マクラーレン・レーシング(McLaren Racing Limited)は、イギリスの伝統あるF1レーシング・チーム・コンストラクターである。
マクラーレン・グループが持つ一会社であり、F1チームとしてのマクラーレンを持つ。設立者はブルース・マクラーレン。
2021年現在の代表はザク・ブラウン、監督に当たるスポーティングディレクターをジル・ド・フェラン、マネージングディレクターとしてアンドレアス・ザイドル、テクニカルディレクターをジェームス・キーが務めている。
2015年からはホンダと組み、F1でのエントリー名をマクラーレン・ホンダとしていた。しかし、このジョイントは2017年限りとなり、2018年からはルノーと組んでマクラーレンF1チームとなっている。しかしルノーPUの使用は2020年限りで終了し、翌2021年からはPUをメルセデスに変更する。
1963年、まだ20代半ばだったブルース・マクラーレンが、自身のレーシング・チームとしてブルース・マクラーレン・モーター・レーシングを設立、F1参戦はその3年後の1966年から。実はホンダのF1参戦のほうが1年早かったりする。
1970年代まではF1以外に北米で活躍しており、Can-Amやチャンプカーでタイトルを獲得している。
1970年にマクラーレン氏がテスト中の事故で死去してしまったため、その後は共同創設者のテディ・メイヤーがチームの指揮を取った。
やがて化粧品会社のヤードレーをスポンサーに付け、傑作マシンのM23が完成したことにより、優勝争いの常連となる。
1974年にエマーソン・フィッティパルディの活躍で初めてF1のドライバーズ・コンストラクターズタイトルを同時に制する。
1976年には最終戦の富士でのF1選手権で、ジェームス・ハントが逆転でドライバーズタイトルを獲得。
この頃には、長期に渡ってチームをサポートする事になるマールボロ(フィリップ・モリス)とスポンサー契約する。しかし、傑作マシンであったM23及び改良型のM26もさすがに陳腐化。ハントがチームを去った後は長期的低迷におちいることになる。この時期に若き日のアラン・プロストがデビューしているが、彼は自らチームに見切りをつけてルノーに移籍した。それほど当時のマクラーレンは悪い状況だった。ウィングカーのM29は決してかっこ悪いマシンではないと編集者も思うが、結果が全てと言われればそれまでなのか…。
1980年に共通のメインスポンサーであったフィリップ・モリスが仲介役となって、その後長らくチーム代表となる男、ロン・デニスのチーム「プロジェクト4」と合併した。
合併後は、ジョン・バーナードなどのエンジニアが加入。初めて本格的なカーボン・コンポジットを採用したモノコックを使った革新的マシン、MP4/1が完成。この名前は/(スラッシュ)の後のナンバーを更新する形で2016年まで受け継がれることとなった。
1981年は、テディ・メイヤーの体制の末期から奮闘してきた玄人好みのシブいイギリス人、ジョン・ワトソンがチームに4年ぶりの勝利をもたらす。輝けるMP4シリーズの栄光の始まりであった。なお、この時のチームメイトはアンドレア・デ・チェザリスである。彼は度々クラッシュをしたが、それはMP4のカーボンモノコックの安全性を身を持って証明することでもあった。
翌1982年には一旦引退していたニキ・ラウダが現役復帰。ワトソンと合わせて合計4勝を上げる。この年は、歴史上まれに見る混戦であったが、惜しくもタイトルはウィリアムズのケケ・ロズベルグのものとなった。
1983年、ターボエンジンが主力になる中、マクラーレン・インターナショナルは依然コスワースDFVで不利な戦いを強いられることになる。1回だけ、予選22位、23位からワトソン、ラウダが1-2フィニッシュをするという漫画のような勝利があったが、逆にモナコGPでは予選落ちする。チームはTAGポルシェのターボエンジンをシーズン途中から搭載。残りはひたすら来年を見据えた開発を続けた。
明けて1984年。マシンはMP4/2に進化。ルノーからプロストが復帰して体制が整ったマクラーレンは、16戦中12勝という圧倒的強さを見せる。勝利数はプロストが多くあげたが、粘り強くポイントを稼いだラウダはわずか0.5ポイント差(シーズン中に中断によってハーフポイント扱いとなったレースがあったため)でドライバーズチャンピオンを獲る。実に10年ぶりのダブルタイトル獲得であった。
1985年はフェラーリのミケーレ・アルボレートとのタイトル争いとなったが、彼は後半に失速。ラウダも去年のような力強さはなく、プロストがフランス人初のドライバーズチャンピオンを手にするのである。もちろんコンストラクターズも連覇した。
ラウダが引退した後の1986年はウィリアムズから移籍してきたケケ・ロズベルグとのコンビとなった。この年はそのウィリアムズがホンダパワーを得て今までとは逆に圧倒される立場になったマクラーレン。しかし、プロストはウィリアムズのビケとマンセル、この二人の争いの間隙を縫って逆転で二年連続のドライバーズチャンピオンを獲る。ロズベルグはそれを見届けて引退した。
翌年の1987年はさすがにホンダパワーの前になすすべなく、プロストが3勝を上げるにとどまる。
1988年、そのホンダとのジョイントが決まり、アイルトン・セナが加わる。ブラバムから移籍してきたゴードン・マーレイの手によって大幅に改良されたMP4/4は低いシルエットの見るからに合理的で完璧なマシンであった。この年は、結果から言えば実に16戦中15勝という驚異的記録を達成することになる。セナとプロストという世紀の最強コンビは常に争いながら他のチームを置き去りにしていった。セナは鈴鹿でドライバーズチャンピオンを決め、この時のスタートでのエンストからの大逆転優勝が日本でのセナの人気を決定付けたと言える。もちろんコンストラクターズタイトルも圧勝だった。
翌年、ターボエンジンは全面禁止となり、3,500ccNAエンジンと定められた。明らかにホンダエンジンの優位をつぶさんとするヨーロッパの主催者側の狙いがあったが、スティーブ・ニコルズがMP4/4を元にアレンジしたMP4/5とV形10気筒エンジン、RA109Eは変わらぬ強さを発揮。去年に比べれば取りこぼしは増えたとはいえ、1989年もマクラーレン・ホンダの盤石さは相変わらずであった。だが、セナとプロストのコンビはやがて激しい確執を生み、日本GPでの2台の接触によって決着(セナの失格によってプロストのタイトルが決まる)という後味悪いものとなった。だが、ともかくチームはダブルタイトル2連覇を達成した。
マクラーレンがロン・デニスの体制になってから、ここまでの10年足らずにコンストラクターズのタイトルを4回、ドライバーズタイトルを5回獲得(ラウダ1回、プロスト3回、セナ1回)している。これは、後の2000年~2004年のフェラーリの連続ダブルタイトルが成されるまでは、F1グランプリにおける空前絶後の黄金期と言えた。1990年代のウィリアムズもこれに比肩する数のタイトルを獲っているが、毎年必ず勝利をあげていたマクラーレンの方に軍配が上がるというべきだろう。
1990年は、プロストがフェラーリに移ったために入れ替わりにゲルハルト・ベルガーが加入。このコンビは幸いな事に親友と呼べる友好的なものとなり、1992年まで続くことになる。この年は、そのプロストとセナの激しいタイトル争いとなったが、またも日本GPでのセナのプロストへの意趣返しともとれる接触で決着した。それでもダブルタイトル三連覇。まだマクラーレン・ホンダの神通力は残っていたのである。
さて、1990年代に入ると、このマクラーレンにホンダを奪われる格好になって以来低迷していたウィリアムズが復調し始め、1991年にはタイトル争いに絡むようになってきた。この年は何とかウィリアムズの猛追を振り切りダブルタイトルを死守、4連覇するが、翌年には完全に形勢逆転され僅か5勝に終わり、タイトルも奪取されてしまう。さらに同年限りでホンダが撤退。1993年はルノーエンジン獲得を目指すも失敗、型落ちのフォードエンジンを搭載する羽目になる。これに不満を持ったセナはシーズン途中まで1レースごとに契約を結び出走していた。しかし、そんな劣勢を跳ね返す如くにセナはシーズンで5勝を上げており、ある意味では彼の生涯では最も輝いてた時期とも言われている。
セナの移籍後は、チームの成績は残念ながら下降線を辿り、1994年にはプジョーエンジンを獲得も、勝利すら味わえなかった。
しかしそんな中、1995年からは以後チームと非常に密接な関係を持つこととなるメルセデス製エンジンを獲得。しかし1995年、1996年と勝利から再び遠のき、1996年には長年タイトルスポンサーを務めていたマールボロがこの年限りでチームとの契約を終了。
1997年は新たなタイトルスポンサーとしてWestと契約、メルセデスのシンボルであるシルバーのカラーリングに一新した。開幕戦オーストラリアGPではデビッド・クルサードがチームに久々の勝利をもたらす。さらに同年8月にはウィリアムズから空力の奇才エイドリアン・ニューウェイが加入し、徐々にマシンの戦闘力が向上し始める。クルサードはこの年2勝を挙げ、ミカ・ハッキネンも最終戦ヨーロッパGPで遅咲きの初優勝を成し遂げた。
1998年にはハッキネンの活躍によりダブルタイトル獲得。翌年もハッキネンがドライバーズタイトルを獲得、完全復活を果たした。
しかし2000年代に入ると、フェラーリおよびミハエル・シューマッハーが黄金期を迎える一方、マクラーレンはマシンの戦闘力・信頼性が年を追うごとに下がり、「ガラスのマクラーレン」などと揶揄されるように。また、2001年にはハッキネンがモチベーションの低下(チームのスポンサー活動による疲弊で嫌気がさしていた)を理由に休養宣言、結局この年をもって引退してしまう。その後は、クルサード、そしてハッキネンに代わる新たなフライング・フィンたるキミ・ライコネンの奮闘にもかかわらず優勝はするが、両タイトル獲得まで手が届かない成績になってしまう。2005年以降はルノーおよびフェルナンド・アロンソの活躍が続き、チームを去ったクルサードに代わってファン・パブロ・モントーヤが加入するも、結局タイトルには届かなかった。そんな中、タイトルスポンサーのWestもたばこ広告への規制強化が進む中、契約を終了してしまった。そして2006年は未勝利に終わり、やる気を失ったモントーヤはシーズン途中で離脱、古巣のアメリカンレーシングへと戻っていく。ライコネンもまた、翌シーズンにフェラーリに移籍した。
しかし2007年、そのアロンソとルイス・ハミルトンの加入、そして新たなタイトルスポンサーのボーダフォンとの契約で、チームは再び好調を取り戻すと思われた・・・が、マクラーレンのエンジニア、マイク・コフランとフェラーリの元エンジニア、ナイジェル・ステップニーが引き起こした産業スパイ事件、いわゆる「ステップニー・ゲート」によりコンストラクターズポイントの剥奪や罰金激しく重い裁定を受けてしまう。さらに、ハンガリーGP予選中にアロンソがハミルトンのタイムアタックを妨害し、両ドライバーに確執が生まれてしまう。
最終戦ではフェラーリに移籍したキミ・ライコネンにドライバーズタイトルも1ポイント差で逆転され奪われ、アロンソもたった1年でルノーへと出戻ってしまった。
だが2008年、ルイス・ハミルトンがフェリペ・マッサとの激闘の末、史上最年少(2010年にセバスチャン・ベッテルが更新)でドライバーズタイトルを獲得する。
2009年、ロン・デニスが代表から退き、マーティン・ウイットマーシュが就任。
しかしシーズン開幕前の冬期テストでは全く良いタイムが出ず、開幕後も見事なまでに遅いマシンであった。予選Q1、Q2敗退は当たり前。GPによってはフォース・インディアにも前を行かれる始末であった。また、オーストラリアGPではハミルトンとレースエンジニアがレーススチュワードに虚偽証言をしたとして、運良く獲得した3位表彰台を剥奪される。それでも後半戦になって綿密な改良を続けた事で速さを取り戻しハミルトンが2勝したものの、ブラウンGP、レッドブルに主導権を奪われてしまった。
2010年にジェンソン・バトンが加入し、チャンピオンコンビとして迎える。この年にはハミルトン、バトンともに優勝し、フェラーリ、レッドブルとチャンピオン争いを演じるも、ドライバーズチャンピオン争いからは最初に脱落してしまった。
2011年は速さの点でレッドブルに完敗し、バトン、ハミルトンともに3勝を挙げるも、レッドブル、ベッテルの前に敗れ去った。
2012年に入り、ブローンディフューザーの禁止とノーズの高さ制限という比較的大きな改定が行われると、それまで速さをものにしていたレッドブルが失速、マクラーレンが最速の地位を得るようになった。
しかし、メルセデスAMG、ロータス、さらにはザウバー等中堅チームが大きく速さを得ることで、開幕戦から混戦状態が続いた。そんな中ハミルトン4勝・バトン3勝をあげたものの、中盤以降リタイヤによりポイントを取り損ねるレースが目立ちまたもレッドブル、ベッテルの前に敗れ去った。シーズン中、ハミルトンのメルセデスAMG移籍とセルジオ・ペレスのザウバーからの加入が発表された。
マクラーレン創立50周年の2013年。この年のマシン・MP4/28は今後の開発を見越して高モノコック・フロントプルロッドサスペンションを採用する意欲的なマシンとなった。しかし戦闘力が大幅に欠けており、前半終了時点で優勝・PP無し(最高位5位)、コンストラクターズランキング6位に留まっている。
この低迷により、マクラーレングループのCEOにまでなっていたウィットマーシュが解任された。
代わりに取締役会長に退いていたロン・デニスがCEOに復帰、チームディレクターにロータスのチーム代表を務めたエリック・ブーリエを迎えた。
2014年には、ペレスに代わって、1995年にスポット参戦で同チームからデビューしたヤン・マグヌッセンの息子、ケビン・マグヌッセンを迎えたものの、長らくスポンサーとなっていたボーダフォンとの契約が終わり、シルバーが目立つ寂しいカラーリングになった。
また、新しいPUとなって好調を維持しているメルセデスエンジンユーザーの中でも、開幕戦での表彰台を除いて優勝のみならず表彰台にも届かないほどの低迷を見せた。
マクラーレンはタイトルに返り咲くため、エンジンをワークス待遇で供給してくれるメーカーを探す。そして2015年からの参戦を目論んでいたホンダとの契約に成功、1992年以来となるマクラーレン・ホンダが復活することとなった。タイトルスポンサーは依然得られないまま、マシンMP4/30のカラーはグラファイトグレーという黒に近い色が増えたものとなった。
2015年、チームは再びアロンソを迎え入れ、体制一新を胸にスタートを迎えたものの、オフシーズンではホンダエンジンのトラブルが絶えずにまともな周回もできないありさまでセッティングデータもまともに取れず、さらには原因不明のコントロールを失うトラブルでアロンソが負傷、開幕戦の参戦を断念した。
開幕戦でも予選では参加できなかったマノー・マルシャを除いて、テールエンドにまで落ちてしまった。
しかし、ホンダの弛まない努力によって、徐々に信頼性を確保、戦闘力も向上させることにも成功、スペインGPでは2台ともQ1を突破するようになった。モナコでは初入賞、ハンガリーではダブル入賞を得たものの、マクラーレン・ホンダの栄光を期待したファンやドライバーの不満は高まり続けた。そしてホンダの母国日本GPでは、アロンソが「GP2エンジンだ、GP2!! ああ!!」とブチ切れる無線が世界に放送されてしまい、「GP2エンジン」はホンダPUの代名詞として用いられるようになってしまった。ブラジルGPでは度重なるトラブルで出走できないため、セッション中に椅子で寝ながらひなたぼっこするアロンソが話題になり、コラ画像が量産された。
このようにさんざんな目に遭い続けた2015年のコンストラクターズランキングは、マノーとザウバーを上回ったのみの9位。1980年以来のマクラーレン史上最低記録である。
2016年にはホンダの責任者が新井から長谷川に交代。ニューマシンMP4/31は去年のグラファイトグレーの面積がより増えて、見方によってはほぼ真っ黒であった。さて、成績面ではファステストラップを記録するなど昨年よりは進化を見せて、コンストラクターズ6位につけた。しかしドライバーの不満は相変わらずで、ブラジルGPではやはりトラブルでマシンを止めたアロンソが国際映像のカメラでマシンを映して遊んでいた(なおこのアロンソが撮った映像も世界に中継された)。この年ロン・デニスがマクラーレン・テクノロジー・グループの会長兼CEOを解任され、自身の持っていた株式を売却するなどしてグループから完全に手を引いた。そして、ジェンソン・バトンはF1から引退した。
デニスに代わって、ザク・ブラウンが後継として就任。(ちなみに彼はブラウンGPのロス・ブラウンとは血縁はない)2017年は引退したバトンに代わって、前年初参戦で入賞を記録したストフェル・バンドーンが参戦。マシンもこれまでのMP4シリーズの名を遂に捨て、MCL32と名づけた。カラーリングはオレンジの面積が半分ほどを占め、明るさを感じさせた。
技術規則の大幅な改定、トークン制の撤廃、メルセデスに近い機構のパワーユニットとあってドライバーとファンの期待は膨らんだ。しかし蓋を開けてみればテストすらままならず、開幕6戦まででコンストラクターズランキングはザウバーを下回り最下位。第3戦バーレーンGPではバンドーンはPUトラブルで決勝に出走すらできず、アロンソは完走目前にPUトラブルでリタイアという散々なものだった。アロンソは「直線で300mも後ろにいたマシンに抜かれた!」と無線で訴えた。その後もPUの信頼性に泣き第7戦カナダGPでも入賞圏内でファイナルラップに入るところでPUトラブルが発生している。7戦を終えた段階で、前年型フェラーリPUのザウバーすら下回って最下位・ノーポイントに終わっている。第3戦を前にアロンソは第6戦モナコGPを欠場してインディ500に参戦することを発表したが、これはいかに今のマクラーレン・ホンダに戦闘力が無いかということを象徴する出来事でもある。
マクラーレンはかねてからシャーシ製造能力の低下が指摘されており、2013年以降は強力なエンジンを得ながら下位に沈むことが増えていた。また2014~2015年の失敗は、マクラーレンが提案したサイズ・ゼロコンセプトと呼ばれる空力の自由度重視でPUを小さくまとめる方法が熱害対策に不利だったことが大きな原因である。おまけにロン・デニスがホンダが他チームにも供給することを嫌っており、その結果データの量に大きな不利が出ていた。ザク・ブラウン体制になった後、2018年からザウバーにもカスタマー供給を始めることが決まり、データ不足の克服に期待が高まる。しかし、下記の通りこれは無かったことになってしまった。
一方、ホンダはホンダで取り組む姿勢(「走る実験室」という標語に囚われている、F1を人材育成の場と捉えている、自社の技術でやることにこだわる、慎重すぎる、第三期の反省をしないままセンセーショナルな参戦に走った)に問題があると言われており、ブーリエはそれを一言で「ホンダにはF1文化が根付いていない」と表現した。またホンダのシミュレーション技術が不足しており、一気筒では大丈夫なのに六気筒に組むと振動が発生するなどの弱点も報道されている。
マクラーレンとホンダの片方だけに問題があるわけではないが、ファンの間ではアロンソがしょっちゅう「パワーが足りない!」とアピールしていることや、それに対してホンダが弁明しないことなどから、どちらかと言えばホンダの方に非があると見る向きが多い。海外のチャットを見ると、ホンダが参戦するカテゴリにしょっちゅう「GP2○○」と書き込まれる様になってしまった。この話題はホンダ叩きのためにアクセス数やコメントが稼ぎやすいのか、ニュースも若干連発気味になっており、マクラーレン・ホンダが常勝チームから最底辺チームに転落したという事実を思い知らされる。
そして、かねてから噂が出ていたマクラーレンがホンダを見限る、という話が現実となった。いや、どちらが見限ったのかは定かで無いが、ともあれ2018年はマクラーレンはルノーのPUを積み、ホンダはトロロッソと組み、トロロッソ・ホンダとして再出発することになった。上記のザウバーへの2チーム目供給の話も立ち消えとなった。これによって、マクラーレンは再びトップチームに返り咲けるのか?アロンソはチャンピオン争いに戻れるのか?それは当時の時点ではなんとも言えない話であった。ただ、マクラーレン、トロロッソ両チームにとってこの決断が良い結果となるように願われた。
結局、マクラーレン・ホンダの最終年は2015年同様のワーストであるコンストラクターズ9位に終わったのである。
2018年はマシンはMCL33となった。タイトルスポンサーがないままのボディはオレンジ一色に塗られ、ホンダ時代よりもシンプルなイメージとなった。ドライバーの体制は継続。
ホンダ時代よりもはるかに安定した入賞率を見せるようになったが、表彰台は遠く、PUさえ変われば表彰台争いに復帰できると豪語していたチームには批判が集まることになった。ドライバーも特にバンドーンがトラブルが集中したことでマシンに不満を持つようになる。また、チームディレクターのエリック・ブーリエは更迭され、ジル・ド・フェランがそれに代わることになった。
結局満足できる状況にならなかったアロンソはこの年限りで一旦F1を離れることを表明したが、チームアンバサダーとして関わりは残し、将来のF1復帰には含みをもたせていた。
シーズン途中で来季に軸足を移した事もあって、シーズン後半も戦績は伸び悩んだ。だが、PUを交換する形となったトロロッソのコンストラクターズランキングはどうにか上回る6位となり、チームとしては最低限の面目は保った。
2019年はドライバーラインナップが完全に変わり、ルノーF1から移籍したカルロス・サインツJrとイギリスの新人ランド・ノリスのコンビとなった。マシンはMCL34となり、大幅に進歩した。
前年の戦績から期待感は薄かった。しかし、新たにマネージングディレクターとしてアンドレアス・ザイドルが着任。彼はポルシェWECにおいて、ル・マン24時間レース3連覇などの実績を上げた人物である。彼の手によってデニスが去って以来の「マネージメントの政治化」つまり伝統のあるチームが陥りがちな「大企業病」とも呼べるものの解消を目指した。これら体制の変更が功を奏しつつあり、結果はコンストラクターズランキング4位まで浮上。特に第20戦ブラジルGPでサインツが初めての3位表彰台を得た。これはチームにとってもメルセデスPU時代の2014年開幕戦以来となる表彰台だった。
2020年はドライバーの体制を継続し、マシンもさらに洗練されたMCL35となった。
昨年からの技術陣とマネージメントの体制移行がほぼ終わり、チームアンバサダーとして関係を残していたアロンソも2020年1月でチームとの契約を終了した。
新型コロナの世界的流行の影響でシーズン開幕が大幅に遅れ、スケジュール変更と無観客開催がおこなわれるなど、グランプリ界も異例づくめの進行となったが、チームは前年よりも上を行く戦績を見せるようになった。ランド・ノリスが初表彰台を得た他、サインツもイタリアGPで自己ベストの2位表彰台に登った。最終的にコンストラクターズランキングは3位にまで上昇。優勝こそなかったが久しぶりに名門チームらしい成績を残すことができた。
2021年はPUをメルセデスに積替え、ドライバーもサインツがフェラーリに移籍したためダニエル・リカルドがルノーF1から加入。
マシンは2022年からのレギュレーション大幅刷新もあって、昨年型の改良とされたMCL35M。しかし、メルセデスPUへのチェンジが功を奏して明らかにポテンシャルが上がった。メルセデスAMG、レッドブル・ホンダという2強に予選で割って入ることも珍しくなくなり、優勝を争うことが現実的となってきた。
そして第14戦のイタリアGP、予選2位からスタートを決めたリカルドが終始レースをリードしてトップでチェッカー。ノリスも2位に入り、チームにとって2012年ブラジルGP以来の優勝と、2010年カナダGP以来の1-2フィニッシュを同時に達成した。リカルドにとってもレッドブル在籍時代以来の三年半ぶりの勝利となり、表彰台で久々に喜びにあふれた「シューイ」を披露した。
1974年・1984年・1985年・1988年・1989年・1990年・1991年・1998年
1974年(エマーソン・フィッティパルディ)、1976年(ジェームス・ハント)、1984年(ニキ・ラウダ)、1985年・1986年、1989年(アラン・プロスト)、1988年・1990年・1991年(アイルトン・セナ)、1998年・1999年(ミカ・ハッキネン)、2008年(ルイス・ハミルトン)
掲示板
56 ななしのよっしん
2021/06/30(水) 19:49:00 ID: L+vK8DM6uV
2021年シーズンはメルセデスPUで名門らしさが戻ったな
ペヤング先生とハッキネンの時代以来のメルセデス化はやはり当たりっぽい
57 ななしのよっしん
2021/09/20(月) 23:58:00 ID: iXEHbVBd0M
イタリアGPの勝利&1,2フィニッシュでようやく長い低迷のトンネルを抜け出すことができた…
数年前までの大企業病ともいえる内紛状態からよくここまで戻って来たなと嬉しく思ってしまう
58 ななしのよっしん
2022/01/28(金) 00:55:43 ID: HpXT7mRaCQ
去年のガルフカラーはほんとカッコよかった。ノリスも表彰台で縁起がいいカラーリングにもなったし。公式Twitterの画像だけで判断するのもあれだが今年のカラーリング、ホワイトかシルバーつけてくるのかな?
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最終更新:2025/04/04(金) 12:00
最終更新:2025/04/04(金) 12:00
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