ヴェネツィア共和国単語

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ヴェネツィア共和国伊:Serenissima Repubblica di Venezia)とは、8世紀ごろから18世紀まで東北イタリアヴェネツィアを中心に1000年以上存在した国家である。

概要

ヴェネツィアの北にある、アクイレイアの住民が5世紀のゴート族やフン族の侵攻から逃げラグーナに居住するようになったのがヴェネツィアの始まりとされる。9世紀ごろまでビザンツ帝国東ローマ帝国)の領地ないし宗下であったが、自治的であり実質的には独立していた。

アドリア海地中海の貿易によって共和は大いに栄えていった(このため「アドリア海の女王」と称される)。 11世紀後半に十字軍が始まると、ヴェネツィアは、地中海で活発化した人とモノの行き交いに乗じて運業により大な富を獲得した。宗であるビザンツ帝国がそのを衰退させていくと、その栄養を吸うかのごとくヴェネツィア地中海交易の権益を独占していく。

そして13世紀には、ビザンツからの報酬未払を理由に十字軍をそそのかし、ビザンツの都コンスタンティノープルを占領。その後もジェノバ、ピサ、アマルフィといった交易都市との闘争に勝ち抜き、地中海全域の貿易を支配するに至る。

ところが地中海に一大勢を築いたことによって、16世紀には地中海が物としていたオスマン帝国っ向からぶつかることになってしまう。驚異的な大たるオスマン帝国が陸と地中海の双方からヨーロッパ圧迫したことで、西欧東方の陸路・地中海共にそれまでの交易を見直さなければならなくなり、やがてその傾向が新大陸の「発見」に見られる大航海時代を誘発・活性化させた。

こうして西欧地中海以外のを通じてアメリカアジアアフリカ等の植民地や新たな利権を向け始めたことで、ヴェネツィア共和国が基幹としていた地中海貿易の価値は相対的に低下していき、これがの衰退に繋がった。ヴェネツィアはその後もオスマン帝国との戦いや数々の国難に苛まれ、ついには18世紀末ナポレオンによって滅亡した。

文化

守護聖人マルコで、伝説では828年に二人のヴェネツィア商人アレクサンドリアからマルコ遺体ヴェネツィアに運びこんだという。

今なおヴェネツィアの町にそびえるサン・マルコ堂はビザンツ帝国建築様式であり、かつての2間の宗関係をしのばせる。

統治者はドージェ(総督)と呼ばれ、当初は有貴族から選挙で選ばれた。12世紀には40人会議で選ばれるようになりドージェは徴的な存在となっていった。

宗教的にはキリスト教文化圏に属するが、商売>宗教をモットーとし、底して政教分離を行ったしいである。あのローマ教皇庁さえヴェネツィアには手を焼き、「困った時はヴェネツィア逃げろ」とアドバイスされるほど自由で安全なだった。ルネサンス期の音楽においてもヴェネツィアローマ教皇庁とは異なる立場を示し、カトリック圏でありながら独特の文化を形成していた。

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最終更新:2024/03/29(金) 13:00

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