨らむところだったが、蹄(ひづめ)の不安が発生してこのレースを回避することになってしまう。結局1996年競馬安田記念を走っただけに終わった。

4歳の5歳東のトレセンを越していたヒシアマゾンだったが、6歳となる1996年になってついに期放牧に出されることになった。放牧先は北海道・門別ファンタストクラブだった。

になってもステップレースを思うように使えず、11月エリザベス女王杯にぶっつけ本番で臨むことになった。この年から4歳向けに秋華賞が創設され、エリザベス女王杯が古に開放されていたのである。京都外回り2200mが舞台で、最後方からマクっていくスタイルのヒシアマゾンにはうってつけのレースと思われた。

611番に入ったヒシアマゾンはゲート内でしく暴れ、前に潜り込もうとする[43]係員4人の手によっていったんゲートを出されて大外からの発走となる。大外に入ったのが良かったのか、ヒシアマゾンにとって絶好のスタートを切り、そのまま気分良く先行して2コーナーを回るときには4番手にまで進出した。あのヒシアマゾンが「好スタートを切って先行する」という優等生競馬をしている。これはなのか・・・[44]

このレース逃げが不在で、最初の1000mが63.1スローペースとなった。あまりのスローペースに後方では騎手との折り合いを欠くも出てくるほどである。ヒシアマゾンはさして引っかかりもせず、順調に3~4コーナーを回って4番手あたりで直線に入ってきた。しかしそこから1995年のような爆発的末脚が発揮されず、なかなか先頭に突き抜けることができない。そしてインを縫って先頭に躍り出たダンスパートナーをとらえられず、ほんのわずかの首差でゴールインした。

更にそれだけではなく、直線で斜行してオレンジ帽子の14番シャイニンレーサー[45]の進路を妨したことを問題視されて、7着に降着となった。ゴールの直前でシャイニンレーサーが立ち上がっており、危ないところだった。

 

ヒシアマゾン営は12月有馬記念に駒を進めた。前走の降着の責任をとらせる形でついに中舘英二を降ろし[46]GIレースを何度も勝ったことがある関西ベテラン河内洋上に迎えた。限定レースで勝ちきれなかったことで人気が落ちるかと思われたが、5番人気に支持された。カネツクロスが前半1000m推定61.6程度で逃げていて、馬場状態が悪いことを考えるとペースの流れになっていた。いつものように出遅れたヒシアマゾンは最後方を追走した。残り800mになっても後方13番手でマクることができず、そのまま4コーナーを回った。直線では13番手から5番手まで追い上げ、そこがゴールだった。全くの惨敗でもないが1995年のころの周囲を震撼させる走りを再現することができなかった。

 
1997年になっても現役続行が発表され、5月京王杯スプリングカップ(GII 東京1400m)を標に調整が進められていたが、4月30日に右前脚の浅屈腱炎を発症し、そのまま5月1日引退となった。

繁殖生活

5月3日には北海道静内の出羽牧場に移動して、5月24日には静内のアロースタッドでヒシマサル(二代)と交配した。そのあと1997年10月29日アメリカ合衆国ケンタッキー州のこの場所exitにあるテイラーメイドファームへ移動して繁殖生活に入り、10頭の子を産んだが[47]日本デビューとなったアメリカデビューした重賞勝利までたどり着いた産駒はいない。

彼女の活躍を受けて輸入された半ホワットケイティーディド(代表産駒スリープレスナイト)、ケイティーズファーストは一大勢を構築しており、姪に当たるマイケイティーズ(代表産駒アドマイヤムーン)、ケイティーズハート(代表産駒エフフォーリア)らは繁殖牝馬として一定以上の成果を挙げているだけに残念である。ヒシアマゾン自身の子は活躍しなかったが、2番ヒシシルバーメイドのアミカブルナンバーオープンまで出世しており、後の世代の活躍に期待を持たせてはいる。

テイラーメイドファームに入ったときからヒシアマゾンを世話していた人の1人は、日本人スタッフの新木信だった。

2011年に繁殖生活引退し、ケンタッキー州のこの場所exitにあるポロ・グリーン・ステーブルという牧場で余生を送ることになった。この牧場の経営は先述の新木信であり、テイラーメイドファームを退職したあとに開業した[48]

2012年頃とされる動画があり、体を洗ってもらっている様子が映っている。

 
そして、平成が終わりを迎える2019年4月15日、老衰で死亡した。享年28歳。

最後は人につかない時と場所を選んだかのように静かに息を引き取ったという。晩年はIda's Imageexit(アイダスイメージ)という4歳年上の1987年生まれアリダー産駒と一緒に過ごしていたが、そのアイダスイメージが2018年の末に31歳で亡くなってから、ヒシアマゾンも急を失っていった[49]

体格・体質

テイラーメイドファームにいたときの体の評価はBかBマイナスだった。この牧場ABCの3段階でを評価して、それから必要に応じてマイナスプラスを付ける[50]。つまり「中の下」といった程度の評価だった。ヒシアマゾンの半のヒシアリダーはAやAプラスばかりだったので、その差は歴然だった。

このため馬主阿部一郎は、ヒシアリダーが千葉県市原市の大東牧場にいたときは2回も見に行っていたのに、ヒシアマゾンが2歳の11月から3歳の6月まで大東牧場にいたときは一度も見に行かなかった[51]

中野良調教師からの評価も同じで、「体が薄く、ヒョロッとして華奢な脚長という印で、2歳時は特にそんな印が強かった。もちろんあれほどの成績を残すとは想像もしませんでした」とっている[52]。また、小泉守男厩務員も「薄っぺらなで、幅がなかった」と振り返っている[53]

しかし、成長するに従いヒシアマゾンには筋肉が付いてきた。成長したあとのヒシアマゾンは体格が雄大で、1994年エリザベス女王杯では体重480kg、現役最終戦1996年有馬記念体重500kgに達している。1996年エリザベス女王杯は他のべて明らかに大きい体をしていてすぐに判別できる。

体質はかなり健康で、3歳にソエが治してから4歳有馬記念まで脚に不安が出ることもなく極めて順調にレースを使うことができた。ただし5歳1995年アメリカ遠征で左前脚の球節を捻挫して、そこから脚に不安が出るようになった[54]。6歳になると蹄(ひづめ)が悪くなり、小泉守男厩務員が装蹄師と色々話をして工夫をしたが、なかなか上手くいかなかった[55]

1997年になって引退して出羽牧場に入ったとき、蹄(ひづめ)が殻のようにペシャンコで薄い状態だった。かなり特異な形状で、関係者の苦労を想像させるものだった[56]

関西に遠征するなどして環境が変化しても動じることがなく、カイバ食いの心配もなくて、本当に仕上げやすいだ、と中野良調教師が褒めていた[57]

走法

トライド(歩幅、一歩)が大きいストライド走法をとるで、脚に巻いたいバンテージがゆったりと揺れる感じで、体の大きさもあいまって優な雰囲気があった[58]

毎度のごとく外を回して距離を損していた。中舘英二騎手が他のに包まれるのを嫌がったのか、あるいは体格が大きいストライド走法なので外を回した方が適しているのか、「インを突いて群を割っていく」という競馬はほとんど見られない。インを突いたのは1994年京成杯1995年高松宮杯ぐらいである。1994年京成杯レース後に上の中舘英二騎手は「イン慢したのが裏に出てしまった。(中略)全なミス」とコメント[59]、このレース以降は決してインを突かず外を回すようになった。

岡部幸雄は「フットワークが大きいが内ラチ沿いを走ると負担になる」という意味のことをっている[60]。ストライドの大きいインべったりの走行をするのは望ましくない。なぜそうなのかというと、やはり、「本来よりもストライドを小さくして窮屈な感じで走らざるを得なくなるから」という理由が考えられる。

脚質としては差し・追い込みの典で、スタート直後はスッと後方に下げる。先行したのは3歳の4戦と1995年高松宮杯1996年エリザベス女王杯ぐらいである。4歳になってから後方待機をするようになったが、4歳初戦の京成杯から1番人気になり続けて他のとの接触を避けることを優先する立場になったこともしているだろう。

しょっちゅう出遅れるというイメージが付いている。ヒシアマゾンが出遅れるたびにスーパー競馬ドリーム競馬解説者が「まあ、このは、後ろからの追い込み競馬をしますから・・・」などという言葉でフォローしていた。ただし、出遅れが付いたのは1995年オールカマー以降のことで、それ以前はまあまあ上手にスタートを決めていた。中舘英二騎手も「ゲートで暴れるようになったのは1995年オールカマーのころから」とっている[61]

イン側のを見るためなのか、顔を傾けてコーナリングするがある。1994年有馬記念でそれが顕著である。

パドックでは路面を強く踏みつけるように歩いていて、「ガチッ」とか「ビシッ」といった音が聞こえてくるかのようだった。この動画exit_nicovideoの6分44あたりにその様子が映っている。競馬予想大川次郎は「ヒシアマゾンの良いところというと、後ろ脚の踏み込みだ」とこの動画exit_nicovideoの7分28頃で解説していた。

勝負根性が凄くて、しばしば僅差で相手をねじせている。その姿は中野良調教師が「シンザン」と表していたほどで、それを受けてマスコミも「女シンザン」と書いていた[62]シンザンも僅差で勝つだった。

坂路での調教でいつも凄まじい脚を発揮していて、一番時計の常連だった。ほんまゆみは、次のように記している。「その彼女は坂路を恐ろしい勢いで駆け登ってきた。ヒシアマゾンの調教を見たことがある人なら、あの迫には、つい言になってしまったことがあるだろう。(中略)意識に調教時計ノートに書き込んでから、「あれ?」と思って数字をまじまじと見直した。「機械、壊れちゃったんですかネ?」隣の競馬記者視線時計釘付けになったまま聞く。(中略)「いや、あってるよ。ヒシアマゾンってそうなんだよな」 他の時計とは格段に違う。違いすぎる。こうしていつも、ヒシアマゾンが走る日は彼女が坂路の一番時計をさらっていく。トレセン馬場担当者はヒシアマゾンの時計で坂路の基準を計るともいっていた」[63]

性格

レース調教から離れたときのヒシアマゾンは、とてもおとなしだった。

小泉守男厩務員が「普段はおとなしい」「普段は品のいい控えめな女性」とっており[64]、ほんまゆみも次のようにっている。「そして北馬場にほど近い中野厩舎へ到着したのであるが、右手の洗い場に、ぽや~んとした黒鹿毛にとまった。顔に見覚えがある。でもこのおとなしさはタダモノではなく、がやってきて威嚇したら、ずりずりと下がって困惑しそうなほどであった。手入れがすんで厩務員さんが引き出し、歩かせた。その様子がまた、『老散歩なのかな?』と思うほどおとなしい。だらりとのびた引き綱。厩務員さんの後を、首をだらりと下げて、ぽてりんぽてりんと素直について歩く。ふたりの間にひだまりが見えるようであった。まさかとは思ったが、集まった取材がこのを注視するところを見ると、どうやら彼女こそがかのヒシアマゾン様である」「筋入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」「いままで見てきたで、(レースでのイメージと素顔の)イメージギャップが最もしかった、それが、ヒシアマゾンだった」[65]

中舘英二騎手も、次のようにっている。「(ヒシアマゾンはいつもあんな感じにおとなしいんですか、と問われて)・・・そうなんだよね・・・」「あのはよく分かんないっていうか・・・。パドックでまたがっても、なんかイマイチ闘志ってものが伝わってこなくて、『こんなんで今日、走るのかなあ?』って不思議不思議で。ゲート前に行ってもそんな感じで。『だいじょうぶかな』と思いながら、スタートきって、それでレース中もまだあんな調子なんだよね。走る気あるのか半信半疑で、・・・でも、いつも走るんだよねえ」[66]

中野良調教師も、「ヒシアマゾンは、『女戦士』という意味を持つアマゾンという名の通りの女傑ですね!」とほんまゆみに言われた際、いつも複雑そうな顔をしていた。そして「ほんとは、そんなにアマゾンって感じのじゃないのに・・・」とポツリといたこともあったという[67]

そしてヒシアマゾンは、おとなしいだけではなく、とても人なつっこいだった。

田端正照調教助手は「人なつっこくて甘えん坊で、優しいをしていた」と[68]阿部一郎オーナーも「やたらと人なつっこくて周りに人がいることを好む。自分が前に行くと、『なにかくれ』と前掻きexitして甘える」と言っており[69]1997年5月から10月までヒシアマゾンと接した出羽牧場高田牧場長も「性格が良さそうで、人がかわいがって育てたせいか、人間がそばを通っただけで、何かちょうだいというんですよ」と言している[70]

阿部一郎オーナーは、「小泉守男厩務員が本当にかわいがって優しくしたので、あんなに甘えん坊で人なつっこい性格になったのだろう」とっている[71]

パドックでは小泉守男厩務員に首を傾けて甘えている姿がしばしば見られた。1994年エリザベス女王杯(この動画exit_nicovideoの2分35頃)やや1996年有馬記念(この動画exit_nicovideoの7分25頃)などである[72]

リンゴが大好物で1日均2~3個食べていた。1997年5月から10月まで滞在した出羽牧場では、高田牧場長がそばに寄っていくと必ず前掻きしてリンゴをねだっていたので、甘え上手のヒシアマゾンに対して牧場長もついついリンゴを与えていた[73]

阿部一郎オーナーヒメリンゴを作っていた。ヒシアマゾン以外のにそのヒメリンゴを与えたら、あまり甘くない味だったので嫌がってすぐに食べるのをやめた。しかしヒシアマゾンに同じヒメリンゴを与えたら、ボリボリと食べていたという[74]

ただし、小泉守男厩務員がプラスチックおもちゃリンゴ房にしても、それで遊ばなかった[75]

主戦騎手 中舘英二

ヒシアマゾンの競走生活の大部分を共にしたのは関東所属の中舘英二騎手である。

重賞GIに出て高額賞を狙うよりは地方ローカル開催に多く出場して少額の賞を稼ぐことを好み、「ローカル」「福島」と言われることがある。積み重ねた勝利数は1869勝で、歴代10位の記録である。

かなり控えな性格で、「自分はが高くてここまで来たとは思っていませんよ。周りには山ほど天才がいますし。ノリ(横山典弘騎手)だのユタカ(武豊騎手)だの、やっぱり天才肌だから。」という言葉を発したことがある[76]

逃げの中」と言われるほど逃げが上手い。本人も「“逃げ”っていうカテゴリーの引き出しはいっぱい持ってる」と自負するほどである[77]。その反面、差し・追い込みを操る技術を誇る発言が本人の口から出てくることが少なく、「中は差し・追い込みが少し苦手」という印をもたれやすい。

このため1995年ジャパンカップのあとは「中舘英二を降ろすべきだ。大レースの経験を持っていて差し・追い込みが上手い騎手に代えろ」という批判が増えることになった。

血統表

Theatrical
1982 黒鹿毛
Nureyev
1977 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Special Forli
Thong
*ツリーオブノレッジ
1977 鹿毛
Sassafras Sheshoon
Ruta
Sensibility Hail to Reason
Pange
Katies
1981 黒鹿毛
FNo.7-f
*ノノアルコ
1971 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Seximee Hasty Road
Jambo
Mortefontaine
1969 鹿毛
*ポリック Relic
Polaire
Brabantia Honeyway
Porthaven
競走馬の4代血統表

クロスNearctic 4×3(18.75%)、PharosFairway 5×5(6.25)

競馬界に革命をもたらしたノーザンダンサーである。ノーザンダンサーの血が入ると「根性があって勝負強く底がある」といった性質がに宿ると言われる。

ヌレイエフで、競争成績はながら血統の良さを買われて種牡馬入りし、アメリカ合衆国欧州で繁殖を行い、欧州の芝マイルで活躍する競走馬を多数輩出した。

シアトリカル(theatrical)で[78]アイルランドで生まれ、最初は同で競走生活を送り、旧表記5歳からアメリカ合衆国に拠点を移した。1987年になって旧表記6歳になるとアメリカ合衆国の芝路線でGIを連戦連勝するようになり、ブリーダーズカップターフ(芝2400m)も制した。1988年から種牡馬入りし、20頭以上のGIを輩出した。凱旋門賞Sassafras(ササフラ)の血を引いているためか、シアトリカル自身は2400mのレースで活躍し、シアトリカ産駒2000m以上の中長距離戦で走る傾向にある。

ちなみにシアトリカルの半タイキブリザードで、ヒシアマゾンと同期である。1995年1996年GIでヒシアマゾンはの半、つまり「叔父さん」と走ったことになる。

ヒシアマゾンを作るためにシアトリカルがKatiesと種付けしたのは1990年だが、このときは産駒がどうなるか未知数の種牡馬であり、かなり安い種付け料だった。ミスタープロスペクターアリダーが30万ドルシアトルスルーが20万ドルといった時代で、シアトリカルは4万ドルだった。Katiesを管理する牧場の人には「なぜこんな種牡馬を付けるのか」と反対されたが、阿部一郎が反対を押し切って配合を決断した[79]

阿部一郎はヌレイエフが好みだったので、1990年Katiesに種付けするときヌレイエフを配合することも検討したが、Nearcticの3×3となって近配合になりすぎるので却下した。1990年から種牡馬入りしたヌレイエフ産駒のZilzal(ジルザル)も検討したが、1989年11月ブリーダーズカップ・マイルでひどくイレこんでいて発しているのを見て、やっぱり却下した[80]


はノノアルコ[81]欧州の芝マイル路線でGIを制したである。フランスアイルランド種牡馬になって7年間ほど繁殖生活を送り、欧州の芝マイルを得意とするを世に送り出した。そのあと日本種牡馬として輸入され、マイル重賞の勝ち2500mの有馬記念を勝ったダイユウサクとなった。

Katies(ケイティーズ)で、ノノアルコアイルランドにいたときの産駒であり、アイルランド1000ギニー(GI)やコロネーションステークス(GII)というマイル戦を勝った名である。先述の通り、アラブの王族の代理人と競り合いながら阿部一郎が100万ドルで購入した。アメリカ合衆国ケンタッキー州で繁殖入りした。Katies2007年JRA年度代表馬アドマイヤムーン2008年スプリンターズS勝ちスリープレスナイト2021年皐月賞エフフォーリアである。

オープンにまで出世したヒシアリダー、半1996年フェアリーS(GIII)勝ちのヒシナイル、全1999年ローズS(GII)を勝って秋華賞を3着に健闘したヒシピナクルがいる。

関連動画

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *1990年代競馬界において「混合レースを負かすような強い」に対して女傑(じょけつ)という称号を与える傾向があった。1994年有馬記念堺正幸アナが「女傑ヒシアマゾン」と表現していたが、1994年ニュージーランドトロフィー4歳Sでヒシアマゾンがを負かしたことを受けてその表現をしたものと思われる。ちなみに、「限定戦で強い競馬をした」には名(めいひん)という称号を与える傾向があった。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)exit_nicoichiba』の23ページに女傑と名の違いが解説されている。
  2. *厩務員は競走馬の身の回りの世話を一手に引き受ける人である。「厩務員は非常に重要であり、厩務員によって競走馬の走る気が決まる」と言っても過言ではない。木村幸治という作家は様々な調教師に対して「競走馬のために走るのでしょうか」と問いかけたが、「調教師である自分のために走る」と答えた人は皆無で、「騎手のために走る」と答えた人も数人だけで、「毎日献身的に世話してくれる厩務員のために走る」と答えた人が最も多かったという。『は知っていたか(祥伝社)木村幸治』112114ページ
  3. *写真動画を見る限りでは、小泉守男厩務員は1993年1997年の時点で40代ぐらいの年齢だったようである。『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』の56ページで「この世界に入って22年になるけど、GIを勝たせてくれたのはヒシアマゾンが初めて」と本人がっている。パドックでの周回や本馬場への入場のときにヒシアマゾンを引いていて、『ヒシアマゾン A Heroic Woman(ポニーキャニオン)』を再生しているとしょっちゅう画面に映る。飾らないタイプの人で、ヒシアマゾンが勝利した後の口取り式では作業着にヘルメットという姿で参加することが多く、JRAが発行する『優駿』の重賞勝利紹介ページ写真にそうした姿が見える。この動画exit_nicovideoの5分38あたりにもその姿がある。一の例外は1995年ジャパンカップの時で、このときはJRAの意向もあり、すべてのの厩務員・調教師スーツ姿だった。この動画exit_nicovideoの6分42あたりにその姿がある。
  4. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  5. *外国産馬とは、外牧場で生まれて幼いころに日本に輸入されて日本の厩舎に所属するである、と憶えておいて差し支えない。競馬新聞柱には外という漢字を○で囲ったマーク(画像exit)で示されるので「マルガイ」と呼ばれる。かつてのJRAは「日本牧場で生まれたを保護して日本牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、外国産馬に様々な出走制限を掛けていた。1999年まで外国産馬天皇賞に出走することができなかったし、2000年まで外国産馬ダービーに出走することができなかったし、2002年まで外国産馬オークスに出走することができなかった。
  6. *持込とは「外牧場で種付けして受胎した繁殖牝馬」を日本に輸入して日本牧場出産させることで生まれたのことをいう。「父親母親が外牧場ゆかりがある」という点で外国産馬とよく似た存在であり、持込母親日本牧場にいて外国産馬母親が外牧場にいる、という点だけが異なる。1971年から1983年までのJRAは「日本牧場が所有する種牡馬を保護して日本牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、持込に様々な出走制限を掛けていた。
  7. *ヒシスピードのWikipedia記事exitに出典しでこの説が書かれている。『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』の100ページでは、「あまり勝てない冠名ヒシの1988年までにリストラした阿部一郎は北海道静内のセリに行って優秀な内を購入しようとした」と記されている。ちなみにそのセリであまり良いが出品されておらず、「競走馬の6割が庭先取引exitで購入され、セリには良いが出品されない」という日本競馬閉鎖性に気付き、アメリカ合衆国で良い競走馬を購入しようと思い立ったと書かれている。
  8. *このときのアラブの王族はUAE(アラブ首長国連邦)のドバイのマクトゥーム一族だったようだ、と阿部一郎がっている。マクトゥーム一族はドバイの首長(君)を輩出する柄で、競馬に熱中していることで知られている。『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』48ページ、『名馬物語―The best selection(エンターブレイン)exit_nicoichiba109ページ
  9. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)49ページ名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)exit_nicoichiba86ページ
  10. *この話を裏付ける言は『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』や『名列伝ヒシアマゾン(光栄)』や『Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社)』や『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)の97~102ページ阿部一郎特集部分』や『ヒシアマゾン A Heroic Woman(ポニーキャニオン)』や『名物語―The best selection (エンターブレイン)』や『ヒシアマゾン 癒しささやき(講談社)』には出ておらず、偽不明である。

    仮にその逸話が事実であるとすれば、次のような事情を推察できる。1973年に『アマゾネス』というイタリア映画日本開された。映画007シリーズの初期の監督として知られるテレンスヤング監督を務めた作品だが、内容はだいぶエッチなもので、Wikipedia記事exit読んでみた画像検索結果exitを見てみたりするとそのことがよく分かる。しかもイタリア語の原題『Le guerriere dal seno nudo』を日本語に直訳すると『裸の胸の戦士』である。映画開から20年程度しかたっておらず『アマゾネス』の記憶が人々に残っているので却下となった、というのが有力説である。

    ちなみにnetkeiba.comにおいて『アマゾネス』で検索すると1978年生まれや1994年生まれの「アマゾネス」というヒットする(検索結果exit)
  11. *優駿1994年2月号(日本中央競馬会)』 149ページ
  12. *『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』の52ページでは中舘英二回想がある。「最初の騎乗依頼はどういう形だったんですか」と問われた中舘英二は、「たまたま(調教時に)スタンドの前を歩いていたら、中野先生(良調教師)に『英次、勝てるに乗せてやる。たぶん、なりで勝つだろう』と言われたんです。」と中舘英二っている。中舘英二中野調教師アピールしたシーン省略されている。
  13. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)14~15ページ
  14. *アサエンペラー中舘英二が騎乗して1986年皐月賞3着・ダービー3着の好結果を残した名である
  15. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)14ページ
  16. *タイキウルフパドックでいつもっ気を出していたことで有名である。っ気とは発情して男性性器がみょーんと伸びること。他にっ気で有名なのは1997年ジャパンカップピルサドスキーである。
  17. *JRA2007年頃までJSS20という発機を採用していて、係員が「出ろ~」と掛けを上げると同時にゲートを開けていた。2007年ダービーでもその発機を使っている(この動画exit_nicovideoの14分00頃)。2007年の中頃からJSS30が導入され、「出ろ~」の掛けを必要としなくなった。
  18. *エリザベス女王杯の1週間前の11月6日には菊花賞が行われていて、スティールキャストが大逃げをしていた(動画exit_nicovideo)。このため2週連続の大逃げ劇となった。
  19. *京都競馬場で2400mのレースを開催するときは外回りコースを使用する。残り1200mあたりから長い坂が始まり、残り800mあたりで3コーナーの坂の頂点に達して下りが始まる。直線は400mで坦である。残り1200m地点や残り1000m地点にはハロンポール(ハロン棒)がなく、残り800m地点や残り600m地点には地・文字で「8」とか「6」と書かれたハロンポールがある。この動画exit_nicovideoの4分01頃に逃げが残り1200m地点を通過し、4分13頃に逃げが残り1000m地点を通過し、4分25頃に逃げが残り800m地点を通過する。京都競馬場ウェブサイトの芝コース高低断面図(右・外回り)exitも参照のこと。
  20. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)24~25ページ、名列伝ヒシアマゾン(光栄)74ページ、87ページ、93ページGallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 9ページ、名物語―The best selection(エンターブレイン)110ページ
  21. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ
  22. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ、『Number378号(文藝春秋)』 38ページ畠山直毅の文章
  23. *『Number378号(文藝春秋)』 38ページ畠山直毅の文章
  24. *『Number378号(文藝春秋)』 38ページ畠山直毅の文章
  25. *『Number378号(文藝春秋)』 38ページ畠山直毅の文章
  26. *アイリッシュダンスハーツクライとして有名。
  27. *『Number378号(文藝春秋)』 38ページ畠山直毅の文章
  28. *『Number378号(文藝春秋)』 39ページ畠山直毅の文章
  29. *1995年天皇賞(春)を勝ったライスシャワー1995年宝塚記念事故を起こした。1995年宝塚記念日本レコードで勝ったダンツシアトルレース後に屈腱炎を発症した。
  30. *天皇賞(秋)は1着サクラチトセオーで2着ジェニュインだった。
  31. *Number 382号(文藝春秋) 79ページ島田の文章
  32. *このことを振り返った中舘英二騎手は、次のようなコメントを残している。「確かにペースが遅いと思ったけど、く動くとオールカマーの時のようにシマイが甘くなってしまう。それほど、前が遠いようには感じなかったので、とにかくを信じて慢した」「は自分のが一番だ、と信じていたので、3コーナーから動く必要はないと思っていた。これなら届くと思いました」Number 382号(文藝春秋) 79~80ページ島田の文章。オールカマーレース中舘英二騎手の心理にを与えていたのである。
  33. *Number 382号(文藝春秋) 80ページ島田の文章。エディ・メイプルexitはこのとき46歳の大ベテラン騎手だった。
  34. *この当時の岡部幸雄ジェニュインタイキブリザードの両方がお手だった。その岡部幸雄があえてジェニュインを選択し、タイキブリザード坂本勝美に乗り替わっていた。このため「ジェニュインを買うべき」という判断が広まり、ジェニュインが3番人気となった。
  35. *マヤノトップガンは速いペースで流れた菊花賞を先行しつつ押し切って菊花賞レコード更新していたが、その走の反動で体調が思わしくなく、プール調教鼻血を出し、左前脚の様子が少し悪くなっていて(『名物語―The best selection (エンターブレイン)79~81ページ)、坂口正大調教師がさんざん「万全な状態に戻らないのなら回避する」と言っており、レース1週間前になってやっと参戦を決定したほどだった。ついでにいうと、菊花賞の一番人気オークスダンスパートナーで、18年ぶりに挑戦してきたが獲得していたので、菊花賞に参戦した4歳たちのイメージがあまり「強い」というものではなく、「弱いに1番人気を持っていかれる小粒なたちの寄せ集め」というものだった。こうした要因が重なって、マヤノトップガンは6番人気にとどまった。さらに付け足すと、1995年日本ダービーの勝ち時計は良馬場で2分273であり(記事exit)、その1週間前の1995年オークスの勝ち時計は良馬場で2分267であって(記事exit)、この年の4歳は「より遅い時計の低レベル世代」というイメージがつきまとっており、それもしていたようである。
  36. *フジテレビ系列テレビ中継では、発走直前にスタート地点の発機の後ろで12頭の出走が輪乗りしている様子を映していた。このとき、大きく揺れている木々の姿が映っており、の強さを感じさせた。また、フジテレビ系列テレビ中継にてスタート地点でゲートリポートを務めた青嶋達也アナが「今年は特別にが強いです」と報告している(この動画exit_nicovideoの3分47あたり)。
  37. *フジテレビ系列テレビ中継にてスタート地点でゲートリポートを務めた青嶋達也アナが「スタートすると向かい風になる。に向かってスタートすることになる」と報告している(この動画exit_nicovideoの3分47あたり)、②競馬場の中央にある巨大な日本国旗がその方向になびいている(①と同じ動画の2分35あたり)、③スタートするまで発機の近くで黄色い旗を垂直に持ち上げているJRA職員がいるが、その職員がもつ旗がその方向になびいている(①と同じ動画の7分01あたり)、④12頭のゴールに駆け込むとき観客席で吹雪が舞っているが、その吹雪がその方向に移動している(①と同じ動画の9分38あたり)、といったことから、そのように判断できる。
  38. *マヤノトップガン上の田原成貴は、レース前日のトークイベント逃げることを示唆していた(『名物語―The best selection (エンターブレイン)81ページ)。とはいえ、それまで逃げたことがない逃げさせるのはなかなか考えづらかった。日刊スポーツの展開予想は、タイキブリザード逃げると予想していた。
  39. *1000mを62.1で走るのは、通常ならスローペースと表現される。しかし、この日の中山競馬場帽子が飛ぶほどの結構な強が吹き荒れていた。向かい風や横殴りの風が強く吹いているのなら、なかなかに負担が掛かる。「決してスローペースなどではなく、よどみない厳しいレースだったのではないか。1995年有馬記念exit時計が2分336で、同日に同距離で行われた900万下条件戦グッドラックハンデexit時計が2分384である。1995年有馬記念1995年グッドラックハンデより48も速い時計であり、距離でいうと30身ほど速い時計である。1995年有馬記念は数ある過去有馬記念レースの中でも最上位にランクされるレースだと思われる。ちなみに1990年有馬記念exit時計は2分342で、同日に同距離で行われた900万下条件戦グッドラックハンデexit時計が2分336である」と平尾が『優駿1996年2月号(日本中央競馬会)』の107ページ摘している。この摘の中の1990年有馬記念は「スローペースであり、衰えていたオグリキャップが勝ってしまうような低レベルレースだった」という評価がついて回っているレースである。
  40. *優駿1996年2月号(日本中央競馬会)』 145ページ
  41. *列伝ヒシアマゾン(光栄)94ページ
  42. *物語―The best selection(エンターブレイン)112ページ
  43. *実際にゲートの前をくぐってしまった例を1つ挙げると、1997年弥生賞サイレンススズカである(動画exit_nicovideo)。
  44. *ゲートで暴れたときにヒシアマゾンは頭をゲートにぶつけていて、大きなタンコブを作って血がにじむほどだった。小泉守男厩務員は「頭をぶつけたヒシアマゾンは、頭がクラクラッとした状態、震盪に近い状態になっていたんじゃないだろうか」と推測していた。名列伝ヒシアマゾン(光栄)112ページ
  45. *シャイニンレーサーフジキセキの半である。
  46. *このとき、中野良調教師が中舘英二に対して「今度は他の人を乗せるから」と告げたという。『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』55ページ
  47. *Wikipedia記事exitでは10頭のを産んだことが記述されている。netkeibaexitに登録されているのはそのうちの7頭である。
  48. *海外生産育成調教実践研修報告exit』37ページ、99ページ
  49. *週刊Gallop2019年4月28日号(産業経済新聞社)190ページ
  50. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ。ちなみにGallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 49ページでは「ABCDの4段階でを評価し必要に応じてプラスマイナスを付けるがDはめったに付けない」と報じている。
  51. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ
  52. *列伝ヒシアマゾン(光栄)91ページ
  53. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  54. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)50ページ
  55. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56~57ページ
  56. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ
  57. *優駿1994年12月号(日本中央競馬会)』 148ページにおけるローズステークスの回顧文章。
  58. *ちなみにストライド走法の反対ピッチ走法で、ピッチ(脚の回転)を増やすという走りである。ドリームジャーニーが典例とされる(動画exit_nicovideo)。
  59. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 6ページ
  60. *534kgの大であるタイキブリザードに乗って1995年ジャパンカップに参戦したことを回顧するとき、「フットワークが大きいから、埒(ラチ)沿いを走ると負担になるんだ」とっている。Number 382号(文藝春秋) 80ページ島田の文章
  61. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ
  62. *列伝ヒシアマゾン(光栄)27ページ114ページ、Number356号 37ページ 石田敏徳の文章
  63. *列伝ヒシアマゾン(光栄)110ページ
  64. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  65. *列伝ヒシアマゾン(光栄)110~111ページ
  66. *この中舘英二の言葉に対してほんまゆみは先述のように「筋入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」と評した。名列伝ヒシアマゾン(光栄)111ページ
  67. *列伝ヒシアマゾン(光栄)110~111ページ
  68. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 10ページ
  69. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
  70. *列伝ヒシアマゾン(光栄)104ページ
  71. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ、ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)49ページ
  72. *が首を傾けるのは、信頼する相手に甘える仕である(記事exit)。それにしても、騎手調教師馬主がそろって緊しているGIパドックで厩務員にデレデレと甘えているヒシアマゾンの姿は実に面白い
  73. *列伝ヒシアマゾン(光栄)104ページ、ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ。ちなみにヒシアマゾンに限らず競走馬は総じて甘いものを好み、リンゴハチミツ角砂糖を大好物にするという(記事exit)。
  74. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
  75. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ
  76. *【祝】JRA通算1600勝達成!競馬ラボ 2010年2月12日記事exit
  77. *『スローにすればいいと思ってる騎手はダメだね』逃げ職人・中舘英二 netkeiba.com 2012年7月3日記事exit
  78. *theatricalとは「演劇」という意味。theatricalのヌレイエフロシアダンサー名前で、ヌレイエフノーザンダンサーは「北の踊り手」という意味なので、3代続けて演劇関係の名が血統表に並ぶ格好になっている。
  79. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85ページ
  80. *列伝ヒシアマゾン(光栄)84ページ
  81. *ノアルコ(Nonoalco)はメキシコティ近くに点在する地名で(検索例exit)、アステカ文明と深い関わりがあるという
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