フランツ・ベッケンバウアー(Franz Anton Beckenbauer, 1945年9月11日 - 2024年1月7日)とは、ドイツの元サッカー選手、元サッカー指導者である。元サッカー西ドイツ代表。
通称は皇帝(独:Der Kaiser)。サッカー史にその名を残す名選手。
現役時代のポジションはDF、MF。181cm75kg。利き足は右足。
ドイツ・ミュンヘン出身。リベロという戦術、ポジションを確立したことで知られるディフェンダー。選手として監督としてFIFAワールドカップを制覇している。バロンドールを1972年と1976年の2回受賞。オランダのヨハン・クライフと共にペレが去った後のサッカー界のスーパースターとなった。
エレガントなプレーでチームを統率し、ユーティリティープレイヤーとしても見事なリーダーシップを発揮し、ピッチ上で味方の選手達を操る姿からーストリア皇帝フランツ1世になぞらえて「皇帝」と称された。ドイツサッカー史上最高の選手と評されており、サッカー史上最も偉大な選手の1人とみなされている。
1964年にバイエルン・ミュンヘンでプロとしてのキャリアをスタート。1972年からのブンデスリーガ3連覇、UEFAチャンピオンズカップ3連覇に貢献し、バイエルンの黄金時代を築くと共にチームをドイツを代表する強豪クラブへと押し上げた人物である。1983年にアメリカのニューヨーク・コスモスで引退。
西ドイツ代表には1965年に初選出。1966年、1970年、1974年のワールドカップに出場し、1974年の西ドイツ大会では優勝している。1972年ヨーロッパ選手権でも優勝。バイエルンと西ドイツ代表の両方で黄金期を築いている。
「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ。」
1974年のワールドカップ優勝時にはこの有名な名言を残している。
この大会では、ヨハン・クライフを擁するオランダが華麗かつ革新的なサッカーで旋風を巻き起こしており、そのオランダを手堅いサッカーで破り優勝した西ドイツには、今で言えば「空気読め」的な批判があった。ベッケンバウアーの発言は、そうした批判に対する反論である。
現役引退後の1984年から西ドイツ代表の監督に就任。1986年ワールドカップでは準優勝、1990年ワールドカップでは優勝を果たす。1994年にバイエルン・ミュンヘンの会長に就任。2006 FIFAワールドカップでは組織委員会会長を務めた。
第二次世界大戦が終結した1945年9月11日、ミュンヘン南東部にあるギーシングの労働階級の家庭の次男として生まれる。郵便局員だった父のフランツ・シニアは厳格な堅物でサッカー嫌いだったが、物心がついたころには4つ上の兄や近所の子供たちと一緒にストリートサッカーを興じるようになり、技術を磨くようになっていた。母のアントニーはそんな幼い頃のフランツ少年を優しく愛情をもって育てていた。
8歳となった1954年、彼の今後の運命を決定づける出来事が起きる。1954 FIFAワールドカップ スイス大会において西ドイツ代表が大方の予想を覆して初優勝を飾る。ちなみにこの頃の憧れの存在は当時の西ドイツ代表の主将だったフリッツ・ヴァルダーだった。「ベルンの奇跡」と呼ばれたこの出来事に感化されたフランツ少年は地元のSCミュンヘン1906の下部組織に入団し、本格的にサッカーを始める。
SCミュンヘン1960ではコーチだったフランツ・ノイデッカーからの指導によって基礎技術を学び、メキメキと上達していく。左右両足を自在に扱えたことから当時のポジションは左ウイングだったが、彼はウイングの役割だけに満足できず、試合中にポジションを離れてゴールを奪いに行ったり、最後尾まで下がって相手からボールを奪いに行ったりと自由に振る舞うようになる。当然チームメイトからは不満が出るようになるが、高い才能を見抜いたノイデッカーコーチはそんなベッケンバウアーのスタイルを支持し、思うようにプレーするように助言したという。その後、センターフォワードにコンバートされると天才的な得点力が開花するようになり、チームのエースストライカーとして活躍していた。
1958年になるとSCミュンヘン1906はクラブの財政事情によってアカデミーを廃止することを決める。この決定を知らされたベッケンバウアーは憧れのチームであったTSV1860ミュンヘンに移籍することを考えていた。そしてこの年の夏、チームの最後の活動としてミュンヘン近郊の街で開催された14歳以下の大会に出場し決勝まで進出。決勝の相手は憧れの1860ミュンヘンの下部組織だった。ところが、この試合でエースのベッケンバウアーのマークを務めた相手DFから挑発された挙句、ゴールを決めた直後に顔に平手打ちをされてしまう。結局試合に勝利し、優勝で有終の美を飾ることとなったが、酷い仕打ちを受けたことで1860ミュンヘンに対して憎しみの気持ちを抱くようになり、本拠地を同じくするライバルクラブのバイエルン・ミュンヘンへの入団を決意する。
14歳となった1959年、バイエルン・ミュンヘンの下部組織へと入団。このときベッケンバウアーに追随する形でSCミュンヘン1906の選手たちもバイエルンに入団したという。新天地でもCFとして1シーズンで100ゴールという驚異的な得点力を記録し、相変わらずの神童ぶりを発揮。また、1960年に14歳で中等教育機関を卒業すると、保険会社のアリアンツに見習社員として就職。サッカー選手との二足のわらじを履く日々となっていた。しかし、会社勤めは不向きであったらしく、退屈さや窮屈さを感じていた。
18歳となった1963年にはバイエルン州選抜や西ドイツユース代表に選出されるようになる。だが、この頃のベッケンバウアーは公私ともに素行が悪く、サッカーが疎かになりかけていた。ついには、なんと18歳ながら恋人を妊娠させてしまい、未婚で子供を育てることになる。事態を重く見た西ドイツサッカー協会はベッケンバウアーをユース代表から追放するが、ここで関係者を説得するために奔走してまでベッケンバウアーを代表に迎え入れたのがユース代表の監督であり、後に「日本サッカーの父」と呼ばれることで知られるデットマール・クラマーだった。自ら教育係を引き受けたクラマーの公私両面の指導によって選手としても人間としても大きく成長するのだった。
1964年、会長のヴィルヘルム・ノイテッガーの推薦もあってトップチームに昇格し、バイエルン・ミュンヘンとプロ契約を締結する。しかしトップチームに昇格したばかりのベッケンバウアーは技術や戦術眼は優れていたが、体が細かったため当時の監督だったズラトコ・チャイコフスキーから「君はファイターではない。まるで生クリームのようだ」と指摘され、フィジカルを向上させるためのトレーニングを厳命される。過酷なトレーニングによって肉体改造に成功すると、1964年6月6日の1963-64シーズンブンデスリーガ昇格ラウンド第3節のFCザンクト・パウリ戦でトップチームデビューを果たすと、左ウイングのスタメンとして勝利に貢献する。
1964-65シーズンレギオナルリーガ南部開幕戦のMTVインゴルシュタット戦でリーグ初得点を記録すると、その後はポジションをフォワードから中盤に下げ、レギュラーに定着。当時のバイエルンは中堅以下のクラブに過ぎなかったが、チャイコフスキー監督はベッケンバウアーの他にもゼップ・マイヤーやゲルト・ミュラーといった10代の若手を育成して抜擢し、後のバイエルン黄金期の礎を築いていた。実質1年目のシーズンながら16ゴールを記録し、バイエルンはリーグ優勝を果たし、待望だったブンデスリーガ昇格を果たすのだった。
ブンデスリーガでの初めてのシーズンとなった1965-66シーズン、プレースタイルをより後方でゲームメイクを担う役割に変貌させていき、チーム全体をオーガナイズムするプレイヤーへとシフトするようになっていた。初昇格ながらもバイエルンはブンデスリーガで3位という成績を残し、DFBポカールでは優勝。1966-67シーズンにはDFBポカールを連覇すると、UEFAカップウィナーズカップでは決勝でレンジャーズを破り、初の欧州タイトルまで獲得する。
1968-69シーズン、恩師だったチャイコフスキー監督が退任し、後任にブランコ・ゼベツが就任。この年からチームのキャプテンに任命されたベッケンバウアーは本格的にセンターバックへとコンバートされるようになり、従来のスイーパーとは異なる「リベロ」という役割を確立するようになる。ベッケンバウアーが最後尾からチームを統率することで攻撃的なスタイルと強固な守備の両方が成立するようになり、バイエルンは昇格から4年目でブンデスリーガ初優勝を果たす。さらにDFBポカールも制覇し、国内二冠を達成。いよいよバイエルン黄金期が始まるのだった。この頃から「皇帝(カイザー)」という称号が定着するようになり、ベッケンバウアーの貢献度の高さからファンからはバイエルンミュンヘンの事を「FCベッケンバウアー」、イギリスのサッカージャーナリストからは「ベッケンバウアー株式会社」と呼ばれるようになるのだった。
1970年代に入ってからのバイエルンはヘネス・バイスバイラー監督率いるボルシアMGと国内タイトルを争うようになる。ベッケンバウアー擁するバイエルンは、ギュンター・ネッツァーやベルティ・フォクツらといった選手を擁して攻撃的なサッカースタイルを標榜し、1971-72シーズンにはバイエルンを二度目のブンデスリーガ優勝へと導く。また、この年のUEFA欧州選手権を制したこともあり、初のバロンドールを受賞。名実共に皇帝が欧州のトップに君臨したシーズンとなった。その後、1972-73シーズン、1973-74シーズンのリーグ戦も制し、ブンデスリーガ三連覇という偉業を成し遂げる。
1972-73シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは準々決勝で当時トータルフットボールで欧州を席巻していたヨハン・クライフ擁するアヤックス・アムステルダムの前に敗退。しかし1973-74シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは1回戦から準決勝までを驚異の攻撃力で勝ち上がると、決勝ではアトレティコ・マドリード相手に再試合までもつれ込みながら勝利し、初のビッグイヤーを獲得。さらにこの年はブンデスリーガとの二冠を達成している。
1974-75シーズンは自国開催のワールドカップの疲労が蓄積していたこともあり、ブンデスリーガでは10位と低迷。1975年に入ってからかつてキャリアを大きく左右した存在と言える恩師のデットマール・クラマーがバイエルンの監督に就任。チャンピオンズカップではドイツ国内での不振とは裏腹に勝ち上がっていくと、決勝でリーズ・ユナイテッドを破り、2年連続でビッグイヤーを掲げることになる。
1975-76シーズンには30歳となりベテランといえるキャリアに差し掛かっていたが、チーム内での圧倒的な存在感はなおも絶大だった。チャンピオンズカップでは準々決勝で国内最大のライバルであるボルシアMG、準決勝で名門レアル・マドリードとの激闘を制して3年連続で決勝へ進出。決勝でもASサンティエンヌを完封し、バイエルンはチャンピオンズカップ三連覇を達成する。また、出場辞退や開催中止によって初出場となったインターコンチネンタルカップでもクルゼイロを下し、初のクラブ世界一の栄冠を勝ち取る。これらの活躍が評価され、1976年に自身二度目となるバロンドールを獲得。ちなみに現在に至るまでDFで二度バロンドールを獲得したのはベッケンバウアーのみである。
1977年1月、収入の一部をスイスの銀行に預金していたことが所得隠しであったとして問題となり、税務署の家宅捜査を受けることになる。この問題は西ドイツの連邦議会でも取り上げられ、マスコミからは連日のようにゴシップ報道、パッシング報道が行われるようになる。これらの騒動をきっかけに1976-77シーズンを最後にバイエルンを退団し、母国を離れることを決意する。彼の登場によってバイエルンがドイツを代表するビッグクラブへと成長したといっても過言ではないくらいの偉業を成し遂げていた。
1977年5月、新たな挑戦を求めて王様ペレが在籍していた北米サッカーリーグ(NASL)のニューヨーク・コスモスに移籍する。アメリカではリベロではなく中盤としてプレーし、この年に現役引退を表明していたペレの後のスター選手として期待通りの働きを見せる。結局ペレとの夢の共演はこの1年目のみのものとなったが、チームを二度目の北米選手権優勝へと導き、選手投票によるリーグMVPに選出される。
ペレが去った後の1978年は自身のキャリアでは13年ぶり2度目となるシーズン二桁得点を達成。チームをリーグ連覇へと導く。一方でアメリカの競技場の人工芝の堅いピッチは柔らかい天然芝のピッチに馴染んでいたベッケンバウアーの肉体を徐々に蝕んでおり、1979年は怪我によってシーズンの大半を欠場することになる。それでも1980年にはリーグのタイトルを奪還。この年でアメリカの地を離れ、再びドイツへと舞い戻るのだった。
1980年11月、ドイツ・ブンデスリーガのハンブルガーSVへ移籍。リーグ戦の出場は18試合だったが、35歳となりキャリアの終盤を迎えても往年のテクニックは健在だった。しかし、アメリカで受けた体へのダメージは深刻となっており、1981-82シーズンはアキレス腱断裂などの度重なる怪我に苦しむことになる。当時絶頂期にあったクラブはブンデスリーガ優勝を成し遂げるが、試合への出場はわずか10試合に留まり、ここでトップレベルでのプレーが出来ないと判断し退団を決意する。
1982年7月1日、ハンブルクのフォルクスパルクシュタディオンで行われた西ドイツ代表対ハンブルガーSVによる「ベッケンバウアー感謝試合」では前半は西ドイツ代表、後半はハンブルガーの選手としてプレー。試合は4-2で西ドイツが勝利を収めベッケンバウアーはドイツのファンに別れを告げる。また、この試合に先立ち西ドイツサッカー連盟のヘルマン・ノイベルガー会長から代表チーム名誉キャプテンの称号が贈られる。
半年間の空白の期間を経て、1983年にニューヨーク・コスモスへ復帰。シーズン27試合に出場し、チームがリーグチャンピオンを逃した後に38歳で現役を引退。
初めて西ドイツ代表に招集されたのは20歳になったばかりの1965年9月だった。9月26日、1966 FIFAワールドカップ欧州予選で本大会出場をかけた大一番となった敵地ストックホルムでのスウェーデン戦にヘルムート・シェーン監督にスタメンに抜擢され、代表デビューを果たす。この試合で西ドイツの勝利に貢献したことでシェーン監督の信頼を勝ち取り、レギュラーに定着する。
1966年3月23日、ロッテルダムでのオランダ代表との親善試合で代表での初ゴールを記録。この試合ではさらに1ゴールを決める2ゴールの活躍を見せている。
1966年7月、イングランドで開催された1966 FIFAワールドカップに出場。ワールドカップデビュー戦となったグループリーグ初戦のスイス戦で2ゴールを決める活躍を見せる。さらに準々決勝のウルグアイ戦では相手のラフプレーに苦しみながらも西ドイツの2点目を決める。さらに準決勝のソ連戦では名GKレフ・ヤシンから決勝ゴールを決める。決勝のイングランド戦では相手エースのボビー・チャールトンのマンマークを任され、チャールトンを見事に封じ込めてみせる。しかし、西ドイツは延長戦でのジェフ・ハーストの世紀の大誤審とも言われた疑惑のゴールによって敗れ、準優勝に終わる。初のワールドカップではチーム最年少の20歳ながら中盤の要として全試合にフル出場し、ゲームをコントロールすると共に4ゴールを奪うなど、存在感を見せ、大会のベストヤングプレイヤー賞を受賞。一方、決勝での役割について「チャールトンを封じることに囚われ、ベッケンバウアー本来の攻撃面を発揮する事が出来なかった。西ドイツの作戦ミスなのではないか」とシェーン監督の采配が批判を受ける。
ワールドカップ後、バイエルンのみならず西ドイツ代表もベッケンバウアーのチームと化していた。1968年6月1日にはハノーファーでイングランドとの再戦が実現すると、後半37分に決勝ゴールを決め、これまで一度も勝利することができなかったサッカーの母国を相手に歴史的な初白星を挙げる。
1970年6月、メキシコで開催された1970 FIFAワールドカップに出場。このときの西ドイツはウーヴェ・ゼーラーら前回大会の主力が多く残った中、バイエルンのチームメイトであるゼップ・マイヤーやゲルト・ミュラーといった新世代も台頭し、前評判の高いチームだった。グループリーグでは他チームとの差を見せつけ、順調に全勝で通過。準々決勝では前回の決勝で戦ったイングランドとの対戦が実現。ベッケンバウアーはシェーン監督が再びチャールトンのマークを任されたが、今回は攻撃参加が許される形となった。すると、0-2でビハインドを背負った後半23分に反撃の狼煙となる強烈なミドルシュートを決め、西ドイツの逆転勝利に大きく貢献する。準決勝のイタリア戦では追いつ追われつの激しい攻防が繰り広げられる激闘となり、延長戦の末に3-4で競り負けたものの、後に「アステカの死闘」と呼ばれるワールドカップ史に残る名勝負となった。さらにこの試合でベッケンバウアーはこの試合途中に右肩を脱臼したが交代枠が残っていなかったため、右肩から右腕をテーピングで固定した状態でプレーし続け、勝利への執念を見せた。このときのベッケンバウアーの傷つきながらも鬼気迫る表情で戦い続けた姿もまた伝説の試合の語り草となった。この負傷によって3位決定戦は欠場となったが、西ドイツはウルグアイに勝利し、3位で大会を終える。
1971年4月25日、トルコ戦において26歳で西ドイツ代表のキャプテンに就任。また所属クラブとは異なり代表チームでは中盤でプレーする機会が多かったが、この時期からリベロを主戦場としてプレーをするようになる。また、1970年ワールドカップ以降の西ドイツはベテラン勢の多くがチームを去り世代交代が図られ、ゲームメーカーのギュンター・ネッツァーが台頭したこともベッケンバウアーがリベロに専念できるようになった要因となっていた。
1972年6月、ベルギーで開催されたUEFA欧州選手権1972に出場。前回大会は予選で敗退していた西ドイツだったが、この大会ではリベロのベッケンバウアーと中盤のネッツァーが交互にポジションチェンジをおこなうことでゲームメイクを担い、相手のマークを翻弄する新たな戦術を採用。これによって圧倒的な強さを見せた西ドイツは準々決勝でイングランド、準決勝で開催国のベルギーを破り、決勝ではソ連から3点を奪って圧勝。西ドイツの初の欧州制覇に大きく貢献し、自身にとって代表での初のビッグタイトルとなった。の時のリベロを務めるベッケンバウアーとゲームメーカーを務めるネッツァーのコンビネーションや流れるようなパスワーク、選手個々の身体能力とラテン系を彷彿とさせるテクニックを融合したサッカーを披露した事から「夢のチーム」と称えられ、当時のFIFA会長から、「西ドイツを脅かすチームは今のところどこにもない。ブラジルにはペレがいたが、西ドイツにはベッケンバウアー、ネッツァー、ミュラーの3人のペレがいる」と大絶賛を受けるほどだった。さらにこの大会での活躍が大きく評価され、1972年のバロンドールを受賞している。
1973年11月24日、シュトゥットガルトで行われたスペイン戦においてウーヴェ・ゼーラーの持つ西ドイツ代表通算最多出場記録(73試合)を更新。クラブでも代表でも多くのタイトルを勝ち取った彼にとって残されたタイトルはワールドカップのタイトルのみとなっていた。
1974年6月、自国開催となった1974 FIFAワールドカップが3度目のワールドカップとなっていた。ところが大会直前、ボーナスの問題を巡って選手と西ドイツサッカー協会が対立してしまい、大会をボイコットしようとした選手も出る事態にまで発展していた。この事態にキャプテンのベッケンバウアーは選手代表として協会との交渉に赴き、何とか開幕前に問題をクリアにこぎつける。
1次リーグでは初戦のチリ戦、第2戦のオーストラリア戦に勝利。ところが、第3戦では地元開催のプレッシャーから選手の動きが悪く、東ドイツに敗れてしまう。すでに2次リーグ進出は決めていたものの、当時は東西冷戦の真っただ中ということもあり、この敗戦のショックは大きかった。特に監督のシェーンは東から西へ亡命した過去があることからショックで自室にこもってしまうほどだった。この非常事態にチームを立て直すべくベッケンバウアーはリーダーシップを発揮し、シェーン監督との二頭体制でチームの修正を図ると、調子の上がらないネッツァーに代わってヴォルフガング・オヴェラートを中盤の核とすることや、ベルント・ヘルツェンバインやライナー・ボンホフの起用を進言する。もはや西ドイツの皇帝は一選手の範疇を超えたものとなっており、バイエルンでもチームメートだったパウル・ブライトナーに「フランツは影の監督などではない。真の監督である」と言わしめるほどだった。
シェーン監督がベッケンバウアーの進言を受け入れたことで事実上チームの指揮権がベッケンバウアーに移った西ドイツは2次リーグになって息を吹き返し、ユーゴスラビア、スウェーデン、ポーランドを相手に3連勝を飾り、2大会ぶりの決勝進出を果たす。
決勝の相手は「トータルフットボール」という革命的な戦術によって勝ち上がってきたヨハン・クライフを擁するオランダであり、ベッケンバウアーにとっては1年前のチャンピオンズカップ準々決勝でクライフのアヤックスに敗れたリベンジ戦でもあった。開始早々にオランダに先制されたものの、ベッケンバウアーは抜群のリーダーシップでチームメイトを鼓舞し、その後はDFラインを統率しながら徹底したマンマークでクライフを封じ込め、トータルフットボールを機能不全に陥らせる。そして西ドイツはミュラーのゴールによって前半のうちに逆転し、そのまま逃げ切りに成功。西ドイツは2度目のワールドカップ優勝を果たし、ベッケンバウアーはキャプテンとして2代目のワールドカップトロフィを掲げる最高の栄誉を手にするのだった。これでベッケンバウアーは獲得できる全てのタイトルを勝ち取ることとなった。この優勝時にベッケンバウアーが残した言葉がかの有名な「強い者が勝つのではない、勝った者が強いのだ」である。
もっともこの年のバロンドールを獲得したのはクライフであり、これには「私はこれ以上、何をすればいいのか」と嘆くしかなかった。
1976年6月にはユーゴスラビアで開催されたUEFA欧州選手権1976に出場。多くのワールドカップ優勝メンバーを揃えた西ドイツは準決勝で開催国のユーゴスラビアを下して2大会連続の決勝進出を果たす。西ドイツの連覇は堅いと見られていたが、決勝でチェコスロバキアと対戦。この試合でベッケンバウアーは西ドイツ代表選手として初の100試合出場を達成していた。ところが、ダークホースと見られたチェコスロバキアに予想外の苦戦を強いられ、試合終了間際に同点に追いついたものの、PK戦でウリ・ヘーネスが失敗したことで敗戦。準優勝に終わる。
この1年後の1977年、ニューヨーク・コスモスへの移籍を機に代表を退くことを決意する。最後の試合となったのは1977年2月23日のフランス戦となった。国際Aマッチ103試合に出場し14得点を記録し、代表通算出場記録は後にローター・マテウスによって塗り替えられるまで、ドイツ歴代最多記録だった。
なお、1978 FIFAワールドカップでも代表招集の話が持ち上がったが、所属するニューヨーク・コスモスとサッカー協会の話し合いがまとまらず、代表復帰は実現しなかった。また、1982 FIFAワールドカップの際にも復帰話は浮上したが、度重なる怪我によって実現はしなかった。
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1963-64 | バイエルン・ミュンヘン | レギオナルリーガ | 0 | 0 | |
| 1964-65 | バイエルン・ミュンヘン | レギオナルリーガ | 31 | 16 | |
| 1965-66 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 4 | |
| 1966-67 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 0 | |
| 1967-68 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 28 | 4 | |
| 1968-69 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 2 | |
| 1969-70 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 6 | |
| 1970-71 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 3 | |
| 1971-72 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 6 | |
| 1972-73 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 6 | |
| 1973-74 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 4 | |
| 1974-75 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 1 | |
| 1975-76 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 34 | 5 | |
| 1976-77 | バイエルン・ミュンヘン | ブンデスリーガ | 33 | 3 | |
| 1977 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 21 | 5 | |
| 1978 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 33 | 10 | |
| 1979 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 18 | 1 | |
| 1980 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 33 | 5 | |
| 1980-81 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 18 | 0 | |
| 1981-82 | ハンブルガーSV | ブンデスリーガ | 10 | 0 | |
| 1983 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 27 | 2 |
現役引退から半年後の1984年7月14日、UEFA欧州選手権1984でグループリーグ敗退の責任を取って辞任したユップ・デアヴァル監督の後任として西ドイツ代表の監督に就任。もっとも当時は監督のライセンスを取得していなかったことから就任当初の肩書は「チームシェフ」だった。当時の西ドイツ代表は成績不振が続いて国民からの信頼は失墜しており、DFBとすれば抜群のカリスマ性を持つベッケンバウアーが頼みの綱といった状態だったが、本人は最初は監督就任に乗り気ではなく、火中の栗を拾った状態だった。
1984年9月12日のアルゼンチンとの親善試合が初采配となったが、この試合に敗戦。1985年をかけておこなわれた1986 FIFAワールドカップ欧州予選でも苦戦が続き、辛うじて本大会出場を決める状況にあった。
1986年6月にメキシコで開催された1986 FIFAワールドカップにおいても西ドイツはエースのカール=ハインツ・ルンメニゲは負傷を抱え、ベッケンバウアーが代表復帰を要請したベルント・シュスターも折り合いがつかず、国内での前評判は非常に低かった。そのような厳しい台所事情から芸術家タイプの選手を排除し、労働者タイプの選手を重視した堅実なスタイルで戦うことを決意する。グループリーグではこの大会で旋風を起こしたデンマークに敗れ2位通過になるが、ローター・マテウスやルディ・フェラーを中心にチームはまとまりを見せ、不格好ながらも決勝まで進出。決勝では天才ディエゴ・マラドーナを擁したアルゼンチンに敗れたものの、準優勝という成果を出し、大会前の評判を考えれば上々の結果となった。
メキシコワールドカップ後、ルンメニゲらベテラン勢が代表を退き、マテウス、フェラー、アンドレアス・ブレーメらを中軸に置きつつ、ユルゲン・クリンスマン、トーマス・ヘスラー、ユルゲン・コーラーといった新たな世代を代表の主力に抜擢することで世代交代をおこなう。
1988年6月、地元開催となったUEFA欧州選手権1988では強豪揃いとなったグループAを2勝1分の首位で通過。しかし、準決勝ではマルコ・ファン・バステン、ルート・フリット、フランク・ライカールトの「オランダトリオ」を擁したオランダと接戦となったものの、最後はタレント力の差もあって敗れてしまう。
1990年6月にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップでは前回同様に欧州予選で苦戦し2位での突破となったが、本大会になるとグループリーグを3連勝で突破。決勝トーナメント1回戦では2年前の欧州選手権で敗れたオランダを相手に2-1で勝利。準々決勝のチェコスロバキア戦、準決勝のイングランド戦を手堅く勝利すると、決勝の相手は前回と同じアルゼンチンとなった。ベッケンバウアー監督はマラドーナに対してギド・ブッフバルトにマンマークをさせることで試合から締め出し、終始試合の主導権を握る。守備的に戦うアルゼンチン相手に攻めあぐねたものの、後半40分にブレーメがPKを決め、西ドイツに3度目の優勝をもたらす。選手と監督の両方でワールドカップ優勝を成し遂げたのはブラジルのマリオ・ザガロに続いて史上2人目となる偉業となった。この大会では中盤の深い位置でゲームをコントロールしつつ機を見て前線へと攻め上がりスルーパスやミドルシュートを狙うマテウスを軸に地味ながらも攻守のバランスの取れたチームを作りあげ、選手に対して飴と鞭を使い分けるなどマネージメント面でもバランス感覚に長けていた。大会後、代表監督を勇退。
1990年8月、フランス・ディヴィジョン1のオリンピック・マルセイユのスポーツディレクターに就任。当時のマルセイユはベルナール・タピ会長の豊富な資金力によってスター選手を集め、黄金期に突入していた。ところが、就任から2週間後にジェラール・ジリ監督が辞任。1990-91シーズン途中の9月に監督に就任することになる。しかし、ベッケンバウアーはフランスとドイツのサッカー観の違い戸惑いを感じ、クラブに八百長の噂が飛び交っていたこともあって次第に情熱を失っていた。結局、1991年1月になって監督の座をレイモン・ゲタルスに譲ってスポーツディレクターに復帰。シーズン終了後、わずか1年でマルセイユを退団する。
1991年11月、バイエルン・ミュンヘンの副会長に就任し、現役時代の1977年から14年ぶりに古巣に復帰する。当時のバイエルンは選手間のチーム内でのいざこざが絶えず、チームの雰囲気は空気は最悪となっておりしばらくリーグのタイトルから遠ざかっていた。そんなチームの状況を改善するためクラブ最大の功労者であるカリスマに白羽の矢が立つこととなった。
1993年12月28日、エーリッヒ・リビック監督の辞任を受け、代理監督に就任。就任後、規律の乱れていたチームを厳格な指導によって引き締めることに成功。特にチーム内で絶大な力を持っていたマテウスと綿密な関係を築けたことが大きかった。皇帝がベンチに座ったことでまとまりを見せたチームは3シーズンぶり13回目の優勝を成し遂げる。
1993-94シーズン終了後、バイエルンの会長に就任。これにより現場に戻ることはないと見られていたが、その後のバイエルンはマテウスとクリンスマンの対立を中心にスター選手のゴシップ記事が乱立したことから「FCハリウッド」と揶揄されるようになっていた。そんな中、1996年4月29日に辞任したオットマー・レーハーゲル監督の後任として監督代理として再び現場に復帰。今回はわずか2か月の指揮となったが、1995-96シーズンのUEFAカップ優勝を果たしている。これが生涯で最後の監督業となった。
1996年7月よりバイエルン・ミュンヘンの会長に復帰。後任監督として一度は失敗したジョヴァンニ・トラッパトーニを選任する驚きの人事を見せるが、1996-97シーズンのブンデスリーガ優勝を成し遂げている。2000年代に入ると我の強かったベテラン勢を次々と放出し、規律を重視するオットマー・ヒッツフェルト監督を招聘。2000-01シーズンにはクラブの歴史上初となる三冠(トリブル)を成し遂げ、その後はブンデスリーガの盟主の座に君臨し続ける。
1998年にはバイエルンの会長と兼任する形でドイツサッカー連盟(DFB)の副会長に就任。そして就任後の大きなミッションだった2006年のFIFAワールドカップを地元ドイツに誘致することに成功する。
2000年には2006 FIFAワールドカップ組織委員会委員長に就任。古くなったものが多かったドイツ国内のサッカースタジアムを一新させ、高騰していた大会のチケットを買いやすい値段に設定させ、さらにはホテルや交通機関のインフラ面の整備にまで着手。献身的な働きにより、2006年ドイツワールドカップ本大会は成功を収めるのだった。
2006 FIFAワールドカップ終了後の2007年7月よりFIFAの理事に就任。
2009年11月27日、13年間在任していたバイエルン・ミュンヘンの会長を退くことを表明し、名誉会長に就任。後任の会長にはゼネラルマネージャーであり、バイエルンと西ドイツ代表で数々の栄誉を共にしたウリ・ヘーネスが就任。また、同時にクラブの名誉キャプテンにも任命される。
2010年3月にFIFA理事を退任。「これからは家族と一緒の時間を大事にしたい」と全ての公務から退くことを表明し、事実上の隠居生活に入る。
2015年10月、2006 FIFAワールドカップ誘致の際に多額の贈賄工作が行われたことが露見し、ベッケンバウアー本人とその代理人が深く関わっていた疑惑が浮上。横領、背任、マネーロンダリングの疑いにより、スイス司法当局によって自宅の家宅捜索も行われ起訴され、バイエルンでは彼の話題がタブーになるなど偉大なキャリアの評判は晩年になって一気に地に落ちることになる。もっとも、この問題はコロナ禍や自身の健康問題によってうやむやとなり、2020年に時効となっている。
2016年と2017年に心臓手術を受け、2018年には人工股関節を移植。
2024年1月7日、オーストリア・ザルツブルクにて家族に看取られながら死去。享年78歳。
1月19日、バイエルン・ミュンヘンのホームスタジアムであるアリアンツ・アレーナにおいて追悼式典が盛大に執り行われる。式典にはFIFAのジャンニ・インファンティーノ会長やドイツのオラフ・ショルツ首相、フランク・ヴァルター=シュタインマイヤー大統領が参列。
2024年12月8日、バイエルン・ミュンヘンはベッケンバウアーが現役時代に着用していた背番号5番を永久欠番にすると発表。同月24日、ドイツサッカーリーグ機構(DFL)は敬意を表し、2025-26シーズンよりDFLスーパーカップの名称にの名称がフランツ・ベッケンバウアー・スーパーカップとなることを発表。
リベロとしてのポジションの始まりはバイエルンの下部組織にいた頃だと言われている。ユースの試合で味方のセンターバックが負傷したことで急きょCBを務めることになり、2人のCBの間に入ってカバーリングを専門におこなうスイーパーの役割となった。
不慣れなポジションでも抜群のサッカーセンスによって簡単にこなしてしまい相手の攻撃を防ぎ切ったが、試合が進むにつれて守備専門の役割に飽きてしまったベッケンバウアーはボールを持つとドリブルで前進し、周りにパスを送ってゲームメイクをし、さらには攻め上がってシュートまで狙うようになる。
当時のサッカーは攻守分業制が主流であり、DFが自分の持ち場を離れて大胆に攻め上がるのは異例であった。最初のうちは監督もベッケンバウアーを咎めたというが、彼の攻め上がりから多くのゴールが生まれ、チームが勝利して結果が出たことで自由に振る舞うことを認めたという。
ベッケンバウアー本人は従来の「守備の保険」であるスイーパーと呼ばれることを拒否し、イタリア語で「自由な人」を意味するリベロを自称したのがリベロという役割の始まりだと伝えられている。
マンツーマンで守るDFの背後をカバーするスイーパーとしての役割をこなしつつ、攻撃時にはゲームを組み立て、そのまま前進してラストパスを出し、シュートまで決めてみせる。「ディフェンダーは守備の専門」という従来の概念を覆すこととなった。現代サッカーのイメージで語るのであれば、ビルドアップを担う存在として活躍した。
背筋をピンと伸ばした姿勢、優雅なボールコントロール、冷静沈着な判断力、そして右足のアウトサイドを使った長短の正確なパスが特徴で、その中でもアウトサイドキックでの前線へのパスが彼の代名詞となっていた。機動が読まれにくいうえ、右足でも左回転のパスを出すことができ、プレーメーカーとしてアウトサイドキックを中央とサイドに蹴り分け、味方に届けていた。戦術眼がずば抜けて高く、広い視野を持ち、どこにパスを出すべきか、どこに自分は動くべきなのかという判断に非常に優れていた。
DFでありながらスライディングタックルはあまりやらず、卓越した読みでパスをインターセプトし、シュートをブロックした。ボールを奪い返しに来るFWは華麗なターンで外し、味方を使いながら中盤へ進出、サイドへカーブやバックスピンのかかったロングパスを供給する。ただし、DFとしては特別身長が高いわけではなく、身体能力も特別高くはなかったため、体の強さで守るような守備は得意ではない。
エレガントなプレースタイルながらファイターとしての一面もあり、優れたリーダーシップとカリスマ性でチームをまとめあげ、チームメイトを意のままに操るような高い統率力の持ち主であった。
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掲示板
11 ななしのよっしん
2018/06/22(金) 00:27:10 ID: cx5diszSRh
哲学者サッカーの記事はここですか(難聴)
ベッケンバウアーが出たのはメンバーの知り合いだったとか何とか
初めて見た時は「どうしてこの人だけユニホーム?」と思ったのが懐かしい
12 ななしのよっしん
2024/01/09(火) 06:02:51 ID: cyRG88A9h3
7日に亡くなられたそうな
https://
13 ななしのよっしん
2024/01/09(火) 20:48:21 ID: eQOBl2QH0R
また一人、サッカー界の巨星がこの世を去ったな
先週マリオ・ザガロが他界して、歴史上3人しかいない選手と監督両方でワールドカップ優勝を達成した人物が立て続けに亡くなったのは何の因果か
Ruhe in Frieden.
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最終更新:2026/08/15(土) 10:00
最終更新:2026/08/15(土) 10:00
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