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メイショウドトウ

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いつか振り返れば

やれることはやった
その積み重ねを
振り返るのはよそう
不運を嘆きたくなるから

だが今度も同じだ
やれることをやるだけだ

よりも先んじて
後ろに従うものの姿を
振り返りたくなる
そんな日が来ると信じて

JRA 名馬の肖像 メイショウドトウexit

メイショウドトウ(Meisho Doto)とは、1996年生まれのアイルランド生産・日本調教の元競走馬・元種牡馬である。

"世紀末覇王"テイエムオペラオーの古時代最大のライバルとして立ちはだかった……というよりむしろされたオペラオーさんマジ無慈悲。一方で、テイエムオペラオー以外の多くのたちにとってはオペラオーと並ぶ悪夢のような存在だった。ドトウさんもマジ無慈悲
が呼んだか、「史上最強の二番手 」。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
メイショウドトウ(ウマ娘)を参照してください。

な勝
2000年:金鯱賞(GⅡ),オールカマー(GⅡ),中京記念(GⅢ)
2001年:宝塚記念(GⅠ) ,日経賞(GⅡ)

概要

出自

はBigstone[1]プリンセスリーマ、Affirmedという血統。なにげにナリタトップロードと同じである。アイツに勝てない理由はそういうことだったのか……

彼はアイルランド産の外国産馬、いわゆるマル外である。しかしその購入額は破格の500万円マル外としては格安である。日高でも500万円くらいのは血統・的にアレが多いことを考えれば安い方だが、結果として輸入賃などを考えたら大損な買い物の可性もあった。だが結果として彼は収益的に言えばプラスである。しかも相当な。

入厩~1999年

メイショウ」の冠名で有名な松本好雄オーナーに購入された本は、東の安田伊佐夫厩舎に預けられた。伊佐夫厩舎ではビワハヤヒデ浜田厩舎)やマサラッキ(増本厩舎)の調教助手として知られた小林常浩が担当についた。

入厩したドトウは雄大体と軽快なスピードで将来を期待されたが、デビューは順調にはいかなかった。というのも、どうにもこうにも化の進みが遅く、いつまでたっても体が幼いままで、少し運動をさせるとソエがでる虚弱体質もあって遅々として調教が進まなかったのだ[2]。そのためデビューは遅れに遅れ、ついには翌年に持ち越され、ようやく松本オーナー誕生日である1999年1月6日デビューの日と決まった。

迎えた新馬戦ダート 1800m)の日、伊佐調教師は「オーナーへの誕生日プレゼントとして絶対に勝てるを用意しました」と松本オーナー京都競馬場へと招待していた。
1番人気に支持されたドトウは伊佐調教師息子安田騎手(以下「ヤスヤス」)を背に楽な手ごたえで先行すると、直線でメンバー最速の上りを繰り出して後続を一気に7身突き放す。そして営の高い期待に見事に応え……ることができず、逃げを捕まえそこねて2着だった。この日、松本オーナーの出走はドトウの他には坂口正大厩舎の未勝利メイショウアイーダしかいなかった。こんなことなら大人しくケーキでも食べていれば良かったかなぁ……

汚名返上とドトウは連闘で2度新馬戦ダート1800m)[3]へ出走。今度こそは負けられない、という大事な一戦の当日、騎乗予定だったヤスヤスが高熱を出してしまう。メイショウキヨモリ武幸四郎に乗り代わりとなったが、メイショウドトウだけは「自分が乗る」とヤスヤスが強情にして譲らなかった。そんなヤスヤスの心意気に応えるべくメイショウドトウは……数身ほど快に出遅れた。1コーナーと2コーナーをポツンと最後方で回り、向こう正面で暴走気味にまくって何とか先行集団にとりつきはしたものの、中でこんな足を使ってしまってはさすがに余は残っておらず、勝ったのは仕舞で鋭い末脚を見せたメイショウドトウの方だった。あれ?

その後は3月の4歳500万下ダート1800m)での4着を挟み、4月かいどう賞500万下ダート1700m)で2勝を挙げる。しかしOP初挑戦となった5月香港JCT(OP)では8着[4]に惨敗してしまった。さあ営一丸となって立て直しを、となるタイミング調教助手の小林常浩が姿を消した過去にも突然の転厩[5]を繰り返していた人物ではあったが、今回は突然の出奔だった。そんなこんなで人間達がゴタゴタしていた頃、ドトウは持病の管膜炎と格闘していた。

9月に復帰したドトウは芝路線に転向。ここからは古との戦いである。

ドトウは8着→4着→2着と順調に着順を上げ、10月11月には二連勝で一気にオープンクラス入りを果たす。しかし1999年の最終戦に選んだ六甲ステークス(OP・芝2000m)では1番人気に支持されながら全くらしいところなく最下位に惨敗。一体全体なにが悪かったのか、なんだか締まらない年末となってしまった。ちなみに、年末に発表された同年の優駿エッセイ賞は小林常浩が受賞。出奔した調教助手は物書きになっていた。

2000年春: 躍進と受難の始まり

2000年1月日経新春杯(GⅡ)から始動。初めての重賞挑戦となる記念すべき一戦、騎手ヤスヤス騎乗停止[6]のため上は武幸四郎である。前走の大敗や距離不安もあってか8番人気と低評価だったが、先行して抜け出し、2着に食い込み実アピールした。
なお1着は武豊騎乗のマーベラスタイマーで、JRA重賞で初めての武兄弟ワンツーフィニッシュとなった。上の武兄弟話題になった一方で、2着・ドトウの方はあまり話題にならなかった。

次は3月中京記念(GⅢ)に出走。得意な距離に戻り、かつ相手が楽になったこともあってレースレコードでの重賞勝利を果たす。この頃ようやくドトウの体も大人の体に変わり始め(本格化)、普通調教が行える程度には虚弱体質が善されてきたらしい。とはいえ、このレースは前年のオークスエリモエクセル引退レースということもあり、勝ったドトウは話題の中心ではなかった。

ドトウの本格化を感じ取った営は、この年度からマル外が出走可になったばかりの天皇賞(春)へ出走すべく、ステップレースの日経賞(GⅡ)へ駒を進めた。日経賞には同じ外国産馬で同じく春天出走を狙うグラスワンダーも出走していたが、勝ったのは絶妙な逃げで後続を翻弄した単勝万馬券レオリュウホウだった。ドトウは3着に敗れ、グラスワンダーも6着に敗れ去った。

春天出走を断念した営は、6月宝塚記念を次の標に据えた。手始めに4月メトロポリタンステークス(OP)を単勝1.5倍の1番人気に応えて快勝。一応は日本レコードに0.2差の好タイムだったが、重賞ではないし2300mという微妙距離での時計でもあって、特に注はされなかった。

続けて5月金鯱賞(GⅡ)にも勝利して重賞2勝、2連勝。とはいえ、このレースには菊花賞天皇賞テイエムオペラオーナリタトップロードといった強と接戦を繰り広げてきたラスカルスズカ(単勝1.3倍)に加え、シルクジャスティスマチカネフクキタルといったGIも出走していたので、世間的にはドトウが勝ったレースというよりは彼らが負けたレースという印だった。つまり、このときもドトウはあまり注されなかった。

そして6月、ドトウは上がりとして宝塚記念(GI)に挑む。初GIである。晴れ舞台である。そして初GIに臨むメイショウドトウの背には、新馬戦で高熱にうなされながらもドトウの背中だけは手放さなかった騎手ヤスヤスの姿が……なかった。ヤスヤスは今回も騎乗停止[7]だった。代役となった上は河内洋騎手である。

宝塚記念でのメイショウドトウは6番人気。この時点でのドトウは同馬主先輩メイショウオウドウ(7番人気)と名前がややこしい兵の一頭という位置づけだった。ちなみに1番人気は3連勝で春の天皇賞を制した現役最強テイエムオペラオー、2番人気グランプリ4連覇を狙うグラスワンダーである。
レースサイレントハンター逃げる予想通りの展開と思われたが、3コーナー過ぎでラスカルスズカ騎乗の武豊が奇襲をかける。これを先行していたメイショウドトウとジョービッグバンが追いかけ、直線でメイショウドトウがコース中央を突っ切って先頭に躍り出た。2番人気グラスワンダーは伸びを欠き、グラスワンダーを警していた1番人気テイエムオペラオーは仕掛けが遅れている。これは前年の京都大賞典菊花賞で見られたテイエムオペラオーの負けパターンである。メイショウドトウがGI初挑戦にして初GI勝利か!
……とを見たのも束の間、ゴール前にして猛に突っ込んできたテイエムオペラオー一気に抜き去られてしまった。貫僅差圧勝である。しかしドトウもクビ差の2着には食い込んでおり、GI初挑戦としては大健闘の2着だった。これがこれから何度も苦汁をめさせられることになる果てしなく遠いクビ差だったのだが。

2000年秋: オペラオーが倒せない!

2000年天皇賞(秋)への出走をしてオールカマー(GⅡ)から始動。上は的場均戦のヤスヤスオールカマーの少し前の札幌遠征中に道路交通法違反(+34km/hの制限速度違反)で現行犯逮捕されており、2ヶ騎乗停止中だった。駄目だこいつ…早くなんとかしないと…

営は重馬場を懸念していたようだが、ドトウは単勝1.9倍の1番人気に応えて全く危なげなく快勝。サクラナミキオーで2着に入った岡部幸雄騎手は、成長したメイショウドトウの強さをの当たりにして「テイエムオペラオー引退したら来年はあのの時代が来る」と予言した。そう……テイエムオペラオー引退したら、なのね。

オールカマーを快勝した営は満を持して天皇賞(秋)(GI)へ向かう。上は先から騎乗停止中のヤスヤスに代わって引き続き的場均である。この天皇賞では「テイエムオペラオーが負けるとしたらここかもしれない」という雰囲気が漂っていた。というのも、当時の秋天には「一番人気は勝てない」というジンクスがあり、さらにオペラオーに騎乗の和田竜二騎手秋天舞台となる東京競馬場デビュー以来勝ったことがかったからである。中距離スピードであるドトウにとって、2000mという距離もうってつけであった。
レース逃げロードブレーブと競りかけたミヤギロドリゴが引っハイペースの展開になった。メイショウドトウは好位で追走して直線でめに抜け出しを図る。が、テイエムオペラオーの脚色が一頭だけ桁違いだった。あっという間にドトウらを交わすと、そのままリードを広げて1着でゴール。ドトウは2身半差の2着だった。

11月、今度こそはとジャパンカップ(GI)へ出走。ようやく上にヤスヤスが復帰した。1番人気は単勝1.5倍のテイエムオペラオーJCの史上最高支持率、2番人気は単勝8.9倍の欧州代表ファンタスティックライト、ドトウは距離不安が囁かれての5番人気だった。
レースは意表を突いたステイゴールド逃げで始まり、残り1000mを切ると一気にペースが上がって1ハロン11台が連発。メイショウドトウが馬場ん中を通って直線で先頭に躍り出ると、後ろからテイエムオペラオーファンタスティックライトがドトウに襲いかかり、残り200mでオペラオーが先頭にかわるが、ドトウもファンタスティックライト必死に食い下がる。3頭の壮絶な競り合いにより、レース全体の上がりは1000m58.6というマイル戦並の驚異的ラップ記録した。しかしドトウもファンタスティックライトも最後までオペラオーを差し返すことはできず、今回もオペラオー僅差圧勝、ドトウは3度の2着に泣いた。しかしこのドトウの奮闘には3着ファンタスティックライト騎乗の天才ランフランコ・デットーリも「世界レベルだね。世界中どんな大レースでも活躍できるよ」と賞賛の言葉を贈っている。

ついに12月2000年の最終戦となった有馬記念(GI)逃げ宣言をしていたホットシークレットが出遅れ、スローペースの密集した展開となった。オペラオースタート直後からしいマークを受け、群に埋もれて全に行き場を失っていた。大混戦となった最後の直線では先に抜け出した古ダイワテキサスを交わしてドトウが先頭に立つ。勝ったッ!第3部完! ……と思った間、どこをどうすり抜けてきたのか、後続にブロックされて全に閉じ込められていたはずのテイエムオペラオー奇跡的末脚で全てをかっさらっていった。メイショウドトウは2着、4度の2着。

テイエムオペラオーが満票で年度代表馬に選ばれた一方で、メイショウドトウには特別賞が検討されていたが「GIを勝っていないから」という理由で最終的に不採用となってしまった。まあ、もしドトウがGIを勝っていたらオペラオーが年間敗ではなくなってしまうので、ドトウの特別賞は検討すらされていなかったのであろうが。

2001年: 六度目の正直

ターフを揺るがす“怒涛”の

五度のGI。いつもすぐ前に一頭、あの宿敵がいた。
始まりから一年、舞台は初めて脚を交えた地、宝塚
一段と逞しくなった心と体。滾る気迫。充実を迎えた挑戦者は、
堂々と、強く、栄ゴールを駆け抜けた。
メイショウドトウ、GIホースの栄を携えて。
その雄大なうねりは、さらにを増してターフを揺るがせる。

JRAヒーロー列伝No.50 メイショウドトウexit

2001年天皇賞(春)標に日経賞(GⅡ)から始動。ここをドトウは単勝1.1倍の圧倒的な人気勝利。いわゆる「勝ちきれない馬」たちとは違い、こういうレースでもキッチリちきるところが彼の強さである。

一方のテイエムオペラオーは放牧先がに見舞われロクな調整が行えておらず、前戦の産経大阪杯(GⅡ)で4着に敗退していた。世紀末覇王オワコン!……と勢い込んで天皇賞(春)(GI)へと挑んだが、世紀末覇王はまだ負けない。「馬鹿言うなよ、こっから先はだ」と言わんばかりの僅差圧勝の前に2着。これにてオペラオーに5連敗。ついには責任を感じたヤスヤスが「宝塚記念で結果が出なければ戦を降する」と自ら言い出す事態になった。

迎えた宝塚記念(GI)ヤスヤスは3コーナー過ぎでオペラオーが不利を受けて失速していることを確認すると、4コーナー手前で々にスパートを開始してセーフティーリードを確保する作戦に出る。直線半ばでオペラオーブロックを突き破って強追い込みを見せるが、時既に遅し。その差が縮まり切ることはなく、ドトウが六度の正直で悲願のGI制覇を成し遂げた。オペラオーGI連勝記録は6でストップし、代わりにドトウが9連続連対でオペラオーの古重賞8連続連対の日本記録を塗り替えた。まあオペラオーの連対記録って全部1着なんですけどね。
何よりこれまで一度も勝てず辛も苦汁もめさせられていたオペラオーを破ったことに営は歓喜。ヤスヤス戦の座を守り抜き、馬主松本好雄氏にとっても初のGI制覇とめでたい勝利であった。

これでついにメイショウドトウの時代が来たか。
……と思われたが、は再びオペラオーに勝てなくなってしまう。

宝塚記念勝利の後は天皇賞(秋)(GI)へと直行したが、ここでは意図せず先頭に立たされる形となり、不本意な競馬で3着に終わった。オペラオーには前年同様にちぎり捨てられ、そのオペラオーをねじせた変態アグネスデジタルにも先着されてしまった。これにより前年の宝塚記念から一年以上にって続いていたオペラオー&メイショウドトウによる古王道GIでのワンツーフィニッシュも途絶えることになった。

次のジャパンカップ(GI)では好スタートで好位に付けたものの、1コーナー過ぎで英国ゴーランからヤスヤスが落しかけるほどの不利を受けてズルズル後退、そのまま全く競馬に参加させてもらえず掲示板確保の5着がやっとだった。もっとも、受けた不利の大きさを考えればむしろよく5着にまで来れたものではあるが。とはいえ古になってからの最低着順となり、ナリタトップロードには初めて先着を許し、ステイゴールドにも初対戦となった日経賞以来20ヶぶりに先着を許してしまった。

オペラオーって引退レースとなった有馬記念(GI)では前走で燃え尽きていたオペラオーにこそ先着したものの、マンハッタンカフェアメリカボストゥザヴィクトリーサイン馬券[8]に先着を許して4着。オペラオーと同じようなローテションで2年近く競い合っていたメイショウドトウも、やはりオペラオーと同じようにピークが過ぎていたのかもしれない。

このレースを最後に引退して種牡馬入り。引退式は非常にしい合同形式でオペラオーと共に挙行された。

通算成績27戦10勝。掲示板を外したのは3歳時の3戦のみで、古になってからは最後の2レース以外は馬券に絡んでいる。王道GI全連対タマモクロススペシャルウィークテイエムオペラオーに続く史上4頭の快挙。獲得賞9億2133万円にも及び、実に購入価格の184馬主孝行の極みと言える。

とにもかくにもメトロリタンSから2001年宝塚記念までの10連戦での敢闘が素晴らしいGI19頭を含む72頭のたちと戦い、テイエムオペラオー以外のには一度も先着を許さなかった。10連戦でオペラオーがいなかったレースは4戦4勝と勝率100%である。もしオペラオーがいなければ、ドトウは10連勝でGIを6勝、古王道全制覇して世界王になり、顕彰馬にも選ばれていた、そう考えるのも間違いではないだろう。つくづく生まれた時代が悪かった。
もっとも、オペラオーが小牧場産まれ・傍流血統・1000万落札であんな猛マークに遭っていたため、○外・500万・ナニコレ血統のドトウが立つとオペラオーより酷い妨に遭ったりオペラオー以上の憎まれ役にされていた可性もなきにしもあらず、ではあるが。

種牡馬時代

北海道河町のイーストスタッドexitにて種牡馬入りしたものの、結果は芳しくない。中央だとシャインクラシック戦線に少し顔を出している程度である。勝ち上がった後に頭打ちになるという若いころの彼っぽい性質が悪い方向に受け継がれているようで、人気もそんなにない。

……勝ち切れないのは、ドトウのBigstoneも同じであった[9]。それでもドトウ産駒はライジンウェーブ大井記念で因縁のテイエムオペラオー産駒バグパイプウィンドを破って重賞を勝つなどの活躍はあった。

2017年を以ってドトウも種牡馬引退。結果的には種牡馬としてもオペラオーの後を拝す結果になってしまった。

フォスターホース時代

オペラオーはじめ同世代のライバルたちは先に逝ってしまったが、長生きとなったドトウは種牡馬引退後に引退繋養展示事業の助成対となり、NPO法人引退馬協会exitの顔役「フォスターホース」として第三の生を過ごすことになった。実は彼、"怒涛"という猛々しい名前とは裏にとても穏やかで人懐っこい性格をしているのだが、この性格によって隠居先でゆるふわな濃いエピソードと新たなファンを生み出すことになる。

去勢を経て2018年日高町のヴェルサイユリゾートファームexitへ移動し、彼はフォスターホースとしての任に就いた。彼は持ち前の社交性で先住たちともすぐ打ち解け、特に同じフォスターホース仲間であるタイキシャトルしい仲になった。同牧場では以外の動物も飼育しているのだが、彼は同じエリアで放牧されていたヤギに囲まれるも全く動じず、さりとて邪険にする様子でもない動画投稿されたことから「ヤギの王」なる異名が付いた。が言ったかメェショウドトウ。さらに野生のタヌキに自らの馬房の一部を貸して居候を許す exitという事まで発生。タイキシャトル群"チームウール100%"の組共々、小動物たちとの微笑ましい日々を送った。

2021年にはタイキシャトルと共に新冠町のノーザンレイクへ移動。こちらでも先住たちとすぐ打ち解け、牧場メトとも仲良くしようと接近を試みている……が、接近すると巨体を怖がられてしまい想いは一方通行状態exit。立ち止まっているドトウにメトが接近することは何度かあったものの、自由すぎるメトに振り回されている感が否めなかったが……?

2022年5月3日、ドトウの執念が通じたのかメトが厩舎で突然ドトウの背中に乗ってくつろぎ始めたのである。は非常に視野が広いので背中の様子も見られるが、嫌がるそぶりも見せない。さすがはヤギタヌキとも仲良くなったドトウである。当該ツイートは3万RTえ、今でも多くの人がドトウの優しさに癒されている。
その後も気に入ったのかドトウの背中でくつろぐメトが何度か確認されているがexit背中に乗るのはどうやらを引っ掛けやすい(=登りやすい)着を着ているとき限定だったようで、季になってからは登る様子は確認されていない。果たして着がくともメトデレてくれるのか、業界屈おっとりゆるふわ癒し系GⅠと気まぐれツンデレネコの動向に今後もが離せない。

余談

因縁の同門?

後年同じ馬主メイショウサムソンが活躍したが、その父親オペラオーと同じオペラハウスだった。こんなところでも何というか因縁を感じざるを得ない。ちなみにサムソンもドトウと同じくイーストスタッドで種牡馬時代を過ごし、その後引退馬協会のフォスターホースに就任している(繋養先はひだか・ホース・フレンズexit)。

サービス精神旺盛すぎる馬

前述の通りドトウはおとなしく非常に人懐っこいなのだが、人懐っこいあまりカメラを向けるとずいずい寄ってきてほぼドアップ写真しか撮れないという。その寄りやすさたるや、カレンダー用写真の撮影のためにわざわざ遠くに曳いていっても、手綱を離した途端カメラマンの方へダッシュし始めるほどexit

その一方で、オペラオー」というワードを聞くとそっぽを向いてしまう(実際の様子exit)。ただ、その言葉が引退式や種牡馬の厩舎で隣にいた栗毛す言葉であるとは理解していない模様。「オペラオー」という言葉が聞こえるたび、いつも営の人たちが落ち込んでいたからその言葉が苦手になったのではないかとの説もある。

主戦騎手について

同時期に活躍したオペラオートップロード・ドトウは若手騎手戦にこだわり、その騎手が悩み苦しみながら成長していくという側面もあった。
実際、オペラオー和田竜二現在でもホースマンのムードメーカーとして知られる一方、本業の騎乗においては関西競馬場に強い腕利きとして存在感を放ち、2018年オペラオーが逝った直後にはオペラオーがドトウに初めて敗れた宝塚記念オペラオー天皇賞春2連覇以来の中央GⅠ勝利を果たし話題を呼んだ。トップロード渡辺薫彦も乗り恵まれなかったり落事故の怪に悩まされたりしたが、2012年限りで調教師して引退するまでそれなりのポジション騎手として長く現役を続けた。

…のだが、ドトウの戦であったヤスヤスは、偶に人気薄のを持ってくる(例:2002年菊花賞でのファストタテヤマ)など西の「男」として名を馳せていたのだが、一方で旧5歳を前にした時期に起こした交通違反事件のくだりにもある通り、素行不良で特に癖のヤバさで悪評が高かったのだが、それをめることもなく、酔いで調教に現れたかと思えば、いきなり東から姿を消して函館東京競馬関係な仕事をしようとするなど、ドトウ引退後はますます自堕落な生活を送り数年もしない内には騎乗依頼がめったに来なくなる。
そして2006年師匠でありである伊佐夫に引退届を提出される形で引退させられて子の縁を切られ、翌年には京都市内のコンビニ恐喝事件を起こし逮捕された。相前後して10年ほど連れ立った妻とも離婚権も妻に移ることとなり、結果としてヤスヤス競馬サークルから追い出されて仕事を失っただけでなく、家族お金も、何もかもを失ってしまった。

その後は行方が知れなかったが、2013年2017年の雑誌対談記事により生存が確認されている。
との関係は死去直前で何とか修復し、をやって失敗しただの、沖縄東南アジアを渡り歩いただの、その中でタイ人の女性と新たな庭を築いただの、現役時代アレほど言われ引退の原因となった癖も治ったとっていた。現在彼はあいりん地区の日雇い労働者に落ちぶれてしまった。しかし、元号平成から令和に変わる頃からはコラムも持つようになり、2020年にはYouTubeアカウント開、重賞の予想を中心とした動画をたまに投稿解説者としての第2の人生を歩みたいともっている。

血統表

Bigstone
1990 鹿毛
*ラストタイクー
1983 黒鹿毛
*トライマイベスト Northern Dancer
Sex Appeal
Mill Princess Mill Reef
Irish Lass
Batave
1982 栗毛
*ポッセ Forli
In Hot Pursuit
Bon Appetit Major Portion
Sweet Solera
*プリンセスリーマ
1984 栗毛
FNo.4-p
Affirmed
1975 栗毛
Exclusive Native Raise a Native
Exclusive
Won't Tell You Crafty Admiral
Scarlet Ribbon
First Fling
1977 栗毛
Nijinsky II Northern Dancer
Flaming Page
Fast Approach First Landing
Pinny Gray

クロスNorthern Dancer 4×4(12.50%)

主な産駒

関連動画

関連商品

関連項目

脚注

  1. *ラストタイクーン産駒。現役時代はフランスマイル路線で同期Kingmamboと覇を競った。
  2. *伊佐調教師は、あまりに体質が弱いドトウを「未完の大器」で終わると予想しており、内心ではドトウよりは頑丈そうなメイショウイサリビの方に期待をよせていたそうな。一方でヤスヤス小林栗東駅前の拉麺場でドトウの高い素質をに大いに盛り上がっていたそうである。
  3. *2002年までは初出走した開催期間中が「新」というルールだったため同新馬戦には出走することが可だった。
  4. *香港JCTでドトウの一つ前で入線したのがブゼンキャンドルである。ヤスヤスは同年10月秋華賞(GI)で、このブゼンキャンドルに騎乗してGI童貞を捨てることになった。
  5. *伊佐夫厩舎に転厩してきた経緯が、調教後にミーティグルームで一杯ひっかけていたところを増本豊調教師に「他の人は仕事があるんだからから厩舎でを飲まないように」と注意されたことに気を悪くし、ついつい捨て台詞を吐いてミーティグルームを飛び出してしまい戻るに戻れなくなり、その日の午後から伊佐夫厩舎で世話になった、というもの。
  6. *8日の京都7Rキングコンドル号に騎乗してスリーサンナイナー号の進路を妨したため、6日間の騎乗停止処分を食らっていた。
  7. *10日の中7R(4歳未勝利)でアズマシーザーに騎乗して失格
  8. *2001年アメリカ同時多発テロによりロウアー・マンハッタンのワールドトレードセンターが崩壊した年。アメリカ絡みのが来ると言われていた。
  9. *G1を12連戦して4勝。ただし欧州なのでG1の価値はレースによる
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