ラムセス2世とは、古代エジプト第19王朝のファラオ。ギリシャ語表記ではオジマンディアス。
古代エジプトで最大の王と呼ばれ、古代エジプトの最盛期を実現した大王。現代にまで残る多くの遺跡を建築しているほか、世界最古の平和条約を結んだともされる。
北はヒッタイト、西はリビア、南はヌビア相手に戦争を行ってエジプトの領土を拡張する一方、国内では幾多の神殿を築き上げ、新首都を設置し、さらに自分を神格化する政策を進めた。大王、建築王とも呼ばれる。
また、王としての偉大な業績の他に、戦士としての一面もある。身長180cmを超える古代ではまずあり得ない長身を誇り、彼だけにしか引くことのできない弓を持つなど強力であったことが伝わっている。
父親のセティ1世との共同統治を経て、セティ1世が逝去するとラムセス2世が正式なファラオとなった。ラムセス2世が24歳の時だったという。
ラムセス2世が属する第19王朝はツタンカーメンで有名な第18王朝から王位を譲られてからラムセス2世でまだ3代目と歴史の浅い王朝であったが、ここからエジプトは再び世界帝国へと返り咲くことになる。
統治を開始して5年目、ラムセス2世はエジプトを出て中東へ遠征を行う。当時の中東は製鉄技術で技術的アドバンテージを持っていたヒッタイトが強大な勢力を有しており、エジプトとの間に多数存在していた小国の帰属をめぐり争っていた。
ラムセス2世はヒッタイトに属していた小国アムルを降伏させ、エジプトに帰属させた。当然ヒッタイトはこれを見逃すわけには行かず、アムル奪還のために軍を出した。
紀元前1274年[1]、当時のヒッタイト王国の王ムワタリとラムセス2世はシリアのカデシュで激突する事になる。
この戦いではヒッタイト軍が情報隠ぺいに見事に成功し、エジプト軍を罠にはめるのに成功した。
ヒッタイト軍はまだはるか遠くにいると思っていたエジプト軍の4つの主力軍団は強行軍のために互いに遠く離れており、ヒッタイト軍のチャリオットによる奇襲を受けて分断され、大きな被害を出した。ラムセス2世本人も孤立しており、そこにもヒッタイトの戦車軍団は迫っていた。
そこでラムセス2世は驚くべき行動をとる。総勢2500騎を誇るヒッタイトの戦車軍団に対し、ラムセス2世が搭乗するチャリオット単騎で突撃したのである。
ラムセス2世は敵戦車の騎手を自らの弓で射ぬき、近づいてきた敵戦車を自らが振るう剣でなぎ払った。
そうして時間を稼いている間にエジプト軍には後続部隊が到着し、ラムセス2世はからくも危機を乗り切る。その日の戦闘は夕方まで続き、日が落ちるとともにヒッタイト軍が撤退して終了となった。
翌日、ヒッタイト側から休戦の申し出があり、大きな被害を出していたラムセス2世はこれを受け入れて両軍とも軍を引くことになる。エジプト側に帰属したアムルはのちに再びヒッタイト側に戻っている。
その後もエジプトとヒッタイトの戦いは続いたが、ヒッタイトの2代後の王ハットゥシリ3世とラムセス2世の間で平和条約が結ばれることになる。
さらにハットゥシリ3世は娘をラムセス2世の正妃とする事でエジプトと同盟を結び、勢力を拡大しつつあったアッシリアとの戦いに備えた。
この条約を記した粘土板は現存しており、そのレプリカは国際連合の本部ビルに掲げられている。
ラムセス2世は当時の首都テーベに代わる新首都を作らせた。名前は「ラムセス市」を意味する「ペル・ラムセス」である。
以前はタニス(古代エジプト)がペル・ラムセスだと考えられていたが、現代ではペル・ラムセスはタニスではなく、現代のカンティールに当る場所にあったという説が有力である。
彼は多くの神殿をエジプトの神々にささげたが、それだけでは満足できず、自らを太陽神としてあがめさせた。彼の建設した神殿には神々に列する彼の姿が多く残されている。
その間、第1王妃ネフェルタリのほか、何人もの王妃や側室との間に、賢者として名高いカエムワセト、後継者となるメルエンプタハなど111人の息子と69人の娘を設け、娘の中には父親であるラムセス2世と親子婚を行った者もいる。
もっとも、この大半は養子であり、王の息子の称号を与えられただけだという説もある。しかし、非常に大柄(約180cm)であり、優れた戦士であったことが伝わっているラムセス2世が多くの子を残さなかったとは考えにくく、彼らは王の実子であると考える者もいる。
24歳にてファラオになったラムセス2世は90歳で崩御するまでファラオの座にあり続けた。その間実に66年。これはエジプトの歴代ファラオの中でも第2位に当り、第1位のペピ2世の治世94年に次ぐものである。
ペピ2世の治世は64年説もあり、その場合、ラムセス2世の治世が歴代最長となる。
しかし、この治世の長さは後継者問題を引き起こすきっかけにもなった。だが、別に彼の死後に180人の子供たちが互いに争った、というわけではない。ここでいう後継者問題とは、後継者と目していた人物が自分より先に死んでしまう事である。
最終的にラムセス2世の後継者となったメルエンプタハはラムセス2世の第13王子であり、三人目に選んだ後継者である。その前の二人はラムセス2世が死ぬ前に死んでしまっている。また、メルエンプタハにしても後継者に指名されたのは40代の時、実際にラムセス2世の跡を継いだのは60代になってからと、当時ではありえないほどの高齢でのファラオ就任である。
1881年、ラムセス2世のミイラは他多数のファラオのミイラとともに見つかった。
調査の結果、ラムセス2世のミイラの身長は約170cm、これが90歳時点で亡くなり、ミイラとなって水分が抜けた状態での身長であるならば、若き日には伝承にほぼたがわぬ身体的特徴を持っていただろうことは予想できる。
現在ではラムセス2世のミイラはカイロ博物館に保管されており、今でもエジプトを見守っている。
ラムセス2世の影響は古代世界だけにとどまらない。近現代になってもラムセス2世は世界に影響を与え続けている。
前述したラムセス2世のミイラは20世紀になってからフランスに運ばれ、防カビ対策を受けることになった。この時エジプト政府はミイラに対してパスポートを発行し、フランス側も儀仗兵をもってファラオのミイラを受け入れた。
また、近年日本でも登録数が増えてきた国連機関ユネスコによる世界遺産制度は、ラムセス2世が建築したアブ・シンベル神殿がきっかけである。
1960年代にエジプトが作ったアスワン・ハイ・ダムによりアブ・シンベル神殿が水没するのが明らかとなった時、ユネスコによって偉大なファラオが築いたこの神殿はダムの水が届かない場所に移転された。この事業が元となってユネスコは世代を超えて残すべきものを人類の遺産として登録し、保護していく制度を定めた。これが世界遺産制度である。
旧約聖書の出エジプト記において、ヘブライ人たちはモーセを指導者にエジプトから脱出するが、エジプト王はこれを許さず、追っ手を差し向ける。モーセは紅海の岸に追い詰められるが、奇跡によって海が割れ、ヘブライ人たちはそこを通って逃げる事が出来た。追っ手も割れた海を通ろうとするが、ヘブライ人たちが抜けた後には海は再び元の状態に戻ってしまい、追っ手たちはおぼれ死んでしまった。
このエピソードに登場するエジプトのファラオこそがラムセス2世だという説が古くから語られている。
また、ヘブライ人指導者のモーセは、ファラオの王妃に拾われ、王家の一員として育てられたとされているため、この説をとるとラムセス2世とモーセは血はつながってはいないとはいえ親戚、あるいは義兄弟という事になる。
前述の出エジプト記のファラオ=ラムセス2世の説をとって、出エジプト記を題材とした作品に多く登場している。
また、記事冒頭で引用したイギリスの詩人シェリーによるラムセス2世を詠んだ詩もそれなりに有名である。
その他、彼本人や彼をにちなんだキャラクターが登場する作品を以下に挙げる。
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最終更新:2023/03/22(水) 09:00
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