ブルーショットガン 単語

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ブルーショットガン

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ブルーショットガン(Blue Shotgun)は、1999年生まれの日本競走馬(1999 - 2021)。鹿毛
2006年2月26日、この日限りで引退する松永幹夫騎手の最後の重賞騎乗となる阪急杯を11番人気から制し、引退を飾った事績で知られる。

68戦7勝[7-6-5-50]
な勝ち
2006年阪急杯(GⅢ)
※なお、当時は1000万下戦であったが、2002年キーンランドカップの勝ちでもある。

概要

サクラバクシンオーオギブルービーナススーパークリーク

サクラバクシンオー1993年1994年スプリンターズステークスを連覇。1400m以下では圧倒的な強さを誇り、現在に至るまで日本最強スプリンター論争ではロードカナロア双璧に挙げられる存在。種牡馬としても成功し、ショウナンカンプブランディスグランプリボスビッグアーサーと4頭のGⅠと、としては顕彰馬キタサンブラックなどを出している。

スーパークリーク1988年菊花賞1989年天皇賞(秋)1990年天皇賞(春)GⅠ3勝。オグリキャップイナリワンと共に1989年(平成元年)の古GⅠ戦線の中核を担った「平成三強」の一である。底したステイヤー狙いの配合ながら、クリーク自身はオグリを抑えて秋天を制するなど豊かなスピードも備えていた。
…が、種牡馬としては全く上手く行かなかった。直の産駒から重賞馬は生まれず、中央で5勝・地方で3勝を挙唯一獲得賞金1億超えを果たしたハギノハンターや、スイートピーステークス2着から1996の優駿牝馬(勝馬エアグルーヴ)に出走したハダシノメガミ目立つ程度。繁殖に入っ娘も非常に少なく(後述)、現状母父として出したこのブルーショットガンがスーパークリークの血を引く一の重賞である。

オギブルービーナスは現役時23戦2勝(スーパークリーク産駒の中では上位の成績である)。その3代ハギノトップレディハギノカムイオー姉弟イツトー。ダイイチルビーなどを輩出した、いわゆる「麗なる一族」と呼ばれる牝系の一員であり、この一族にゆかりの深い浦河町の荻牧場に生まれたである(「オギ」は同牧場の用いた冠名)。
牧場は、1990年代初めには生産ダイイチルビー馬主となったカリブソングの活躍など繁盛したが、拡大路線に失敗し急速に衰退、90年代半ばには倒産の憂きを見た。このため、オギブルービーナスも静内町(現:新ひだか町)の武牧場で繁殖に入ることとなった。

1999年5月2日、後のブルーショットガンはオギブルービーナスの初として武牧場に生を受けた。同じ牧場生産の後輩にはスリーロールスやマイネルラクリマなどがいる。武牧場の創業者・武勇は、武邦彦騎手調教師(武豊武幸四郎兄弟)の従弟であり[1]、また勇のの武調教師の武永祥も騎手調教師(その長男騎手のち調教師としてメイケイエールなどを管理する武英智)という兄弟である。
の生産したが預かるという形で、東・武厩舎に託されることとなった。

馬主は「荻レーシングクラブ」のちクラブ改組により「ブルーマネジメント」。同時期の活躍ブルーコンコルドがいる。YGGホースクラブの前身組織である。

戦歴

2~6歳:オープンまでの道のり

2001年7月7日函館競馬場新馬戦(芝1000m)で、武幸四郎の騎乗でデビューするも2着。ちなみに、長い現役生活の中で幸四郎に加えて武豊と武英智も騎乗しており、武牧場生産・武厩舎とあわせて武一家に縁の深いでもある。
連闘で臨んだ7月15日折り返し新馬戦[2](函館1200m)で勝ち上がりを決めた。さらに中1週で函館2歳S(GⅢ)に出走したが、13着のシンガリ負け。その後も2勝は挙げられず、2歳を5戦1勝で終えた。

3歳(2002年)500万下を抜けられなかったが、夏競馬に入った7月28日松永幹夫の騎乗で500万下戦(函館1200m)を勝利し2勝。続いて8月10日キーンランドカップ(札幌1200m、当時は1000万下戦)を逃げ切り、連勝で3勝には1600万下清水S(京都1400m)を武幸四郎騎乗で勝利し、一旦はオープンに昇格した。

4歳(2003年)、の降級で1600万下に舞い戻ったが、10月19日S(京都1400m)を松永幹夫騎乗で勝利。しかし、オープンまであと1勝が遠く[3]、この後約2年間1600万下に留まることとなる。

5歳(2004年)6歳(2005年)の大半を1600万下を勝ちきれない準オープンとして過ごしたが、6歳も終わろうかという2005年12月25日1600万下・六甲アイラドS(阪神1200m)を藤岡佑介騎乗で差し切り勝ち。晴れオープン入りを果たした。

阪急杯:松永幹夫の神に愛された1日

ようやくオープン入りしたブルーショットガンの7歳(2006年)初戦は1月14日距離S(OP、京都1200m)。中後団から直線で猛に追い込んだものの、不良馬場の中8着。(しかし「不良馬場で上がり最速」、これが2走後の阪急杯ヒントではあったのかもしれない。)
続くシルクロードS(GⅢ)は、出遅れもいて13着。

さて2006年2月26日阪急杯(GⅢ)(阪神1400m)。
この日を限りに、キョウエイマーチチアズグレイス桜花賞イソノルーブル優駿牝馬ファビラスラフイン秋華賞騎手牝馬三冠達成など「松永」の異名を取り、端正なマスクで「ミッキー」とのアイドル的な人気を誇った松永幹夫騎手は、38歳の働き盛りながらを置き調教師に転身することが決まっており、このレースのブルーショットガンが現役最後の重賞騎乗であった。

この2006年の第50回阪急杯には、直後に高松宮記念を制覇することになるオレハマッテルゼをはじめ、コスモサンビーム(朝日杯FS)・ウインクリューガー(NHKマイルC)と2頭のGⅠ、さらにローエングリンタマモホットプレイビッグプラネットなど重賞も複数と、GⅢとしては充実の出走っていた。
一方、ブルーショットガンは15頭中の11番人気(38.0倍)。馬場状態は不良で波乱の予感も、先日オープン入りしたばかりかつ、昇格後は2戦連続で掲示板外の7歳では、人気しないのも当然ではあるだろう。

59番から好スタートを切ったブルーショットガン。松永は先行集団内の後ろ、前を見ながら進められる6・7番手を確保して中を進んだ。前がしくやり合う展開で、逃げローエングリンは直線残り200mでついに捕まり、3番手にいた1番人気オレハマッテルゼゴールまでに十分差し切れる脚色。しかしその時、外から伸びてきたのがブルーショットガンである。前を一気に抜き去り、後方集団から飛んできたコスモシンドラー追い込みも半身残してゴール
このレースでは2003年の最優秀2歳であるコスモサンビームレース中に心不全を発して死亡するという悲しい事故もあったが、松永幹夫は最後の重賞を見事な手綱捌きで勝ち取ったのだった。
2着は3番人気コスモシンドラー、3着に1番人気オレハマッテルゼで、馬連21,170円、三連単214,560円の配当となった。

なお、松永は続く現役最後の騎乗となる阪神12R(4歳以上1000万下・ダ1800m)でも、1番人気フィールドルージュ(後の2008年川崎記念優勝)に騎乗して3身半差の快勝。松永はこの勝利でちょうどJRA通算1400勝を達成して有終の美を飾り、その後の引退式で松永は「今日1日は、自分の所に競馬神様が降りてきてくれたような気がします」と語った。

引退まで

晴れ重賞となったブルーショットガンは、2006年はその後函館スプリントS(GⅢ)でも3着に食い込む。だが、それが彼が馬券に絡んだ最後となった。

その後も短距離戦線で走り続けるものの、たまに掲示板に乗るのが精一杯となり、一度は障害競走へ転向したが勝ち上がれず地に復帰。10歳となった2009年1月距離S(OP)16着を最後に現役を退いた。

引退後

引退後は2010年2014年にかけて阪神競馬場誘導馬として勤務。その後は秋田市のあきた乗クラブに繋養され、同クラブ2021年8月12日に亡くなった(22歳)。

余談:スーパークリークの血を引く馬

概要」の通り、スーパークリーク産駒から重賞は出ず、系は繋がらなかった。
また、繁殖に入り血統登録されたを産んだも、ブルーショットガンのオギブルービーナスを含めて7頭しかいない。スーパークリークの血を引くは急速に減少していった。

今のところ、ブルーショットガンの全であるアフィティ(2006年生)がスーパークリークの血を引く最後の繁殖牝馬であり、その産駒から繁殖が出るかどうかが、スーパークリークの名を血統表に残す最後のラインとなっている。

血統表

サクラバクシンオー
1989 鹿毛
サクラユタカオー
1982 栗毛
*テスコボーイ Princely Gift
Suncourt
アンジエリカ *ネヴアービート
スターハイネス
サクラハゴロモ
1984 鹿毛
*ノーザンテースト Northern Dancer
Lady Victoria
*クリアアンバー Ambiopoise
One Clear Call
オギブルービーナス
1993 栗毛
FNo.7-e
スーパークリーク
1985 鹿毛
*ノーアテンシヨン Green Dancer
No No Nanette
ナイスデイ *インターメゾ
サチヒメ
オギトゥインクル
1988 鹿毛
*サイドチヤペル Raja Baba
Runaway Bride
アイランドオリーブ *サンプリンス
イツトー

クロスPrincely Gift 4×5(12.50%)

関連動画

阪急杯動画ニコニコになかった…

関連リンク

関連項目

脚注

  1. *競馬の武一家の祖である薩摩士武七(1860 - 1928)は、置県後北海道に渡り畜産と西洋術を学んだ。その長男武芳の子が騎手調教師武邦彦、孫が武豊武幸四郎兄弟。一方、武七の四男である武三(騎手調教師)の長男が武(調教師)、次男が武勇(武牧場代表)、三男が武永祥(騎手調教師)。また永祥の子に武英智(騎手調教師)。
  2. *当時は同一開催中であれば、勝ち上がるまで複数回新馬戦に出走することが認められていた。
  3. *1600万下戦(現在3勝クラスに相当)に勝ったのに何でオープンになれないんだよという話だが、当時の降級制度は「4歳にすべての収得賞金を半減する」ではなく「4歳から各クラスの基準となる収得賞金額を倍増する(=オープン3200万円)」という方式だったので、1600万下戦に勝ってもまだオープン入りには収得賞金が足りない、ということが起こり得たのである。
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