ポンペイとは、イタリアの町の名である。
他にも人名などで様々な意味があるが、ここでは最も有名なイタリアの町について紹介する。
ナポリ県の東端に位置する人口約25000人の自治体(コムーネ)。火山であるベスビオ山の南東にある。トレニタニアのMETの駅と、ベスビオ周遊鉄道のポンペイ駅とポンペイ・スカビ駅があり、ナポリからのアクセスは1時間弱。
現在の町の歴史は意外と新しく、1891年に建設が始まった。ロザリオの聖母の巡礼聖堂が町の中央にあり、観光スポットの1つになっている。
だが、観光スポットとして最も有名なのは以下に述べる古代遺跡であろう。
古代のローマ帝国の町のうちの1つ。もともとはサムニウム人などの別の民族の町だったが、スラ(スッラ)によって征服されて以降、共和政ローマの植民都市となる。オクタウィアヌスが皇帝になって以降はそのままローマ帝国の都市となった。
当時のポンペイは港町であり、地中海から運ばれてくる産物をアッピア街道経由でローマに運んでいたため栄えた。これに加え、周辺ではぶどうを栽培し、ワインを生産していた。
町は碁盤の目状であり、石で舗装されていた。しかも車道(馬が通る道)と歩道が分離されており、横断歩道のような石まで置かれていた。車止めもあったことから、歩行者天国のようなものもあったのではないかと推測されている。
剣闘士たちが闘った闘技場(劇場)もあり、「パンと見世物」と言われるローマ人の生活スタイルがここにもあったようだ。ほかにも、ローマ人が好んだ公衆浴場もあった。食生活も充実しており、『テルモピリウム』と呼ばれる今でいうファーストフード店のようなものも各地区に存在していたようだ。しかも、当時の人の排泄物を解析した結果によると、身分による食べ物の差もさほどなかったらしい。
娼館も残っており、男女の営みを描いた壁画が鮮やかに残っている。言葉の通じない外国人向けにどのような交わり方が好きかを示せるように、ということらしい。一方で町の人の落書きもあり、
と割とお下劣なものもある(※意訳)。
もちろん下品な絵画や落書きだけでなく、世界史の教科書にも載っているアレクサンドロス大王のモザイク画もこのポンペイから出土している。
このように当時の人々の生活の詳しい情報が多い。これは古代遺跡にしては保存状態が良かったためであるが、その理由は以下の出来事にある。
紀元後62年、ポンペイは2万人ほどの人口を抱えていた。しかし、同年に大地震に遭ってしまう。町は壊滅状態になるが、それでもポンペイの人々は町を復興させようと頑張っていた。
しかし、79年にベスビオ火山が噴火し、ポンペイは火山灰に深く覆われてしまう。その後数時間のうちに多くの人々がポンペイから避難したと考えられているが、約2000人は何らかの理由でその場に残った。
そして噴火から10数時間後、火砕流が発生。時速100kmで襲ってくる500℃の火砕流になすすべもなく、人々は倒れ火山灰の中に埋もれた。子を庇おうとして自らも犠牲になった親、地下室に避難し火山灰からは逃れたが火山性ガスで中毒死した数十人の人々、悶えながら死んだと思われる飼い犬…多くの命と人々の生活が、一瞬にして奪われたのだ。
しかし、火山灰に覆われたことによって、皮肉にも都市の絵画や落書き、当時の人々の生活の様子がそのまま保存された。灰に覆われた遺体は腐敗し空洞だけが残った。
その後、ポンペイは放棄され集落がつくられることも無かったが、しばらくは「あのあたりにポンペイがある」ということは知られていたようだ。18世紀に入ってから本格的な発掘作業が始まり、その際に発見された人型の空洞に石膏を流し込んだことで、当時の遺体が再現された。
1997年に周辺の火砕流を受けた都市遺跡と合わせて「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」として世界遺産に登録された。それ以降も新たな発見があり、2018年の調査では首のない遺体が発掘されたりしている。しばらくは倒壊した建物などに首が潰されてしまったのではないかと推測されていたが、後の調査で、死因は火砕流であり、発掘時の地下道が崩壊した際に頭部が流されてしまった可能性があると考えられるようになった。
しかし、火山灰が取り除かれ、風雨にさらされ始めたことで時の止まっていたポンペイ遺跡の劣化が始まってしまった。現在でも遺跡と石膏の修復作業が続けられている。
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最終更新:2025/02/12(水) 21:00
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