ヴィルヘルム・グストロフ(Wilhelm Gustloff)とは、
である。本項では2について記載する。本船の沈没はタイタニック号の沈没を遥かに上回る死者を出した海運史上最悪の事故となった。
国民に格安の海外旅行を与える目的でドイツ労働戦線が建造し、その下部組織である歓喜力行(かんきりっこう)団が所管した大型豪華客船。
船名の由来となったのは、ドイツ労働者党スイス支部を設立し、5000名の党員を集めた功労者ヴィルヘルム・グストロフ。彼は1936年2月4日にダヴォスでユダヤ系クロアチア人医学生フランクフルターによって射殺されてしまう(彼はユダヤ人によって最初に殺害された党員だった)。当初本船は「アドルフ・ヒトラー」と命名されるはずだったが彼の功績を称えて急遽「ヴィルヘルム・グストロフ」に船名を変更している。
建造費2500万ライヒスマルクを投入。417名の乗組員と1463名の乗客を収容出来、船内にはサンデッキ、パン屋、肉屋、医療センター、美容室を備える。病院船としての運用も考慮されていたようで病人を運ぶためのエレベーターも設置されたという。
要目は排水量2万5484トン、全長208.5m、全幅23.59m、出力9500馬力、最大速力15.5ノット、旅客定員1465名。
1936年1月にブローム・ウント・フォス社に本船の建造を発注し、同年8月4日にハンブルク造船所で起工。半年前の射殺事件で犠牲となったヴィルヘルムの追悼式に参加したヒトラー総統は、未亡人ヘトヴィヒ・グストロフの隣の席に座った時、本船の名前を「ヴィルヘルム・グストロフ」に変更すると決めた。
1937年5月5日にハンブルクで行われた進水式は非常に壮大なものだった。ヴィルヘルム・グストロフの巨体は未完成ながら造船所が小さく見えるほどで、ヒトラー総統と多くの党の幹部が命名式に参列。ヘトヴィヒが船主でボトルを割ってヴィルヘルム・グストロフと命名して洗礼を行い、続いてホルスト・ヴェッセルの歌やドイツの歌が演奏される中、巨大な船体がするすると滑り始めて海上へと進水。巨体が海に浮かぶとファシスト式敬礼と熱狂的な声援が会場を揺るがした。そして1938年3月15日に竣工を果たす。カール・リュッペ船長指揮のもと北海で海上試験を実施して船主に引き渡された。
1938年3月24日から27日にかけてユングフェルン旅行と呼ばれる非公式の処女航海に出発。厳選されたオーストリア人を乗せ、ドイツへの併合に賛成票を投じるよう呼びかけた。このプロパガンダは大成功に終わったという。3月29日午前にヒトラー総統が竣工後初めて乗船した。
4月1日にハンブルクを出港。マデイラ島から帰還するドイツ軍を乗せたクルーブ船デア・ドイチェ、オセアニア、シエラ・コルトバと合流すべくイギリス海峡に向かうが、4月3日に発生した暴風雨に巻き込まれてしまう。ハンブルクに向かっていた石炭運送船ペガウェイも嵐に巻き込まれて沈没寸前となり、4月4日午前4時にSOS信号を送信。最も近くにいたヴィルヘルム・グストロフが救助に駆け付け、2時間後にテルシェリング島北西20海里で沈みかけているペガウェイを発見。荒天の中で救命ボートを向かわせ、午前7時45分までに全船員の救助を完了。続いてオランダのタグボートが救援に現れたものの、ペガウェイは沈没した。4月8日、イギリスのティルベリー沖に移動。イギリス在住のドイツ人とオーストリア人に、ドイツによるオーストリア併合の是非を問う投票所として機能した。4月10日、1172名のドイツ人と806名のオーストリア人が乗船し、1968の賛成票に対し反対票は10のみと大差をつけた。投票終了後、4月12日にハンブルクへ帰投。4月21日から公式の処女航海が行われたが、出港2日目に58歳のリュッペ船長が心臓発作で病死。フリードリヒ・ピーターセンが船長となった。
第二次世界大戦勃発までは地中海やノルウェー方面をクルーズし、国民に安らかな一時を提供。スペイン内戦で絶大な戦果を挙げて凱旋するコンドル軍団を送迎するため、1939年5月20日にビーゴ港まで派遣。彼らを乗せて6月2日に帰国した。
竣工から1939年8月26日までに、彼女は8万人以上の乗客を乗せ、60回以上の航海をこなした。
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発。ヴィルヘルム・グストロフは海軍に病院船として徴用され、「D」に改名。船体は真っ白に塗装された。ポーランドとノルウェー方面から傷病兵を収容し、ドイツ本国に送り届けた。1940年11月20日に病院船の任を解かれ、設備を撤去しつつ船体を灰色に再塗装。ドイツ沿岸には既にイギリス軍の厳重な海上封鎖が敷かれていたため、ゴーテンハーフェン港でUボート訓練生約1000名を収容する宿泊船として運用されるようになった。ゴーテンハーフェンとはポーランドのグディニャ市とグディニャ港がドイツに占領されていた時代に使われていた名称である。こうしてドックで4年以上の時を過ごす事になった。
1943年10月9日、アメリカ軍がゴーテンハーフェンを空襲した際に軽微の損傷を負った。
1944年7月、ソ連軍のバグラチオン作戦により東部戦線が崩壊。中央軍集団は半壊し、ソビエト兵の大軍は赤き津波となって東プロイセンに迫りつつあった。これを受けて東プロイセンの住民はパニック状態に陥り、我先に脱出を図った。ソビエト兵に捕まれば男はシベリア送り、女にはレイプが待っていた。彼らを救出するため、デーニッツ提督は生き残っていた艦船をかき集めてハンニバル作戦を始動。ゴーテンハーフェンに残されていたヴィルヘルム・グストロフもこの作戦に駆り出され、ソ連軍が押し寄せる東プロイセンから同胞を運び出す事になった。
ゴーテンハーフェンの港には無数の難民で溢れていた。難民で、乗船を許されたのは子供を持つ大人だけだった。このため母親から赤子を奪う暴挙に出る者も現れた。乗客リストによると6050名が乗船していたが、実際には記録に含まれない民間人も多数乗せており、その数は不明瞭である(1万582名とも)。グストロフ号は本国に帰れる希望の船であり、必要書類やチケットを持たない者は箱に隠れるするなどして不法に乗船した。難民にはドイツ人だけでなくクロアチア人、リトアニア人、ラトビア人、ポーランド人、エストニア人も含まれており、本来の定員1900名を遥かに超える人数が船内に詰め込まれた。他にも918名の第2Uボート訓練部隊将兵、373名の看護婦、162名の負傷兵、ゲシュタポ隊員、ナチス党員とその家族が便乗していた。限界以上に乗客を乗せたため船内は大変混雑しており、常に救命胴衣を着用するよう指示が出ていたにも関わらず、蒸し暑さから脱ぎだす者が続出した。ヴィルヘルム・グストロフには対空砲が搭載されていたが、極寒で凍りつき使い物にならなかった。
グストロフ号には4名の船長及び艦長(本船の船長、商船の船長2名、第2Uボート訓練部隊司令ヴィルヘルム・ザーン中佐)がいて、辿るべき航路について議論を重ねたが、まるで答えが出なかった。やがて「多数の乗客を乗せて喫水が深くなっているから、深い海域を通るべき」と決断。バルト海沿岸には機雷が敷設されていたため、これを迂回するルートが策定された。またバルト海ではドイツ海軍の大型艦が奮戦しているとはいえ、既にソ連海軍の潜水艦が侵入し始めており、制海権が失われつつあった。ドイツ海軍は、航路にソ連軍の水上艦と潜水艦は存在しないと通告していたが……。
1945年1月30日午後12時30分、同じく避難民を乗せた旅客船ハンザとともに出港。魚雷艇2隻が護衛についたが、どの艦も避難民を満載していて護衛どころではなかった。近海には重巡洋艦アドミラル・ヒッパーと魚雷艇T-36がいたが、状況は似たようなものだった。この日の風は強く、粉雪が舞っている天候だった。出港直後、ボートの上で乗船を嘆願する女性と子供の一団を発見。やむなく士官たちは乗船用の縄梯子を降ろし、彼女達を収容した。
4年以上も使われていなかったので、速力15ノット出せるところを12ノットに絞って慎重に歩を進めた。ザーン中佐はソ連軍潜水艦を振り切るため最大速力にすべきだと主張したが、速力は上げられなかった。しかしこの判断が地獄の門を開く結果を招いてしまう。道中、ハンザと魚雷艇1隻がエンジントラブルに見舞われて落伍、グストロフの護衛は水雷艇レーヴェだけとなってしまう。この艦はノルウェーの駆逐艦ギーレルがドイツに捕獲されて改名したものである。さらにバルト海の寒さはレーヴェのソナーを凍結させ、瞬く間に船団を無力化してしまった。
18時頃、「グストロフ号が掃海艇の集団に向かっている」という発信者不明の情報が入る。ソビエトの罠と疑われたが、衝突回避のために航海灯を点けた。これによりグストロフ号は暗闇の中で浮かび上がる形となり、19時にバルト海へ侵入していたソビエト海軍潜水艦S-13に発見される。そして港から30km離れた21時16分、3本の魚雷を発射し、全てがヴィルヘルム・グストロフの船腹に命中。電源と無線機能を喪失し、船内は暗闇に包まれた。代わりに警鐘とサイレンが鳴り響き、非常事態を知らせる。
雷撃を受けた事を悟った難民たちはパニックを起こし、船外へ逃げ出そうとした。その際に階段やデッキで押し潰され、圧死者が続出。女性と子供の体が大衆の下敷きになり、踏みにじられて死んだという証言が残っている。幅2mのデッキには死体でカーペットが出来上がった。被雷時、下部デッキにいた者は脱出するチャンスすら与えられなかった。救命器具は寒さで凍てつき、すぐには使えない状態に陥っていた。悪い事に、魚雷の1本が乗組員の居住区に直撃していて避難誘導や対処に当たる者が激減していた。9隻の救命艇が降ろされたが、これだけでは到底足りなかった。さっそく救命艇の争奪戦が始まるが、銃を持ったドイツ海軍の将校2名が「女性と子供だけだ!」と叫び、弱者が優先的に救命艇へ乗せられた。あふれた者は海へ飛び込んだが、1月の気温は-18℃~-10℃と氷が張るような寒さだった。極寒の海に飲み込まれた者は長く生存できるはずがなく、数分で凍死。メインの通信機器が復旧しなかったため、2000m以内にしか届かない緊急送信機を使って僚艦に救援を求めた。ベルリンの海軍本部には届かなかったが、最寄りの魚雷艇が受信。増幅して中継されたが、不幸にも軍艦は受信できなかった。沈没は免れないと考えたザーン中佐は、部下に指示して機密書類の破棄に着手。船体が25度に傾いた頃、発電機が復旧して電灯が一斉に灯った。しかしもはや沈没は避けられず、雷撃から40分も立たないうちに転覆し、船首から沈没していった。
アドミラル・ヒッパーが魚雷艇T-36を伴って現場に現れ、T-36はサーチライトを漆黒の海に向けて生存者を捜索。500名以上が救助された。元凶のS-13は救助活動中のT-36に向けて2本の魚雷を発射。雷跡に気付いたT-36はフルスロットルで回避。急発進した影響で数名の救助者が再び海へ落下した。すかさずT-36は爆雷を投射して反撃。深刻な損傷を与えてS-13を撃退した。他の艦艇も駆けつけ救助を開始し、最終的に1200名以上が救出されたが、9343名が死亡。このうち約5000名は子供だった。第二次世界大戦では多くの艦船が沈没しているが、死者数はヴィルヘルム・グストロフ号がワースト1位であった…。仮に全力の15ノットを出していれば、S-13は雷撃できなかっただろうと専門家は分析している。
生存者はリューゲン島ザスニッツに運ばれ、そこでデンマークの病院船に収容された。一部は海岸に漂着し、出発地のゴーテンハーフェンへ搬送されている。事件後、ナチスドイツ政府はグストロフ号の沈没を秘匿。船長4名は全員生き残ったが、公式の調査はザーン中佐にのみ行われた。しかし間もなく敗戦を迎え、ナチスドイツが崩壊した事で責任の所在は有耶無耶となった。
何故かタイタニック号ばかり取り上げられるが、人的被害はヴィルヘルム・グストロフの方が6倍以上多く出ている。
S-13の艦長アレクサンドル・マリネスコ少佐はグストロフ号だけでなく、同じく難民を満載したゲネラル・シュトイベン号をも撃沈。戦果を上官に報告したが、誰も信用しなかった。前々からマリネスコ艦長の素行は悪く、外国人女性と肉体関係を持つなど問題行動が多かったのでNKVD(秘密警察)は逮捕したがっていた。さすがのソ連軍も「避難民を満載した船を撃沈したのは不適切だったのでは」とドン引きしており、マリネスコ艦長は評価されなかった。アルコールに関する軍法会議で「彼は英雄に相応しくない」と断定され、レーニン勲章ではなく大量にバラ撒かれた赤旗勲章が与えられた。一応、人民からは英雄視されていた模様。
戦争が終わった後、彼は「S-13による魚雷攻撃の分析」という本を執筆。しかしこれはソ連軍の装備と戦術を非難するものだったため上層部が激怒、出版には至らなかった。度重なる素行不良とグストロフ号撃沈が問題となって1945年10月に中尉へ降格。更には不名誉除隊となった。
戦後、グストロフ号沈没の件についてソ連は公の場で謝罪し、彼の責任である事を認めてNKVDに逮捕させた。シベリアの強制収容所に送られたが、スターリン死後の1953年に解放。戦友たちの働きかけで1963年に名誉回復したが、三週間後の11月25日にガンで病死した。1990年、ミハイル・ゴルバチョフ大統領によって最優等の勲章であるソ連邦英雄が授与された。サンクトペテルブルクのロシア潜水艦博物館には彼の名が付けられ、彼の記念碑がカリーニングラード、クロンシュタット、オデッサに建てられた。
また、生存者の多くは戦争犯罪であると一様に思った。しかし当時のヴィルヘルム・グストロフは病院船ではなく、対空砲やUボート乗組員などの軍人も乗せていたので沈めても問題無いとする意見も見受けられる。このため民間人の犠牲者が多いにも関わらず、戦争犯罪とする申し立てが通らなかった。のちの三船殉難事件と比べると、ドイツ側にも撃沈される原因があった事からソ連軍を頭ごなしに非難できない。
1960年、この海難事故を主題とする映画『Nacht fiel über Gotenhafen』が公開された。日本では『グストロフ号の悲劇』というタイトルでDVD化されている。2008年にはヨゼフ・フィルスマイアー監督によるテレビ映画『Die Gustloff』が制作され、戦時下のタイタニック号と評されている。こちらの日本語題は『シップ・オブ・ノーリターン ~グストロフ号の悲劇~』。
書籍分野だと2002年にノーベル賞作家のギュンター・グラスがグストロフ号事件を扱った小説『蟹の横歩き ヴィルヘルム・グストロフ号事件』を執筆している。翌2003年4月、ニューヨーク・タイムズのインタビューでギュンターは「グストロフ号事件は戦争犯罪である」と主張した。
ルータ・セペティスは2016年にハンニバル作戦を題材にした歴史フィクション『凍てつく海のむこうに』を発表した。この児童書は翌2017年にカーネギー賞を受賞している。物語の主要人物の一人であるリトアニア人ヨアーナは、著者のデビュー作『灰色の地平線のかなたに』の主人公の従姉である(作者ルータの父親はリトアニアからアメリカへの亡命者)。
『凍てつく海のむこうに』の後書きと日本の読者へのメッセージでルータが強調しているように、この事故はその悲惨さや犠牲者数に見合った知名度を得ているとは言いがたい実情がある。
現在、グストロフ号の残骸はバルト海に沈んでおり、同海域に沈む船の中では最大級である。ポーランド政府は障害物ナンバー73と呼称し、1994年に戦争墓地として記録している。東プロイセン管区指導者エーリヒ・コッホによって、グストロフ号にはフリードリヒ1世の秘宝「琥珀の間」のパネルが積まれているという説があり、トレジャーハンターが関心を寄せた。このためポーランド海事局は残骸保護の目的で、沈没点の半径500m以内のダイビングを禁止した。しかしフランス・ポーランド協同軍事訓練の際、フランス兵が不法に潜水して遺体を回収している事が判明し、怒ったポーランド政府がフランスに事態の説明を求めた。これに対し、フランス側の司令官は潜水禁止エリアの存在を知らなかったと釈明。
1995年、生存者の会によって遭難50周年慰霊祭が挙行された。その式典にはS-13乗員の中で唯一存命中だった航海下士官も招かれ、生存者と握手を交わした。悲劇から50年の時を経て、ついに両者は和解したのだった。2006年にはポーランド政府によって鐘が回収され、シーフードレストランの装飾に使われた。
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最終更新:2025/04/28(月) 18:00
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