フェルディナント・ヒラー(1811~1885)とは、19世紀に活躍した作曲家・ピアニスト・指揮者であり、ヴィルトゥオーソピアニストのひとりである。
フランクフルトのユダヤ人の裕福な家庭に生まれた。幼いころからアロイス・シュミットの下で学び、神童として名声を得ていた。もうすでにこのころからフェリックス・メンデルスゾーンやイグナーツ・モシェレスらの知己を得ていたようだ。
やがてワイマールを訪れ、ヨハン・ネポムク・フンメルの弟子となった。フンメル自身決してピアノのみにとどまらない作曲家であったためにヒラーもピアノ以外の様々な知識を教え込まれ、もうすでにこのころ室内楽の曲を作っている。
1828年パリに移住し、10代にして「博学のヒラー」と呼ばれていた彼ははじめはパリの王立古典・宗教音楽学校のオルガン教師という定職に就くこととなった。しかし彼はそれには満足せず、ヴィルトゥオーソピアニストとして作曲・演奏活動を行っていくことになった。
その結果フリードリヒ・カルクブレンナー、フレデリック・ショパン、フランツ・リスト、シャルル=ヴァランタン・アルカン、ステファン・ヘラーといった同時代の様々なヴィルトゥオーソと知り合い、さらに上の世代であるルイジ・ケルビーニ、ジャック・アレヴィ(フロマンタル・アレヴィ)、ジャコモ・マイアベーア、ジョアキーノ・ロッシーニ といった人々からも称賛される存在になったのである。
1836年、フランクフルトのチェチーリア協会を指揮するためパリを離れたのをきっかけに、より活動範囲を広めていく。まずはミラノで自作のオペラである「ロミルダ」を上演。ついでライプツィヒに移り、メンデルスゾーンの再会に加えゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者を務める。次いでドレスデンで音楽アカデミーの指揮者に、それをロベルト・シューマンに任せた後はケルンの音楽監督となり、ケルン音楽院も設立した。これらの功績の結果姓に「フォン」が与えられている。一方で普仏戦争でフランスと自由に行き来できなくなるまではアルカンら旧友との交流も続けていたようだ。演奏活動で各国を回ることはあったものの、その後はケルンに居つきそのまま同地で没した。
なお人格面ではかなりの「いい人」だったらしく、婚約者をエクトル・ベルリオーズに奪い取られても黙って身を引くレベルだったらしい。
ピアノにとどまらず多種多様な楽曲を作った彼だが、ピアノ協奏曲などがまだ演奏されるのに比べそれ以外はなかなか機会に恵まれない。
なお師匠であるフンメルとともにベートーヴェンの死の直前に彼のもとを訪れ毛髪をもらうという栄誉にあずかるが、紆余曲折を得て1995年にこの毛髪がサザビーズオークションに出品され、ベートーヴェン協会の落札の結果ベートーヴェンが鉛中毒であったことが判明した、というのは余談である。
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最終更新:2024/04/18(木) 10:00
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