ミカロユス・チュルリョーニス 単語

ミカロユスチュルリョーニス

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ミカロユス・チュルリョーニス1875~1911)とは、リトアニア出身の画作曲である。
なおフルネームミカユスコンスタンティナス・チュルリョーニスである。

概要

リトアニア南部のヴァレーナで、オルガン奏者のに生まれた。父親長男であった彼にオルガンを教え、やがてブルンゲのミハウ・オギンスキ公爵の施設管弦楽団フルート奏者として加わり、1894年から公爵の援助の下ワルシャ音楽院で学んだ。

当初はピアノを専攻していたものの手のけがで断念、作曲としてのキャリアスタートする。卒業後しばらくは教師として活動する傍ら作曲活動を続けたが、やがて1901年にライプツィヒ音楽院へと向かう。ここではカール・ライネッケに学び、当時すでに高齢で守旧的なライネッケに時には対立したものの、おおむね向学心あふれる学生にライネッケは好意的に接したとされる。しかし、オギンスキ公爵という経済的後ろを失った彼はしぶしぶ帰郷することになったのである。

自分の音楽があまりにも取り上げられないことに失望した彼は思い切って美術へのに進み、そのことが作曲にもしていく。しかし、民謡研究頭し始めたチュルリョーニスを当時の社会情勢いやおうなしに巻き込んだ。彼はリトアニア芸術協会を設立し、また民的音楽の称揚をし、さながらフィンランドにおけるシベリウスのごとく社会活動に身を投じたのである。しかし35年という短い生涯を終え、リトアニアの数年ぶりの独立は彼の生きているうちには達成されず、また彼の絵や音楽がようやく取り上げられるのも同じく彼の死後のことであった。

しかしさらに政治情勢は予断を許さない。第1次世界大戦ソヴィエト連邦の成立によって彼の絵画、および音楽の普及は押しとどめられてしまったのである。彼の再評価が始まるのは1960年代の「解け」の時代になってようやくであり、近年になってようやく名前が知られるようになった作曲であるのだ。

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