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ボカサ1世(Bocassa I)とは、20世紀の中央アフリカに突如現れた、おそらくアフリカ大陸における最後の皇帝である。いや、最後であってほしい。

概要

ボカサ1世ことジャン=ベデル・ボカサJean-Bédel Bokassa)は、1921年の中央アフリカフランス植民地時代)生まれ。1965年中央アフリカ共和国の政権をクーデターにより奪い、以後1979年まで独裁を敷いた独裁者として知られる。その政治は苛な弾圧と利権の収奪に満ち、最終的にクーデターによってを追われた。

この手のダメな独裁者は、第二次世界大戦以後に独立したアフリカにありがちなものであるが、ボカサが他と一線を画すのは、皇帝を自称したということに尽きるであろう。世界から帝国義が失われ、帝国・王といった存在がどんどん消えていく中で、時代の流れに逆行した、何の由来もない帝国の誕生は、世界中から「ないわー」と冷笑された。

さらに、1977年にかつてのフランス皇帝ナポレオン1世(ナポレオン・ボナパルト)の行った戴冠式を真似て、国家予算の2倍に相当する2500万ドルを費やした勢な戴冠式を行った。独裁者が自分勝手で富を貪るというのはよくある話だが、この戴冠式はその使いの中でも一際どうしようもないものに類されるだろう。当然ながら、貧しいの実情を顧みない奢の極みは、内外から多大に批難され、後のクーデターへと繋がっていくのであった。

ちなみに、ボカサが皇帝を称した1976年当時、同じく「皇帝」に相当する称号を持つのは、日本昭和天皇と、イランのパーレビ国王の2名だけであった。ボカサはこの皇帝両名も戴冠式に招待したが、丁重に断られたという。そりゃそうだ。

皇帝を名乗ったアレ独裁者としては知名度があるボカサだが、実が伴わなかった彼が皇帝として認められることはほとんどないのが実情である。中国史袁術あたりといい勝負である。

来歴

出生から軍人時代

当時のアフリカは列強各植民地として切り取られていた時代で、ボカサの生まれた現在中央アフリカ共和国に相当する部分はフランス植民地であった(旧名:ウバンギシャリ)。ボカサもそうだが、この頃の多くの中央アフリカ人は生まれた頃からフランス教育を施され、その影を強く受けて育った。後にナポレオン式の戴冠式を行ったのは、この教育によってナポレオンに憧れを持ったためなのかもしれない。

第二次世界大戦で本フランスドイツに占領されると、ボカサはシャルル・ド・ゴール率いるフランス解放軍に入り、大戦以後もフランス軍人として22年間もの長きにわたって従軍した。引退時の階級は大尉で、これは当時のアフリカ出身者としては最高位のものであったという。ここまでの経歴だけなら、優秀な軍人として終わることができたであろうに…

中央アフリカのトップへ

このボカサの叔父に、「アフリカ社会進歩運動(MESAN)」という団体を結成した、バルレミー・ボガンダという人物がいた。ボガンダの団体は被支配地域である中央アフリカの権利向上を訴えるもので、終戦後の1946年に結成され、後の1958年には自治権が認められるまでになる。ボカサを含む中央アフリカ出身者の軍役は、この運動の助けになったという。

しかし、そろそろ全な独立に至ろうとしていた1959年、ボガンダは飛行機事故によって突然の死を迎える。このため、アフリカ社会進歩運動は新たな首長を用意しなければならなくなり、これにボガンダの甥(ボカサの従兄弟)であるダビッド・ダッコが選ばれた。1960年に「中央アフリカ共和国」が独立を果たし、ダッコがその初代大統領になると、ボカサはダッコの要請により故郷へと戻り、軍の編成に協した。

ここまで漕ぎつけたのはよかったのだが、所詮はボガンダの代役であったダッコは政権運営経済政策も上手くいかず、政は混迷を極めた。この悪い流れが続いた1965年、ボカサはクーデターを決行してダッコを拘束大統領の座を奪い取った。この時点だけ見れば、悪政を断ち切ったヒーローにも見えなくもない。

黒い皇帝の誕生

晴れ中央アフリカの第2代大統領となったボカサであるが、その政治はダッコの頃よりもひどいものであった。経済政策はやっぱり上手く行かず、更に身内も市民粛清しまくり、人材不足を引き起こした。重要なポストはほとんど自分で兼任することで独裁化を進め、国会開かれないままに終身大統領を宣言するに至る。

ここまでやっていれば際世論からの圧も強いはずなのだが、ボカサは外交政策だけはやたらと上手かった。旧宗フランスとは親密になって援助を引き出し、アパルトヘイトで周辺から孤立していた南アフリカとも仲良くなり、さらにはソ連にも訪問し、リビアと関係を結ぶためにイスラム宗(形だけだが)したりもしている。むしろ内のほうが敵が多かったのではなかろうか。

その後内閣をも解体し、全権を握したボカサは1976年に突如皇帝を自称、サラー・アディン・アーメッド・ボカサ1世名乗り号を「中央アフリカ帝国」に称した。戴冠式に2名の皇帝が辞退したことは先述したが、他の国家号はともかく、そうそう「皇帝」を承認することはできなかった。しかし旧宗フランスはそうそう見放すこともできず、また当時のフランス大統領であったジスカール・デスタンはボカサからダイアモンドなどの賄賂を受けており、渋々ながらも皇帝の位を承認している。

贅を尽くした戴冠式

称から丁度一年後の1977年12月4日、ボカサは戴冠式を行った。ナポレオンに憧れ、元々キリスト教徒でもあったボカサはサン・ピエトロ大聖堂でローマ教皇に式典を執り行ってもらうことを望んだが、教皇は拒否し、代理の大使派遣するに留まった。代わりに式典会場となったのは、ユーゴスラビアチトー元帥によって寄贈され都バンギに建設された屋内競技場「ボカサ・スタジアム」だった。
前述の通り、式典はを大幅に越した盛大なものであった。パレードの為に60台のベンツドイツから輸し、フランスからは200頭の240トンもの高級食品を取り寄せた。現地には十分な調理器具すらかったために、200人のシェフ300台の冷蔵庫を持参することとなった。(なお、この時フランスのノルマンディーから取り寄せたアフリカの気に耐え切れず、最終的には全てのが死んでしまった。)
ボカサ本人は78万個の珠と130万個の水晶で飾った礼の上からビロードとテンの毛皮で出来た長さ12メートルマントい、頭にはダイヤモンドエメラルド2000個から8000個とも言われる宝石を散りばめた王冠を戴いた。また、当時いた三人の妻の一人カトリーヌを皇后として選び、彼女も自分と同様に衣服と冠で着飾らせた。この二人の衣装だけで500万ドルを越えたという。
隊と高級に護衛されたボカサは8頭立ての勢なで会場に現れ、で丹念に掃かれた(掃除機い為)絨毯の上を歩き、鷲を模した製の大玉座に座った。戴冠の間には帝国内外からの大勢の招待客と臣民達が彼を褒め称え、祝福した。世界の名だたる王帝国が滅びる中で時代の潮流に逆らうような々しいだったが、この時点で既に粛清による人材不足と経済悪化は帝国に深い影を落としていた。

帝国の崩壊と亡命

こうして20世紀のアフリカ爆誕したボカサ1世陛下であったが、皇帝となってもやることは変わらず、内政は最悪のままであった。おまけに先の戴冠式によって際的な評価が下落し、先進国からの経済援助も少なくなっていった。こうなると独裁者というものは人間不信が強くなるもので、身辺の粛清がどんどん進み、1978年には皇太子まで外へ追放してしまった。

1979年、ボカサは親族の経営する会社が作る高価な学生を、全の小中学校制服にするよう義務化した。この政策に学生の怒りが噴出し、ついには小中学生も含んだデモにまで発展した。ボカサはこれを軍事で容赦なく鎮圧し、小学生を含む約400人の死者を出す事件となった。この事件は内外で批難のを巻き起こし、内では反政府組織が次々と結成され、外では遂に旧宗フランスが見限り、経済援助を打ち切った。

1979年9月、もはや世界の嫌われ者として四面楚歌になったボカサは、同じく世界の嫌われ者リビアカダフィ大佐を訪問して、援助の要請をめた。しかし内の人間を信用していなかったくせに、を離れたのが運の尽きであった。9月20日フランス軍は前大統領であったダッコを頭としたクーデター首都で起こし、血で首都を制圧、ボカサの追放に成功した。こうして、アフリカ最後の「帝国」は終焉を迎え、「皇帝」だった男は亡命者としてフランスに逃れていった。

その後

長年フランス軍に従軍していたボカサは、フランス軍から支給される年金で亡命以降の食い扶持を繋いでいたという。

亡命後も懲りずに中央アフリカの政権奪還の意思を持っていたのだが、まさか支援者が得られるはずもなし。そもそも、先のクーデターだってフランス軍の導である。かつて恩を売っておいたデスタン大統領にも持ちかけるが、当然色よい返事はなし。怒ったボカサは贈った賄賂の情報を漏らし、これが元でデスタンの人気が急落、後の選挙でミッテランに負けることになる。どこまでも不利益しかまき散らさない様はある意味圧巻。

復帰のめども立たないままの1986年、何を思ったのか、ボカサは突然を果たす。現地で支援者でもめようとしたのかもしれないが、散々やらかしてきた中央アフリカの地で彼を待っていたものは、逮捕死刑判決という当然の結果であった。帰すると言いだした際、周囲は何度もやめさせようとしたらしいが、本当に何で戻ってきてしまったのだろうか。

死刑判決こそ出たものの、収監中に減刑され、1993年には釈放されている。それから3年後の1996年に死去。この手の悪政を敷いた独裁者にしてはしく、穏やかな死を迎えたといえるだろう。

関連動画

戴冠式の贈り物としてフランス軍が撮影した映像
身内の恥のようなものだった為か、30年に渡り封印されていた。

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最終更新:2019/08/25(日) 04:00

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