マルクス・アウレリウス・アントニヌス / インペラトル・カエサル・マルクス・アウレリウス・アントニヌス・アウグストゥス(121年~180年)とは、ローマ皇帝で、ローマ五賢帝の五人目、およびアントニヌス朝の初代である。
『自省録』の著者としても名高い五賢帝最後の哲学者皇帝(ルキウス・ウェルス…)。しかし実子コンモドゥスへの帝位継承が後世、養子皇帝制に背いたとして(実態はほぼないも同然だったのではあるが)評判を損ねている。
ローマでスペイン出身の大貴族の家系に生まれる。叔母(伯母?)の夫がアントニヌス・ピウス帝であり、父を幼いころに失った後は祖父の家で育てられた。
また母ドミティア・ルキッラはイタリアの元老院議員の家系であり、ハドリアヌス帝の二度目の養子縁組の際、スペイン系を排除しイタリア系を重用しようとした一度目の養子縁組の反省から、両者の併存をもくろんだともいわれている。母の義理の祖父であるシリア属州総督を務めたカティリウス・セウェルスから教育面で援助を受け、順風満帆な少年期を過ごした。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの『自省録』及び後世の伝記には家庭教師たちの名前が多数残され、幼いころから後の哲学者的な人格形成に影響を及ぼしていた。
ハドリアヌスにかわいがられ、彼の生前からアントニヌス・ピウスの後継者として育てられた。さらにアントニヌス・ピウスの代には当初の予定と異なり、アントニヌス・ピウスの娘で従姉妹のファウスティナと結婚し、皇帝になることが運命づけられていた。とはいえ『自省録』を読む限り、そのような運命は避けたいと思っていた節もある。
かくして161年、同じくアントニヌス・ピウスの養子だったルキウス・ウェルスとともに皇帝位についた。これはマルクス・アウレリウス・アントニヌスの意思で、アントニヌス・ピウスはあくまでもマルクス・アウレリウス・アントニヌスのみを後継者としていた。イタリア系元老院議員への配慮ともいわれている。また、娘ルキッラをルキウス・ウェルスに嫁がせ、義理の兄弟から義理の親子へと関係を変化させている。
即位後最初に起きたのがパルティア戦争とマルコマンニ戦争である。
パルティア戦争とは、ローマ帝国のかつてからの仇敵パルティア王国がトラヤヌスによって属州とされ、ハドリアヌスによって庇護国家となったアルメニア王国を脅かしたことに端を発する。マルクス・アウレリウス・アントニヌスはルキウス・ウェルスに遠征軍を率いさせ、まずパルティア戦争に勝利する。ところが戦勝軍が持ち帰った疫病に見舞わられ、皇帝は消耗した。
マルコマンニ戦争とは、166~167年頃にゲルマン系のランゴバルディ族とオビイ族が帝国内に侵入し、ローマ軍との間に戦いが始まった後、マルコマンニ族を中心としたゲルマン系の部族との間に10年以上にわたっておきた戦争である。両皇帝は軍を率いてこれにあたったが、遠征から引き上げる際ルキウス・ウェルスが亡くなり、マルクス・アウレリウス・アントニヌスが再び軍を率いるも、ゲルマン系の部族の大侵入によって攻撃がイタリアにまで及ぶ。
やがて、3世紀の歴史家ディオが「雨の奇跡」と呼んだ勝利に象徴されるように、171年頃から、ローマ側に有利になった。当初は交渉を進めていたマルクス・アウレリウス・アントニヌスだったが、講話はたびたび破断し、ついに軍事行動によって勝利する。
このようにマルクス・アウレリウス・アントニヌス帝は、その気質とは裏腹に戦いの中に生きた人物であったのだ。
マルクス・アウレリウス・アントニヌスは元老院に敬意を払う一方で、斬新な人材登用を行っていった。アンティオキア出身の騎士身分の家柄の娘婿ポンペイアヌスや、解放奴隷身分の材木商の子で、後に皇帝になるペルティナクスである。マルクス・アウレリウス・アントニヌスの時代には慢性的な戦争状態が続き、騎士身分が大量に元老院議員に加わったのだ。
また『自省録』に記されるように、マルクス・アウレリウス・アントニヌスはストア派の哲学者としても著名な人物である。この真面目な性格は市民にはあまり歓迎されておらず、息子のコンモドゥスの方が市民から気に入られていたかもしれない。とはいえ彼は内外ともに皇帝としての責務を果たそうとし、様々な施策に尽力していった。
ところが今度はシリア属州総督アウィディウス・カッシウスが反乱を起こした。ディオによると皇后ファウスティナに皇帝の息子コンモドゥスの将来をゆだねられたことが原因とされるが、これが事実かどうかはわからない。カッシウスは、シリア属州総督とはいえ、皇帝からほぼ東方全域を任されており、多くの軍団を有していた。ところがカッパドキア属州総督のマルティウス・ウェルスが味方につかず、小アジア以西からの支援は得られなかった。175年の夏には部下に裏切られ、反乱はあっけなく終結したのであった。
皇后ファウスティナが46歳で亡くなると、マルクス・アウレリウス・アントニヌスに残された男子はコンモドゥス一人であった。さらにカッシウスの反乱を受け、177年にマルクス・アウレリウス・アントニヌスはコンモドゥスにアウグストゥスの地位を与え、共同皇帝とする。フラウィウス朝以来の世襲である。
やがてドナウ国境方面で再度戦争が始まる。コンモドゥスとともに出陣し、ローマ軍の優位に展開する中180年にマルクス・アウレリウス・アントニヌスは亡くなった。やがて192年にコンモドゥスが暗殺され、ペルティナクス、ディディウス・ユリアヌスのわずかな治世を挟むと、セウェルス朝へと移っていく。
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