ビワハヤヒデ 単語

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ビワハヤヒデ

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94年、宝塚記念

ファン投票で集まった、14万8768の期待。

そのにとっては、重圧でなく、自信だった。

されるから強いのか。あるいはその逆か。

5身差の余裕、ビワハヤヒデ。

の強さは、スリルすら拒む。

――2013年宝塚記念CMより

ビワハヤヒデ(Biwa Hayahide)とは、1990年生まれの競走馬。15連続連対を記録した名である。顔がでかい事で有名

寄りすぎ

これはでかい

な勝ち
1992年:デイリー杯3歳ステークス(GII)
1993年:菊花賞(GI)、神戸新聞杯(GII)
1994年:天皇賞(春)(GI)、宝塚記念(GI)、京都記念(GII)、産経賞オールカマー(GIII)

1993年JRA賞最優秀4歳年度代表馬
1994年JRA賞最優秀5歳以上

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
ビワハヤヒデ(ウマ娘)を参照してください。

概要

*シャルード、*パシフカスNorthern Dancerという血統。イギリスから*パシフカスが輸入される時におに入っていた持込である。購入した牧場としても、欲しかったのは*パシフカスであって、おにいたその子供には大した期待をしていなかっただろう。は競走成績もアメリカの芝重賞を勝った程度で血統背景もいとこに*ジョリーズヘイローがいる程度と乏しく、この時点でろくな活躍もなかった。ハヤヒデが活躍して日本に輸入されたが、特段日本競馬に適性があったわけでもなく、2世代を残したところで急死という不幸があったとはいえ、ハヤヒデの他に立った産駒はいない。は大種牡馬Northern DancerGI勝ちPacific Princessの間に生まれた良血ではあったが、自身の競走成績は全く芳しくなく、イギリスに残してきたハヤヒデ3頭もろくに走っておらず、この段階で*シャルードのような種牡馬を配合されていたのも、要はイギリスでは大しただとは思われていなかったということである。

なお、ビワハヤヒデは実は福島県生まれである。成田空港に到着した*パシフカス北海道に運ばれる前に出産が近づき、急遽牧場福島に所有していた分場に運び込まれそこで出産を迎えたというタイミングの都合であったのだが、産地ではない福島生まれの名は非常にしい(クラシックホースでは他に1974年二冠牝馬トウコウエルザのみ)。出産い段階で子ともども新冠の本場へ移動し、そこで育っている。

幼少時はなんか大怪を負ったことがあるというエピソード以外は立たないであったようである。入厩舎してからも体質が強くなく、それほど注されている訳でもなかった。

ところがデビュー戦は大差勝ちである。そこからもみじS(OP)を勝ち、デイリー杯3歳S(当時)では遊びながら2歳レコードを1以上更新して楽勝。見た感じモサッとしていて体も地味ではあったが、それでも実は確かであり、朝日杯3歳Sでは単勝1.3倍の圧倒的人気となる。しかしここでエルウェーウィンハナ差2着に敗れると年明け初戦の共同通信杯ハナ差2着。デビューから手綱を取り続けてきた騎手はここでついに交代となり、関西にもかかわらず関東トップ騎手岡部幸雄に騎乗が依頼される。岡部騎手も当初は難色を示していたが、乗り替わった若葉ステークスを圧勝。岡部騎手の他のお手が相次いで故障したこともあり、岡部騎手とのコンビをそのまま継続してクラシック戦線の大本命に名乗りを上げることとなった。

しかし皐月賞ではりこむところを武豊騎手上のナリタタイシンの差し切りを許す。ダービーでは柴田政人上のウイニングチケットの恐るべきりと差し返しの前にこれまた2着。ナリタタイシンウイニングチケットとの3頭はBNWとか呼ばれたが、結局1~3着を独占したのはダービーが最後だった。

の惜敗に課題を感じた浜田調教師は、にこれだけの活躍をしたのであれば普通は避暑を兼ねて北海道に休養放牧に出すところを、ビワハヤヒデを東に残して過酷な調教を施した。この1993年は全深刻な米不足をもたらす冷となったため、房の前に氷柱を立てて扇風機を送れば暑さは気にならなかった。おかげで細かった体はになって見違えるような筋肉ムキムキ状態に。さらに、精面も十分に成長したからと、レース時にはそれまでトレードマークだったメンコを外すようになった。これによりそれまでメンコでごまかされていた「頭の大きさ」が下に知れ渡ることになる。

大輪として咲け

うつむくな
肩を落とすな
立ち止まるな
はいつか咲く

だからそれまでは
ゆるまず進め
で挑め
おごらず戦え

そうすれば君は
いまに大輪となる

JRA「名馬の肖像」ビワハヤヒデexit

になってライバル2頭は順調さを欠き、菊花賞神戸新聞杯を楽勝したハヤヒデの一強ムード。実際、レコード叩き出して5身差で圧勝し、初タイトルを手にしたのであった。直前にメジロマックイーンが負傷引退を余儀なくされたことで、芦毛最強伝説の後継者とされることにもなる。

その勢いのまま有馬記念へ。この年は「史上初のGI8頭出走」というメンバーが売りとなったが、絶好調を維持してここに臨んだというは少なく、その中で3歳だが安定感抜群のビワハヤヒデが一番人気だった。ところがここでは1年も休んでいたトウカイテイオー走に交わされて二着。しかし、1年を通じての安定した高パフォーマンスが評価されて年度代表馬に選ばれている。

4歳になり、京都記念を圧勝すると、古戦線はビワハヤヒデ独裁体制と言って良い状態になっていた。天皇賞(春)ナリタタイシンを問題にせずに圧勝。しかしながら、このレースでは実況杉本清アナウンサーが「兄貴も強い!」と叫んでいた。

そう、1歳下のナリタブライアンがこの一週間前に圧倒的な強さで皐月賞を制し「三冠間違いし!」と言われていたのである。京都記念勝利のときも、同日に東京競馬場で開催される共同通信杯ナリタブライアンが出走登録しており1940年以来54年ぶりの「兄弟同日重賞制覇」がほぼ確実視されていたのだが、降のために東京競馬場レースが1日順延されこの記録に終わっていた。この時点からいわゆる「兄弟対決」が噂されており、それはおそらくこの年暮れの有馬記念だろうと言われていた。

それからというもの、ナリタブライアンダービーを楽勝すれば、ビワハヤヒデが「涼しい顔をして」宝塚記念を楽勝。競馬ファンの期待は「ナリタブライアン三冠」と「ビワハヤヒデとナリタブライアン兄弟対決」に向けて最高潮。あれほどが待ち遠しかったはあんまりない。

オールカマーを楽勝したビワハヤヒデ。ナリタブライアン京都新聞杯で不覚を取り、無敵さ加減にややしていたが、ビワハヤヒデの方は何の不安も秋の天皇賞に向かった。この翌週は菊花賞であり、兄弟してまた二週連続GI制覇。そして有馬兄弟対決を!……と思ったのだが。

府中の直線。いつもならズイっと大きな顔を伸ばしてくるビワハヤヒデが下がって行く。正直言ってそれは、を疑うであった。勝ったのは、ハヤヒデが勝った菊花賞で心房細動を発症して殿負けしたネーハイシーザー。ビワハヤヒデは5着に敗れ生涯で初めて連対を外すと、レース後向こう正面で岡部騎手が地下を運ばず下屈腱炎レース中に発症していたのである。

ビワハヤヒデはそのまま引退し、兄弟対決と消えた。せめてもの救いは翌週の菊花賞ナリタブライアン三冠を達成し、杉本アナウンサーが「大丈夫だ!」と叫んだことだった。

15連続連対はシンザンに次ぐ記録である。勝ったレースは先行抜け出しの横綱相撲ばかりで特に古になってからは強過ぎて逆に印に残るレースがあんまりい。逆に、武騎手魔法のような好騎乗がった皐月賞柴田騎手の執念がを誘うダービートウカイテイオー奇跡復活日本中が沸いた有馬記念など負けたレースの方がドラマチックに扱われる事が多い。手な勝ちっぷりと古になってからのゴタゴタで話題が何かと多いべて地味な印が強い、何かと不憫な名であった。何しろファンにビワハヤヒデと言うと「ああ、あの顔のでかい」と言われてしまうのだ

種牡馬としてはかなり大失敗。京都競馬場2400mのレコードホルダーのサンエムエックスを輩出するので精一杯だった[1]2005年種牡馬引退し、その後は繋養地の日西牧場でそのまま功労となった。

2020年7月21日未明、余生を送っていた日西牧場にて老衰により死去。享年30歳。グーグルアースで日西牧場を見ると、そこにはのんびりとを食む晩年のビワハヤヒデの姿が写っていた。

鮮やかに、ひたむきに。

その走りが、を、を、この世に知らしめた。
との対決に終わったが、
レースはつねに堂々たる役を演じてきた。
ビワハヤヒデ。強さとひたむきさをあわせもつ、
芦毛ヒーロー

JRA「ヒーロー列伝」No.38 ビワハヤヒデexit

兄と弟、結局どちらが強かったのか

見果てぬとなってしまったビワハヤヒデとナリタブライアン兄弟対決ではあるが、実際に行われていたら果たしてどちらが強かったのかは、今なお当時からの競馬ファンの強い関心事である。もちろん実際の対決が心待ちにされていた当時においてはなおのことであり、両がともにGIを2勝した1994年シーズン対決を見据えて競馬評論家の井崎脩五郎氏が、コラムにおいてこの話題をいかにも井崎流というやり方で占っている。

イイデライナーというがいた。ナリタブライアン同期でかつ同じ大久保正陽厩舎に所属し、ビワハヤヒデの最初の戦であった騎手と、なにかと兄弟と縁のあるこのは、いかにも大久保厩舎のらしく旧3歳の11月デビューしてから旧4歳のシーズン終了まで休みなく12戦を走り、この間にGIII京都4歳特別(現在京都新聞杯に相当)を勝ったほか重賞2着2回、クラシック2冠にともに出走し、かつ阪神競馬場での好走が多かったことから、旧4歳にもかかわらず宝塚記念で古にも挑戦と、この時点でかなりの出世を果たしていた実であった。

そう、イイデライナーはこの時点でビワハヤヒデとナリタブライアンの両と同じレースに出走したことのある一のだったのである。兄弟物差しには最適のであり、井崎氏がこれに注したのは当然であった。しかし、ただそれだけなら井崎脩五郎ほどの人がわざわざコラムに取り上げたりはしない。しかも読者に対して、「ダービー宝塚記念の、イイデライナーの結果を見てごらん?」と、敢えて自身では結論を書かずにコラムを締めている。

井崎氏にならって、筆者も敢えてここには詳細を書かず、イイデライナーの戦績表へのリンクを貼るにとどめたいと思う。ぜひご自身のイイデライナーの、日本ダービー宝塚記念における着順と1着との着差を確認していただきたい。

・イイデライナーの競走成績(netkeiba.com)exit

血統表

*シャルード
Sharrood
1983 芦毛
Caro
1967 芦毛
*フォルティノ
Fortino
Grey Sovereign
Ranavalo
Chambord Chamossaire
Life Hill
Angel Island
1976 黒鹿毛
Cougar Tale of Two Cities
Cindy Lou
Who's to Know Fleet Nasrullah
Masked Lady
*パシフカス
Pacificus
1981 鹿毛
FNo.13-a
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Pacific Princess
1973 鹿毛
Damascus Sword Dancer
Kerala
Fiji Acropolis
Rififi
競走馬の4代血統表

クロスNasrullah 5×5(6.25%)

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関連項目

脚注

  1. *サンエムエックスについては「ステイヤー三羽烏」の記事を参照。
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