マクシミリアン・ロベスピエール(1758年5月6日 - 1794年7月28日)とは、フランス革命期の政治家である。
正式な名前はマクシミリアン・フランソワ・マリー・イジドール・ド・ロベスピエール(仏: Maximilien Francois Marie Isidore de Robespierre)。
フランス北部・アルトワ州アラスに生を受ける。
「ド」がつく事からして貴族階級のように見えるが実際は第三身分。祖父の代から弁護士として活動する法曹の家に生まれた。
母の死、父の失踪を経て、僅か6歳にしてロベスピエール家の家長となる。暮らしこそ貧しかったが秀才ぶりが認められ、パリの法学校では奨学金を取得する程だった。1775年、ルイ16世が戴冠式の後に法学校を訪問した際には、学生代表としてラテン語での祝辞を捧げている。後にその国王を糾弾してギロチンに送る事になろうとは、この時誰も知らぬ事だった。
その後は大学進学、卒業を経て弁護士となり、1789年に政治の世界に身を投じる事となる。
当時の三部会(フランスの身分制議会)における政党の派閥は大きく分かれており、ものすごくおおざっぱに書くと
であった。
ロベスピエールはこのうちジャコバン派、特に急進的だった山岳派(モンターニュ派)に所属していた。
ロベスピエールの理念は、彼が傾倒した啓蒙思想家、ジャン・ジャック・ルソーの思想に基づいたものだった。王族や貴族といった限られた人間のみが権力を持つ事を非難し、フランスの全人民が権利と富を持つべきであるという理念である。
結果的に対外戦争の敗戦における責任を巡り、1793年、ジロンド派とフイヤン派が失脚。
台頭したジャコバン派は国民公会を掌握したが、その先頭に立つロベスピエール達が設立した公安委員会が敷いたのが、悪名高き「恐怖政治」であった。
この恐怖政治が続いたのは僅か4か月という短いものだったが、これについては「勝利(ヴィクトワール)」「恐怖(テルール)」「美徳(ヴェルチュ)」の3つで表現できるとされている。
と、このような不穏な政治情勢に対して、フランス国民の嫌気が差すのは当然の成り行きだった。
1794年7月27日、ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンら急進派と対立するフーシェ、バラス、タリアンらが中心となり、国民公会の場で「暴君を倒せ!」と野次が飛んだのを皮切りに、ロベスピエールらの逮捕が決議される。
フランス革命暦2年テルミドール(熱月)9日であった事から、この出来事は後に「テルミドール9日のクーデター(テルミドール反動)」と呼ばれることとなる。
監獄に収監された一同は脱出してパリ市庁舎に逃げ込み、市民に蜂起を訴えたが叶わなかった。警備に当たる国民衛兵らは彼らを保護する気はさらさらなく、深夜になってこっそり引き上げる始末。追い詰められたロベスピエールは自殺を図ったが失敗、顎を撃ち抜く重傷を負った状態で逮捕された。
翌日、ロベスピエールと弟のオーギュスタン、サン=ジュストら22人は革命広場に送られ、彼らが多くの反対派を送り込んだギロチンによって処刑された。享年36歳だった。
後年、独裁者としての評価が定着しており、日本でもその趣が強い。また議会制民主主義に重きを置くイギリスでは、政治家ではなくテロリストとしての扱いの方が大きい。
一方でフランス本国では革命以来伝統的にリベラルな風潮を重んじる事もあり、どちらかと言えば革命によって腐敗した王政を一新した事への賛美、必要悪であったという主張、同情の声が寄せられる傾向にある。
稀代の悪人として、或いは理想に燃える志士として、様々な創作が行われている。
掲示板
60 ななしのよっしん
2024/04/05(金) 16:05:22 ID: oeYDIqPYle
テニスコートの誓いに描かれた人たちのほとんどをギロチン台送りにした奴は異常者扱いされて然りだからな
こいつの褒められたところって私腹を肥やさなかったところだけだし
61 ななしのよっしん
2025/02/24(月) 02:22:43 ID: 3HQoGmySWS
捕まる時に建物に隠れて震えてた逸話を知ってドン引き。完全な小物じゃん。捕まる時も堂々としてろよ
62 ななしのよっしん
2025/05/09(金) 19:52:32 ID: mpEdAyIiO0
クロムウェルとロベスピエール、どうしてこうも差がついたのか。
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最終更新:2025/12/10(水) 00:00
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