ヤマトタケル 単語

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ヤマトタケル

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曖昧さ回避
曖昧さ回避               
  1. 日本アニメーション制作SFロボットアニメ
  2. P4キャラ白鐘直斗ペルソナ
  3. 日本神話に登場する英雄⇒本稿で解説する

概要

ヤマトタケルノミコトとも呼ばれる。漢字での表記は資料によって異なり、「日本書紀」では日本武尊、「古事記」では倭建命と書かれている。諱は小碓命(おうすのみこと)。

景行天皇の第二皇子で、第14代・仲哀天皇に当たる。

妃は両皇女(ふたじなのいりひめひめみこ)、吉備戸武媛(きびのあなとのたけひめ)、媛(おとたちばなひめ)、山代之麻毛理売(やましろのくくまもひめ)、布多遅売(ふたじひめ)などがいた。 兄弟双子である大碓命(おおうすのみこと)がいる。

16歳にしてから征西事業を任され、九州中国地方定に尽し、さらにすぐさま東定へ向かい、見事これを達成される。

幼少から武芸に秀で、怪力無双で知られていた。また直感や知恵も冴えており、征西事業ではこれらを生かした知略で地方の強族たちを討伐していく。成人前は美少女に変装できるほどの美男子でもあったらしい。

一説には、「大和朝廷において日本定に尽した数人の勇者たちの偉業を統合し、それらを一人の人物とした架英雄」という説も存在する。

現在では、大鳥神社をはじめとする社系の祭としてられている。

その生涯(『古事記』ベース)

兄殺し

オウスは、ある時に父親の寵妃に手を出した件で大碓命を呼びに行かされる。しかし、このときにの命を勘違いして(または揉み合いの末に誤って)を殺してしまう。

このことを聞いて、いずれわが身にその災難が降りかかることを恐れた景行天皇は、オウスを恐れ疎むようになり、自分から遠ざけようと画策しはじめる。

征西事業へ

熊襲(クマソ)兄弟討伐

16歳となって、ようやく髪結いの年頃になったオウスは、から征西事業を任され、僅かばかりの兵とともに九州にいる強兄弟の討伐を命じられる。 必勝祈願のために叔母である倭命のいる伊勢へと向かった。叔母はオウスのために祭おこない、その予言から巫女衣装を渡す。

九州に着いたオウスは、叔母から授けられた衣装美少女に化け、兄弟宴会の席にび込む。そして宴もたけなわとなった頃を見計らって建をり、さらにである建を仕留める。 自らを「ヤマトヲグナ」と名乗ったオウスに対し、建は今わの際に「ヤマトタケル」の名を与え、その知勇を賛辞したという。 以後、オウスはヤマトタケルと名するのであった。

出雲建の討伐

出雲に入り、強出雲建(イズモタケル)の攻略に乗り出す。 産業による強大なを見せつけられたヤマトタケルは、理に戦うことはせずに出雲建に取り入ることから始める。出雲建はヤマトタケルを気に入り、を深めていく。

ある時、出雲建に太刀合わせを持ちかけ、中身を木とすり替えて降りたを渡して出雲建を謀殺する。ヤマトタケルも、敵ながら出雲建を討ったことを惜しんだ。

東征へ

さらなる遠征

征西事業を成功させ、大和へと帰ったヤマトタケルだったが、景行天皇はすぐさま東征事業を命じてヤマトタケルを大和から離してしまう。

自分がに疎まれていることに悩むヤマトタケルは、叔母のもとへ行き、そこで今度は叢雲小物が入った小さな袋を渡される。叔母は「困ったことがあればその袋を開けなさい」と助言し、ヤマトタケルは東へと出発した。

その足掛かりとなる尾に付いた際、宮簀媛(ミヤズヒメ)と出会い、東征を終えたその時に結婚する約束を交わす。

草薙の剣

東征事業で相模に到着したヤマトタケルは、造から「荒ぶるが暴れている」と野原に向かうように言われる。しかしそれは造ので、彼らは野原に火を付けてヤマトタケルを殺しようとする。
窮地に立たされたヤマトタケルは叔母の助言を思い出し、小袋から出てきた火打石を使って火を起こし、叢雲を薙ぎ払って迎え火を起こす。迎え火によって火の勢いは逆転し、造たちは逆に火攻めとなって斃されてしまう。

走水の海難

上総をすヤマトタケル一行は、を渡ることとなった。
しかし、その際にヤマトタケルがを侮った言動をしてしまったがために海神の怒りを買い、航中に大時化に出くわしてしまう。この危機を脱するべく、相模で火攻めの苦難を共に乗り切ってヤマトタケルの人となって同行していた媛(オトタチバナヒメ)が自らに飛び込んで海神の供物となり、を鎮めてくれる。

の人を失ったヤマトタケルは、彼女への歌を読みあげ、七日後に彼女の使っていたに漂着し、それを塚に収めて弔った。

さねさし 相模小野に 燃ゆる火の 火中(ほなか)に立ちて 問ひし君はも

オトタチバナヒメを偲ぶ

上総を皮切りに次々と東族をし、足柄坂(現:静岡県神奈川県)のを蒜(野生の)で打ち斃し、東定する。そのときに山頂から東を望んで「吾妻はや」(わがつまよ)と三度嘆き、以後、東を東(あづま)と呼ぶようになった。

伊吹山の神との戦い

東征事業も終盤となった頃、かねてより婚約を交わしたミヤズヒメと再会し、の疲れと最の人との別れを癒すひと時を得る。
その後、二人は結婚
しばらくして、伊吹山の神が暴れていると聞いたヤマトタケルは、草薙をミヤズヒメに預けて素手で退治に向かう。しかし、荒れ狂う吹雪体力と精を奪われたヤマトタケルはそのまま山中失神してしまい、山の神を斃せぬまま下山を余儀なくされる。実は中で大猪と出会い、山の神の使いと思って見過ごしていたが、これが山の神本人であり、このときにそれに気づかなかったせいで彼は危難に遭ってしまったのだった。

白鳥となり…

下山後、居醒めの清水(現:関ヶ原)で正気を取り戻すも、ヤマトタケルは病を患い、ぼろぼろの体を引きずって故郷・大和す。
しかし煩野(三重県亀山市)でとうとう付き、びの歌を四首を残してこの世を去った。享年30歳だったとされる。
彼の薨去後、彼の妃や子供たちは伊勢に御陵を作って彼を弔い、その周りで彼をんで歌を詠みあげた。
すると、ヤマトタケルは白鳥(しらとり)となってを舞い、伊勢を出て河内に降り立ち、その後しばらくして何処かへと去っていったという。

『日本書紀』との差異

古事記日本書紀はところどころ大きく内容が違っており、最大の相違として景行天皇されている」という部分がある。
また東征のルートも後半部分でかなり違っており、『古事記』が北上しながら制圧していったのに対し、『日本書紀』ではを使って東北へ大回りし、なんかしながら制圧するルートに変更されている。
そのほかにも草薙の話など、地名に関連する話は要所要所で違っており、場合によっては『古事記』でられた話が『日本書紀』ではなかったことにされたり、別の天皇の話として挿げ替えられたりしている。
いずれにせよ、『古事記』と『日本書紀』のそれぞれの記述においてどちらが事実を伝えているかは今なお不明である。

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