ビゼンニシキ 単語

5件

ビゼンニシキ

3.0千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

ビゼンニシキとは、1981年生まれの日本競走馬である。稀代のダイタクヘリオス父親であり、時代とライバルに泣かされた悲運の名である。

な勝ち
1984年:スプリングステークス(GII)、NHK杯(GII)、共同通信杯4歳ステークス(GIII)

故郷に錦を

ビゼンニシキは1981年に、理論で知られた成宮明調教師の夫人の実家である青森の明成牧場で生まれた。

多くの重賞を輩出したダンディルートはいいとして、系はベニバナビゼン、ミンスキーというやや地味な血統だが、成宮師の配合理論に基づいて配合されたであり、周囲の期待は大きかった。

ちなみに青森産なのに備前などという名前がついたのは、岡山バス会社を経営している藤田正蔵氏がオーナーだからである。

当然のごとく成宮厩舎に入厩し、11月府中岡部幸雄を背にデビュー。3番人気ながら6身差で圧勝し、々しくデビューを飾った。

さらに条件特別のさざんか賞、ひいらぎ賞を圧勝し、来るべきクラシックに期待を持たせて3歳のシーズンを終えた。

4歳になって初戦の共同通信杯も難なく制して重賞勝利クラシック戦線の役となって弥生賞へと向かうことになった。だが、その先にはいた。

皇帝登場

弥生賞に出走したそのは名門牧場に生まれた良血で、名門野厩舎で英才教育を施されたエリートであった。岡部騎手を背に3戦3勝、当時から大器の片りんを見せつけていた。

成宮師の強い要望もあったが、岡部氏は悩んだ末ビゼンニシキではなくそに騎乗した。4戦敗で重賞を制していたビゼンニシキを捨ててまでして3戦3勝ながら重賞勝利のそのを選んだあたり、やはりそのに底知れぬ素質を感じていたのだろう。

結局ビゼンニシキは蛯沢騎手に乗り替わりが決定。岡部騎手の乗り換わりにオーナーである藤田氏は激怒し、以後岡部騎手を二度と持ちに乗せることはなかった。

本番のレースではビゼンニシキは1番人気、そのは2番人気に支持されたが、両出遅れた。ビゼンニシキはそのを執拗にマーク。両最後の直線で抜け出し、逃げるニッポースワローを外から引き離した。

だが、そのシンボリルドルフはビゼンニシキを徐々に突き放し、結局ビゼンニシキは1身4分の1離されて2着でゴールイン。2分17は当時の皐月賞レコードタイムを上回っていた。

激闘皐月賞

悔しい敗北を喫したビゼンニシキは皐月賞の前にスプリングステークスに出走し、圧倒的1番人気に応えて逃げ切り勝ち。宿敵ルドルフを倒すべく皐月賞へと向かった。皐月賞は1番人気ルドルフ、2番人気のビゼンニシキに人気が集中し、かえって馬券売り上げが落ちるほどであった。

レースは第3コーナー手前で抜け出したルドルフを、第4コーナーを回ったところでビゼンニシキが捉えた。

だが、ルドルフは抜かせまいと内からビゼンニシキに体をぶつけ、その隙に外へ斜行しながらビゼンニシキを引き離し、トップゴールを通過した。タイムは2分11、レースレコードを大幅に縮める好タイムであったが、ビゼンニシキの2分13もまたレースレコードであった。

ルドルフラフな走りに成宮師は猛抗議。後に岡部騎手は2日間の騎乗停止になったものの、順位はそのままルドルフ1着で確定。この事件以降成宮師も岡部騎手を騎乗させることはなくなってしまった。

その後のビゼンニシキ

一連の敗戦がビゼンニシキ営にとってどれだけ悔しかったかは想像に難くない。レース数を減らして々戦うルドルフに対抗してか、ビゼンニシキはクラシック戦線のすべてのレースに出走した。

皐月賞後もよせばいいのにNHK杯に出走。1番人気に応えて優勝したが、続くダービーも入れて4歳だけで重賞6戦という過密日程に加え、距離限界もビゼンニシキに立ちはだかった。

ダンディルートはそもそも短距離で、ビゼンニシキも本来はマイラーだったといわれている。それが2400メートル日本ダービーで勝つというのはいくらなんでも理である。14着と初めてルドルフ以外のの後を喫し、短距離路線へ転じることになった。

の短距離路線は徐々に整備されつつあったが、4歳の短距離路線はまだ未整備の時代である。当時すでに短距離路線が整備されていたら、あるいはビゼンニシキの評価は変わっていたかもしれない。

距離路線転向の第1戦としてスワンステークスで始動。しかし、理な強行日程が災いしてか直線で故障。ライバルになったかも知れないニホンピロウイナーの前に最下位に沈み、そのまま現役を引退した。

父ビゼンニシキ

引退後は種牡馬となったが、種付けが下手だったので当初はあまりいいが集まらず、苦戦を強いられた。

だが、2年産駒が当たり年で、代表産駒ダイタクヘリオスを筆頭に、重賞2勝のハシノケンシロウ平安ステークスを制したパッシングルートと重賞クラスを輩出。以後はそれなりの質のを集めるようになり、堅実に走るを出し続けた。

その後も安い種付け料の割に走る馬主孝行なを多く輩出し、晩年には九州種牡馬生活を送った。1999年に死去。ダイタクヘリオスからダイタクヤマトへと後継種牡馬も2代にわたって続き、かなり幸福な晩年だったのではないだろうか。

血統表

*ダンディルート
Dandy Lute
1972 鹿毛
Luthier
1965 黒鹿毛
Klairon Clarion
Kalmia
Flute Enchantee Cranach
Montagnana
Dentrelic
1965 栗毛
Prudent My Babu
Providence
Relict Relic
Fakhry
ベニバナビゼン
1975 栗毛
FNo.3-o
ミンスキー
1968 栗毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
カツハゴロモ
1971 鹿毛
*サウンドトラック Whistler
Bridle Way
*ワイルドライフ Big Game
Clarinda
競走馬の4代血統表

クロスDjebel 5×5(6.25%)、War Kilt=War Relic 5×5(6.25%)

主な産駒

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 02:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 02:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP