ヨッヘン・リント(Karl Jochen Rindt, 1942年4月18日 - 1970年9月5日)とはドイツ生まれ、オーストリア国籍のレーシングドライバーである。
ドイツのマインツで生まれたが、第二次世界大戦で両親を失い、オーストリアで祖父母に育てられる。
19歳の頃にオーストリアで開催されたF1GPを観戦し、レーサーになることを決意。
1963年にFJレース(フォーミュラ・ジュニア)に中古のクーパーで参戦し2戦目で優勝。
1964年、F2からオファーが届き、資金をかき集めなんとか参戦。当時のF2はF1ドライバーたちがF1GPと並行して参加する中、クリスタルパレスで開催されたレースでグレアム・ヒルを抜き去り見事に優勝すると注目度が急上昇。母国のオーストリアGPにロブ・ウォーカー・レーシングからスポット参戦。シーズン後にクーパーと3年契約を結んだ。
1965年、ドイツGP4位で初入賞、アメリカGPでも6位入賞。また、この年はル・マン24時間耐久レースにも参戦、フェラーリを駆り見事に優勝を果たした。
1966年、この年はレギュレーションが大きく変わりクーパーが善戦、雨中のベルギーGPではマシンがスリップし1回転するも耐え、激しいトップ争いの末2位表彰台。その後も6度の入賞を重ねランキング3位と躍進した。
1967年は前年と打って変わって大苦戦、4位入賞2回と意地は見せたが全10戦中8戦リタイアでランキングは11位と低迷してしまう。シーズン後にブラバムへ移籍を発表。
1968年、ブラバムで心機一転…とは行かず、3位表彰台2回ではあったもののエンジンの信頼性が低く、自身のミスも重なりそれ以外のレースは全てリタイア。ランキングも12位に後退した。このシーズン途中に天才と呼ばれたロータス所属のジム・クラークが事故死、シーズン後に空いたシートにリントが起用されることが決まった。
1969年、予選では同僚の前年度チャンピオン、グラハム・ヒルを凌ぐスピードを見せ、スペインGPでは初のポールポジションを獲得。しかし決勝ではマシンのリアが突如大破しクラッシュし鼻骨を骨折した。その後も惜しいレースが続いたものの、シーズン終盤のアメリカGPで初優勝を挙げ、参戦50戦目でのF1初優勝であった。ランキングも4位と強いマシンで本来の実力を発揮できたシーズンとなった。
1970年、第3戦のモナコGPでかつての同僚ジャック・ブラバムを最終ラップで交わし優勝すると、第5戦オランダGPから第8戦ドイツGPまで4連勝とランキングを独走、絶好調のシーズンであった。
迎えた第10戦イタリアGP、勝てば残り3戦を残した状態でチャンピオンが確定する状態。しかしここでリントに悪夢が襲う、予選のアタック中にブレーキシャフトが折れコースアウトし、ノーズからガードレールに激突。リントの両足が見えるほどにマシンは大破しリントは息を引き取った、ほぼ即死の状態であった(享年28歳)。
その後、ロータスに加入したエマーソン・フィッティパルディの活躍もありリントのランキング1位は変わらず、F1史上最初で最後の死後にチャンピオンが確定したドライバーとなった。
リントの死の翌シーズン(1971年)は、彼が付けるはずであったカーナンバー「1」を欠番としていた。
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最終更新:2024/04/18(木) 17:00
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