一ノ谷の戦いとは、寿永3年/治承8年2月7日(1184年3月20日)に行われた、源範頼・義経軍と平氏一門軍の戦い。治承・寿永の乱の戦いの一つ。
源頼朝から派遣された源範頼・義経からなる鎌倉連合軍と、西国落ちから福原まで勢力を盛り返した平氏との戦いである。宇治川の戦いと合わせて源義経が歴史上の大舞台に登場した戦いでも知られる。
本軍を率いた範頼が苦戦する一方で、義経が精鋭わずか70騎を連れて一ノ谷の裏手の崖から奇襲を仕掛けた事がよく知られている(逆落とし)。結果一門の多くが討ち取られて大打撃を受けた平氏は滅亡へと進む。
一方でその奇襲の有無や戦自体の性質の是非が議論の対象になっている。
倶利伽羅峠の戦いで勝利した義仲は、平氏一門が西国落ち後の京に入る。平氏を追い出した英雄として称えられるも、皇位継承問題に以仁王の王子・北陸宮を推挙して介入したことで後白河法皇・公家両者から不快感を示される。加えて、義仲軍は京で現地徴発(略奪行為)を行い京の治安を悪化させてしまった。当時の京は養和の飢饉から食料事情が回復しておらず、民達の食糧不足に拍車をかける結果となった。
義仲の軍は北陸・信濃の反平氏の有力な豪族たちの混成軍であり、義仲自身でもきっちり統制が出来る状態ではなかったのである。結果、京入り直後の英雄という評価は吹き飛んでしまった。
この事を後白河法皇に詰問されると、結果を出さなくてはならない事を悟った義仲は即座に平家討伐の為に京から出撃するも、水軍の練度の差もあって義仲は西国戦線で苦戦を強いられると、戦況の悪化から義仲に付き従う兵からは脱落するものが相次ぐようになる。
一方義仲の出撃と同時に、後白河法皇が鎌倉の頼朝に派遣した使者が京に戻る。頼朝は『平家に奪われた土地を朝廷に戻す』といった、朝廷に利のある提案してきた為に後白河法皇は大いに喜び、頼朝を赦免にすると、年貢を朝廷へ納入する代わりに東国の支配権を認める宣旨を出した(寿永二年十月宣旨)。頼朝はこれに呼応する形で弟・範頼、義経を大将にした大軍を京都へ派遣した。
この義仲と頼朝への対応差は、伊豆に流される13歳まで在京し二条天皇の蔵人まで務め、伊豆に流された後も京の情報も入手していた頼朝が京の事情をよく理解していたからだと考えられる。一方の義仲は頼朝の兄・義平に父・義賢を討ち取られ、物心がつく前に信濃の中原兼遠に引き取られその庇護の元に育ったため、京の事情を知る由はなかった。
明確に梯子を外された義仲は、西国での戦いを切り上げて京に戻ると後白河法皇に猛抗議をして、頼朝追討の宣旨を要求するも、すでに京に義仲の居場所は無く従う者もほとんど居なかった。それどころか鎌倉派遣軍が迫っている事を知った後白河法皇は、自らが圧倒的優位に立っている事を悟ると自らの御所である法住寺殿を武装化し、義仲に対して「平氏討伐の為に京から出撃しなければ謀反と見做す、頼朝と戦うなら自らの責任で行え」と最後通牒を行い、義仲討伐の準備を整えた。
進退に窮した義仲は法皇方に先んじて法住寺殿を襲撃し法皇を幽閉。前の関白である松殿基房と連携すると、基房の三男・師家を摂政とした傀儡政権を立ち上げる。そして院疔から頼朝追討の文章を発給させ、征東大将軍へと就任し対鎌倉軍への準備を整えるも、『法皇の幽閉』という歴史的な事件を起こしていた義仲に従うものはおらず、義経軍相手に宇治川の戦いで大敗。北陸で再起を図ろうと逃亡するも、逃走経路はすでに範頼軍により封鎖されており粟津の戦いで義仲は討ち取られてしまう。朝日将軍はわずか8ヶ月にも満たない期間で歴史の表舞台から去った。
都を離れ太宰府で再起を図ろうとした平氏一門であったが、豊後の緒方惟栄の抵抗にあって九州からも締め出されてしまい、讃岐の田口成良の庇護を受ける事となる。屋島に内裏を作り拠点を置いた平氏は瞬く間に瀬戸内海を制圧すると、京に送られる年貢や官物を強奪、勢力を回復させると彦島(現在の山口県下関市)にも拠点を置いた。
この間に義仲が攻めてくるもこれを撃破(水島の戦い)。そして義仲と頼朝の争いの間に平氏討伐の手が緩んだ隙を突いて、勢力を福原まで戻す事に成功する。なおこの時義仲と仲違いした源行家がひっそりと平知盛にケンカを売ってボコボコにされている。そして、京を奪還する計画を立てる事が出来るほどに勢力を取り戻していた。
義仲が討伐されると、幽閉を解かれた後白河法皇は、範頼・義経率いる鎌倉軍に平氏一門の追討と三種の神器の奪還の宣旨を出した。
治承8年2月4日に範頼・義経軍は京を出撃し翌日に摂津国に入ると、範頼を大将とする本隊・大手と、義経を大将とする搦手として東西から福原の挟撃を図り、二手に兵を分けて2月7日を攻撃日と定めた。
西から攻める義経軍の進行を止めるために平資盛を始めとする平氏軍が三草山に布陣するも、田代信綱の進言を受け入れた義経はその日の内に夜討ちを決行。夜討ちを想定していなかった事もあり、資盛軍は潰走。これを土肥実平に追撃させると、義経軍はそのまま進軍し鵯越で甲斐源氏・安田義定と多田源氏・多田行綱に大半の兵を預けて夢野口へと向かわせ、自身は70騎でさらに西の山道へと向かった。
2月7日明け方、先駆けを狙って義経軍から離れて単独行動していた熊谷直実らわずか5騎が塩屋口で名乗りを上げて攻めかかる、ここに土肥実平が合流して混戦となった。
範頼軍率いる本軍も生田口から攻撃を開始、平知盛・重衡率いる平家主力軍との激戦となる。この際に梶原景時とその子供達が奮戦したことが『梶原の二度駆け』としてよく知られている。
安田義定・多田行綱も夢野口から戦闘を開始、こちらも混戦模様となり戦線は膠着状態となった。
この激戦の中、西の山道から一ノ谷の裏手の断崖絶壁に出た義経は奇襲を仕掛ける事を決断する。
断崖を駆け下りる決意をした義経は、馬2頭を崖から落としてその内一頭が無事に駆け下りたのを見ると、心して下れば問題ないとも、もしくは鹿が通るという話を聞いて、『同じ4本脚なんだから馬でも通れるはず』と頭の悪い理論でそのまま先陣を切って崖を下っていったとされる。これを見た義経以下の武者達も続々と続いていった。この際に馬を失いたくないあまり、怪力だった畠山重忠が馬を背負って下っていったというエピソードがある。無茶な…。
崖を下った義経軍はそのまま平氏の陣へと突撃。予想だにしない方向からの攻撃に一ノ谷の陣は恐慌状態に陥って総崩れとなり、平氏の兵たちは海へと逃げていった。
混乱に呼応して範頼は総攻撃を命じ生田口が陥落、塩屋口も落ち忠度が討死、重衡は捕縛された。敗走した平氏は屋島へと逃げ帰った。
この敗北で致命的な損害を被ったため、宗盛は三種の神器と安徳天皇を京を返すことを条件に讃岐の本領安堵を求めていた事がわかっている。が、平氏討伐を決心した後白河法皇にとってもはや三種の神器よりも平氏討伐が優先事項である。よって捕虜にした重衡を鎌倉に送り処刑。交渉は決裂する。
この後範頼を始めとする鎌倉軍は一旦鎌倉に戻り、義経が頼朝の代官として在京し京武者を統制する立場となるが、西国落ち後も伊勢に残っていた伊勢平氏の勢力が反乱を起こし、義経はこの対応に追われることになる(三日平氏の乱)。
このため範頼が再度鎌倉軍を引き連れて京に上り、山陽道から平氏討伐軍を進めることになる。
以上が一般的に伝わる一ノ谷の戦いの概要であり、戦の勝利を決定づけたのが義経の逆落としであることは明らかではあるが、この逆落としには様々な議論がついて回っている。
というのも一般的にはこの逆落としは『鵯越』から行われたとされているが、鵯越は一ノ谷から8キロも東であり場所として明らかにおかしいため、『鵯越』ではなく一ノ谷裏手にある『鉄拐山の崖』から行われたものであると解釈されることが多い。
ただ根本的な問題として逆落としの記述が信用性の低い『平家物語』由来であり、同時代でも特に信用性の高い『玉葉』には逆落としの記述がないこともあって、荒唐無稽な逆落としなんてそもそも行われていない、という意見のほうが近年は支配的である。そんな身も蓋も無い…。
この合戦の前日(2/6)に、後白河法皇から和平交渉のために源氏との停戦命令を指示する使者が平氏側に送られている。にも関わらず源氏が攻撃して来たことを抗議する平宗盛の書面が残っており、もしこれが事実であれば鎌倉軍が戦後停戦命令の無視を咎められていない事を鑑みるに、後白河法皇もしくは院近臣による平家騙し討ちへの容認があったと考える事ができる。
また『平家物語』『吾妻鏡』では拮抗した戦いを繰り広げたという記述だが、『玉葉』には、平氏が2万以上の兵を集めた一方で鎌倉軍が2千程度しか兵力が無いという記述がある。つまり鎌倉軍は10倍以上も兵力に差があるにも関わらず敵の本営を攻めてしかも大勝を収めている事になる。
当然ながら正攻法で10倍の兵力差をひっくり返すのは不可能であり、"何か"があったと考えるほうが自然である。その"何か"がつまり『後白河法皇の停戦命令』であり、ほぼ無防備な状態を晒した所を鎌倉軍に蹂躙されたというのである。討死した平氏一門の異常な多さもこれなら説明が付く。
なおあくまで『玉葉』の記述のみに従った場合の仮説ではあるが、現在伝わる戦いの全体像と実際の戦闘では大きく異なっている可能性がある。
後白河法皇は『もし叡心果たし遂げんと欲する事あらば、あえて人の制法にかかわらず、必ずこれを遂ぐ(一度やり遂げると決めたら人の話を聞かずにやり遂げてしまう)』という性格であり、過去にも目的のために手段を選ばなかった過去が何度かあり、後白河法皇が平氏討伐を決心していた以上ありえない話ではないと思えるのが恐ろしい所である。
この戦いは『掃討戦ではない』のに討ち取られた平氏一門の数が非常に多い。下記にまとめる。
その多くが清盛の孫や甥で20歳に満たない若武者であり、その多くに悲劇的なエピソードが付加されている事が特徴的である。
この中でも特に平敦盛の死の場面は、『能』『幸若舞』『歌舞伎』などの題材になっており、現在でも良く知られている。織田信長の『人生五十年~』は幸若舞・敦盛の一節である。
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