マル生運動とは、1970年3月から1971年10月までの国鉄において行われた当局主導の運動である。生産性向上運動ともいう。
1964年に国鉄は史上初めて単年度の赤字を計上した。1960年代後半の国鉄は様々な合理化・人員配置転換を実行しており、それに対して国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)という2つの労働組合が猛烈な反対運動を行っていた。つまり、1960年代後半の国鉄は労使の紛争が激しい状態だった。
国鉄当局は1970年3月からマル生運動という運動を始めた。労使協調による生産性向上の重要性を説いて過剰な労使対立を和らげることを目的とする運動だった。この運動に関係する書類には「生」の字を丸で囲んだスタンプを押したためマル生(マルセイ)と呼ばれるようになった。
1971年8月から国労と動労はマル生運動に反対する闘争を始めた。
1971年10月になって、マル生運動に伴って静岡鉄道管理局で管理職の人物が国労の組合員に対して国労からの脱退を迫ったことが明らかになった。その件について公共企業体等労働委員会が救済命令を出し、国鉄当局がその救済命令を受け入れて国労に陳謝した。そして磯崎叡総裁がマル生運動の中止を決定した。
マル生運動を挫折させたことで国労・動労は大いに勢いづき、さらに苛烈な労働運動をするようになった。国労や動労は順法闘争の頻度をさらに増やし、1975年11月のスト権ストへと突き進んでいった。
1964年度に国鉄が史上初めて単年度の赤字に転落した。その赤字は1986年度まで毎年続くことになった。
1965年度から7年計画で実施される第三次長期計画において、国鉄は蒸気機関車の削減とディーゼル機関車への転換を推進した。蒸気機関車は機関士と機関助士の2人が必要だがディーゼル機関車は機関士1人だけで済む。また蒸気機関車は燃料補給施設と人員が多く確保せねばならないがディーゼル機関車は燃料補給施設と人員が少なくて済む。つまり第三次長期計画は既存の人員の配置転換という合理化を伴うものだった。
そして1967年3月31日になって国鉄は1968年10月のダイヤ改正までに5万人の人員を事実上合理化することを打ち出した[1]。
これに対して国労・動労が強く反発しており、激しい労働運動を繰り返すようになった。1960年代の後半からすでに国鉄の各所でストライキが行われていた。
1969年5月に国鉄総裁に就任した磯崎叡は、国労・動労といった対決型の労働組合に対して毅然とした態度で臨もうとしたことがうかがわれる人物だった[2]。
1969年11月から12月にかけて国鉄は「日本国有鉄道運転指導者研修」と呼ばれる三泊四日の研修を5回開催し、199人を参加させた。国鉄の機関区・動力車区の中でも労使対立が激しいと思われる所を20ヶ所選び、現場管理職やベテラン職員を東京代々木のオリンピック記念青少年総合センターに呼び寄せ、財団法人日本生産性本部の深沢敏郎労働部長など様々な外部の講師の講義を受けさせ、参加者同士の討論を行わせるものだった。一連の研修の内容は、これまでの技術的な研修とは全く違っており、現代社会の中での国鉄の役割やそこに働く鉄道員の位置づけ、労使紛争の焦点となっていた近代化と合理化にどのように対応すべきか、といったことなどが語られた。講師の深沢敏郎は労使協調による生産性向上運動の意義を強調した[3]。
1970年3月に磯崎叡総裁は日本生産性本部の郷士浩平理事長と会談し協力を要請した。郷士浩平理事長は協力を約束し、これにより国鉄のマル生運動(生産性向上運動)が本格的に着手されることが決まった[4]。
同じ3月に国鉄はマル生運動を推進するため職員局養成課を職員局能力開発課に改組し、全国の鉄道管理局に能力開発課を新設していった[5]。能力開発課からはほぼ毎日「能力開発情報」というガリ版1枚の手書きの冊子が発行され、マル生運動の具体例を掲載して全国に発信していった[6]。そして、職員研修を繰り返していった。
マル生運動を続けるうちに国労や動労といった対決型組合からの脱退者が急増し、鉄労(鉄道労働組合)の人数が増えていった[7]。鉄労は労使協調路線を重視しており、国労・動労から御用組合と批判される存在であった。
これに対して国労は1971年8月の第32回定期大会からマル生運動への批判を本格的に強めていった。このときは国労の組合員が「マル生粉砕」と書かれた服を着て電車の中でデモ行進をすることも行われた[8]。
マル生運動を支持する者の一部には、勤務時間外の非番の日に職場に出てきて掃除や施設の塗装といった労働をする人がいた[9]。これはサービス残業であり、無賃労働であり、やりがい搾取であり、対決型の労働組合としては最も嫌う行動である。
国労・動労は、国鉄の現場管理職が国労・動労の組合員に対して昇給や昇格などを条件に国労・動労からの脱退を迫るこういがないかどうか、その摘発に努めた。国労・動労はそうした事案を不当労働行為とみており、1971年までに公共企業体等労働委員会に74件の救済申し立てを行っている[10]。
1971年10月8日に、静岡鉄道管理局で国労からの脱退を強要する不当労働行為が行われたことを公共企業体等労働委員会が正式に認定し、国鉄当局に対して国労への陳謝を求める救済命令を通告した。
翌9日には、国労が録音テープを暴露した。水戸鉄道管理局の能力開発課長が管理者数人を集めたホテルの一室で「知恵をしぼった不当労働行為をやれ」という発言をしたことを録音したテープであった。
磯崎叡総裁は静岡鉄道管理局の件について行政訴訟に持ち込むことを検討していたが、日本社会党からの批判が相次ぎ、佐藤栄作内閣や自民党の内部で「沖縄返還協定の批准を最大の争点とする臨時国会がまもなく始まるので事態を収拾させておきたい」という意見が浮上するようになった[11]。そして原健三郎労働大臣が国鉄の労使紛争の仲介に乗り出すようになった。
10月11日には磯崎叡総裁が行政訴訟を起こさず公共企業体等労働委員会の救済命令に従うことを記者会見と衆議院社会労働委員会で表明した(資料
)。
10月23日に国鉄当局が国労に陳謝文を手渡し、山田明吉副総裁など16人の処分を発表した。その16人の中にはマル生運動に関わった真鍋洋職員局長を左遷する処分が含まれていた。
10月29日には磯崎叡総裁が組合員に対する生産性教育を中止すると発表した。こうしてマル生運動に終止符が打たれた。
生産性向上運動を挫折させたことにより、国労・動労は大いに勢いづき、1975年のスト権ストに突き進む下地ができあがっていった。
鉄道の現場では、国労・動労によって、駅長・助役などの現場管理者やマル生運動を推進した者に対して責任追及の激しい攻撃が加えられていった[12]。
のちに国労の書記長としてスト権ストを指揮した富塚三夫は「われわれ(組合の上層部)が、勝ってかぶとの緒を締めようとしても、簡単に上からコントロールできる状況ではなかった。雨の中でも働き、一歩まちがえれば人命が危ない状況とか、長時間労働とかに耐えてきた鉄道労働者の根性というのは普通の労働者とは違う。いじめられただけ職制をいじめ返してやろう、というような状況になったのは事実です」と語っている[13]。当時の国鉄の現場における国労・動労の組合員の巻き返しが激しかったことをうかがわせる発言である。
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