フリードリヒ2世(プロイセン) 単語

フリードリヒニセイ

6.1千文字の記事

フリードリヒ2世とは、現在ドイツの基礎の一つとなったプロイセン王国国王である。

前の世に同じくフリードリヒ2世と呼ばれた神聖ローマ帝国皇帝がいたが、そちらについてはフリードリヒ2世(神聖ローマ帝国)の記事を参照。

なお、キーワードタグ検索においては曖昧さ回避記事のフリードリヒ2世の記事があるため、そちらにいっての検索を推奨する。

概要

フリードリヒ2世Friedrich II. , 1712-1786. 在位1740-1786)は、第3代プロイセン王である。

別名「フリードリヒ大王(フリードリヒ・デア・グローセ)」

は「偉大なる内政王」「兵隊王」と呼ばれる第2代プロイセンフリードリヒ・ヴィルヘルム1世
オーストリア継承戦争七年戦争勝利し、さらにポーランド分割によって、辺の一小国であったプロイセン王国の地位を列強(末席とはいえ)に押し上げた。

彼本人は芸術家肌の典的な啓専制君で、多くの功績により同時代の人々からも「大王」とあだ名された。またフランス哲学ヴォルテールと友誼を交わしたことでも有名である。ベルリン郊外のポツダムにサンスーシ宮殿というロココ式離宮を作り、そこで学者芸術家との交遊を楽しんだ。自らもフルート演奏していたという。敵国の君にすら信奉者がおり、たびたび窮地から救われた。飢餓対策としてドイツじゃがいもを広めたことでも知られる。

フリードリヒ大王

フリードリヒ大王はヨーロッパのみならず世界で広く英雄として崇拝され、明治日本でもその業績はよく知られていたほどである。

さて、若い頃のフリードリヒ戦争嫌いの平和主義者であった。彼が青年の頃に著した『反マキャベリ論』では弱肉強食ヨーロッパ世界批判しており、軍事訓練よりも音楽に触れている方が好きな線の細い人物であった。王は息子のそんな気質が気に入らず、厳しい体罰も含むスパルタ教育を彼に施した。父親暴力に耐えきれずある日フリードリヒ友人と共に亡命を企てるが失敗し、友人は彼のの前で処刑。フリードリヒ自身も殺される寸前という始末であった。

しかしそんなフリードリヒが、王の後を襲ってプロイセンを継いだ途端に侵略戦争を始めるのだった。その変ぶりにはヨーロッパの多くの人が驚いた。

彼が挑んだオーストリアハプスブルク帝国は大といえど、政治軍事も知らず、皇族でありながら政略婚約を蹴って恋愛結婚した初心なマリア・テレジア(当時23歳)が即位したばかりで隙があった。元々オーストリア戦争でなく婚姻政策で領土を拡大した(「幸いなるオーストリアよ、結婚せよ」)であり軍事力が圧倒的というわけでなく、むしろ力よりも柄を重んじたせいで宮廷には庸な人材しかっていなかった。

かたやプロイセンには王が育て上げた近代的な軍隊と豊かな財政(王は軍事好きだったが戦争は行わなかった)があり、勝算は十分である。彼の狙うシュレジエンの土地は産業が豊かで人口豊富。喉から手が出るほど美味しい獲物であった。

フリードリヒ大王は「オーストリアに男はいない」と侮りシュレジエンを急襲する。オーストリア宮廷は見事なフリードリヒの軍隊にが引け、シュレジエン割譲止むなしに傾いていた。そこで待ったをかけたのがお飾りの皇帝だったはずのマリア・テレジアその人である。フリードリヒの最大の誤算はマリア・テレジアの才覚を過小評価したことにある。フリードリヒ絶対許さないウーマンと化したマリア・テレジアはすぐさま反撃にでる。

マリア・テレジアカール6世は政治は夫のフランツが行えば良いと考えており、マリア・テレジアには帝王学をほとんど教えていなかった。しかし元は小国王子だったフランツは蓄財は得意だったが軍事や大を治める導力は欠けていた。フリードリヒはその間隙を突いたのだが、その夫に代わりマリア・テレジアハンガリーから援軍を得てフリードリヒっ向から撃退する構えを見せたのだ。後にフリードリヒは「オーストリアで初めて男を見たと思ったらそれは女だった」と語っている。

二度のシュレジエン戦争大王の名はこの戦いにおける々しい勝利によって、称されたものであった)を経てひとまずの平和が訪れたがマリア・テレジアにはプロイセンに勝ち逃げさせるつもりは一切なく、次々と内の軍事行政改革に取り組んでいった。ハンガリー市民徴兵を行ったり、格に関わりなく能力主義で優秀な人材を登用した。フリードリヒを屈させるために200年以上ライバル関係を続けていたフランスとも手を組むことも辞さなかった(外交革命)。万が一にもブルボンフランスハプスブルクが手を組むことはないと考えていたフリードリヒは驚き恐懼したが、「敬虔なカトリックテレジアフランス売春婦と手を結んだ」などと軽口をいていたようでもある。

男尊女卑義のフリードリヒ女性を小馬鹿にする発言を繰り返していたこともあり、マリア・テレジアは各の有力な貴婦人と手を重ねていく。オーストリアマリア・テレジア、宮廷を王ルイ15世のポンドゥール夫人、ロシアの女エリザヴェータ。ピチカート同盟とも言われるに囲まれてフリードリヒは不安を募らせた。なんと言ってもプロイセン小国。彼が死んだ時ですらプロイセンの人口はフランスの1/4にしかならなかったのである(と言っても当時のイギリスですら、フランスの1/3~1/2の人口しか持ってはいなかったが…)。

このような情勢下でフリードリヒ先手を打ってザクセンに侵攻し七年戦争が始まった。これはかつて彼がオーストリアから奪ったシュレジエンを今度はオーストリアから守るための戦争であった。シュレジエンを巡るフリードリヒマリア・テレジアの因縁は欧州とその植民地まで巻き込み、世紀の大戦争に発展していった。この戦争フリードリヒは勝ち抜き自身の名を確固たるものにする。強運に助けられたと言えど、本質的には彼のり強さがあったこそ、ギリギリのところでプロイセン王国生存に成功したと言える。

当時のフリードリヒオーストリアフランスロシアから袋叩きにされて、プロイセン王国は何度も絶体絶命の土壇場を迎えることになった。大王母親は博打で金を稼ぐこともあったようだが、大王もまたギャンブラー前線部隊を率いることを好み、負けが確定してもぎりぎりまで撤退を行おうとせず、大敗して命からがら戦場から逃げ帰ったことも一度や二度ではない。胸に弾が当たった際に、に入れていたタバコケースが弾をはじき返したという冗談のような話まで残っている。もうダメだと諦め自害を考えたこともある。遺書も何枚も書いた。首都ベルリンは二度も占領され、財政援助をしていたイギリスにもやがて見捨てられた。

いよいよプロイセン王国の命運も尽きるかという時勢にあって、恵とも言える奇跡が起きた。ロシアエリザヴェータが崩御したのである。跡を継いだピョートル3世がフリードリヒの崇拝者であり、プロイセン王国ロシアと講和を結ぶことに成功する。そしてオーストリアもこれ以上の戦争継続不可能なほど疲弊していた。その後もプロイセン王国闘を戦い抜き、その結果としてオーストリアシュレジエンの奪還を諦める形で講和条約を結ぶことになった。

大王の崇拝者

フリードリヒの活躍は同世代人や後世の君たちから賞賛され、偉大なるドイツ帝国の(時にその侵略の)シンボルとして扱われた。

このようにフリードリヒ大王はろくでもない連中錚々たるメンツからリスペクトされている。

マリア・テレジアとの関係

マリア・テレジアフリードリヒ2世は色々な点で対照的な存在である。

関連動画

関連項目


参考文献

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
紲星あかり[単語]

提供: 核砂糖入り紅茶

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/10(水) 00:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/09(火) 23:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP