ルドルフ・ヘス(1894~1987)とは、ドイツ第三帝國の中心人物でナチス党の副総統を務めた人物である。
アウシュヴィッツ強制収容所の所長を務めた同姓同名の人物がいるが、ここでは副総統の方を記載する。
ナチス党党首、ヒトラー総統の代理人、副総統というナンバー2の立場にいながらイマイチ存在感が無い高官。ヒトラーに無条件の忠誠を誓っており、ナチス党の権力拡大に助力。党内では珍しく、汚職や私腹を肥やす事とは無縁の清廉潔白な人物であり、タバコも酒もしない真面目な性格だった。
趣味はクラシック音楽で、モーツァルトとベートーベンを敬愛。ユダヤ人とは知らずにヴァイオリニストのデビット・オイストラフを好んでいた事もあった。占星術や夢占い、自然療法にも凝っており、怪しげな料理を自分で作って総統官邸に持ち込んでは一人で食事をしていたという奇抜な一面もある。第一次世界大戦で戦闘機パイロットになったのを機に、航空機にも通じている。ドイツ国内で行われた飛行競技会に参加し、優勝したことも。
また交友関係も独特で、彼の友にナチスの狂信者はいなかった。イルゼを生涯の伴侶とし、獄中死するまで一人の女性を愛し続けた一途な面も見受けられる。しかし彼は権力闘争に興味が無かったため、次第に空気化。副官のマルティン・ボルマンにまで食い物にされ、豪華な肩書きとは裏腹に権威は失墜していった。
1894年4月26日、エジプトのアレクサンドリアで生まれる。両親は愛国心の強いドイツ人で、父親が貿易商として成功していたため裕福な生活を送っていた。母親は非常に優しかったが、父親は口答えを許さぬ大変厳しい存在だった。父親はヘスを自分の跡取りにしようとしていたが、ヘス自身は商人に向いていないと自覚しており、人知れず悩む事になる。しかし逆らう事は出来なかったので、父の命令で20歳までハンブルクで商人の修行を行った。
20歳になった頃、第一次世界大戦が勃発。ここで初めてヘスは父に背いて徴兵に応募、愛国心が強い彼は兵士として国を守れる事に喜びを感じていた。1914年8月20日、バイエルン第7野砲連隊に配属され、西部戦線に赴いた。愛国心に違わぬ見事な働きをし、受勲の誉れまで授かった。だが次第に彼は戦争という狂気に魅入られ、「燃えている村々は感動するほど美しい」と家族宛の手紙に書くなど好戦的な性格が露わになっていく。その後、戦傷によって三度入院。三度目の入院時に飛行機に興味を抱き、転属願いを出して少尉に任官。退院後、アウグスブルク郡レヒフェルトの第4飛行学校に入学。無事戦闘機パイロットに転向し、1918年11月1日に第35戦闘機中隊に配属された…のだが、その11日後に敗戦。ただの一度も空戦に参加できなかった。
第一次世界大戦はドイツの敗北に終わり、ヘスは12月13日に退官。この敗戦はユダヤ人と共産主義者によるものだと考え、ここから反ユダヤ・反共に傾倒していく。ミュンヘン大学に入学するも、拠り所を失った彼は失意の日々を過ごしていた。そこへ地政学のカール・ハウスホーファー教授と出会い、彼が掲げる「地政学と生存権構想」によって敗戦したドイツの再起が最も重要だと確信。1918年、ヴィルヘルム2世の退位をきっかけに国粋主義運動を始める。そして当時無名だったヒトラーの演説を聞いて感動し、無条件の忠誠を誓う同時に1920年にナチスへ入党。16番目の党員となった。ヘスは突撃隊の拡充に奔走、せっせと働くヘスをヒトラーも気に入ったようで、党の行事では最前列に立たせている。また彼が語った生存権構想はヒトラーの思想にも影響を与えたとされる。1923年、ミュンヘン一揆に参加するが失敗してランツベルク刑務所に投獄される。獄中で「我が闘争」の口述筆記を行った。
出所後はヒトラーの秘書兼副官となり、ナチスの勢いを拡大していくごとにヘスの地位も向上していった。1924年にはイルゼ・ブレールと恋仲となり、3年後に結婚。ちなみにこの結婚は交際期間が長すぎると相当カッカしていたヒトラーが強制的に執り行わせたものだった。立会人はヒトラーとハウスホーファー教授で、式場は市役所だった。1932年に党中央政治委員長に就任。1933年1月、選挙で勝利してヒトラー内閣が誕生。ヘスは総統代理に指名され、彼の権限は絶頂期に到達した。ナチス党党首、ドイツ秘密閣僚会議委員、無任所大臣、国防会議委員など様々な肩書きが付随され、党大会ではしゃがれた声でヒトラー総統を全能の神であるかのように褒め称えた。またヒトラーの代理人にもなり、ドイツの再起を達成すべく注力し続けた。
ヒトラーに次ぐナンバー2という立場であったが、時間が経つにつれてヘスの影響力は下がり始めた。ヒトラーは党の力に頼らずとも国を動かせる強権を持っていたので、ヘス率いるナチスの力を借りる必要性が薄くなってきたのだ。また穏健派だった彼は、党内の権力闘争に敗れる一方だった。他の党員と違って清廉潔白で、ヒトラーへの絶対の忠誠心を持ち、酒やタバコも口にしない真面目な人物であったが、それが災いしてどんどん空気化してしまった訳である。しまいには副官のマルティン・ボルマンにまで権力を奪われる始末であった。第二次世界大戦勃発前夜の頃には国政に殆ど携わらず、半ば隠居状態であった。ヒトラーとの会談が減るにつれ、彼は体調不良を訴える事が増えていった。
1938年11月9日夜、ドイツやその支配地域でユダヤ人を迫害する「水晶の夜」事件が発生。しかしこの事件はヘスには伝えられず、事件が起きた当夜は息子の1歳の誕生日パーティに参加していた。自分の知らないところで迫害計画が進んでいた事に強い不快感を示した。
1939年9月、第二次世界大戦が勃発。ヒトラーは「私の身にもしもの事があった場合、私の後継者はゲーリングである。その次の人物はヘスである」と発言しているが、総統代理であるはずのヘスにとって、事実上の降格であった。また会談で忙しいヒトラーをうるさく神経質につきまとうヘスは目障りだったようで、豪華な肩書きとは裏腹に空気化が加速していった。疎外感を感じ始めたヘスは、恩師ハウスホーファー教授のもとを訪れる。ここでどんな会話をしたのかは不明だが、独自にイギリスとの和平の道を模索し始めた。次にメッサーシュミット社のアウグスブルク軍需工場を訪れ、「総統に空軍の兵士としても役立つ事を証明するために、少々長距離飛行をしたい」と言って航空機を調達。この頃、ドイツはバトル・オブ・ブリテンに敗北。対ソ連戦争を約1ヵ月後に予定していた。
1941年5月10日18時、ヘスはメッサーシュミットMe110を駆って秘密裏にアウグスブルクを離陸。目的地はスコットランドにあるハミルトン公爵の別荘だった。ハミルトン公爵とはベルリンオリンピックで知り合った程度だったが、彼がイギリス政府に和平の意思を伝えてくれると信じて飛び続けた。彼の機は一旦北西に進路を取ってルール地方に行き、北海へと抜けた。フライトの支援のため、ヘスは自分の副官を通じてドイツ空軍に無線ビーコンの発信を依頼。この日の夜間はイングランドに500機の爆撃機が向かう予定となっており、ビーコンを依頼しても不審には思われないはずだった。
しかし慧眼なゲーリング空将によって不審な動きをしている事がバレてしまう。部下のアドルフ・ガーランドがBf109で飛び上がり、ヘス機を捜索したが幸い発見されなかった。空軍を振り切り、目的地に向かっていたが道中でイギリス空軍機に発見される。迎撃不能の高速で飛んでいたのと、単独だった事から見逃された。20時過ぎ、グラスゴー西方15kmに到達すると落下傘で脱出した(機は不時着の際に真っ二つになり、のちにイギリス帝国戦争博物館に寄贈された)。
その後、乾燥用熊手を持った農夫にアルフレート・ホルン大尉という偽名で「イギリスとの和平に来た」と訴えた。翌11日、ハミルトン公爵との会談が成立。ここで自身の名を明かし、場所をブキャナン城に移してBBCヨーロッパ部長アイヴォン・カークパトリックと会談。和平交渉が進むかに見えたが、報告を聞いたチャーチル首相はこれを嘘だと断じて冷淡にあしらってしまう。ヘスの訴えは聞き入れられず、身柄は憲兵隊に移されてグラスゴーからロンドンへ移動。5月16日にロンドン塔に幽閉された。
その頃、ヒトラーのもとにヘスからの別れの手紙が届き、「あのヘスが一体なんでこんな事を…」と絶句させた。5月12日22時、ナチス宣伝省は「ヘスが総統命令を無視して飛行機を入手、単身英国に飛んだ」と報じた。翌13日には各紙朝刊が「ルドルフ・ヘスの精神錯乱」を伝えたため、国民から正式な発表を求められるようになった。5月15日、ラジオで「ヘスは発狂した」と公式発表を行い、ヘス事件の終息を図った。この一大事は同盟国イタリアをも震撼させた。もしドイツとイギリスが単独講和でもしたら、北アフリカ戦線にいる独伊軍からロンメル軍団が引き抜かれてイタリア軍が蹂躙されかねないからだ。外相リッベントロップが大慌てでローマに飛び、苦悶の表情を浮かべるムッソリーニと会談。「副総統の精神錯乱」を訴えて、単独講和の可能性を否定した。
イギリス側もヘスを正当な使者と認めず、売名行為だとして獄中に留めた。それでも「ヘスはヒトラーから逃れて亡命した」と喧伝し、プロパガンダには利用した。ぽっかりと空いた総統代理の席は最後まで埋められず、ヘスの部下だったマルティン・ボルマンが重要な側近に昇格した。もしヘスの引き渡しが実現した場合、ヒトラーは直ちに反逆罪で死刑にするつもりだったとか。
第二次大戦後の1945年10月10日、ヘスはドイツの都市ニュルンベルクに移送され、そこで開かれた「ニュルンベルク国際軍事裁判」において被告として告発される。他の連合国が終身刑が妥当とする中、ソ連だけが強硬に死刑を主張した。ヘス自身は「獄中で毒を盛られて記憶喪失になった」と主張しており、アメリカ軍がゲーリングやハウスホーファー教授を連れてきても「知らない」「覚えていない」を連呼した。単独飛行の謎は最後まで明かされず、知らない人扱いされたゲーリングはショックを受けたとか。多数決の結果、終身刑を言い渡された。
ベルリン郊外のシュパンダウ収容所に収監され、他の戦争犯罪者が釈放されても彼だけは獄中生活を強いられた。イルゼ夫人や母親クララとは頻繁に文通し、決して届かない場所に引き離されても情愛は不変であった。あまりに手紙を書きまくるので、一週間に1400文字までと制限された事も。ヘスの妹マルガレーテもたびたび面会に訪れており、周囲の人物には恵まれていたと言える。一人息子のボルフ・リュディガー・ヘスは空港設備を設計する技師になっており、長い収監は非人道的だとして釈放の要請をしていた。しかしソ連が一貫して反対し続けたため出られなかった。
1981年9月1日に元軍需相シュペーアが死亡すると、ヘスはニュルンベルク裁判の唯一の生存者となった。
1987年8月17日、遺書を残して自殺。電灯のワイヤーを首吊りに使用したという。享年93歳、実に40年以上も収監されていた。翌18日の新聞には「ナチスの犯罪の生き証人、ルドルフ・ヘス死去」の文字が飾った。しかし死体には不審な点が多く、色々な事を知りすぎているヘスが釈放されるのを恐れたイギリスまたはソ連の刺客によって暗殺されたとする説がある。
息子ボルフはイギリス政府による暗殺と断定し、ユダヤ人の弁護士を雇って罪を告白するよう求めている。ミュンヘンで第三者の医師たちがヘスの遺体を鑑定した結果、ワイヤーで吊るされる前に何者かが首を絞めていた事が判明。またヘスは高齢でコップを持つ事すら困難であり、自ら命を絶てるだけの力は無かったとボルフは主張している。
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最終更新:2024/04/25(木) 23:00
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