ロベルト・バッジョ 単語


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ロベルトバッジョ

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ロベルト・バッジョ(Roberto Baggio, 1967年2月18日 - )とは、イタリアの元サッカー選手である。
元サッカーイタリア代表。

ポジションはFW。174cm73kg。利き足は右足。

1993年にバロンドールとFIFA最優秀選手賞を獲得している。熱心なSGI(創価学会インタナショナル)の会員でもある。

概要

イタリア・ヴェネト州ヴィチェンツァ県カルドーニョ出身。おもな愛称は「ロビー」。ポジションはフォワードで、セカンドストライカー、トップ下タイプでテクニック、得点能力、パスに優れる。アイデアに溢れ、誰も予測できないパスやドリブル、シュートをする所謂「ファンタジスタ」。セリエAでは通算205ゴールを挙げ、キャリア通算では318ゴールを挙げている。

ファンタジスタというプレースタイルで真っ先に名前が上がるファンタジスタの代名詞とも言える選手。現役時代は「イタリアの至宝」と呼ばれ、1990年代にセリエAが世界最高リーグと呼ばれた時代を代表するスター選手であり、世界中のサッカーファンから愛された選手である。一方で戦術が複雑化する近代サッカーの戦術の中では活かしづらい選手でもあり、アリーゴ・サッキやマルチェロ・リッピといった名将とたびたび確執が伝えられた。

イタリア代表としては57試合に出場し27ゴールを記録。1990, 1994, 1998 FIFAワールドカップに出場。特に1994 FIFAワールドカップアメリカ大会ではエースとしてチームを決勝へと導く活躍を見せている。しかし、決勝のブラジル戦では最後のキッカーとして失敗したときの姿はあまりに有名で、「悲劇のヒーロー」のイメージが強くなっている。そういった悲運な一面も彼が愛されている理由となっている。

髪型は軽くパーマのかかったポニーテールであり「馬の尻尾(伊:コディーノ)」に例えられ、愛称としてコディーノと呼ばれることもある。

経歴

生い立ち

1967年2月18日、ベネト州の都市ヴィチェンツァから10kmほど離れた町、カルドーニョで8人兄妹の6番目の子供として生まれる。子だくさんの家庭ということもあって裕福とは言えなかったが、賑やかな家族の中で育ち、幼少の頃からサッカー漬けの日々を過ごしていた。家の7mある廊下でドリブルをしては、トイレのドアにシュートを決め、その後母親から叱られるのが日課になっていた。また、父親の仕事場であるガレージでも友達とサッカーをし、通行人の顔にボールを当てるなどして父親からも叱られていた。正確なボール捌きでカルドーニョの街の多くの電灯を破壊したという逸話もある。サッカー以外では父の影響もあってハンティングや魚釣りに関心を持っていた。

9歳のとき兄のワルテルが入っていた地元のカルドーニョに入団。そこで非凡な才能を発揮し、年上の子供たちを相手に大活躍を見せたことでチームの主力となり、もはやサッカー以外のものには興味がなくなっていた。中学校で落第しても落胆することはなく、プロサッカー選手になるという夢に向かって突き進んでいた。カルドーニョでは1試合6ゴールや26試合で45ゴール26アシストという驚異的な活躍を見せており、このカルドーニョに現れた天才児の噂を聞きつけたセリエAやセリエBのスカウトがスタンドから熱視線を送るようになっていた。

ヴィチェンツァ

12歳となった1979年、この2年後にイタリアをFIFAワールドカップ優勝に導いたパオロ・ロッシが若き日にブレイクしたクラブであるヴィチェンツァの下部組織に入団。当時から両足を自在に操り、卓越したテクニックを持ち、特別な才能を発揮していた。当時彼のアイドルだったジーコに近づくため、練習が終わった後はトップチームの練習を見学するなど、向上心を見せていた。プリマヴェーラ在籍時には120試合で110ゴールを記録するなど、神童として名を馳せていた。

1982-83シーズンには当時セリエC1に所属していたトップチームに帯同するようになり、シーズン最終戦となったピアチェンツァ戦で若干16歳にしてプロデビューを果たす。

1983-84シーズンではプロ初ゴールを記録し、1984年6月3日のブレシア・カルチョ戦ではPKからセリエCでの初ゴールを決める。なかなか出場機会は与えられなかったが、公式戦12試合に出場し2得点を記録。

1984-85シーズンには17歳ながらもトップチームの主力に定着していき、レギュラーの座を獲得。背番号10も任されるなど、若きエースとして輝きを放つ。この年、セリエCで29試合に出場し12得点、公式戦では34試合16得点という成績を残し、チームをセリエB昇格へと導く。イタリア国内でも注目度は増し、シーズン中からセリエAの複数のクラブからオファーが届くようになっていた。シーズン終盤に差し掛かった1985年5月3日にセリエAのフィオレンティーナへの移籍が決定する。ところが、その2日後に悲劇に見舞われる。リミニとのリーグ戦で前半3分に先制ゴールを決めた直後に右膝十字靭帯断裂の大怪我を負ってしまう。医師からの診断はボールを蹴れるようになるまで1年以上とされ、6月に手術をおこなうこととなった。手術は靭帯を一旦切り離し、それを穴に通して引っ張ってから、220針かけて縫い合わせるといったもので、麻酔から覚めて、腕のように痩せ細った右足とメロンのように腫れ上がった膝を見たバッジョは、耐え難いほどの恐怖を抱き、そして絶望したという。

フィオレンティーナ

1985-86シーズンよりセリエAのACフィオレンティーナに移籍し、順風満帆なキャリアを送るはずだったが、前述した選手生命に関わる大怪我によって加入後しばらくの間はピッチに立つことができずにいた。クラブの懸命なサポートもあって復帰することはできたものの、コッパ・イタリア5試合のみの出場に終わり、移籍1年目はリーグ戦での出場は無かった。

1986-87シーズンは夏のキャンプからチームに合流することができ、1986年9月3日のコッパ・イタリア エンポリ戦で移籍後初ゴールを含む2ゴールを記録。9月21日のサンプドリア戦では加入から1年越しで念願のセリエAデビューを果たす。ところが、セリエAデビューから4日後の練習中に右膝半月板を損傷。その後一度は回復したものの、12月に再発させてしまい、再び手術を受けることを決断。セリエA第27節のインテル戦でようやく復帰すると、5月10日の第29節ではディエゴ・マラドーナを擁する首位のSSCナポリと対戦。前半37分にFKから同点ゴールとなるセリエA初ゴールを決める。結局2年目も怪我でシーズンの大半を欠場することとなり、セリエAでは5試合1得点に終わる。

1987-88シーズン、スウェーデン出身のスベン=ゴラン・エリクソンが監督に就任。エリクソン新監督はこれまで2年間稼働できていないバッジョの才能を信頼し、前線で自由を与え、攻撃を牽引するように求める。第2節のACミラン戦では、フランコ・バレージなどワールドクラスのDFを揃える強豪を相手に60mを単独でドリブルで持ち上がってのゴールを決めてみせる。まだコンディションが完全に回復したわけではなかったものの、移籍3年目にして初めてシーズンをフルで戦い抜き、27試合6ゴール8アシストを記録。長く続いた怪我との戦いからようやく解放されたシーズンとなった。

1988-89シーズンにその非凡な才能がついに開花する。スピードに乗ったドリブルで蝶のように舞いながら迫り来るディフェンダーをかわし、さらにフェイントを繰り返してゴールキーパーにまで尻餅をつかせたあと、最後は無人のゴールに緩やかなグラウンダーを悠々と、そして柔らかく流し込む。痛快かつ美しいスペクタクルなゴールの連続に、フィレンツェは、そしてイタリアは魅了されることになる。この年キャリアハイとなる15ゴール6アシストという成績を残し、チームにUEFAカップ出場権をもたらす。また、コッパ・イタリアでは準々決勝までの10試合で9ゴールという驚異の数字を記録している。この年、長年の恋人であるアンドレイナ・ファッビと伝統的なローマカトリックの儀式で結婚。

エリクソン監督がチームを去った1989-90シーズンだったが、フィオレンティーナは完全に「ロベルト・バッジョのチーム」と化していた。第5節のナポリ戦では、圧巻のドリブル突破でGKまでをかわしてのスーパーゴールを決め、あのマラドーナに匹敵するタレントとまで評されるようになる。第12節のアスコリFC戦では、セリエAでは初となるハットトリックを達成。チームはこのシーズンに12位と苦戦するが、17ゴール4アシストとキャリアハイを更新する成績を残す。UEFAカップではチームを決勝まで導く活躍を見せる。シーズン終了後の自国ワールドカップでの活躍もあり、彼の価値はさらにうなぎ昇りとなっていた。

ユヴェントス

1990年5月18日、セリエA屈指の名門ユヴェントスへ当時の史上最高額となる150億リラという移籍金で移籍することが決まる。フィオレンティーナの関係は蜜月であり、ヴィオラのユニフォームに忠誠を誓っていたものの、当時財政難にあったフィオレンティーナはチームの象徴的存在を売却せざるを得ない状況にあった。しかし、この移籍劇に激怒したフィオレンティーナのティフォージたちによってフィレンツェの街に暴動が起き、これによってフィオレンティーナのフラヴィオ・ポンテッロ会長はオーナーの座を追われるまでに発展する大騒動となった。以降、現在に至るまでフィオレンティーナとユヴェントスの両クラブの間には深い遺恨が残ることとなった。
バッジョ自身も望まぬ移籍に困惑していたが、1990-91シーズン開幕戦から3試合連続ゴールという最高のスタートを切る。第7節インテル戦では1ゴール3アシストという大活躍から再び3試合連続ゴールを決める。そして迎えたフィレンツェでのフィオレンティーナ戦ではヴィオラサポーターから裏切り者と扱われ、大ブーイングを浴びることになる。この試合、後半に巡ってきたPKのチャンスにキッカーとなることを拒否する一幕があった。この行為がルイジ・マイフレディ監督の怒りを買い、途中交代を命じられるが、その際にスタジアムから投げ込まれたフィオレンティーナの紫のスカーフを首に巻き、罵声を浴びせていたヴィオラサポーターから拍手が鳴り響く。ところが、今度はこの行為がユヴェンティーノからの怒りを買い、その後しばらくの間味方サポーターからブーイングの対象とされてしまう。サポーターとの信頼関係の回復には時間を要することとなるが、不振のチームの中でも33試合14ゴール7アシストというチームトップの成績を残す。また、UEFAカップウィナーズカップではラウンド16でハットトリックを決めるなど、8試合9ゴールを記録し、大会の得点王となっている。

1991-92シーズンのユヴェントスは、前年の低迷からの巻き返しを狙って1980年代に黄金期を築いたジョヴァンニ・トラパットーニを監督に招聘。トラパットーニ監督からは全幅の信頼を得ることができ、互いにリスペクトし合う良好な関係を築くことができた。守備を重視するトラパットーニ監督のチームにおいて、バッジョはかつてのミシェル・プラティニのように攻撃の全権を任された存在となっていた。フォッジャ戦でハットトリックを成し遂げるなど、マルコ・ファン・バステンに次ぐ得点ランク2位の18ゴール7アシストの活躍によって低迷期に入っていたチームを2位にまで押し上げる。

1992-93シーズンはまさにキャリアの絶頂期といえるシーズンとなった。このシーズンからチームのキャプテンに任命され、名実ともにビアンコ・ネロの象徴といえる存在となると、開幕から3試合で2アシストを記録。第5節のナポリ戦では1ゴール1アシストの活躍を見せる。第9節のウディネーゼ戦では、自身のプロキャリアでも初となる1試合4ゴールの大爆発を見せ、もはや手の付けられない存在となっていた。また、トレードマークとなったポニーテールを始めたのもこの頃からだった。シーズン途中であばら骨を骨折して1か月ほど離脱したが、シーズン最後までゴールとアシストを量産し、セリエA27試合21ゴール8アシストとキャリアハイ記録を更新。UEFAカップでは準決勝のパリ・サンジェルマン戦においてホームの第1戦で2ゴールを決め、アウェイの第2戦でも1ゴールを決めるなど、2試合での全得点を決める活躍でチームを決勝へと導く。さらに決勝のボルシア・ドルトムント戦でもアウェイの第1戦で勝負を決定づける貴重な2ゴールを決める。この結果、ユーヴェは3シーズンぶりの優勝を果たし、バッジョにとってはこれがキャリア11年目にして初めて手にしたメジャータイトルとなった。見る者を魅了するファンタジーを披露しながらも公式戦通算30ゴールと結果も残す大車輪の活躍が認められ、1993年のバロンドールとFIFA最優秀選手賞を獲得。ついに世界最高のフットボーラーとしての称号を手にするのだった。

キャプテンマークに日本語で「必勝」と書いた1993-94シーズンは悲願のスクデット獲得に向けて奮闘。開幕10試合で8ゴールというロケットスタートを切ってみせる。1993年10月31日のジェノア戦ではセリエA通算100ゴールを達成。12月5日のナポリ戦でセリエA通算200ゴール出場を達成する。3月に半月板の手術をおこない欠場した時期もあったが、バロンドーラーの肩書に恥じない圧巻のパフォーマンスを披露し続け、32試合17ゴール7アシストという記録を残す。しかし、攻撃の全てをバッジョに依存したトラッパトーニ監督のスタイルはもはや前時代的なものとなっており、近代的な戦術を用いる「グランデ・ミラン」との差は歴然だった。リーグ2位という成績を残したものの、スクデットには届かなかった。

先のアメリカワールドカップの活躍によって世界的スーパスターとなった1994-95シーズンだったが、その代償は大きく、蓄積された疲労によって古傷の右膝の状態が悪化し、シーズンの大半を欠場することになる。その欠場期間中に19歳の新星アレッサンドロ・デル・ピエロが台頭。加えて、新監督のマルチェロ・リッピはバッジョに頼らないチーム作りを目指しており、成長著しいデル・ピエロを積極的に起用する。シーズン後半戦に戦列復帰した後は定位置を取り戻すが、メディアは新旧二人のファンタジスタの対立を書き立てていた。17試合8ゴール7アシストと少ない出場機会でも結果を残し、この年のユーヴェは9年ぶりのスクデットとコッパ・イタリアの国内二冠を達成。しかし、デル・ピエロの成長に加え、ジャンルカ・ヴィアリとファブリツィオ・ラヴァネッリの好調ぶりもあり、リッピ監督のチームにおいてバッジョはもはや主役ではなくなっていた。デル・ピエロを新たなビアンコ・ネロの象徴に祭り上げることを決断したクラブは、非情にもバッジョに対して事実上の戦力外通告を突きつけるのだった。

ミラン

1995年、シルヴィオ・ベルルスコーニ会長が獲得を熱望したこともあり、セリエAの強豪ACミランに移籍することになる。ユヴェントスはインテルへの移籍を画策していたが、ミランへの移籍はアニエリ一族に対する抗議の意味合いもあった。ミランではデヤン・サビチェビッチ、ジョージ・ウェアとの夢のトリデンテ(3トップ)の形成が大きな話題となっていた。しかし、夢のトリデンテはバランスの悪さを露呈し、バッジョはチームの中で思う存分力を発揮できずにいた。さらにミランのファビオ・カペッロ監督も勝利至上主義者であり、バッジョのようなファンタジスタを好まない監督であった。徐々にチーム内での序列は低下していき、カペッロはウェアとの相性の良いマルコ・シモーネを好んで起用するようになる。リーグ最多となる11アシストを記録したが、後半戦になるとレギュラーから外れることも珍しくなくなっていた。この年ミランはスクデットを獲得し、個人としては2年連続でのスクデットを経験したが、ユーヴェ時代同様にチームの主役にはなれなかった。

1996-97シーズンはカペッロ監督がチームを去り、スペクタクルなサッカーを好むオスカル・タバレスが監督に就任。トップ下として起用されたバッジョは開幕戦のエラス・ヴェローナ戦でゴールを決め、第10節インテルとのミラノ・ダービーでもゴールを決める。しかし、主力の高齢化が進むミランは不安定な戦いが続き、シーズン途中でタバレス監督は解任。後任となったのはイタリア代表で確執のあったアリーゴ・サッキだった。大方の予想通り、サッキはバッジョを控えに降格させるなど冷遇し、出場機会が大幅に減ることになる。結局この年のミランは11位と大きく低迷する最悪の1年となり、23試合5ゴール4アシストという成績に終わったバッジョはミランでも居場所を失っていた。

ボローニャ

30歳となった1997-98シーズン、イタリア代表への復帰を目指すバッジョは中堅クラブであるボローニャFCへの移籍という大きな決断を下す。トレードマークのポニーテールを切り落として心機一転を図ると、開幕戦のアタランタ戦で早速ゴールを決め、第2節のインテル戦では2ゴールを決め、復活ののろしをあげる。レンゾ・ウリビエリ監督との関係もけっして良好とは言えなかったが、第7節のナポリ戦ではハットトリックの大活躍を見せ、バーリ戦では2ゴール1アシストを記録するなど異次元の活躍を続ける。リーグ戦最後の5試合では8ゴールを決めるなど、久々にシーズンを通して輝きを放つ。最終的には30試合22ゴール9アシストとキャリアハイの成績を残し、孤高のファンタジスタはボローニャの地で見事に復活を果たすのだった。中堅クラブ所属ながらも1998年のバロンドールの候補に挙がり、再びカルチョの主役へと舞い戻るのだった。一方でウリビエリ監督との関係は悪化してしまい、ボローニャをわずか1年で離れることに。

インテル

1998年7月、ビッグイヤー獲得を目標に掲げ、少年時代にファンだったセリエAの強豪インテル・ミラノへ移籍。これでイタリアの三大名門クラブ全てに在籍したことになる。インテリスタの期待は怪物ロナウドとのコンビだったが、ロナウドが大怪我によって長期離脱したため二人のコンビが実現したのはわずかな期間のみだった。第14節のASローマ戦で4アシストの離れ業を見せ、UEFAチャンピオンズリーグではレアル・マドリード戦で2ゴールを決めるなど輝きも見せたが、度重なる怪我での離脱や不慣れなウイングでの起用もあってボローニャ時代のような活躍を見せられずにいた。さらに、この年のインテルは深刻な不振に陥り、度重なる監督交代によってチームは混乱を極めていた。

1999-00シーズン、ユーヴェ時代に確執のあったマルチェロ・リッピが新監督として就任する。開幕前にリッピ監督と面談し、戦力としてカウントされていることを伝えられるが、予想通り冷遇されてしまう。スタメンから外れることが多く、シーズンを通してフル出場したのは順位がほぼ確定していた終盤の2試合のみだった。このシーズンを最後に退団することは既定路線とされていたが、2000年5月23日のCL出場権プレーオフのパルマFC戦では、前半35分にFKで先制、さらに同点にされた後半38分左足ボレーで決勝点と2ゴール奪って勝利をもたらし、CL出場権をもたらす。因縁のあるリッピを救う形となったこの活躍にガゼッタ・デッロ・スポルトは異例の10点満点を採点する。しかし、クラブの決定は覆らず、半ば解雇に近い形で退団となる。
なお、シーズン途中の1999年10月には日本でのJOMO CUP Jリーグドリームマッチにゲスト選手として出場し2ゴールを決めている。

ブレシア

インテル退団後は、イングランドやスペインのクラブのみならず、Jリーグのクラブからも高額のオファーを受けたが、イタリア代表復帰のために国内に留まることにこだわり、2000-01シーズンの新天地に選んだのは故郷のカルドーニョから近いブレシア・カルチョだった。お世辞にも強豪とは言えないプロヴィンチャのクラブを選んだ決定打は老将カルロ・マッツォーネの存在だった。
2000年9月14日に入団が正式に決定すると、セリエA開幕から往年のキレを思わせるプレーを披露。10月には再び来日し、JOMO CUPに2年連続で出場。その後負傷で2か月ほど戦列を離れるが、復帰戦となった古巣フィオレンティーナ戦で2ゴールをマーク。第24節ユヴェントス戦では、若き日のアンドレア・ピルロのロングパスを右肩越しに見ながら芸術的なトラップで右足に吸い付かせ、GKをかわしてのゴールという伝説に残るゴールを決める。ファンタジスタをこよなく愛するマッツォーネ監督は公約通りにバッジョ中心のチームを作り、これによってブレシアの地でファンタジスタはまたもやどん底から復活することとなった。ユーヴェ戦後は6試合連続ゴールを記録し、29節のレッチェ戦ではハットトリックを達成。降格の危機に瀕していたチームを救い、3シーズンぶりにリーグ戦二桁得点を記録。

2002 FIFAワールドカップ出場を目指すバッジョにとって2001-02シーズンは重要なシーズンとなった。バッジョとのプレーを希望しブレシアにやって来たジョゼップ・グアルディオラ、若手時代のルカ・トーニと周りにも恵まれ、シーズン前半戦9試合で8ゴールと躍動し、世論もバッジョの代表復帰を後押しする。しかし、その後に左膝を負傷してしまい、3か月ほど戦線を離脱する。それでも2002年1月27日セリエA第20節レッチェ戦では1アシストを記録し、復活をアピール。ところが、復帰の3日後またも試練が訪れる。コッパ・イタリアのパルマ戦で左膝十字靭帯断裂の重傷を負ってしまう。全治6か月とされワールドカップ出場は絶望的と思われた状況の中、バッジョは諦めていなかった。厳しいリハビリを懸命にこなし、なんとわずか81日で復帰を果たす。さらに復帰戦となった2002年4月23日のフィオレンティーナ戦では途中出場から2ゴールを決めるという奇跡を起こす。日韓ワールドカップ出場にここまでの執念を燃やしたが、トラパットーニ代表監督は結局バッジョを代表メンバーに加えることはなかった。

目標としていた4度目のワールドカップ出場を果たせず、年齢も35歳となったが、バッジョのサッカーへの情熱は消えていなかった。2002-03シーズンも変わらず好調を維持し、ブレシアを牽引。12ゴール8アシストという驚くべき成績を残し、チームを一桁順位の9位でフィニッシュさせる。この年を最後にブレシアという安住の地へと導いてくれた恩人であるマッツォーネ監督が退任。

2003-04シーズン、開幕前にこのシーズンを最後に現役を引退する意向を表明する。世界中から愛されたファンタジスタの最後の1年に注目度は増し、セリエAの話題の中心となる。このときすでに体は限界に達しており、右膝の手術をオフシーズンに受けていたが、ラストシーズンでも「イタリアの至宝」の名にふさわしいプレーを連発して人々を魅了する。2004年3月14日のパルマ戦では、鋭いドリブルでボックス内に侵入してから冷静にゴールネットを揺らし、443試合目の出場にしてセリエA通算200ゴールを達成。第33節のSSラツィオ戦でシーズン12ゴール目を決め、これが現役最後のゴールとなった。5月16日、セリエA最終節ACミラン戦が現役最後の試合となる。後半38分に交代した際、サンシーロの観客は敵も味方も関係なく、バッジョのこれまでの功績を大きな拍手とスタンディングオベレーションで労うのだった。最後のチームとなったブレシアでは在籍4年間全てで二桁得点を記録。様々な苦難に襲われながらも、そのたびに不死鳥のごとく復活してきたドラマティックな現役生活に幕を閉じる。

イタリア代表

1984年にイタリアU-16代表に選出され、4試合で3ゴールを記録。しかし、1985年5月に負った右膝十字靭帯断裂の大怪我によってその後は招集されていない。1987年10月にU-21代表に一度だけ招集されたが、出場機会は訪れなかった。

1988年11月、アゼリオ・ビチーニ監督からイタリア代表に初めて招集され、11月16日のオランダとの親善試合において21歳で代表デビューを果たす。この試合でジャンルカ・ヴィアリの決勝ゴールをアシストする活躍を見せており、代表に定着。1989年4月22日のウルグアイとの親善試合で代表初ゴールをマーク。9月20日のブルガリアとの親善試合では2ゴールを決め、若きイタリアの新星として期待される。

1990年6月に自国開催となった1990 FIFAワールドカップのメンバーにも選出。当初は控えFWという立場だったが、グループリーグ第3戦チェコスロバキア戦でスタメンに抜擢され初出場を果たす。そして後半32分中盤から単独突破を仕掛けるとDFを次々と抜き去り、ワールドカップ初ゴールを記録。この活躍が認められ、決勝トーナメントに入ってからはサルバトーレ・スキラッチと共にスタメンで起用されるようになる。ところが、準決勝のアルゼンチン戦でまさかのスタメン落ちとなり、後半31分から出場したもののチームはPK戦で敗退。バッジョを外したビチーニ監督の采配に批判が集まることとなった。それでも3位決定戦のイングランド戦ではスタメンに復帰し、先制ゴールと追加点となるPKを獲得する活躍でイタリアの3位入賞に貢献。この活躍で国際的な評価を大きく高めるのだった。

ワールドカップ後、ビチーニ監督はバッジョの招集に消極的となり、EURO1992予選ではわずか3試合のみ出場し2ゴールを決めたのみとなった。結局イタリアは予選敗退となり、本大会出場を逃している。アリーゴ・サッキが監督に就任して以降の代表では押しも押されぬアズーリのエースに成長。1994ワールドカップ予選では5ゴール7アシストとチームトップの成績を残している。

1994年6月にアメリカで開催された1994 FIFAワールドカップでは前年にバロンドールを獲得していることもあり、大会の主役候補として世界中から注目をされていた。しかし、直前に右足を負傷してしまい、万全ではないコンディションで大会に臨むこととなった。グループリーグ初戦のアイルランド戦ではらしさを見せられないままチームは敗れ、第2戦のノルウェー戦では正GKのジャンルカ・パリューカが前半21分に一発退場となると、サッキ監督は控えGKを投入するためにバッジョをベンチに下げるまさかの決断を下す。このあたりからサッキ監督との確執が取り沙汰されるようになる。結局、グループリーグの3試合は不調のままノーゴールに終わり、イタリア国内でも批判が強まっていた。
決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦でもリードを許したうえにジャンフランコ・ゾラの退場で10人になり、イタリアは絶体絶命の危機に陥っていた。しかし敗色濃厚となった後半44分に起死回生の同点ゴールを決め、イタリアの窮地を救い、ようやく男になる。さらに延長戦でも決勝ゴールとなるPKを決めている。準々決勝のスペイン戦でも試合終了間際にGKをかわし、角度のないところからバランスを崩しながらのゴールを決め、またもやイタリアを勝利へと導く。準決勝のブルガリア戦では、前半20分左からカットインしての右足のシュートを決めれば、5分後にはデメトリオ・アルベルティーニの浮き球パスから裏に抜け出し、ハーフボレーでのゴールを決める。この2ゴールの活躍によってイタリアを16年ぶりの決勝進出に導くのだが、この試合の後半25分に右足脹脛を痛めて途中交代となる。
出場が危ぶまれた決勝のブラジル戦だったが、強行出場。しかし右足の負傷の影響からプレーにこれまでのようなキレはなく、120分間戦い抜いたもののブラジルの守備陣の前に沈黙を余儀なくされた。試合は決着がつかずにPK戦に突入すると、ブラジルがリードした状況で最後のキッカーとして登場。しかしすでに足が限界を超えていた状態でのシュートは枠の左上に高く打ち上げてしまう。この瞬間にブラジルの優勝が決まり、この外した後のうなだれるバッジョの哀愁と格好良さは今でもサッカーファンの間で語り継がれており、サッカーの歴史における名シーンの一つに数えられている。

ワールドカップ後はサッキとの関係はさらに悪化し、代表でもアレッサンドロ・デル・ピエロが台頭してきたこともあって代表から遠ざかることになる。チェーザレ・マルディーニに監督が代わった後もミランでの不調もあってなかなか代表に呼ばれなかった。しかし、1997-98シーズンに移籍したボローニャで復活したことによって代表への待望論が強まるようになる。

1998年6月にフランスで開催された1998 FIFAワールドカップの最終メンバーにサプライズで選出される。デル・ピエロが直前のCL決勝で負傷したこともあり、好調さを買われて白羽の矢が立つ形となった。グループリーグ初戦のチリ戦でスタメンとして出場すると、ダイレクトのスルーパスでクリスティアン・ヴィエリのゴールをアシスト。さらに後半には自ら得たPKを決める。第2戦のカメルーン戦ではCKからルイジ・ディ・ビアッジョのゴールをアシスト。第3戦のオーストリア戦ではヴィエリとのコンビから大会2点目を決める。決勝トーナメントに入ってからはデル・ピエロにスタメンを譲り、スーパーサブという役割に回る。準々決勝のフランス戦では不調のデル・ピエロに代わって後半23分から出場すると、惜しいシュートを放つなど流れを引き寄せてみせる。PK戦では1番手として成功させたが、イタリアは3大会連続でPK戦で敗退となる。試合後、5人目のキッカーとして失敗したディ・ビアッジョに労いの声をかけ、「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持った者だけだ」という名言を残している。

1999年以降は代表から遠ざかる。本人は2002 FIFAワールドカップ出場を熱望し、所属するブレシアでゴールを挙げ続け、全治6か月の負傷を懸命のリハビリで2か月で復帰するなどアピールを行なったものの結局招集されることはなかった。

現役引退を表明後の2004年4月28日にジェノヴァで行われたスペインとの親善試合にキャリアへの敬意から特別招集され、この試合を最後に代表を引退。途中交代した際はファンからスタンディングオベレーションで迎えられた。

個人成績

シーズン 国 クラブ リーグ 試合 得点
1982ー83 ヴィチェンツァ セリエC 1 0
1983ー84 ヴィチェンツァ セリエC 6 1
1984ー85 ヴィチェンツァ セリエC 29 12
1985ー86 フィオレンティーナ セリエA 0 0
1986ー87 フィオレンティーナ セリエA 5 1
1987ー88 フィオレンティーナ セリエA 27 6
1988ー89 フィオレンティーナ セリエA 30 15
1989ー90 フィオレンティーナ セリエA 32 17
1990ー91 ユヴェントス セリエA 33 14
1991ー92 ユヴェントス セリエA 32 18
1992ー93 ユヴェントス セリエA 27 21
1993ー94 ユヴェントス セリエA 32 17
1994ー95 ユヴェントス セリエA 17 8
1995ー96 ACミラン セリエA 28 7
1996ー97 ACミラン セリエA 23 5
1997ー98 ボローニャ セリエA 30 22
1998ー99 インテル セリエA 23 5
1999ー00 インテル セリエA 18 4
2000ー01 ブレシア セリエA 25 10
2001ー02 ブレシア セリエA 12 11
2002ー03 ブレシア セリエA 32 12
2003ー04 ブレシア セリエA 26 12

個人タイトル

引退後

現役引退後はしばらくの間休養期間を置く。2001年には自伝『天の扉』と『夢の続き』を執筆し、翌年のセリエAアワードで最優秀サッカー本賞を受賞。

2010年にイタリアサッカー連盟のテクニカル部分のスタッフに就任。たが、彼の提案の殆どが却下され、2013年にに退任。

現在はサッカー界から距離を置き、故郷カルドーニョに近いアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナで隠居生活を送っている。

2024年、隠居先に武装グループが侵入し、銃器で頭部を殴られて負傷する事件が発生。

2025年7月25日に久々に来日し、大阪・関西万博のイタリア館のイベントに出席。

プレースタイル

ポジションはセカンドトップもしくはトップ下。現代サッカーでは失われて久しい「ファンタジスタ」であり、類まれな技術を持った上で、常人ではできないプレーや思いつかないプレーを、その瞬間瞬間に即座に見せる。激しいチャージに晒されながらも誰もが想像もしないテクニックでさらりとかわし、芸術的なゴールをあっさりと決め、たった一人で試合を決定づけてしまう影響力がある。

ライン間でボールを受けるために的確な位置に立ち、ボールを受けたときのターンによって相手が突っ込んでこれないようにする。1.5列目の位置から仕掛ける華麗なドリブルは重心が低くスピードもあり、フィジカルが強いタイプではないが、多少のタックルではびくともしない技術の高さを持つ。大きなアクションはせず、必要最小限の動きで相手DFのギリギリなところでかわす。

基本的にボールを受ければドリブル突破を試みるが、球離れは良く、フリーの味方を見つければそちらを使うほうが正解だと瞬時に判断し、パスを送る。ボールを止めて次のプレーに移るまでが異様に早く、常に的確な選択肢を選んで効果的なプレーをおこなえる。

決定力の高さも大きな武器であり、力任せにシュートを打たず、絶妙なコントロールによって相手GKの手の届かないところを狙って冷静にシュートを放つ。ダイレクトでのボレーシュートやミドルシュートも得意としており、利き足は右足だが左足でも遜色なくゴールを決めることができる。

プレスキックのキッカーとしても超一流であり、彼が尊敬するプレイヤーであるジーコですら「バッジョのFKは見事というしかない。もし同じ時代にプレーしていたなら教えを乞うよ」と語るほどである。直接FKも強烈なシュートというよりは、正確無比なキック技術によってコースを狙いすましてゴールを狙う。

一方、彼が活躍した1990年代以降はスター選手を擁する相手チームのストロングポイントを激しいプレッシングで潰していくサッカーが主流となっており、華麗なテクニックと創造性で勝負する繊細なプレースタイルの彼は次第に居場所を奪われることとなった。また、ポジションを固定されると力を発揮できず、自由を与えて攻撃の全権を与えなければならなかったことからシステマチックなチーム作りを進める監督から疎まれることとなった。

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