ロシア諸民族解放委員会とは、独ソ戦の最中に誕生した反共組織である。ロシア解放軍とも。
指導者はアンドレイ・ウラソフ。
第二次世界大戦中の1941年6月22日、ドイツ国防軍300万が一斉にソ連国境を突破し侵攻を開始。不意を突かれたソ連軍は総崩れとなり、大量の捕虜を出した。ドイツ軍の快進撃は続いたが、1942年12月に起きたスターリングラード攻防戦に敗北してから旗色が悪くなってきた。さらに体勢を整えたソ連軍の膨大な物量に押され、ドイツ軍はソ連領内から駆逐されようとしていた。ナチスはスラブ人は劣等人種だと決め付けていたが戦況の悪化により、そうは言ってられなくなった。
1944年9月、ドイツ軍の捕虜となっていたソ連軍将校アンドレイ・ウラソフ少将は、親衛隊長官ヒムラーと会談。スターリン打倒のための組織を創設する事で合意した。このウラソフはソ連軍の勇将で、冬戦争とモスクワ攻防戦で武功を挙げた事でレーニン勲章を受勲。しかし前線の惨状を目にしてきたウラソフは、守るべき農民や労働者が次々と死んでいく事に心を痛めた。やがて後方で采配を振るだけの共産党に不信感を抱き始めたが、それでも祖国のために戦い続けた。そんな彼にも転機が訪れる。1942年3月、レニングラード救援の任を帯びていた時にドイツ兵に発見され、6月に捕虜となった。祖国に尽くしてきたにも関わらず、スターリンに猜疑心を抱かれた事で反スターリン主義に転じ、対独協力に尽力。ナチスは彼をプロパガンダに使い、大いにはやし立てた。
ヒムラー協力のもと1944年11月14日に政治組織ロシア諸民族解放委員会が誕生。ドイツがソ連を打倒した場合、当組織が臨時政府になる予定だった。ドイツ国防軍から支援を受け、1945年1月に5万名の戦力を持った東方部隊を編成する。
ロシア解放軍最初の任務は、ソ連軍が築いたオーデル河の橋頭堡を攻撃する事だった。4月、ロシア解放軍とソ連軍が対峙。この時なんと、ソ連軍の部隊がロシア解放軍に寝返るという椿事が発生した。しかし攻撃には失敗し、4月13日に解放軍は後退。チェコ国境に向かった。そこでチェコ人の反独レジスタンス組織と遭遇、投降を呼びかけられる。今やドイツ軍の敗北は決定的であり、もはや対独協力を続けても待っているのは身の破滅のみである。覚悟を決めたウラソフは二度目の裏切りを行い、手勢を率いて5月6日朝に首都プラハで蜂起した。武装親衛隊を追い出し、翌7日にプラハ再占領のため迫ってきた武装親衛隊も撃退。ソ連軍が到達した頃には完全にウラソフ率いる東方部隊の支配下にあった。
とはいえ一度祖国を裏切っているウラソフをソ連軍が許すはずが無く、内通しているチェコ人によって隊員は次々に逮捕。ウラソフは一部の部下とともにアメリカ軍に投降すべく西部へ脱出。目論み通り、ドイツ国内で投降したが、身柄をソ連に送られたため失敗に終わった。その途上、ウラノフや隊員は脱走してアメリカの占領地を目指したが、大半が逮捕されるか殺害される末路を辿った。ウラノフ自身も車の中に隠れている時にソ連軍に発見され、モスクワのルビャンカ収容所に送られた。
そして1946年夏、裏切り者として絞首刑に処された。ロシア解放軍は、ドイツの敗北とともに消滅した。ソビエト崩壊後、解放軍に属した兵士の名誉回復が次々に行われたが、首班のウラノフのみ未だされていない。
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最終更新:2025/12/07(日) 09:00
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