ホワイトフォンテンとは、
本記事では、1.について解説する。
ホワイトフォンテン(White Fountain)とは、1970年代に活躍した競走馬である。
競馬界がハイセイコーブームに沸く中、己の道を突き進み、逃げ馬の魅力を伝えた「白い逃亡者」。
主な勝ち鞍
1975年:日本経済賞、毎日王冠、日本最長距離ステークス
1976年:アメリカジョッキークラブカップ、日本経済賞
1973年。それはハイセイコーが競馬界の話題を独占し、新たなファンが押し寄せて第1次競馬ブームを巻き起こした年である。
当然、その年の日本ダービーも、ハイセイコーが勝つ姿を見るために、それまで競馬に興味がなかった層までが東京競馬場に押し寄せた。彼らが見ていたのは、第3コーナーで進出を開始し、直線で食らいつき、3着に惜敗したハイセイコーと、勝者タケホープの姿だった。
そんな中、第1コーナーで先頭を走ったものの力尽き、24着に惨敗した芦毛の馬など誰も見ていなかったことだろう。ましてや、のちにその馬がハイセイコーに劣らぬ人気を誇るなどとは。
彼の名はホワイトフォンテン。ハイセイコーが元祖アイドルホースなら、彼こそは元祖個性派にして、新たな競馬ファンに逃げ馬の魅力を知らしめた馬である。
確かに、当時話題の中心はハイセイコーとそのライバル・タケホープであり、多くのファンやにわかファンは彼らを追いかけていた。しかしどんな時代にもそこからマニアになってしまう人はいるもので、彼らは先頭切って逃げていき、大抵は沈んでいくがたまにそのまま勝ってしまう、芦毛の馬に競馬の魅力を見いだした。当時芦毛の馬は珍しかったので、競馬場ではとても目立つ存在だった。そのうえ、人気が薄いからたまに臨時収入をくれるのである。
ホワイトフォンテンの勝ち鞍は現在ならGIIあたりに相当するレースにとどまり、八大競走での勝ちは一度もない。それにもかかわらず彼が人気だったのは、逃げ馬とはこういうものだ、というお手本を、その白い体で示してくれたからにほかならない。
父ノーアリバイはフランス産馬であるが特に情報はなく、なんだったら本馬が代表産駒である。三代父は「種牡馬の父」ネイティヴダンサーで、現在こそ日本で隆盛している血統だが、それはミスタープロスペクターの成功による功績が大きく、この時点ではそこまで大きなものではなかったという。しかしながら、「アリバイがない」という名前から、本馬の通称「白い逃亡者」の由来となったという点で、本馬を語る上で欠かせない種牡馬である。
※以下馬齢は当時に合わせて旧表記。
デビュー戦こそ敗れるものの、折り返しの新馬戦で勝利し、その後200万下を連勝で飾る。明け4歳になるとヒヤシンス賞および4歳ステークスを勝利し、日本ダービーに挑戦する。
本番では第1コーナーで先陣切って逃げていき、向こう正面一杯まで粘るものの、大欅の手前あたりでかわされ、ホームストレッチでハイセイコーを映し出すカメラには既に映らなくなっていた。結果は27頭立て24着の大惨敗。さすがにクラシックは荷が重かったか。
その後は2着3着はあるものの1年半ほど勝てない時期が続き、5歳秋のオクトーバーステークスで久々の勝利。年末の中冬ステークスも勝利して5歳を終える。
明け6歳、ダート2戦を共に4着としたホワイトフォンテン陣営が次に選んだのは、どういうわけだか日本最長距離ステークス(1000万下)。その名の通り中山の4000mと歴代最長距離のレースである。
ホワイトフォンテンは主に1800mで結果を出しており、2400mの日本ダービーは前述の通り惨敗、2500mの日本経済賞は5歳時に7着に敗れている。当時は距離適性などお構いなしにいろんなレースに出されるのが常であったとはいえ、いきなりこんなレースに出すのは奇妙ではある。しかし、結果的にはこれがホワイトフォンテンのターニングポイントだった。
なんと彼は、ここを逃げ切って勝ってしまうのである。ところが、そのタイムが物議を醸した。
前年のタイムが4分15秒6のレコードタイムであったのに比して、彼の勝ちタイムは4分46秒1。30秒以上も遅い超スローペースだったのだ。現在であれば、逃げ馬がスローペースに持ち込めた時点で作戦勝ち、もしくは展開のアヤでそういうこともある、ということだっただろうが、当時はレースの存在意義が問われるまでの大問題になったらしい。結局、このレースはこの年限りとなり、以降開催されることはなくなってしまった。以降現在まで、平地最長のレースは3600mのステイヤーズステークスである。
これを機に、ホワイトフォンテンは長距離レースで結果を残していくことになる。
その後はアルゼンチン共和国杯をシンガリ負けなど、再び勝ちに恵まれなかったのだが、6月末の日本経済賞(現在の日経賞)では、向こう正面から2-3馬身のリードを保ったまま、食らいつくフジノパーシアを歯牙にもかけず逃げ切り勝ち。ブービー人気を覆して重賞初制覇を果たす。
続く新潟記念は敗れるものの、毎日王冠(当時は2000m、この年は中山開催)でもリードを保ったまま3/4馬身差の快勝。これまた7番人気を覆しての勝利となった。
有馬記念を13着シンガリ負け、明け7歳の金杯(東)を7着惨敗とした後、次に事件が起こったのはアメリカジョッキークラブカップ(当時は2400m)。前走に続くブービー人気だったのだが…。
向こう正面でホワイトフォンテン以下3頭が5-6馬身間隔を空けてポツンと並び、4番手以下とホワイトフォンテンが20馬身ほど離れる珍しい展開に。大欅を過ぎたあたりで後続馬が差を詰めにかかるものの、それでもなお逃げ粘るホワイトフォンテン。
実況が「これは穴になるぞ!」と叫び、2番手コクサイプリンスが懸命に食らいつくが、ホワイトフォンテンは更に突き放す。それを見た瞬間、実況がまたもや叫ぶ。
ホワイトフォンテン先頭! コクサイプリンス2着、これもがんばりきります!
1着はホワイトフォンテン!
この少々失礼な実況を尻目に、ホワイトフォンテンは人気薄を覆す逃げ切りを果たした。
高橋司騎手とのコンビが注目され出すも、春は勝てない競馬が続き、続いては連覇を狙う日本経済賞。今回も向こう正面で3馬身ほどの差をつけながら逃げている。最後の直線で2馬身ほどの差が縮まっていないのを見るや、実況の口調が変わった。
ホワイトフォンテンがまたやるか、やりそうだぞ?
150mだ、あと150m、ホワイトフォンテンががんばっている!
ハーバーヤング、これは届きそうもない!
ホワイトフォンテン、またやったまたやったまたやった!
ホワイトフォンテン1着!
前走アルゼンチン共和国杯では1番人気4着だったが、今回は逆に4番人気1着。堂々の対抗馬としての勝利であった。ちなみに日本経済賞を連覇したのはホワイトフォンテンが初めて(彼に続く連覇馬が現れるのは47年後)。
しかし、その後は全走シンガリ負け。明け8歳で連覇を狙うAJCCでは、本馬場入場前に左前脚を骨折し、競走除外となる。これを最後に引退が決定した。
1989年に種牡馬を引退。その後も隆栄牧場で余生を過ごし、1996年に老衰で世を去った。27歳。
*ノーアリバイ 1963 栃栗毛 |
Dan Cupid 1956 栗毛 |
Native Dancer | Polynesian |
Geisha | |||
Vixenette | Sickle | ||
Lady Reynard | |||
Eavesdrop 1956 栗毛 |
Spy Song | Balladier | |
Mata Hari | |||
Providence | Easton | ||
War Kilt | |||
レベツカの弐 1964 芦毛 FNo.22-d |
*ダイハード 1957 栃栗毛 |
Never Say Die | Nasrullah |
Singing Grass | |||
Mixed Blessing | Brumeux | ||
Pot-pourri | |||
*レベツカゼサード 1957 芦毛 |
Migoli | Bois Roussel | |
Mah Iran | |||
Nemalia | Nearco | ||
Emali | |||
競走馬の4代血統表 |
ホワイトフォンテンの芦毛の由来は母母父Migoliの3代母Mumtaz Mahalから。
掲示板
1 ななしのよっしん
2022/12/25(日) 01:01:31 ID: nM7NozUoaZ
立て乙
高橋騎手については情報が少なすぎるから、ツインターボの調教助手を務めた高橋義博師の関係や
ナリタタイシンが暮らしてた牧場の代表とは同姓同名の別人というのも書いても良い希ガス
https://
https://
2 ななしのよっしん
2022/12/25(日) 15:17:16 ID: mXgbCoyS7k
作成お疲れ様です。「逃げ切っちゃいました!」が幸いにもYouTubeにあったので見てきましたがいい時代の実況って感じですねぇ。
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最終更新:2024/04/24(水) 23:00
最終更新:2024/04/24(水) 23:00
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