ブリガディアジェラード 単語

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ブリガディアジェラード

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ブリガディアジェラード(Brigadier Gerard)は、1968年生まれ英イギリス競走馬

イギリス2000ギニーを筆頭にマイル戦で敗の強さを誇りながら中距離でも活躍し、デビューから15連勝を達成した、英国競馬史上屈の名である。
名はコナン・ドイル歴史小説「勇将ジェラールの冒険」の主人公ジェラール准将に由来する。アイスクリームではない。

通算成績18戦17勝[17-1-0-0]

な勝ち
1970年:シャンペンS(英)、ミドルパークS(英)
1971年:2000ギニーステークス(英G1)、チャンピオンステークス(英G1)、セントジェームズパレスS(英G2)、サセックスS(英G2)、グッドウッドマイル(英G2)、クイーンエリザベスII世S(英G2)
1972年:エクリプスステークス(英G1)、キングジョージVI世&クイーンエリザベスステークス(英G1)、チャンピオンステークス(英G1)、ロッキンジS(英G2)、プリンスオブウェールズS(英G2)、クイーンエリザベスII世S(英G2)、ウエストバリーS(英G3)

概要

血統

Queen's Hussar(クイーンズハザー)、La Paiva(ラペヴァ)、Prince Chevalier(プリンスシュヴァリエ)という血統。

クイーンズハザーは現在G1となっているサセックスSロッキンジSなどを筆頭にマイルで良績を残したで、ブリガディアジェラードが活躍した1972年英愛リーディングサイアーを獲得した。ただしブリガディアジェラードが生まれた時点ではメジャー種牡馬ではなく、ブリガディアジェラードが生まれる前年の種付け料は僅か200ギニー(210ポンド)であった。日本円に直すと70万くらいである。
1981年に21歳で他界するまでに輩出したステークスウィナーは14頭に過ぎなかったが、その中から*ウインドインハーヘアらの祖先にあたる名ハイクレアを輩出したことで後世に大きなを残している。

ラペヴァは競走でも繁殖でも大活躍を挙げた名プリティーポリーを4代に持つが、自身の競走成績は7戦未勝利に終わっている。プリンスシュヴァリエ現在でこそ衰退したが戦火に消えたベルギーの名プリンスローズの後継種牡馬として大活躍したのうちの1頭で、1960年フランスリーディングサイアーとなっている。

若駒時代

ブリガディアジェラードの生産者・馬主は、元アマチュア騎手で、当時は雑誌の編集長をしていたジョン・ヒスロップという男だった。この男は若い頃にプリティーポリーを管理したピーターギルピン調教師調教助手をしていたことがあり、プリティーポリーの子孫を所有したいとかねてから思っていたので、プリティーポリーの曾孫であるブレイズモリーという500ポンドで購入し、このプリンスシュヴァリエを交配したのだが、生まれたは7戦未勝利に終わった。

このこそがブリガディアジェラードのラペヴァであり、そしてこのラペヴァに近所の牧場にいたクイーンズハザーをつけて生まれたのがブリガディアジェラードである。すくすくと成長したブリガディアジェラードは体高170cm近くの較的大柄で均整の取れた体を持ち合わせており、気性面においても優れていたそうである。

後の大調教師となったディック・ハーン調教師の元に入厩し、2歳6月に全レースコンビを組むことになるジョー・マーサー騎手とのコンビデビューデビュー戦は既走相手ということもあり5頭立てのブービー人気だったが、最後方からごぼう抜きして5身差をつけるという手な勝ち方でデビューを飾った。

そして2戦を4身差、3戦を2身差で圧勝すると、イギリスの2歳王者決定戦の一つであるミドルパークS(現G1・6ハロン)に挑戦。本と同じく3戦敗のマミーペット、4戦3勝のスウィングイージー人気を譲ったが、レースではスローペースを見越してめに先頭に立ち、そのままなりでマミーペットに3身差をつけて圧勝。本競走と並ぶ重要な2歳戦であるデューハーストS(現G1)は回避し、2歳シーズンを4戦全勝で終了した。

ところが、ブリガディアジェラードは2歳フリーハンデ1位になれなかった。何となれば、この年の2歳にはブリガディアジェラード以外にもフランス要な2歳戦を総ナメにした*イスローと、6戦5勝でデューハーストSを制し、一の敗戦はマイスローに敗れたロベールパパン賞だけというミルリーフがおり、この2頭が不在だったミドルパークSはあまり評価を得られなかったのだ。
フリーハンデは*マイスロー133ポンド、ミルリーフ132ポンドで、ブリガディアジェラードはそれに続く131ポンドだった。ちなみに英タイムフォーム社の2歳レーティングでは4位だったが、レーティング自体はこの年に三冠を獲得したニジンスキーの2歳時より高かったことを付記しておく。

2000ギニー・3強激突

3歳になったブリガディアジェラードはぶっつけでクラシック第1戦・2000ギニー(約1609m)に出走。ここでは*マイスローミルリーフ、そしてブリガディアジェラードという2歳トップクラスたちの突が大きな話題を呼んだ。そしてそれに加えてニジンスキーの全*ミンスキーもいたので、今考えると眩暈がするようなメンバーが集まっていた。あまりの層の厚さに回避が続出したため、レースは6頭立てとなった。

評では共に前戦を楽勝していた*マイスローミルリーフ一騎打ちと見られ、ぶっつけのブリガディアジェラードは一段落ちると思われたのか、人気ミルリーフが単勝2.5倍、*マイスローが3倍でブリガディアジェラードより人気を集め、本は6.5倍の3番人気だった。

かしこレースで、ブリガディアジェラードの実イギリス中知らぬ者がいないようになる。

スタートが切られると*マイスローが大外から先手を取り、それを追って最内ミルリーフも先行。2頭は徐々に互いの方に寄り合いながら快調なスピードで後続を引っり、ブリガディアジェラードはミルリーフマークするように同の後方につける。そして残り3ハロンで加速したミルリーフがじわじわ*マイスローに並びかけ、さあ一騎打ちと見ていたもが拳を握り締めた、その直後のことだった。

ミルリーフの2身後ろでマーサー騎手がブリガディアジェラードにゴーサインを出した間、ブリガディアジェラードはビュンと音が聞こえそうな脚を繰り出して加速。残り2ハロンで前の2頭に並びかけると、そのまま並ぶ間もなく一気に突き抜け、そのままミルリーフとそれに食い下がる*マイスローを3身置き去りにして優勝してしまった。

観客は呆然と立ち尽くした。確かに*マイスローミルリーフは火の出るような叩き合いを演じていたし、ミルリーフに3/4身及ばなかった*マイスローにしても最後まで食い下がって、4着の*ミンスキーには5身差をつけていた。バテてなどいなかったはずである。
……すなわち、このレースのブリガディアジェラードの脚はどう考えても異常だったのである。実際、*マイスローフランキー・デュール騎手は「*マイスローミルリーフが共倒れになったわけではない」と断言しているし、ミルリーフや*ミンスキー上も「相手があまりにも強かった」「相手が強すぎて何も出来なかった」と口をえている。

3歳後半・マイル路線から中距離へ

ブリガディアジェラードはこのレースで一躍英国競馬界のスターになったのだが、馬主はブリガディアジェラードが長距離をこなせると思っていなかったため、二冠がかかるダービーは登録すらしていなかった。また調教師もブリガディアジェラードはマイラーだと考えていた。このため結局ダービーは回避し、ブリガディアジェラードは3歳限定のマイル重賞・セントジェームズパレスS(G2)へ向かった。単勝1.36倍の大本命で迎えたレース不良馬場に苦しみ、5身前を行く2000ギニー2着スパークラーに追いつけず、もうダメかと思われたものの、残り半ハロン地点から一気に末脚を炸裂させて猛然と追い込み、最後の一歩でアタマ差交わして辛勝した。

この後、馬主はブリガディアジェラードをジュライカップに向かわせ、同レースに出走予定だった*マイスローにぶつけるつもりだったのだが、結局ジュライカップへの出走は見送りとなり、このレースで2着となったのを最後に引退した*マイスローとは遂に二度と対戦することがかった。

閑話休題、最終的に選んだ次走のサセックスS(G1)では、プール・デッセ・デ・プーラン(2000ギニー)で1位入線ながら進路妨で3着降着となったものの、*マイスローに6身差をつけて重賞を勝ち勢いに乗っていたファラウェイサンなどの強敵を相手にまたも単勝1倍台に支持され、レース直前まで数日にわたって降り続いた大雨を物ともせず、逃げファラウェイサンに5身差をつけ圧勝した。

さらにグッドウッドマイルS(G2)では単勝1.17倍の圧倒的支持に応えてなりのまま2着に10身差をつけて逃げ勝ち、クイーンエリザベス2世S(G2)ではジャック・ル・マロワ賞を勝ってきた*ディクタスをこれまたなりで8身ちぎって圧勝。走るたびに強さを増すようなレースぶりは、勝つたびにファンを惹きつけていった。

そしてその強さに自信を得た営は初めてマイル以上の距離へのチャレンジを決め、10ハロンG1チャンピオンSに挑戦。初めての距離、出走取消を検討するほどの不良馬場、そして当時古マイル路線で無双していたウェルシュページェントの参戦など不安材料が多かったが、それでも単勝1.5倍の支持を受けた。レースでは残り2ハロン地点で先頭に躍り出たところをあわやというところまで追い詰められたが、最後は何とか短頭差りきって勝利し、年間6戦敗、デビューから10連勝でシーズンを終えた。

一方、ブリガディアジェラードに2000ギニーで敗れたミルリーフは、英ダービーエクリプスSキングジョージVI世&クイーンエリザベスS(以下「キングジョージ」)・凱旋門賞と中距離の大競走を連勝し、6戦5勝で3歳シーズンを終えていた。英国フリーハンデでは133ポンドを得たミルリーフが4ポンド差で1位だったのだが、タイムフォーム社のレーティングでは2頭がともに141ポンドで1位だった。1948年に始まった同社のレーティングの中で140ポンド以上を得たは当時6頭しかおらず[1]、1年で140ポンド台が2頭出たことはかったという事実が、この2頭のレベルの高さを物語っていると言えよう。

4歳初期・幻に終わった再戦と15連勝

現役を続行したブリガディアジェラードは始動戦として選んだ5月ロッキンジS(G2)を楽勝。7月エクリプスSを最大標とし、コース下見を兼ねて挑んだ同コースG3ウエストベリーSでは136ポンド(約61.7kg)という斤量を物ともせず、め先頭から押し切って勝利した。

続けて10ハロン戦のプリンスオブウェールズS(G2)に挑んだのだが、ここではレース2日前にマーサー騎手が小飛行機墜落事故に巻き込まれるというアクシデントが発生。マーサー騎手自身は軽傷で済んだものの操縦士は死亡。同乗者も重傷を負い、マーサー騎手は大きな精ショックを抱えてレースに臨むことになった。ところが蓋を開けてみるとブリガディアジェラードはマーサー騎手が何かするまでもなく「に任せとけ」と言わんばかりの快走を見せ、2着ティーパルスに5身差をつけレコードで快勝した。

こうなると、年明けにG1を2連勝して英ダービーからの連勝を6としていたミルリーフとの再戦が望まれるが大きくなるのは避けられなかった。そしてミルリーフにとっては連覇がかかるエクリプスSに同営が参戦を表明すると、いよいよ競馬ファンは快哉を叫んだ。おそらくファン同士で顔を合わせるなり「どっちが強いか」で熱くり合ったことだろう。

……ところがミルリーフは来なかった。実はミルリーフは前走の時点でウイルス性感染症を患っており、レース直前にそれがぶり返してしまったのだ。
そしてミルリーフ不在なら当然勝つと思われたブリガディアジェラードは単勝1.36倍の1番人気に支持され、重馬場に苦しみつつ何とか1身差で勝利。本と対照的に重馬場を苦にすることがなかったミルリーフがいたらどうなったかは分からないが、今となっては永遠のである。

この後、営はブリガディアジェラードをキングジョージに出走させた。これは調教素晴らしいパフォーマンスを見せていたことで営が可性を感じたかららしいのだが、芝12ハロンという未知の距離もさることながら、対戦相手もプリンスオブウェールズS2着後に愛ダービーを勝ったスティーパルス、3連勝中の2000ギニーヴァーマンダービー*ゲイルザックなど強敵がっており、当然一筋縄では行かないと思われた。
それでも単勝1倍台に支持されたこのレースでは中団から直線入り口で2番手に立ち、そのまま直線で前を行くを何とか差し切り優勝。直線途中で内によれて他とぶつかりそうになり、さらにそのを抜いた直後にもう一度よれて相手の進路を塞いだため13分間に及ぶ審議となったが、事にブリガディアジェラード優勝で確定した。快勝とは言い難かったが、それでもこの距離で勝ったことは彼の名を更に高めた。

初黒星、そしてファンの更なる落胆

ブリガディアジェラードはこれで15連勝となり、リボーの持つデビュー16連勝という記録にあと一つと迫っていた。もっと昔にはキンチェムとかいうチートもいたがそれはそれである。

その16連勝がかかる次戦は、この年から新設された8月G1ベンソン&ヘッジスゴールドカップ(現:インターナショナルS)となった。今度こそ対戦すると思われたミルリーフは脚に腫れが出たことと凱旋門賞2連覇へ向けた調整への専念のため回避し、代わって挑んできたのは米国産の英ダービーロベルトダービー2着でサンクルー大賞を勝った*ラインゴールドなどの4頭だった。しかしロベルト英ダービー上に関するトラブルを起こしていて人気がなかった上、前走の愛ダービーではもあり12着に敗退していた。その上愛ダービーを勝ったスティーパルスは先述の通り既にブリガディアジェラードに二度ボコボコにされていたので、ロベルトとそれにダービーで負けた*ラインゴールドはブリガディアジェラードに到底敵わないと思われ、ブリガディアジェラードは単勝1.33倍の圧倒的人気となった。

レースはそれまで差す競馬をしていたロベルトハイペース逃げで始まった。それを深追いするわけにもいかないブリガディアジェラードは付かず離れずの位置でマークし、直線に入っていよいよ逃げロベルトに外から並びかける。16連勝まであと少しと観客も沸き立ち、ブリガディアジェラードもその期待に応えるように一気に交わす勢いで伸びていたのだが……なんとロベルト二の脚でブリガディアジェラードを引き離しにかかる

死に物狂いで追うマーサー騎手の叱も虚しくロベルトとの差は縮まらず、遂にゴール前でマーサー騎手は勝負あったと諦めてしまい、ブリガディアジェラードはロベルトが2分71という世界レコード叩き出して逃げ切った3身後ろで2着に敗戦。アメリカ逃げ競馬に慣れているブラウリオ・バエザ騎手を呼び寄せ、スタミナに物を言わせた逃げを打って奇襲をかけたロベルト営の頭プレーの前に、連勝記録は遂に途絶えてしまった。

ただでさえ上をめぐるトラブルで余計に人気がなかったが、それも出し抜くような形で英雄を泥に塗れさせたということで、詰めかけた観衆は然呆然。勝ったロベルトは世紀の悪役とまで呼ばれるようになってしまった。
レース後のマーサー騎手コメントによれば、ブリガディアジェラードはこの時頭を下げて辛そうにしたり鼻水を垂らしたりで体調が相当悪かったそうだ。こう書くと勝てるレースを落としたように聞こえるが、ハンデはブリガディアジェラードの方が約5kg重かったし、何よりそんな体調でも3着には10身差をつけているので、これらの要因がなければ勝てたかというと少し断言しにくいところがある。

英雄ブリガディアジェラードの連勝は途切れたが、ファンにとっては更に残念なことに、このレースの2週間後、今度はミルリーフ調教中に予後不良に近いレベルの故障を発症。ミルリーフは治療を経て直ちに引退となり、20世紀のイギリスを代表する同世代の名の再戦は遂に実現することはなかった。悲報の連続に、競馬ファンは多大なる失望を余儀なくされることとなった。

意地を見せての引退

ともかく気を取り直して現役を続行したブリガディアジェラードは、まずクイーンエリザベス2世Sに出走。ここでは前年のセントジェームズパレスSで接戦を演じたスパークラーがいたが、全く問題にせず6身ちぎり捨てて圧勝し連覇達成。レースハイペースで進んでいたこともあり、勝ち時計1分399は前年のものより1.49も速く、レコードも1以上更新するほどの好時計だった。

凱旋門賞への挑戦も取り沙汰されたが、営は連覇がかかる10月14日チャンピオンSを次走とし、そしてこれを最後に引退することを発表。キングジョージ辱を期すリヴァーマンが参戦してきた中で単勝1.33倍の圧倒的人気に推されると、レースでは2番手から直線で勢いよく抜け出し、食らいついてきたリヴァーマンを1歩ずつ着実に引き離して、最後は1身半差で勝利英雄ラストラン当てに詰めかけた大観衆の拍手采を浴びながらターフを後にした。

この年、ブリガディアジェラードは史上初めて満票で英国年度代表馬に選ばれた。タイムフォーム社のレーティングでは、ミルリーフは前年と同じ141ポンドだったのに対し、ブリガディアジェラードは古のものとしては当時最高の数値である144ポンドの数値を与えられた。同社のレーティング140ポンドを2年連続でえたのは現在に至るまでこの2頭に3歳時143ポンド、4歳時に史上最高の147ポンドを叩き出したフランケルを加えた3頭だけであり、リボーですら達成できていない大偉業である。
その評価は時を経ても衰えを見せず、同社が選出した「世界の名100選」ではシーバードセクレタリアトに次ぐ3位ランクインしている。

通算成績は18戦17勝2着1回。勝ったレースのうち11戦がマイル以下だったが、中長距離でもキングジョージ優勝を含めて7戦6勝と、マイラーという一で済ませるにはスケールの大きすぎる戦績を残した。凄まじい末脚が持ち味だったが、出走するレースが少頭数になりがちだった[2]こともあってか、圧倒的な基礎スピードの違いを活かしてなりのまま前につけ(もしくは逃げ)た上で末脚に物を言わせて突き放すという競馬も多かった。日本で言えばマルゼンスキーが最も近いだろう。

また類の勝負根性が特徴で、苦しくてもを食いしばってり勝ってしまうようなところがあるであった。重馬場で苦戦はしても、それで敗れることがかったというのがそれを物語る。ほぼ同時期に活躍したニジンスキーカナダ生まれのアイルランド調教ミルリーフアメリカ生まれだったこともあってか、英国産・英国調教アイドルホースだったブリガディアジェラードの人気は凄まじいものがあったのだが、それにはこういった勝負根性がいわゆる「不屈のジョンブル」に訴えかけたというのがあるのかもしれない。

種牡馬として

総額100万ポンドのシンジケートが組まれて種牡馬入りしたブリガディアジェラードだったが、しかし種牡馬としてはセントレジャーの勝ちを出したもののいまいちパッとしなかった。スピードだっただけに意外にも思われるが、考えられる最大の理由として摘されているのは馬主の姿勢である。

というのは、としては元々素人であった馬主のヒスロップは、シンジケートを渡す相手を自分と気が合うかどうかで選び、相手の持っている繁殖牝馬の質を考慮していなかったのだという。その上、ヒスロップは産駒アメリカに輸出することも禁止してしまった。

こういったことによって活躍の芽が摘まれたのかは分からないが、ブリガディアジェラードは結局13世代でG12頭を含む25頭のステークスウィナーしか輩出することができず、ミルリーフロベルトべると泥の差という結果に終わった。日本で近年まで両べて知名度が低かったのは、そんな種牡馬としての実績の差が大きかったということも考えられる。

アルゼンチン種牡馬入りしたジェネラル産駒ロードアットウォーがアメリカで活躍し、種牡馬としても同で一定の成功を収めたものの、同産駒にはセン馬が多いため、あまり後継には恵まれていない。それに加えて期待を集めていた孫世代のジョッケクルブ賞セルティックアームズが骨折のために7歳で世したこともあり、ブリガディアジェラードの直系は結構な危機的状況にある。
ただしロードアットウォーは三冠馬アメリカンファラオパイオニアオブナイルや、色んな意味で有名な*ウォーエンブレムなどをとして出しているので、ブリガディアジェラードの血が全に絶滅する可性は今のところ少なそうである。

1985年に受精率の低下のため種牡馬引退したブリガディアジェラードは、その4年後の1989年10月29日に21歳で死亡サンダウン競馬場では彼の名を冠したブリガディアジェラードSが毎年行われている。

血統表

Queen's Hussar
1960 鹿毛
March Past
1950 黒鹿毛
Petition Fair Trial
Art Paper
Marcelette William of Valence
Permavon
Jojo
1950 芦毛
Vilmorin Gold Bridge
Brigadier Gerard
1968 鹿毛
Queen of the Meadows
Fairy Jane Fair Trial
Light Tackle
Prince Chevalier
1943 鹿毛
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Chevalerie Abbot's Speed
La Paiva
1956 栗毛
FNo.14-c
Kassala
Brazen Molly
1940 鹿毛
Horus Papyrus
Lady Peregrine
Molly Adare Phalaris
Molly Desmond
競走馬の4代血統表

クロスFair Trial 4×4(12.5%)、Fairway 5×5×5(9.38%)

主な産駒

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *前年に三冠を達成したニジンスキーですら138ポンド止まりだった。
  2. *ブリガディアジェラードが出走した全18戦のうち16戦は9頭立て以下、残る2戦も10頭立てだった。
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