ビゼンニシキとは、1981年生まれの日本の競走馬である。稀代の癖馬ダイタクヘリオスの父親であり、時代とライバルに泣かされた悲運の名馬である。
主な勝ち鞍
1984年:スプリングステークス(GII)、NHK杯(GII)、共同通信杯4歳ステークス(GIII)
ビゼンニシキは1981年に、理論派で知られた成宮明光調教師の夫人の実家である青森の明成牧場で生まれた。
多くの重賞馬を輩出した父ダンディルートはいいとして、母系は母ベニバナビゼン、母の父ミンスキーというやや地味な血統だが、成宮師の配合理論に基づいて配合された馬であり、周囲の期待は大きかった。
ちなみに青森産なのに備前などという名前がついたのは、岡山でバス会社を経営している藤田正蔵氏がオーナーだからである。
当然のごとく成宮厩舎に入厩し、11月に府中で岡部幸雄を背にデビュー。3番人気ながら6馬身差で圧勝し、華々しくデビューを飾った。
さらに条件特別のさざんか賞、ひいらぎ賞を圧勝し、来るべきクラシックに期待を持たせて3歳のシーズンを終えた。
4歳になって初戦の共同通信杯も難なく制して重賞初勝利。クラシック戦線の主役となって弥生賞へと向かうことになった。だが、その先に奴はいた。
弥生賞に出走したその馬は名門牧場に生まれた良血馬で、名門野平厩舎で英才教育を施されたエリートであった。岡部騎手を背に3戦3勝、当時から大器の片りんを見せつけていた。
成宮師の強い要望もあったが、岡部氏は悩んだ末ビゼンニシキではなくその馬に騎乗した。4戦無敗で重賞を制していたビゼンニシキを捨ててまでして3戦3勝ながら重賞未勝利のその馬を選んだあたり、やはりその馬に底知れぬ素質を感じていたのだろう。
結局ビゼンニシキは蛯沢騎手に乗り替わりが決定。岡部騎手の乗り換わりにオーナーである藤田氏は激怒し、以後岡部騎手を二度と持ち馬に乗せることはなかった。
本番のレースではビゼンニシキは1番人気、その馬は2番人気に支持されたが、両馬出遅れた。ビゼンニシキはその馬を執拗にマーク。両馬最後の直線で抜け出し、逃げるニッポースワローを外から引き離した。
だが、その馬、シンボリルドルフはビゼンニシキを徐々に突き放し、結局ビゼンニシキは1馬身4分の1離されて2着でゴールイン。2分1秒7は当時の皐月賞のレコードタイムを上回っていた。
悔しい敗北を喫したビゼンニシキは皐月賞の前にスプリングステークスに出走し、圧倒的1番人気に応えて逃げ切り勝ち。宿敵ルドルフを倒すべく皐月賞へと向かった。皐月賞は1番人気のルドルフ、2番人気のビゼンニシキに人気が集中し、かえって馬券売り上げが落ちるほどであった。
レースは第3コーナー手前で抜け出したルドルフを、第4コーナーを回ったところでビゼンニシキが捉えた。
だが、ルドルフは抜かせまいと内からビゼンニシキに体をぶつけ、その隙に外へ斜行しながらビゼンニシキを引き離し、トップでゴール板を通過した。タイムは2分1秒1、レースレコードを大幅に縮める好タイムであったが、ビゼンニシキの2分1秒3もまたレースレコードであった。
ルドルフのラフな走りに成宮師は猛抗議。後に岡部騎手は2日間の騎乗停止になったものの、順位はそのままルドルフ1着で確定。この事件以降成宮師も岡部騎手を騎乗させることはなくなってしまった。
一連の敗戦がビゼンニシキ陣営にとってどれだけ悔しかったかは想像に難くない。レース数を減らして悠々戦うルドルフに対抗してか、ビゼンニシキはクラシック戦線のすべてのレースに出走した。
皐月賞後もよせばいいのにNHK杯に出走。1番人気に応えて優勝したが、続くダービーも入れて4歳春だけで重賞6戦という過密日程に加え、距離の限界もビゼンニシキに立ちはだかった。
父ダンディルートはそもそも短距離馬で、ビゼンニシキも本来はマイラーだったといわれている。それが2400メートルの日本ダービーで勝つというのはいくらなんでも無理である。14着と初めてルドルフ以外の馬の後塵を喫し、短距離路線へ転じることになった。
古馬の短距離路線は徐々に整備されつつあったが、4歳春の短距離路線はまだ未整備の時代である。当時すでに短距離路線が整備されていたら、あるいはビゼンニシキの評価は変わっていたかもしれない。
短距離路線転向の第1戦として秋のスワンステークスで始動。しかし、春の無理な強行日程が災いしてか直線で故障。ライバルになったかも知れないニホンピロウイナーの前に最下位に沈み、そのまま現役を引退した。
引退後は種牡馬となったが、種付けが下手だったので当初はあまりいい牝馬が集まらず、苦戦を強いられた。
だが、2年目の産駒が当たり年で、代表産駒ダイタクヘリオスを筆頭に、重賞2勝のハシノケンシロウ、平安ステークスを制したパッシングルートと重賞クラスの馬を輩出。以後はそれなりの質の牝馬を集めるようになり、堅実に走る馬を出し続けた。
その後も安い種付け料の割に走る馬主孝行な馬を多く輩出し、晩年には九州で種牡馬生活を送った。1999年に死去。ダイタクヘリオスからダイタクヤマトへと後継種牡馬も2代にわたって続き、かなり幸福な晩年だったのではないだろうか。
*ダンディルート Dandy Lute 1972 鹿毛 |
Luthier 1965 黒鹿毛 |
Klairon | Clarion |
Kalmia | |||
Flute Enchantee | Cranach | ||
Montagnana | |||
Dentrelic 1965 栗毛 |
Prudent | My Babu | |
Providence | |||
Relict | Relic | ||
Fakhry | |||
ベニバナビゼン 1975 栗毛 FNo.3-o |
ミンスキー 1968 栗毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
カツハゴロモ 1971 鹿毛 |
*サウンドトラック | Whistler | |
Bridle Way | |||
*ワイルドライフ | Big Game | ||
Clarinda | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Djebel 5×5(6.25%)、War Kilt=War Relic 5×5(6.25%)
掲示板
29 ななしのよっしん
2023/06/24(土) 18:55:36 ID: /upjMFGz0D
30 ななしのよっしん
2023/11/14(火) 00:17:47 ID: mTuqhEuXS7
ルドルフがどうこうより、岡部の明白な汚点だよ。
「選択するとか迷うとかそういう次元じゃなかった。問題なくシンボリルドルフ」
はまだしも、
「僕が選んだ方が強いと思ってください」
とかは、よく絶縁で済んだなというレベルの失言。
31 ななしのよっしん
2024/03/03(日) 08:52:37 ID: /upjMFGz0D
>>29
ルドルフの皐月賞のタックルで被害者扱いされるビゼンニシキだが、弥生賞ではルドルフに斜行して針を縫わせるほどのケガを負わせてる
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最終更新:2024/04/25(木) 02:00
最終更新:2024/04/25(木) 02:00
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