ラダ・ビノード・パル(1886~1967)は、インド出身の法学者で、裁判官、大学教授である。
インドのベンガル州出身。カルカッタ大学卒。弁護士、カルカッタ大学教授、裁判官を経て、極東軍事裁判(以下東京裁判)の判事の一人に選任された人物である。
一般的にはパル判事またはパール判事として有名である。彼は東京裁判の中で唯一日本無罪論を唱えたことで有名である。彼は東京裁判の中で、裁判自体が戦勝国による一方的な茶番であること、日本は侵略国家ではなかったこと、証拠収集の妥当性が不公正であることなどを挙げたパル判決書を書いた。有名な一説には
「現代の歴史家でさえも、つぎのように考えることができたのである。すなわち『ハルノートのようなものをつきつけられれば、モナコ公国やルクセンブルク大公国でさえ戦争に訴えただろう』
というものがある。彼は日本が侵略国家ではなかったことを見抜いていた数少ない人物なのである。また、インドが親日国であるということをあらわすエピソードにもよく挙げられる。
連合国側の非道に対しても批判的にみており、有名なエピソードとして、原爆慰霊碑の碑文「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」を見て、「日本人が原爆を落としたわけではないのになぜ日本人が謝るのか」と疑問を呈したという。
二次世界大戦終結後に行われた東京裁判(極東国際軍事裁判)にて判事を務め、日本の全面無罪を判決したことで知られる。「パール判事・博士」の愛称でもよく呼ばれる。
靖国神社の境内にある遊就館の脇や、霊山護国神社内に、パール判事の顕彰碑があり、そこには彼が残した言葉が刻まれている。
時が熱狂と偏見を
やわらげた暁には
その秤の平衡を保ちながら
過去の賞罰の多くに
そのところを変えることを
要求するであろう
まだインドがイギリスの植民地支配にあった1886年、ベンガル州ノディア県クシュティヤ郡のカンコレホド村に生まれ、父親を早くに亡くし母親に女手一つで育てられた。当時のインドでイギリス人と対等に発言できるのは法律家だけであったため、インドのイギリスからの独立を志向していた母の薦めもあり、家が貧しく苦労しながらも法学の道を進み見始める。
彼自身もインド独立を強く求めており、在学中に日露戦争で日本が勝利した報を聞いた際には、
「同じ有色人種である日本が、北方の強大なる白人帝国主義ロシアと戦ってついに勝利を得たという報道は、われわれの心を揺さぶった」
と語っていたという。
1907年にカルカッタのプレジデンシー・カレッジにおいて理学士試験に合格して数学賞を受賞し、翌年には入学したカルカッタ大学で理学修士を取得するなど若い頃から非常に優秀であり、1910年にはインド連合州の会計院書記生として就職し、翌年にはカルカッタ大学理学部・法学部を卒業した。
1920年には法学修士試験に最優等で合格し、翌年に弁護士資格を取得。その2年後には母校カルカッタ大学にて、論文「『マヌ法典』前のヴェーダおよび後期ヴェーダにおけるヒンドゥー法哲学」を発表し法学博士号を取得した。
1923年から1936年までカルカッタ大学の法学部教授を務め、1925年にインド学会における最高の栄誉「カルカッタ大学タゴール記念法学教授」に選出されるなど、優れた法学者として知られるようになり、1927年にインド植民地政府の法律顧問、1937年には国際法学会総会に招かれその議長団に、1941年にカルカッタ高等裁判所判事、1944年にカルカッタ大学総長など重要な役職を歴任した。
第二次世界大戦終結後に行われた、東京裁判(極東国際軍事裁判)にて判事を行い、当時の国際法に照らし合わせても大戦中における日本の行動には、裁判で咎めるような重大な戦争犯罪は無く、東條英機首相をはじめとした戦犯に指定された人物も全面無罪であることを訴え続け、東京裁判そのものが国際法を無視した違法な不当裁判であるとした。
裁判終了後も、戦前・戦中における日本の歴史について研究し、何度も来日して日本人に対し日本の無罪性を生涯に渡って訴え続けた。
このパール判事の判決について、同じ東洋人を同情したためだとする解釈が戦後日本にもあったが、裁判後に来日した際に自身の判決文について感謝されたパール判事は、
「私は日本の同情者として判決したのでもなく、西欧を憎んで判決したのでもない。真実を真実と認め、これに対する私の信ずる正しき法を適用したに過ぎない」
と語っていたという。
東京裁判時、裁判官席に着く前に必ず被告席のいわゆる戦犯の方々に向かい合掌し、法廷の人々はその敬虔な姿に少なからず感銘を覚えたという。最後に来日した際にも、前年に持病であった胆石の除去手術を受けたばかりで主治医に「生命にかかわる」と訪日を反対されながらも、「人生の黄昏時に、ぜひ、もう一度だけ、日本を見ておきたい」と強く希望し、来日3日目に予定されていた講演に体調を崩しながらも舞台に上がり、無言のまま合掌を行い深い黙礼を送った。講演会に来た人々の多くがこのパール判事の「無言の講演」に感涙し、会場にすすり泣きの声が広がったという。
戦後において、戦犯として処刑された大日本帝国陸軍の松井石根将軍の秘書であった田中正明氏は、パール判事の東京裁判における判決書を広め、松井将軍の汚名を晴らし日本人に植え付けられた自虐史観を払拭するべく、GHQの目を盗みながら『真理の裁き・日本無罪論』を執筆し、占領解除と同時に出版した。
田中氏はパール判事と深く交流しており非常に親しく、戦後においてパール判事の言葉を最も身近で聞いており、パール判事は田中氏を「マサアキチャン(正明ちゃん)」と呼び、「お前は永久に私の子供だ」とまで言っていたという。現在でも田中氏の著書は『パール判事の日本無罪論』として小学館文庫から出版されている。
ゴーマニズム宣言シリーズなど、自身の多くの著書で田中氏のこの著書を大いに参考にしていた漫画家の小林よしのり氏は、田中氏に実際に会ったことがあり、「私の本をたくさん使ってくれてありがとう」と感謝され、『日本無罪論』という題名に間違いは無いと、生涯確信しておられたという。
パール判事の東京裁判の判決文(正しくは「反対意見書」)は、日本語版として講談社学術文庫から『共同研究パール判決書』として出版されているが、この資料の冒頭には判決書に散見する日本に否定的な表現をわざわざつまみ食いし、拡大解釈して「パール氏は実は日本を肯定していなかったと思える」と解説されており、パール氏の真意が歪められている。
今でもこの翻訳版判決書はこの曲解解説と抱き合わせで出版されており、判決書の全文を読もうとするほど「パール判決書は日本無罪ではない」と思われてしまう状態となっている。パール判事もまさか日本人法学者がこんな解説を書くとは夢にも思わなかっただろう…。
インドのナレンドラ・モディ首相は、首相就任後である2014年8月30日に初来日し、京都市の京都迎賓館で日本の安倍晋三首相の主催する非公式の夕食会に招待された。その夕食会において、2人はパール判事について語り合い、モディ首相は
「インド人が日本に来てパール判事の話をすると尊敬される。自慢できることだ。パール判事が東京裁判で果たした役割は我々も忘れていない」
と述べ、その功績を共に称え合った。翌日には二人は共に真言宗の仏教寺院である東寺を訪れ、大日如来像の前で合掌している。
掲示板
33 ななしのよっしん
2021/08/07(土) 23:15:08 ID: SuOtaaHclb
>>32
それは私に対する意見かな?
だとしたらよく私のコメントを見るんだな
34 ななしのよっしん
2024/02/13(火) 02:43:46 ID: gSEfjHxZLS
なんか記事の書き方から色々香ばしさを隠し切れてなくて草
35 ななしのよっしん
2024/04/20(土) 20:13:45 ID: 3v17kERrE6
本人は否定しているが発言の内容は西洋に対する恨み節でしかない
開戦の原因(満州事変から盧溝橋事件)を正しく認識していない上に
国際条約(九か国条約とパリ不戦条約)も無視して
「欧州も昔やっていたことだから」と過去を持ち出して相対化
他の判事にも「共産主義が脅威だから日本は正しかった」と言った人がいたけど
日本が侵攻したせいで中国共産党が勢力を拡大したことを理解していない
当時は欧州で暴れ回るドイツとその間に条約を破って進駐を繰り返す日本をどう止めるかが
まだ発生したばかりの共産主義より大きな問題だった
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最終更新:2024/04/25(木) 10:00
最終更新:2024/04/25(木) 10:00
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