ミルリーフとは、以下のものを指す。
ここでは1について記述する。
父Never Bend(ネヴァーベンド)、母Milan Mill(ミランミル)、母父Princequillo(プリンスキロ)という血統で、アメリカ・ヴァージニア州にロークビーステーブルという牧場を所有していた大富豪のポール・メロンによって生産された。
ミルリーフ(Mill Reef)という名前は、馬主が別荘を持っていたアンティグア・バーブーダの小島にある海岸からとられたものである。均整の取れた美しい馬体ではあったが、体高は150cm強と小さめで力馬に見えなかったこともあり、ミルリーフはイギリスの新進気鋭であるイアン・ボールディング調教師に預けられた。穏やかな性格だったが走るのが大好きで、調教が終わって厩舎に帰るのを嫌がったほどだったという。ジャスティスやステゴに爪の垢でも煎じて飲ませるべき。
入厩してから1ヶ月も経たない内に取材に来たジョン・オークシーという人物(負傷騎手基金などの設立で多大な功績を挙げた)が「あれは何という馬ですか?」と驚いて尋ねるほどの素質を披露していたミルリーフは、デビュー戦で単勝1.22倍の圧倒的支持を受けていた既走馬に4馬身差をつけ圧勝。次戦のコヴェントリーS(現GII[1]・6ハロン)はなんと6ハロン戦だというのに8馬身ぶっちぎり、この時点でミルリーフはその年の三冠馬ニジンスキーと比較され得るほどの逸材だと見做される。
しかし、フランスに遠征して出走したロベール・パパン賞(1100m)では後の本邦輸入種牡馬*マイスワローとの激戦の末に短頭差2着に敗れる。初の遠征で飼葉を食わなくなり、げっそり痩せていたことが敗因だったと言われる。ちなみに*マイスワローはこの後モルニ賞・サラマンドル賞・仏グランクリテリウムと勝ってフランスの2歳戦を総なめにすることになる。
さて、一敗地に塗れたミルリーフだったが、イギリスに帰るとジムクラックS(現GII・6ハロン)を極悪馬場の中で馬なりのまま10馬身ちぎって圧勝。身のこなしが軽い馬で、不良馬場はまったく苦にしない馬であったらしい。
更にインペリアルS(6ハロン)では調整不足ながら1馬身差で勝利し、デューハーストS(現GI・7ハロン)では先行抜け出しから4馬身差で快勝して、6戦5勝で2歳戦を終える。この年のタイムフォーム社のレーティングでは三冠馬ニジンスキー(131ポンド)を超える133ポンドの数値を得ている。
3歳になったミルリーフの目標はもちろん2000ギニーとダービーステークス。前哨戦のグリーナムステークス(GIII・7ハロン)を馬なりで4馬身差快勝し、勇躍2000ギニー(GI・1マイル)に乗り込んだのだが……ここにいたのが4戦全勝のミドルパークS(現2歳GI)勝ち馬ブリガディアジェラードであった。このブリガディアジェラードとミルリーフ、そして先述の*マイスワローが出走したせいで他の馬の回避が相次ぎ、レースは僅かに6頭立てであった。
……結果から言うと、このレースはブリガディアの強さばかりが目立つ結果に終わった。ブリガディアジェラードは*マイスワローと競り合うミルリーフをあっさりと置き捨てて独走でゴール。ミルリーフ鞍上のジェフ・ルイス騎手は「相手が視界に入った瞬間に全てが終わっていた。敵はあまりにも速く、あまりにも強かった」と降参するしかなかった。
ちなみにこのブリガディアジェラードは後に15連勝を達成してタイムフォーム社の「世界の名馬100選」で第3位に選ばれたほどの名馬であり、イギリスでは現在でも物凄く評価の高いスピード馬である。現代の目線から見ると、流石のミルリーフもマイルでは分が悪かったのだろう[2]。
続くダービーステークス(GI・12f6y≒2420m)ではブリガディアジェラードと*マイスワローが「なげーよ」ということで回避した(ついでに言うとブリガディアの方は登録すらしていなかった)。父ネヴァーベンドが中長距離実績皆無だったことからスタミナ不足が囁かれたが、結局プール・デッセ・デ・プーリッシュ(仏2000ギニー)を勝った*ズグやオブザーヴァーゴールドカップ(現2歳GI・レーシングポストトロフィー)の勝ち馬*リンデントリーらを抑えて1番人気に支持された。そして迎えたレースでは先行して2馬身抜け出す横綱相撲で完勝し、距離不安説を一蹴した。
古馬との初対決になったエクリプスS(GI・10ハロン)では当時のマイル路線最強古馬ウェルシュページェントとイスパーン賞などを勝ったフランスの有力馬カロなどを相手にコースレコードで圧勝。この頃からニジンスキーと比較され始めたミルリーフは、続けてキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(GI・11f211y≒2406m)へと向かい、愛ダービーを勝ってきた*アイリッシュボールらを全く問題にせず、2着以下をリボーの記録を上回る6馬身差で一蹴し圧勝。勝ち時計は前年のニジンスキーのそれより3秒以上速かった。
走れば走るほど差が開くようなレース振りは空を飛んでいるかのようであり、ニジンスキーの主戦騎手であったレスター・ピゴット騎手でさえ「ミルリーフは今まで見てきた中で最高の馬だ」と発言するようになった。
そんなミルリーフのシーズン最後の大目標は凱旋門賞(GI・2400m)である。なに? セントレジャーに出なかったのかって? 馬鹿なことを言うんじゃありません。[3]
もちろんゆっくり休養をとり、更にボールディング師がアメリカ大使に掛け合ってアメリカ軍基地から特別機を仕立ててフランス入りするという荒業を敢行。万全の状態でロンシャンへと乗り込んだ。
レースではカロや*アイリッシュボール、そしてヴェルメイユ賞やディアヌ賞(仏オークス)など3歳牝馬路線を総ナメにしていた地元のピストルパッカーなどを相手に単勝1.7倍に支持され、そして期待通りの強さを発揮。直線で一気に抜け出すと、2着ピストルパッカーに3馬身差をつけてコースレコードで圧勝。イギリス調教馬として23年ぶりの凱旋門賞馬となった。
この結果、ミルリーフは日本で「欧州3大レース」として紹介されることが多い英ダービー・キングジョージ・凱旋門賞を1頭で制覇した初めての馬となった。これはかのニジンスキーですら出来なかった偉業であり、現在でも他の達成馬は*ラムタラがあるのみである。この年のタイムフォーム社のレーティングではブリガディアジェラードと並んで当時史上6位タイとなる141ポンドの高評価を得ている。
翌年、古馬になってもまだ強くなると感じた馬主の意向により、ミルリーフは凱旋門賞連覇を目指して現役を続行。公開調教で僚馬を12馬身ちぎり捨ててパフォーマンスをアピールした後、4月のガネー賞(GI・2100m)をシーズン初戦として渡仏。単勝1.1倍に支持されると完成された素晴らしい走りを見せ、10馬身(公式記録、実際には12馬身とも20馬身とも言われる)という大差で圧勝した。
このレースで対戦相手の1頭*ロンバード(前年の愛ダービー2着馬)に騎乗していた野平祐二騎手(当時、後に調教師としてシンボリルドルフを手掛ける)は、後にミルリーフについてこう記している。
(前略)ミルリーフは決して立派に見せる馬ではない。この程度の馬だったらわれわれでも作ることができると思ったほどだ。ところが、いざ競馬をしたらまるで違った。レースでの強さといったらなかった。乗っていた騎手には失礼かもしれないが、誰が乗っても勝てる、と思えるほどだった。
ミルリーフとの対戦によって、「強い」と「勝つ」の意味の違いを真剣に考えざるを得なくなった。いくらか力が劣っていても騎乗技術によって勝たせる、というのが当時の私のスタンスであった。ミルリーフとの出会いは、それを根本から覆されるほど衝撃的だったのだ。「これまで日本でやってきた競馬はごまかしの競馬ではないか」と思い悩むほどに。
「勝ったから強い」ではなく、「強いから勝つ」。そうした馬を作らなければダメ。(後略)
さて、もはや向かうところ敵無しの勢いとなったミルリーフは、次走への叩き台としてコロネーションカップ(GI・12f6y≒2420m)に出走したが、この時は悪天候で調教が不十分だったこともあってか絶不調。抜け出したホメリックを交わしきれずに叩き合いに持ち込まれ、何とか辛勝。あれ? どうしたんだ? と思ったら、実はミルリーフ、この時ウイルス性疾患に罹患していたのであった。
ちなみにこの時はセントレジャー2着馬という程度だったホメリックだが、この年の凱旋門賞では残り200mで故障しながら3着に入る実力を見せている。
閑話休題、こうなればファンが気になるのはあの馬との再戦。そう、ブリガディアジェラードとの決着である。ブリガディアジェラードはダービーを回避してから中距離戦で破竹の連勝を飾り、デビューからの連勝を13に伸ばしていたのだった。
再戦の舞台は前年ミルリーフがレコード勝ちしたエクリプスSに予定された。どちらも適距離範囲内のここなら決着の舞台に相応しい。競馬ファンの期待は最高潮に達したのだが……なんとレース10日前になってミルリーフのウイルス性疾患が再発。エクリプスSへの出走計画はおじゃんになり、ブリガディアジェラードとの対決は幻となったのだった。
病から回復したミルリーフはベンソン&ヘッジスゴールドカップ(現:インターナショナルS・GI)に向かう予定だったが、ここも脚の腫れで回避し、ファンは失望を余儀なくされた。そしてそれに追い打ちをかけるように、ミルリーフ不在のレースではブリガディアジェラードがこの年の英ダービー馬ロベルトに敗れて生涯初の(そして結果的に唯一の)黒星を喫してしまい、ファンは更なる悲しみに暮れた。
ミルリーフとブリガディアジェラード。2頭の歴史的名馬は結局、2000ギニーでのただ一度しか直接対決することはなかったのである。実に惜しい。
さて、凱旋門賞連覇が最大にして唯一の目標となったミルリーフは、前哨戦に向けて調教を積んでいた。
……しかし、ここでとんでもないアクシデントが起こる。調教中に躓いて、左前脚の管骨と種子骨を骨折してしまったのである。この骨折は非常に重大なもので、予後不良でもおかしくないほどのものだった。正直言って、普通は助からないレベルである。
大富豪の馬主はアメリカから大獣医団を緊急派遣。6時間に及ぶ大手術が行われ、ミルリーフの脚には金属プレートが入れられ、ギプスで固定された。手術は成功だった。
しかしながら、テンポイントなどの例を見れば分かるように、こういう手術で問題になるのはこの後である。馬は3本脚では身体を支えられないので、怪我をした脚でもギプスを頼りにしっかりと立たなければならない。もちろん絶対安静である。痛みもある。これまでに多くの馬がこれに耐えられず、暴れ、衰弱し、結局命を落としていった。
しかしミルリーフはじっと耐えた。身体が小さく、脚にかかる負担が元々小さかったことも幸いしたが、それよりも何よりも、ミルリーフの賢さ、そして周囲のスタッフの愛情と信頼関係がこの危機を乗り越えた大きな原動力であっただろう。
そしてミルリーフは身動きもままならない6週間を乗り越え、無事に生還を果たしたのだった。流石に競走馬としては復帰出来なかったものの、普通に歩けるくらいまでの回復は果たすことが出来たのである。ミルリーフにとってこれは、これまで得た優勝にも負けない偉大な勝利であったのだ。
生還を祝いにやって来た約1500人の競馬ファンに惜しまれながら厩舎を旅立ったミルリーフは、当時のイギリス最高額となる200万ポンド(当時のレートで約17億2800万円)のシンジケートを組まれて、ニューマーケット州のナショナルスタッドで種牡馬入りした。通算成績は14戦12勝2着2回で連対率100%であった。
ミルリーフのトレードマークは白いシャドーロールであった。そういった外見も含めて、競走馬としてのタイプは後の三冠馬ナリタブライアンに近かった。日本のライター・石川ワタル氏はこう綴っている。
ナリタブライアンは他のどの馬よりも英国の名馬ミルリーフ(英ダービー・キングジョージ・凱旋門賞)に似ていた。追われると地の果てまでも伸びていく。終盤のスピードの持続力がケタ違いだった。中型馬なのも同じ。白いシャドーロールも同じ。
(「ナリタブライアン物語(後編)」による)
非常に身のこなしが軽く、走っても足跡が付かず「幽霊のようだ」と言われた。この身のこなしが生んだ切れはヨーロッパ競馬ではあまり見られない凄まじいもので、小さな馬体が飛ぶように伸びる様はどこと無く後のディープインパクトを思わせる。よく比較されるニジンスキーが雄大な馬格と厚い末脚を持ち味にしていたのと対照的で、当時のファンは是非とも直接対決を見てみたかったのではないだろうか。
種牡馬入りしたミルリーフは大成功を収め、全盛期のノーザンダンサーと渡り合いながら2度のイギリスリーディングサイアーに輝いた。英愛ダービー馬シャーリーハイツやその産駒でジョッケクルブ賞(仏ダービー)を制したダルシャーンは欧州で成功を収め、日本に輸入された産駒からもリーディングサイアーの*ミルジョージやミホノブルボンの父*マグニテュードなどを出している。現在でもダルシャーンの系統はヨーロッパで確実な地位を築いており、これからもサラブレッドの血統に影響を与え続ける事だろう。
こうして競走馬としても種牡馬としても父ネヴァーベンドの最高傑作の1頭に数えられる大活躍を挙げたミルリーフは、1986年に18歳で死亡。タイムフォーム社の「世界の名馬100選」では8位にランクされている。
ミルリーフはその名に相応しい、美しく、そして素晴らしい名馬であった。
Never Bend 1960 鹿毛 |
Nasrullah 1940 鹿毛 |
Nearco | Pharos |
Nogara | |||
Mumtaz Begum | Blenheim | ||
Mumtaz Mahal | |||
Lalun 1952 鹿毛 |
Djeddah | Djebel | |
Djezima | |||
Be Faithful | Bimelech | ||
Bloodroot | |||
Milan Mill 1962 鹿毛 FNo..22-d |
Princequillo 1940 鹿毛 |
Prince Rose | Rose Prince |
Indolence | |||
Cosquilla | Papyrus | ||
Quick Thought | |||
Virginia Water 1953 芦毛 |
Count Fleet | Reigh Count | |
Quickly | |||
Red Ray | Hyperion | ||
Infra Red | |||
競走馬の4代血統表 |
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最終更新:2024/04/24(水) 04:00
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