ミルリーフ 単語

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ミルリーフ

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ミルリーフとは、以下のものをす。

  1. 1968年生まれのイギリス競走馬。ちなみに
  2. サモンナイト4に出てくるキャラクター。ちなみに女の子
  3. ロードス島戦記などで知られるフォーセリア世界に出てくる架。ちなみに邪神
  4. 日本のスニーカーブランドの一つ。1.の競走馬に命名の由来がある。ちなみに男女兼用。

ここでは1について記述する。

概要

Never Bend(ネヴァーベンド)、Milan Mill(ミランミル)、Princequillo(プリンスキロ)という血統で、アメリカヴァージニア州にロークビーステーブルという牧場を所有していた大富豪ポールメロンによって生産された。

入厩~2歳

ミルリーフ(Mill Reef)という名前は、馬主が別荘を持っていたアンティグア・バーブーダ小島にある海岸からとられたものである。均整の取れた美しい体ではあったが、体高は150cm強と小さめでに見えなかったこともあり、ミルリーフはイギリスの新進気鋭であるイアンボールディン調教師に預けられた。穏やかな性格だったが走るのが大好きで、調教が終わって厩舎に帰るのを嫌がったほどだったという。ジャスティスステゴでも煎じて飲ませるべき。

入厩してから1ヶも経たない内に取材に来たジョンオークシーという人物(負傷騎手などの設立で多大な功績を挙げた)が「あれは何というですか?」と驚いて尋ねるほどの素質を披露していたミルリーフは、デビュー戦で単勝1.22倍の圧倒的支持を受けていた既走に4身差をつけ圧勝。次戦のコヴェントリーS(現GII[1]・6ハロン)はなんと6ハロン戦だというのに8ぶっちぎり、この時点でミルリーフはその年の三冠馬ニジンスキー較され得るほどの逸材だと見做される。

しかし、フランスに遠征して出走したロベールパパン賞(1100m)では後の本邦輸入種牡馬*マイスローとの戦の末に短頭差2着に敗れる。初の遠征で飼葉を食わなくなり、げっそり痩せていたことが敗因だったと言われる。ちなみに*マイスローはこの後モルニ賞・サラマンドル賞・グランクリテリウムと勝ってフランスの2歳戦を総なめにすることになる。

さて、一敗地に塗れたミルリーフだったが、イギリスに帰るとジムクラックS(現GII・6ハロン)を極悪馬場の中でなりのまま10身ちぎって圧勝。身のこなしが軽いで、不良馬場はまったく苦にしないであったらしい。
更にインペリアルS(6ハロン)では調整不足ながら1身差で勝利し、デューハーストS(現GI・7ハロン)では先行抜け出しから4身差で快勝して、6戦5勝で2歳戦を終える。この年のタイムフォーム社のレーティングでは三冠馬ニジンスキー(131ポンド)をえる133ポンドの数値を得ている。

3歳

3歳になったミルリーフの標はもちろん2000ギニーダービーステークス。前戦のグリーナムステークス(GIII・7ハロン)をなりで4身差快勝し、勇躍2000ギニー(GI・1マイル)に乗り込んだのだが……ここにいたのが4戦全勝のミドルパークS(現2歳GI)勝ちブリガディアジェラードであった。このブリガディアジェラードとミルリーフ、そして先述の*マイスローが出走したせいで他のの回避が相次ぎ、レースは僅かに6頭立てであった。

……結果から言うと、このレースブリガディアの強さばかりが立つ結果に終わった。ブリガディアジェラードは*マイスローと競り合うミルリーフをあっさりと置き捨てて独走でゴール。ミルリーフ上のジェフルイス騎手は「相手が視界に入った間に全てが終わっていた。敵はあまりにも速く、あまりにも強かった」と降参するしかなかった。
ちなみにこのブリガディアジェラードは後に15連勝を達成してタイムフォーム社の「世界の名100選」で第3位に選ばれたほどの名であり、イギリスでは現在でも物凄く評価の高いスピードである。現代の線から見ると、流石のミルリーフもマイルでは分が悪かったのだろう[2]

続くダービーステークス(GI・12f6y≒2420m)ではブリガディアジェラードと*マイスローが「なげーよ」ということで回避した(ついでに言うとブリガディアの方は登録すらしていなかった)。ネヴァーベンドが中長距離実績皆無だったことからスタミナ不足が囁かれたが、結局プール・デッセ・デ・プーリッシュ(2000ギニー)を勝った*ズグやオブザーヴァーゴールドカップ(現2歳GI・レーシングポストトロフィー)の勝ち*リンデントリーらを抑えて1番人気に支持された。そして迎えたレースでは先行して2身抜け出す横綱相撲勝し、距離不安説を一蹴した。

との初対決になったエクリプスS(GI・10ハロン)では当時のマイル路線最強ウェルシュページェントとイスパーン賞などを勝ったフランスの有カロなどを相手にコースレコードで圧勝。この頃からニジンスキー較され始めたミルリーフは、続けてキングジョージⅥ世&クイーンエリザベスS(GI・11f211y≒2406m)へと向かい、愛ダービーを勝ってきた*アイリッシュボールらを全く問題にせず、2着以下をリボー記録を上回る6身差で一蹴し圧勝。勝ち時計は前年のニジンスキーのそれより3以上速かった。
走れば走るほど差が開くようなレース振りはを飛んでいるかのようであり、ニジンスキー騎手であったレスター・ピゴット騎手でさえ「ミルリーフは今まで見てきた中で最高の」と発言するようになった。

そんなミルリーフのシーズン最後の大標は凱旋門賞(GI・2400m)である。なに? セントレジャーに出なかったのかって? 馬鹿なことを言うんじゃありません。[3]
もちろんゆっくり休養をとり、更にボールディング師がアメリカ大使に掛け合ってアメリカ軍基地から特別機を仕立ててフランス入りするという荒業を敢行。万全の状態でロンシャンへと乗り込んだ。

レースではカロや*アイリッシュボール、そしてヴェルメイユ賞やディアヌ賞(オークス)など3歳路線を総ナメにしていた地元のピストルパッカーなどを相手に単勝1.7倍に支持され、そして期待通りの強さを発揮。直線で一気に抜け出すと、2着ピストルパッカーに3身差をつけてコースレコードで圧勝。イギリス調教として23年ぶりの凱旋門賞となった。

この結果、ミルリーフは日本で「欧州3大レース」として紹介されることが多い英ダービーキングジョージ凱旋門賞を1頭で制覇した初めてのとなった。これはかのニジンスキーですら出来なかった偉業であり、現在でも他の達成は*ラムタラがあるのみである。この年のタイムフォーム社のレーティングではブリガディアジェラードと並んで当時史上6位タイとなる141ポンドの高評価を得ている。

4歳~引退

翌年、古になってもまだ強くなると感じた馬主の意向により、ミルリーフは凱旋門賞連覇をして現役を続行。公開調教で僚を12身ちぎり捨ててパフォーマンスアピールした後、4月ガネー賞(GI2100m)をシーズン初戦として渡。単勝1.1倍に支持されると完成された素晴らしい走りを見せ、10身(公式記録、実際には12身とも20身とも言われる)という大差で圧勝した。
このレースで対戦相手の1頭*ロンバード(前年の愛ダービー2着)に騎乗していた野平祐二騎手(当時、後に調教師としてシンボリルドルフを手掛ける)は、後にミルリーフについてこう記している。

(前略)ミルリーフは決して立に見せるではない。この程度のだったらわれわれでも作ることができると思ったほどだ。ところが、いざ競馬をしたらまるで違った。レースでの強さといったらなかった。乗っていた騎手には失礼かもしれないが、が乗っても勝てる、と思えるほどだった。

ミルリーフとの対戦によって、「強い」と「勝つ」の意味の違いを真剣に考えざるを得なくなった。いくらかが劣っていても騎乗技術によって勝たせる、というのが当時の私のスタンスであった。ミルリーフとの出会いは、それを根本から覆されるほど衝撃的だったのだ。「これまで日本でやってきた競馬ごまかし競馬ではないか」と思い悩むほどに。

「勝ったから強い」ではなく、「強いから勝つ」。そうしたを作らなければダメ。(後略)

(エッセイ「口笛吹きながら」(2001年)による)

さて、もはや向かうところ敵しの勢いとなったミルリーフは、次走への叩き台としてコロネーションカップ(GI・12f6y≒2420m)に出走したが、この時は悪調教が不十分だったこともあってか絶不調。抜け出したホメリックを交わしきれずに叩き合いに持ち込まれ、何とか辛勝。あれ? どうしたんだ? と思ったら、実はミルリーフ、この時ウイルス性疾患に患していたのであった。
ちなみにこの時はセントレジャー2着という程度だったホメリックだが、この年の凱旋門賞では残り200mで故障しながら3着に入る実を見せている。

閑話休題、こうなればファンが気になるのはあのとの再戦。そう、ブリガディアジェラードとの決着である。ブリガディアジェラードダービーを回避してから中距離戦で破の連勝を飾り、デビューからの連勝を13に伸ばしていたのだった。
再戦の舞台は前年ミルリーフがレコード勝ちしたエクリプスSに予定された。どちらも適距離範囲内のここなら決着の舞台に相応しい。競馬ファンの期待は最高潮に達したのだが……なんとレース10日前になってミルリーフのウイルス性疾患が再発。エクリプスSへの出走計画はおじゃんになり、ブリガディアジェラードとの対決となったのだった。

病から回復したミルリーフはベンソン&ヘッジスゴールドカップ(現:インターナショナルSGI)に向かう予定だったが、ここも脚の腫れで回避し、ファンは失望を余儀なくされた。そしてそれに追い打ちをかけるように、ミルリーフ不在のレースではブリガディアジェラードがこの年の英ダービーロベルトに敗れて生涯初の(そして結果的に一の)を喫してしまい、ファンは更なる悲しみに暮れた。

ミルリーフとブリガディアジェラード。2頭の歴史的名は結局、2000ギニーでのただ一度しか直接対決することはなかったのである。実に惜しい。

さて、凱旋門賞連覇が最大にして一の標となったミルリーフは、前戦に向けて調教を積んでいた。
……しかし、ここでとんでもないアクシデントが起こる。調教中に躓いて、左前脚の管と種子骨折してしまったのである。この骨折は非常に重大なもので、予後不良でもおかしくないほどのものだった。正直言って、普通は助からないレベルである。

大富豪馬主アメリカから大医団を緊急派遣6時間に及ぶ大手術が行われ、ミルリーフの脚には金属プレートが入れられ、ギプスで固定された。手術は成功だった。

しかしながらテンポイントなどの例を見れば分かるように、こういう手術で問題になるのはこの後である。は3本脚では身体を支えられないので、怪をした脚でもギプスを頼りにしっかりと立たなければならない。もちろん絶対安静である。痛みもある。これまでに多くのがこれに耐えられず、暴れ、衰弱し、結局命を落としていった。

しかしミルリーフはじっと耐えた。身体が小さく、脚にかかる負担が元々小さかったことも幸いしたが、それよりも何よりも、ミルリーフの賢さ、そして周囲のスタッフ情と信頼関係がこの危機を乗り越えた大きな原動であっただろう。

そしてミルリーフは身動きもままならない6週間を乗り越え、事に生還を果たしたのだった。流石競走馬としては復帰出来なかったものの、普通歩けるくらいまでの回復は果たすことが出来たのである。ミルリーフにとってこれは、これまで得た優勝にも負けない偉大な勝利であったのだ。

生還を祝いにやって来た約1500人の競馬ファンに惜しまれながら厩舎を立ったミルリーフは、当時のイギリス最高額となる200万ポンド(当時のレートで約17億2800万円)のシンジケートを組まれて、ニューマーケット州のナショナルスタッドで種牡馬入りした。通算成績は14戦12勝2着2回で連対率100%であった。

ミルリーフのトレードマークシャドーロールであった。そういった外見も含めて、競走馬としてのタイプは後の三冠馬ナリタブライアンに近かった。日本ライター石川ワタル氏はこうっている。

ナリタブライアンは他のどのよりも英国の名ミルリーフ(英ダービーキングジョージ凱旋門賞)に似ていた。追われると地の果てまでも伸びていく。終盤のスピードの持続がケタ違いだった。中なのも同じ。シャドーロールも同じ。

(「ナリタブライアン物語(後編)exit」による)

非常に身のこなしが軽く、走っても足跡が付かず「幽霊のようだ」と言われた。この身のこなしが生んだ切れはヨーロッパ競馬ではあまり見られない凄まじいもので、小さな体が飛ぶように伸びる様はどことく後のディープインパクトを思わせる。よく較されるニジンスキー雄大格と厚い末脚を持ち味にしていたのと対照的で、当時のファンは是非とも直接対決を見てみたかったのではないだろうか。

種牡馬として

種牡馬入りしたミルリーフは大成功を収め、全盛期ノーザンダンサーと渡り合いながら2度のイギリスリーディングサイアーいた。英愛ダービーシャーリーハイツやその産駒ジョッケクルブ賞(仏ダービー)を制したダルシャーンは欧州で成功を収め、日本に輸入された産駒からもリーディングサイアーの*ミルジョージミホノブルボン*マグニテュードなどを出している。現在でもダルシャーンの系統はヨーロッパで確実な地位を築いており、これからもサラブレッドの血統にを与え続ける事だろう。

こうして競走馬としても種牡馬としてもネヴァーベンドの最高傑作の1頭に数えられる大活躍を挙げたミルリーフは、1986年18歳死亡タイムフォーム社の「世界の名100選」では8位にランクされている。

ミルリーフはその名に相応しい、美しく、そして素晴らしいであった。

血統表

Never Bend
1960 鹿毛
Nasrullah
1940 鹿毛
Nearco Pharos
Nogara
Mumtaz Begum Blenheim
Mumtaz Mahal
Lalun
1952 鹿毛
Djeddah Djebel
Djezima
Be Faithful Bimelech
Bloodroot
Milan Mill
1962 鹿毛
FNo..22-d
Princequillo
1940 鹿毛
Prince Rose Rose Prince
Indolence
Cosquilla Papyrus
Quick Thought
Virginia Water
1953 芦毛
Count Fleet Reigh Count
Quickly
Red Ray Hyperion
Infra Red
競走馬の4代血統表

クロス:5代内アウトブリード

主な産駒

1975年産

1978年産

1979年産

1980年産

1981年産

1984年産

1985年産

1986年産

関連動画

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関連項目

脚注

  1. *イギリスグループ制(日本で言うグレード制)が施行されたのはミルリーフが3歳になった1971年からである。
  2. *この敗戦に関しては「レース前のパレードで*ミンスキー(ニジンスキーの全で、同様に大柄だった)に威嚇されて萎縮した」という説があるが、こういった説はいずれも噂の域を出ていないようである。
  3. *解説すると、2000ギニーの敗戦で三冠馬になる資格を失っていたこと、そして何よりニジンスキーの敗戦がまだ記憶に新しかったこともあり、セントレジャーは眼中にも入っていなかったという。前戦を使わなかったのは、ロベールパパン賞の時に体調を崩した経験もあると言われる。
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