ヨーゼフ・ヨアヒム(1831~1907)とは、19世紀に活躍したヴァイオリニスト、作曲家である。
ハンガリーのキットゼーでユダヤ系の家に生まれた。なお彼のいとこは哲学者ヴィトゲンシュタインの祖母である。
とはいえ、1833年ペスト(のちのブダペスト)に移り、わずか5歳にしてそこのオペラ座のコンサートマスターであるスタニスワフ・セルワチュインスキからバイオリンを学んだ。そして1839年にはわずか7歳にしてコンサートデビューをしたのであった。さらに短期的にウィーン音楽院に移り、特にヨセフ・ベームの指導が彼に室内楽という新しい刺激を与えた。
そしてライプツィヒへと1842年に移る。そこで待っていたのはフェリックス・メンデルスゾーンの熱烈な教育で、メンデルスゾーンの情熱の入れようはロベルト・シューマンが記事で取り上げるほどであったようだ。1844年にはメンデルスゾーンの指揮でベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲をロンドン・フィルハーモニー管弦楽団と演奏する。
しかしメンデルスゾーンは1847年に亡くなる。ヨアヒムはライプツィヒで一時的に教鞭をとった後、1848年から2年間ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍した。そこにちょうど現れたのがフランツ・リストである。ヨアヒムはリストの音楽サークルの初期のメンバーとなった。しかし彼が1852年にハノーファーに移った後は、ワーグナーらが属する新ドイツ楽派とは距離を置く。彼らの観念的な音楽性も拒絶し距離を置くようになっていった。
そして出会ったのがシューマン夫妻やブラームスであった。つまり彼はワーグナー派ではなくブラームス派に属したのだ。その後彼らと親睦を深めていくと並行して、1866年には王立音楽アカデミーの創設と指導のためにベルリンに招かれた。つまり自分のオーケストラを持つことになったのだ。さらに1869年にはヨアヒム弦楽四重奏団を創設した。離婚騒動でブラームスと一時的に仲が冷え込んだこともあったが、その後も順風満帆な生活を送り、ベルリンでそのまま生涯を終えたのだ。
作曲家としては自演用のヴァイオリン曲をもっぱら作り、ヴィルトゥオーソの典型例として現在までヴァイオリン協奏曲以外に注目が集まったことはあまりない。一方教育者としてはドイツ派を形成し、レオポルト・アウアーやイェネー・フバイ、フレッシュ・カーロイ(カール・フレッシュ)らを輩出した。
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最終更新:2024/04/25(木) 16:00
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