フランス王国(仏:Royaume de France)とは、987年から1789年もしくは1848年まで、おおよそ現在のフランスの領域に存在した王国の呼称である。
但し、987年時点では「フランス王国」と「フランク王国」、「西フランク王国」の区別は存在しなかった。現在「フランス王国の歴史」とされているものの一部は、かつては「フランク王国の歴史」或いは「西フランク王国の歴史」の延長だったものである(後述)。現在ではユーグ・カペー即位以降の西フランク王国の歴史をフランス王国時代と呼んでカペー即位前の西フランク王国の歴史とは区別して扱う。
よく言われるが、「西フランク王国とフランス王国の違いはカロリング朝とカペー朝の違いである」といったようなことはない。
限定的ではあったが、ロベール家はカペー以前から国王を輩出している家柄でありカペー自身も国王ロベール1世の孫である。またカペー以前の西フランク王国がカロリング家が王位を独占してきた国家ではない。さらにはフランス王国時代にあってもカロリング家は(結果としてフランク王国の王位に返り咲くことはなかったが)傍系家系として細々と続いているのである。
つまり、カロリング朝直系の偶然の断絶を契機とした貴族間の権力争いの結果として、たまたまユーグ・カペーの男系子孫による王位の独占が続き、その期間を括りだして後付けで名前を付けたのがフランス王国なのである。「フランク王国」、「西フランク王国」、「フランス王国」はあくまで後世の歴史的区分であり、カペー自身は既存の王国の既存の王位を継承したに過ぎず、当時の人々にとっては新たな王位や王国が創設された意識は全くなかった。そのため(フランス王国の神聖ローマ帝国に対する権威づけという意味合いも極めて強いが)、フランス王国時代の王の代数はメロヴィング朝フランク王国時代からの通算で数えられている。
西フランク王国で多くの国王を輩出してきたカロリング家による王位継承が断絶し、ロベール家のユーグ・カペーがフランク王国の国王に選出された987年をもってフランス王国時代の始まりとする。
当初、ロベール家はパリ周辺部(イル=ド=フランス)を有しているに過ぎず、国内にはロベール家と同等がそれ以上の力を持った諸侯が多く居た。取り分け、ノルマンディー公は1066年にイングランド王にもなり、国外においては、ロベール家と同等の地位を得る。周辺国の神聖ローマ帝国もフランス王国とは比べものにならない国力と教皇から直接戴冠された帝冠という権威を有しており、また、イングランド王家は婚姻政策で一時はフランス王国の過半を所領とする(アンジュー帝国)など、初期のフランス王国は微弱な王権に甘んじることとなる。
然し、フィリップ2世は、ジョン欠地王に始まるイングランド王家の失敗に乗じて、次々と領地を没収し王家の直轄領を拡大。晩年にはアルビジョワ十字軍に参加して、ルイ8世、ルイ9世の時代までに、王権の弱かった南部のトゥールズ、アヴィニョン、さらに神聖ローマ帝国内のプロヴァンスにまで王権を伸長することに成功する。フィリップ4世は官僚制度の強化を図り、また、教皇と対立するとアナーニ事件を引き起こして、教皇庁をアヴィニョンに移し、アヴィニョン捕囚をして、国内の権威は教皇をも上回った。
カペー朝が断絶しヴァロア朝が立つと、イングランド国王エドワード3世が母方の血統を理由に、フランス王位及びフランス北部の領有を要求し百年戦争が勃発する。たびたび劣勢となり、一時は王位を奪われたが、最終的に英国を海の向こうへ追っ払うと、プロヴァンス公、ブルゴーニュ公、ブリターニュ公といった大諸侯の領土を次々併呑し、王国を「統一」した。
統一されたフランス王国は、続いてイタリアを窺って、イタリア戦争を引き起こした。だが、このことは、イタリア諸公の反感を買ったのみならず、イタリア国王にして、ローマ・カトリックの擁護者を自認する神聖ローマ皇帝即ちハプスブルク家との激突をも意味した。更に、同君連合を通じて、南イタリアを領有していたカスティーリャ王国の懸念も起こしたため、カスティーリャ王国(後のスペイン王国)と、神聖ローマ帝国は急激に接近していく。
皇帝マクシミリアン1世が死ぬと、国王フランソワ1世は皇帝選挙に立候補したがマクシミリアン1世の後を継いだカール5世に敗北した。カスティーリャ王国女王の息子でもあった、カール5世はスペイン国王カルロス1世でもあったため、フランス王国は挟撃されることとなり、一時は国王が囚われの身ともなる。反ハプスブルクとして、異端である神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸侯や異教徒であるオスマン帝国とも結んだが、最終的にイタリアは放棄せざるを得なかった。
この頃、欧州では、宗教改革の嵐が吹き荒れており、フランスもその例外ではなかった。イタリア戦争中から、続いていた王国の内乱、ユグノー戦争は、新教対旧教、貴族対貴族、更にはイングランド対スペインの代理戦争ともなって、王国を疲弊させた。更に、この混乱の帰結として、ヴァロア朝が断絶。ナヴァラ王家であったブルボン朝が立つ。良王アンリ4世はナントの勅令で国家の統合をしようしたが、1610年に暗殺されルイ13世に変わる。
1618年に勃発した三十年戦争では、当初は内乱の影響から反ハプスブルク同盟への援助は資金提供のみに止めていたが、王国内の混乱が収まると、リシュリュー卿の指示の元、「ハプスブルク家の弱体化」と「ルイ13世を神聖ローマ皇帝にすること」を目的として戦争に介入した。この結果、劣勢だった新教側は見事に息を吹き返し、最終的にウェストファリアで勝利者として条約に記名することとなる。更に、同時に進んでいた西仏戦争では、スペイン軍を打ち負かして、ピレネー条約を結び、ブルボン家のハプスブルク家に対する優越と西欧の軍事的なイニシアチヴを得た。一方で、ルイ13世が戦争中に死亡しており、神聖ローマ皇帝位を奪取するという野望は達成されなかった。
ルイ13世の子、ルイ14世の時代にはフランス王国は絶対王政を確立し、全盛期を迎える。たびたびの拡張戦争で神聖ローマ帝国の脅威となるが、こうした拡張政策は周辺国の脅威を呼び、フランスに対する包囲網をくませる事となり、同盟戦争では事実上の敗退を喫する。スペイン継承戦争では、スペインの玉座にブルボン家の人間を送り込むことに成功したが、スペイン王国はそれが持っていた低地地方やナポリ、シチリア、サルディーニャといったイタリア地方をオーストリアに割譲せざるを得ず、欧州におけるその影響力を大きく落とした。フランス王国自体も、ニューファンドランドやハドソン湾沿岸をイギリスに割譲することとなった。
続くルイ15世もオーストリア継承戦争、七年戦争といった戦争を行った結果、長年の戦争によって、国家財政は赤字になった。こうした放漫財政とバブル崩壊の補填を課税で行った。然し、こうした課税は事実上平民に対するもので、貴族や宗教者は税逃れも含め様々な特権を持っており、こういった不公平感に対する不満が平民に蓄積していった。更に、並行して行われた北米、インド亜大陸での戦争で英国に負けた結果、王国は海外植民地も失った。
ルイ16世は更にアメリカ独立戦争にも介入した。この結果として、フランス王国はイギリスに対して復讐を果たせたものの、望んでいた貿易の拡大や領土の大幅な拡大はならなかった。むしろ、13億リーブルという巨大な負債が、それまであった33億リーブルの上にのしかかった。王国の歳入の半分が負債の返済に充てられており、財政は最早破綻寸前となった。しかし、平民に対する課税はとうに限界に達しており、これに代わる収入を得る必要があった。
フランス王国の財政再建のため、平民に対する課税にかわって、特権階級に対する課税を求めて三部会を招集。ところが、議決方法を決定する段階から議会は紛糾した。この頃、アイスランドのラキ火山噴火によってヨーロッパ全体が不作に陥っており、フランスも食料事情の悪化と、小麦やパンの値段の上昇といった事が起こった。そして、ついに平民階級の鬱憤は爆発し、ヴァスティーユ襲撃を契機としてフランス革命が勃発。ルイ16世とその后マリー・アントワネットは処刑され、フランス王国は1792年に王政を廃止、第一共和政が成立した。
その後、執政政府を経て成立したフランス第一帝政がナポレオンの失脚によって崩壊すると、王政復古が為された。百日天下を過ぎて、王政が再度確立すると、ルイ18世やシャルル10世は反動的な政治を行った。だが、この結果ブルジョワジーの不満がたまり、七月革命が起こって、オルレアン朝が成立、ルイ=フィリップが国王となる。然し、ルイ=フィリップもブルジョワジーの支持のみで人口の大部分を占めるプロレタリアートの支持が無かったことで、二月革命が勃発し、第二共和政に移行。1848年、ついに800年以上にわたったフランスにおける王政はこれにより幕を閉じた。
前身 | 後身 | |
西フランク王国 | フランス王国 987~1792 |
フランス第一共和政 |
第一帝政 | フランス王国 1815~1848 |
フランス第二共和政 |
掲示板
6 ななしのよっしん
2019/10/28(月) 21:17:00 ID: L8DTtDa2K9
>>5
他の国で例えると「ルーシ」と「ロシア」みたいな関係かな?
7 ななしのよっしん
2020/05/28(木) 11:59:33 ID: MnhdjSDNUF
アンリ4世をいろんなところに追記してる人はなんでルイ14世はスルーするのだ?
8 ななしのよっしん
2023/03/28(火) 11:40:04 ID: mZ9nkAttoB
フランス人が語るフランス王国の歴史は平然とクローヴィス1世(初代メロヴィング朝フランク王)から数え始めてしまう
これは当然。自分達こそフランク王国の、シャルルマーニュの正当後継者であるというのはフランス人のアイデンティティ
フランク王国とフランス王国というのはあくまでも他国から見た区分なのですな
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最終更新:2024/04/23(火) 18:00
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