ベトナム大飢饉(1944~45年)とは、アジア・太平洋戦争末期にベトナム北部で発生した飢饉災害である。
戦中の混乱のため正確な統計は存在しないが、ベトナムの公式発表では200万人が餓死したとされる。
1940年、泥沼化する日中戦争の戦局を打破するために大日本帝国は、蒋介石を支援していたインドシナへの南下を始めた。北部進駐を経て翌年に南部インドシナにまで日本軍が侵攻すると、英米は強く反発し石油の供給を停止。日本は連合国との戦争へと突き進んでいく。戦争が勃発しても日本は0から植民地統治機構を構築するのを厭って、フランスをベトナムから追い出すことはせず1945年3月までは共同支配の状態を保っていた。
日本がインドシナから最も期待した資財はコメであった。戦中インドシナは南部戦線の兵站基地として日本軍を助けていた。しかし戦争末期、連合軍のインドシナ上陸が間近に迫ると日本はクーデタを起こし、フランスを放逐してインドシナを単独支配した(仏印処理)。直接的に大きな戦いはなかったインドシナであったが、終戦が近づくと戦争と植民地支配の矛盾が生み出した大飢饉が発生してしまう。
1944年秋から翌年にかけてクアンチ省以北を襲った飢饉にはいくつかの要因があった。
戦後にホー・チ・ミンが行った独立宣言の中でこの飢饉の犠牲者は200万人としている。実証研究でも多くの村落で当時の人口比で8.3~58.8%の死者が出たことが判明している。この数値はベトナム戦争の死者数を上回り、この飢饉はベトナム史最悪の出来事であったと言える。
1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡しました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎました。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。(ホー・チ・ミン、ベトナム独立宣言)
当時のベトナムではヴー・ディン・ホエらが出版していた『タインギ(清議)』という雑誌から影響を受けた知識人がベトナムのナショナリズム運動を支えていた。彼らはこの飢饉に重大な関心を寄せており、仏印処理以前から幅広いグループを通じて救済活動を実施していた。
チャン・チョン・キム内閣もこの飢饉を重大視し、1945年5月にバオダイ帝の勅諭で米の強制買付制度の廃止を宣言した。しかし連合国との最後の決戦を挑もうとしている日本軍にとってもまた米は命綱であり、宣言後も日本への米の供給は続けられた。南部からの米の輸送も日本軍に頼っている状態でベトナムに日本の要求を拒否することは不可能であった。
飢えた農村では徴税や米の買付拒否運動が広がっていた。フランス植民地政府の崩壊により、それに押さえつけられていたベトミン(ベトナム独立同盟)の活動が活発になり、日本の穀物倉庫を襲撃していた。これに対して日本軍は6月にベトミン掃討作戦を実施したが、植民地支配に慣れていなかった日本は有効打を打つことができなかった。
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1 ななしのよっしん
2023/11/10(金) 05:36:41 ID: pHaIIpdcoZ
>1.フランス植民地政権が実施していた米の強制買付制度[1]のため、農村の窮乏化が進み、緊急時の備蓄も枯渇していた。
>[1] 実施したのはフランスであるが、他の日本の植民地では日本の軍政当局が行っている。
この書き方だと、フランス領インドシナ政府による米の強制買付が”軍事的優位にあった日本軍(印度支那駐屯軍)の指示”で行われていたことがイマイチ伝わりづらいような
2 ななしのよっしん
2024/04/13(土) 21:14:53 ID: MzBA477adW
日本は現地人に不人気だったバオダイ帝ではなくホーチミン率いるベトミンにベトナムを統治させるべきだった
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最終更新:2024/04/25(木) 10:00
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